欧州鳴動
欧州鳴動
1939年8月23日、その日が来る数日前からドイツとの技術交流の為親善艦隊に同行してきた軍関係者たちは、どこかドイツ側の空気が変わったように感じていた。
それは母艦運用の技術習得に熱心なドイツ海軍軍人たちを例外に、今までドイツ人たちが見せていた軍事交流への熱意が、火を落とした後の釜のように急に冷えていくような感覚だった。
摂津や貨客船に積み込まれる工作機械や兵器の類の搬入の予定が遅れがちになり、一部の兵器などは催促を重ねても返答が返って来ず、いつまでたっても届く気配がなかった。
親善使節団が海路アメリカに向かうためベルリンを離れる予定日だった23日、その時ドイツに滞在していた殆んど全ての日本人たちは、突然の混乱の渦中に巻き込まれ驚愕し困惑し疑念を抱き憤怒の感情に囚われる。
日独伊三国防共協定によって反コミュニズムの固い紐帯を結んでいたはずのドイツと今や敵国であるソビエトとの間に締結された独ソ不可侵条約、今現在満州の大地でソビエト軍と激戦を交えている日本に対する特大級の背信行為が日独友好の裏で進められおり、それがこの日事前の説明など一切なく発表されたのだ。
日本政府は独ソ不可侵条約への厳重な抗議を駐独大使を通じて行うとともに、ドイツ各地で続いていた軍事交流を中断、親善艦隊には準備が整い次第至急ドイツを離れよとの指示が出された。
親善艦隊司令部は搬入の遅れている各機材の納入をドイツ側に急がせるとともに、ドイツ各地に散っていた軍民関係者をキールに呼び寄せる。
民間親善使節団は予定通り24日にハンブルグから北米航路の客船に乗りニューヨークに向かったが、親善艦隊はドイツ側の引き延ばし工作とも取れる物資搬入の遅れから幾日もキール軍港で無為の日を過ごした。
その当時親善艦隊には伝わっていなかったが、ドイツ政府より日本政府に対してある要請が外交ルートを通じて行われていた。
曰く「ヒトラー総統による要望で、現在ドイツに寄港している航空母艦摂津をドイツ海軍に譲渡もしくは貸与、その乗員もドイツに残りドイツ海軍空母航空隊の錬成に協力してほしい」。
日本政府はこれに対し正式に拒絶の回答を返したのだが、それに対しドイツ政府は尚も交渉の継続を要求してきた。
艦隊に戻ってきた陸軍軍人たちから、ドイツ軍がポーランドに向けて戦力を移動させており間近に戦争になる可能性が高いという情報が報告される。
政府からドイツが摂津譲渡を要求しているとの情報が伝わり、艦隊司令部はドイツが戦争勃発を機に強制的に摂津を接収する事態を恐れ、親善艦隊は物資搬入未了のまま出航することを秘密裏に決断した。
親善艦隊がキールを慌ただしく発った2日後の9月1日、ドイツはポーランドへの侵攻を開始した。
同年9月3日、英仏がドイツに対して宣戦布告したことで、ドイツ・ポーランド間の戦争は欧州大戦へと拡大した。
キールを出港後北海を抜け北米ニューヨークへと向かっていた親善艦隊は、日本政府が大戦勃発により急遽北米での親善活動の中止を決定したことを受け、ニューヨーク寄港を取りやめパナマ・コロン港へ直行した。
艦隊はコロン港で補給を受けた後、パナマ運河を通過し太平洋に入る。
親善艦隊が最終寄港地であったハワイ諸島ホノルルを経て横須賀に帰着したのは、艦隊が日本を離れてからから118日後の10月8日だった。
親善艦隊は帰路の航海中、北海から大西洋にかけては敵対するドイツと防共協定を結んでいる日本の艦隊を警戒した英国艦隊による監視を受け、それを引き継ぐかのようにカリブ海からハワイまで空母を含むアメリカ艦隊のあたかもエスコートするかの如き監視を受け続けた。
すでに何度も実戦で戦っている日本海軍の空母に対する海軍国英米の関心は高く、航空母艦摂津の一挙手一投足を見逃さなきよう航空機まで持ち出しての監視に、親善艦隊の乗員たちはひと時も気の許せる時間は無かったという。