鉄血の轍1
鉄血の轍1
2月の中旬に日本を発った陸軍欧州派遣部隊がフランス・マルセイユ港で欧州の地に立ったのは、春の訪れを感じる大正6年3月末だった。
前年のユトランド沖海戦で遣欧艦隊がまさかの大損害を受けるまで、陸軍は欧州大陸への部隊の派遣に否定的な姿勢を取っていた。
しかし海軍の惨敗といって良い敗北を受けて、「海軍の借りは陸軍が返す」とでも言いたげなほど、欧州派兵に積極的な姿勢を見せるようになった。
市井の民からも、ユトランド沖での敗北のショックから海軍の仇を討てとの声が澎湃としてやまず、新聞雑誌でも陸軍の欧州参戦を促す社説や論評が紙面を賑わす。
日本政府としては、欧州の相次ぐ激戦による大消耗戦を前に海軍の損害をさらに上書きするような出血に至ることを恐れ、これを抑えようとした。
ドイツの無制限潜水艦戦の被害に憤るアメリカ合衆国がドイツと断交しその参戦が近いことを知ると、政府内からも派兵に乗り遅れるなという声が上がり政府首脳も陸軍の欧州参戦を決断する。
すでに出師計画を半ば終えていた陸軍は、大正6年2月の半ばには先遣部隊を送り出す。
当初陸軍の計画では最終的に交替も含めて8個師団を送り出す構想であったが、兵員輸送の問題や派遣費用の財政負担から政府がそれを抑え大正6年中に4個師団、翌年に2個師団を追加、合計6個師団相当の出兵となった。
政府が恐れていた通り、派遣軍は欧州の戦場で大量の血を流す。
大戦の戦局に大きな影響を与えることなどなく、陸軍は投入した兵力の3分の1近い死傷者戦病死者を出した。
その中でも戦闘の正面に立って戦う尉官クラスの消耗は激しく、当初派遣された4個師団の尉官損耗率は大正6年中に4割を超えた。
後から派遣された2個師団を加えた大戦を通じての尉官戦死戦病死者数は700名余りで、負傷により退役した者を含めると800名を軽く越える尉官が失われている。
これは陸軍士官学校2学年分相当であり、欧州参戦以降陸軍は大正8年から始まった士官学校定員大増員の効果が出てくるまでの間、士官の人材不足が続くことになる。
この大損害を乗りきるため、欧州現地では下士官の野戦任官による昇進が行われ指揮官不足を補うことになるが、当然のことながら下士官は士官教育を受けておらず、戦時昇進者による部隊運用は多くの齟齬をきたすことになる。
この損害を受けて、日本政府は4個師団の増派を決定した。
しかし大正7年ドイツで起こった革命により皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、第一次世界大戦は終結を迎え増派は立ち消えとなる。
陸軍が欧州戦線に送った総兵力は16万人を超えたが、スペイン風邪による病死者等を含めると4万人を超える兵が、再び日本の土を踏むことなく異郷でその生を終えることになった。
自ら望んだ出兵で大損害を出した陸軍は国民各界から激しい非難を浴び、その責任を追及された欧州派兵推進派の将官は失脚し陸軍主流を追われることになる。
陸軍内外から軍改革の声が上がり、国家総力戦の中での陸軍のあるべき姿をめぐり様々な議論が戦わされた。
そこで当面最大の問題とされたのは、優秀な人材を選抜し長い期間と多額の費用をかけて養成した士官を、あたかも消耗品の如く大量に使い捨てることになる総力戦での部隊指揮機能の冗長化だった。
本来指揮を執るべき尉官佐官が次々と失われる戦場で部隊の戦闘機能を維持するための方策が、器材と運用の両面から議論される。
まず考えられたのは、部隊指揮官の生残性を高めるための対策だった。
大戦中に急遽採用され標準装備となった鉄帽の防御力を士官下士官用では更に向上させ、軽量で効果の高い防弾衣を開発し尉官以上に着用させる。
狙撃兵対策のため、戦闘衣を下士官兵と同様のものとし、階級章も視認性の低いものとする。
目につきやすい指揮刀は戦闘時は佩用せず戦闘指揮での使用をやめる、等々が提案される。
指揮系統の冗長化を図るための方策としては、部隊内での尉官佐官の定員を増やし士官損耗の補充に速やかに対応できるようにする。
平時から下士官・兵に至るまでの戦闘指揮の継承順位を定めて、戦時の指揮継承を遅滞なく実施できる体制を構築する。
下士官への部隊指揮教育を義務化し、最低でも小隊指揮が可能な水準の指揮能力を保持させ、優秀な人材にはより高度な教育を施すことを制度化する、等々である。
この改革は、実現可能なものから順次実施されていく。
それとともに第一次世界大戦による損耗の補填の必要もあり、陸軍士官学校の定員は大正8年から大幅に増員されていく。
増員に対応するための教育体制が整った大正11年には、募集定員は1期当たり1000人と増員前の2倍に増加している。
三宅坂で日本刀を振り回すはずの血気盛んな軍人さんも欧州の露と消えた模様




