大陸動乱
大陸動乱
昭和14年3月に入り、中華民国軍は満蒙問題を軍事力により解決すべく、満支国境への兵力の集結を開始する。
同年5月には正規師団30個と地方軍等でおよそ50万余の兵力を満支国境から内モンゴル方面にかけて配備した。
それと同時に日本軍の兵力分散を図るため上海方面にも20万近い戦力を集めて軍事圧力を高めた。
同じ5月の半ばに満蒙国境で軍事衝突(第一次ノモンハン事変)が起こる。
当初は満州国軍守備隊とモンゴル騎兵との間で起こった偶発的戦闘と思われていたが、有力なソビエト軍部隊が国境付近に送り込まれており、モンゴル軍を撃破すべく同地に進出した日本軍部隊との間で本格的な戦闘が始まった。
満支国境に兵力を集中していた日本軍は紛争の政治的解決を図ろうとしたが、ソ蒙軍は満蒙国境問題の軍事的解決を意図して派遣兵力の増強を開始した。
同年6月には大陸での危機的状況に当時政権を担っていた平沼内閣が退陣、宇垣一成陸軍大将を首班とする準戦時内閣が発足した。
満支間の軍事的緊張の解決を図るべく、大本営が設置されるとともに予備役の招集が開始された。
陸軍は第2次上海事変とその後の国際情勢の変化にともない軍事力の増強を図っていたが、その戦力は1939年6月時点では歩兵師団を中心に25個師団を保有するのみだった。
宇垣内閣は満蒙国境紛争鎮静化のため、機動師団に改編を終えたばかりの第2師団と第6師団、及び新設の第1戦車師団を関東軍に編入した。
更に宇垣内閣は海軍に対して、第一及び第二連合陸戦隊(昭和14年より連合特別陸戦隊は連合陸戦隊へと改称された)及び海軍航空隊をノモンハン方面へ派遣させることを命じる。
同年7月初旬ソ蒙軍はハルハ河を越え、同地を守備していた第23師団及び旅団規模の戦車部隊と1個歩兵連隊を基幹とする安岡支隊等と交戦を開始した。(第2次ノモンハン事変)
安岡支隊は2個戦車連隊を基幹に編制され、保有する戦闘車両は70ミリ戦車砲装備の九五式中戦車と長砲身37ミリ戦車砲装備の九五式軽戦車を主力としていた。
日本軍は防衛線を固定せず機動防御による後退戦を展開、突出してきた戦車部隊を対戦車砲陣地と戦車部隊の連携により撃破、更に夜間襲撃を頻繁に繰り返しソ蒙軍の侵攻を食い止めた。
同7月下旬に第1連合陸戦隊がノモンハンに進出して戦闘に参加、海軍航空部隊による航空支援も開始されソ蒙軍の攻撃は頓挫する。
こののち同年9月に至るまで満蒙国境での戦闘は小康状態に入ったが、日ソ両国は兵力の増強を続けており、いずれ更に大規模な軍事衝突が起こるものと予測された。
同年8月中旬に入り上海租界において、国民党政府軍による日本軍民に対する攻撃が開始される。
日本を除く各国の租界防衛部隊は中国軍との交戦を回避、租界内全域への中国軍の侵入を許した。
事前に中国軍による租界攻撃の情報を得ていた日本政府は、満支国境での中国の大軍との対峙と満蒙国境での戦闘の激化のため7月中に租界の防衛を断念していた。
陸海軍は大量の艦船を動員して、上海からの邦人退避を計画実施する。
この退避作戦では、租界内の軍民や上海租界に避難していた多数の中国在住の民間邦人に加え、租界からの避難を希望する各国民間人、中国軍による迫害を恐れる対日協力していた中国人が上海脱出行に加わっていた。
約2週間に亘る退避作戦中に上海を脱出した軍民の総数は8万人余りに達している。
陸海軍が手配した艦船だけではこの膨大な避難民を運びきれず、退避作戦に参加していた空母を始めとした戦闘艦艇の一部にも多くの避難民が乗船している。
海軍はこの避退作戦中の上海方面の制空権を確保するため、可動空母をすべて上海方面に投入していた。
空母部隊は航空戦力を集中して中国軍航空基地を奇襲攻撃し、大打撃を与え制空権を確保した後、連日の邀撃任務を続け退避作戦が終わるまで撤退船団を守りぬいた。
8月末に殿軍として戦っていた第三連合陸戦隊が、重装備を処分後夜陰に紛れ上海を撤退する。
その後租界内の各国防衛部隊は中国政府により武装解除され、事実上上海租界は消滅する。




