南京政争
南京政争
昭和12年12月、中華民国首府南京は日本軍の包囲下にあった。
国民党政府総統蒋介石は南京における徹底抗戦を主張したが、政権内では停戦講和派が過半を占め、講和派による官邸クーデターにより蒋介石は政府首班の座から引きずり降ろされ拘束幽閉されてしまう。
『南京城下の盟』と呼ばれた日中停戦講和がなった後、日本政府は抗日戦を主導した蒋介石の中国政府への影響力を払拭すべく、中華民国臨時政権に対し蒋介石一派を戦争責任者としてその断罪を求めた。
しかし蒋介石一派は、南京市城内に逃げ込んでいた近隣住民が停戦発効により南京を離れる際の混乱に乗じて逃走し、日本が目指した蒋介石一派の一掃は果たされることはなかった。
昭和13年に入り、日本軍は締結された講和条約に従い上海を除く中支全土と北支の大部分から撤退し、中華大陸の戦火は消え去ったと思われた。
しかし中華民国政府の弱体化を好機と見た中国共産党により、第2次国共合作以降収まっていた内戦が再発した。
内戦への対応のため政権が忙殺される間隙をついて、蒋介石の影響下にあった国民党政府軍勢力が南京で武装蜂起する。
このクーデターにより日中融和派が主流を占めていた南京政権の主要な政治家や軍人の殆んどが殺害や逮捕拘束されて政権は瓦解、蒋介石一派が政権復帰し中華民国は蒋派に再掌握された。
一部の旧政権政治家はこの危難に上海経由で国外へ脱出したり日本軍支配地などに逃れることができたが、その影響力は僅かなものでしかなかった。
蒋介石は再び中華民国の政柄をその手にし、失脚前よりも更に大きな権力を持つことになる。
アメリカ合衆国とソビエト政府は、満州や中国本土での日本の実権拡大を阻むべく、依然として日本に対する敵対心を隠そうとしない蒋介石政権に対して活発な経済軍事援助を再開する。
この援助下に急速に軍事力を回復した蒋介石政権は、満州事変や第2次上海事変の影響で中華民国政府が実質的な支配権を失っていた北支方面の大半を、政略軍略により昭和13年中盤までにその掌握下に置いた。
この結果、日本政府が支援していた地方政府軍も含め殆んどの地方軍が蒋介石の指揮下に加わることになった。
蒋介石はその手に持った強大な軍事力を行使して中国共産党軍を圧倒し、一時は支配地の大幅な拡大を果たしていた共産勢力は再び劣勢を余儀なくされる。
北支方面において活発な抗日戦を継続していた共産党軍の一派は、日中講和により日本軍が撤退した後を埋めるようにその勢力を増していたが、国民党軍の攻勢により掃討されてほとんどの支配地を失い壊滅した。
蒋介石率いる国民党政府軍はこの勢いに乗じて更なる国土の回復を図るべく、昭和13年10月に中国中央政府の支配下を離れ独立状態だった内モンゴルに侵攻した。
国民党軍は、日本との協力下にあった3自治政府が集合した蒙疆聯合委員会(後の蒙古聯合自治政府)の軍事組織である内蒙軍と衝突する。
同年12月に入ると国民党政府軍による内モンゴル併合に干渉するため、満支国境に関東軍3個師団が展開した。
日本の軍事圧力により、国民党政府は内モンゴル併合をいったん断念する。
これを機に中国国民の間に日本に対する反発が強まり、日中講和による日本軍の撤退後一時は収まるかに見えていた反日運動が再び活発化する。
昭和14年に入り大陸における日本の勢力を削ごうと謀るソビエトとアメリカの仲介により国共内戦が終結し、日本との軍事対決に向けて第3次国共合作が成立した。
米ソ両国による中華民国の軍近代化のため大規模な支援により、日本勢力下にある中国東北部、満州や内モンゴルでの軍事的緊張はさらに高まっていく。