上海派遣軍
上海派遣軍
昭和12年に入って、中国大陸の情勢は大きく揺れ動き始めた。
西安事件により国民党政府と中国共産党の歩み寄りが起こり、抗日民族統一戦線への道が開かれ、それは第2次国共合作へと収束していくことになる。
蒋介石率いる国民党政府自体も経済改革の成功、抗日排日的政策に対する国民からの支持、ドイツ、ソビエト、アメリカからの援助とそれによる軍事力の強化等が進んだ結果、対日対決へと対外政策の舵取りを切り替えていく。
日本政府の弱腰とも取れる日和見的な外交と日本国政府及び軍部の対中国政策における足並みの乱れなどもあり、様々な要因が蒋介石の野心を狩り立て、中国と日本との直接軍事的対決に向かわせることになる。
何よりも大きかったのは、最終的には軍事的政治的な譲歩につながったものの、強大な日本軍を苦しめると共に国民からの圧倒的な支持を得た上海事変の経験だった。
北支での国府軍による軍事的挑発によって始まった日中の武力衝突は、いったん収まりかけたものの日本との対決を望む蒋介石の指示により各地に飛び火、国民党は軍主力を上海方面に集結しゼークトラインと呼ばれる要塞線に日本軍を誘引しその撃滅を図った。
ドイツ軍事顧問団により構築されたその防衛線を主体に動員された中国軍は、前面兵力だけでも33万人、後方部隊を含めると約75万人の戦力を上海方面に集中させていた。
対する日本軍の戦力は、遣支艦隊を除けば上海租界地区の邦人の保護の為派遣されている上海特別陸戦隊の4000名のみであった。
8月13日、中国軍は上海において日本軍に対し航空攻撃と地上攻撃を開始し第2次上海事変が引き起こされた。
危機的な状態に陥っていた上海の状況に対して最初に動いたのは海軍だった。
沖縄を根拠地とする第一連合陸戦隊は、就役して間もない水上機母艦千歳千代田、最上型巡洋艦4隻、機動輸送特務艦天龍龍田、機動輸送特務艦として新たに改造された球磨多摩木曽、旧式化した1等2等駆逐艦を改造された特型運荷艇の搭載運用能力を持つ哨戒艇12隻、新造の1,500トン級機動輸送艦4隻に第一連合特別陸戦隊を分乗させ急遽派遣、開戦から3日目には上海特別陸戦隊と合流させている。
この部隊は重砲や重戦闘車両を多数装備しており、上海市街に対する中国軍の攻勢を強力な火力で頓挫させた。
さらにその10日後、陸軍3個師団と共に第二連合特別陸戦隊及び各鎮守府などから抽出された混成特別陸戦隊(その後第三連合特別陸戦隊と改称)が派遣され、呉淞および川沙鎮に陸軍部隊が上陸、陸戦隊は上海南方に迂回上陸上海包囲軍の背後を脅かす作戦に出た。
開戦から3週間目には更に陸軍2個師団が上海に送り込まれると共に北支に増援されていた3個師団が南下を開始、上海で9月に行われた2度の攻勢により中国軍の防衛線は崩壊、日本軍は追撃戦に入る。更に杭州湾より3個師団が上陸したことにより中国軍の敗勢は決定的なものとなった。
一方上海南部を大きく迂回しながら機動を続けた陸戦隊は、上海包囲軍の敗走を見るとその追撃を陸軍に任せ、兵力を再編した後揚子江を遡上し舟艇機動により南京を目指した。
第一から第三の各連合特別陸戦隊が南京市を半包囲するに至って、遂に蒋介石は抗戦を断念し日本政府との停戦交渉を開始する。
現状以上の戦線拡大を望まない軍部の意向に従い、近衛政権は中国政府との間に停戦条約を締結した。
満支国境地帯中国側に非武装地区を設置し、双方の兵力を引き離すことで満州方面の安定を確保、さらに上海方面の非武装地帯の拡大と排日運動の停止を条件に、日本軍は上海を除く中支、北支からの全面撤兵を行った。