革新と停滞
偵察専任空母計画
室戸沖事件以降誘爆・延焼につながりかね無い航空兵装や雷装を巡洋艦・戦艦から排除する方向で海軍は動き始めた。
航空機は航空母艦に、雷装は駆逐艦・水雷艇・潜水艦に集約することは、兵装の複雑化による運用上・防御上のデメリットの解消につながった。
従来戦艦・巡洋艦で偵察・哨戒・弾着観測等の任務の為搭載していた水上偵察機は、新たに建造される専任の小型空母で艦上機に置き換えられ集中運用することとされた。
この小型空母は偵察・哨戒・弾着観測・連絡・迎撃などが主要な任務として考えられていた。
さらに上海事変後に対地支援のための偵察・弾着観測・対地爆撃が戦訓により新たな任務として加えられた。
専任空母として最初に建造された飛隼にはこの運用上の特殊性が色濃く現れており、飛隼搭載機による航空魚雷の使用は想定されていないため魚雷格納設備は無く当然調整能力も持たなかった。
昭和11年第四艦隊事件を受けての改修工事が完了した後就役した同艦の搭載機定数は、艦偵(艦攻改造、有爆撃能力)9機、艦戦18機(対地対艦攻撃仕様)、哨戒機兼輸送連絡機(双発高翼機)6機(他に補用機9機)となっている。
同艦以降に就役した軽空母には艦攻運用能力が与えられており、汎用性を持った設計に変更されている。
また飛隼も第二次上海事変において受けた損傷の修理の際に改修が行われた。
当時その影響力を増しつつあった航空主兵勢力からの要望を受け、再就役後は雷撃機の運用も可能になった。
海軍軍縮条約が効力を失った昭和12年以降、海軍艦政の艦載機空母集中運用の方針に従い、空母改造を前提に建造された水上機母艦と潜水艦母艦は3~4年の間にそれぞれ航空母艦への改造が行われた。
第4艦隊事件の影響もあり起工が遅れた瑞穂は、着工当初から航空母艦として建造されている。
その結果昭和16年末には水上機母艦から改造の千歳千代田、潜水艦母艦改造の蒼隼、空母兼給油艦の高崎剣崎、瑞穂と追加建造された日進の計6隻が空母機動部隊の一翼を占めることになる。
海軍大戦略
日本海軍は洋上航空戦力を航空母艦に集約して運用する方針に従って、着々と空母と空母改造予定の特務艦の増勢を進めていた。
軍縮条約が明けて特務艦の空母化工事が完了する昭和16年末には大型空母4隻、中型空母3隻、小型空母8隻と空母型給油艦2隻の合計17隻が戦力化される予定となっていた。
その内大型空母の赤城と天城は装甲空母への改装の途上であり、鳳翔は旧式かつ低性能で戦力外とされていたため、昭和16年末頃の実質的な日本海軍の洋上航空戦力は航空母艦14隻、搭載航空機数570機余りとされていた。
航空母艦の増勢と日々進む航空機の性能向上により増大する一途の航空打撃力をどう活かしていくべきか、その研究は活発な論議のもと進められていく。
航空母艦の集中運用により強大な航空打撃力を集成することで局所的な戦力優勢を作り、加えて戦略的奇襲攻撃により敵の後方拠点を一撃で葬り去り長期に亘る優勢を実現する、これが議論の末に導かれた洋上航空戦力の役割とされた。
海軍にとって最大の仮想敵国である米国との戦争を考えるにあたって太平洋方面における米国の戦略的急所は、米国の国力の根源ともいえる大西洋岸の工業地帯と太平洋をつなぐパナマ運河である。
この場所を開戦劈頭に破壊し使用不能に陥れることで、東西間の海上交通を断たれた米国は長期に亘り軍事力の移動に制限がかかると同時に、西海岸の工業生産力も大きく削ぐことができる。
日米間の戦争が短期決戦で済まない場合でも、米国は太平洋方面への戦力展開に多大なコストを払わざる得ない状況になるため、日本の南方資源地帯の確保による総力戦体制確立を容易に実現できると考えられた。
日本海軍が空母集中投入によるパナマ運河或いは西海岸の戦略拠点の攻撃を実現するために必要不可欠ながら現状では全く足りていないものがあった。
日本海軍には高速で移動する艦隊に随伴して艦艇に燃料を補給する給油艦が全く足りていなかった。
八八艦隊計画時に多数の給油艦が建造されてはいたものの、最大速度が12~13ノットと低速なため16ノット前後の巡航速度で作戦航海する空母部隊に追随することが不可能だった。
海軍は②計画以降多数の高速給油艦の建造を計画、更に高崎型に準じた飛行甲板を持ち搭載する哨戒機や戦闘機によって潜水艦や航空機の攻撃への対処を可能にした空母型給油艦の建造を続ける。
それとともに民間造船所へ助成金を出し、給油艦に転用できる高速タンカーの大量建造を進めていく。
第四艦隊事件
昭和10年9月三陸沖において演習中の艦隊が大型台風による荒天に遭遇し、参加艦艇の多くが船体設計における強度計算の不備による艦首切断の大事故を含む各種の損傷受けた。
海軍内においてこの事件は大問題になり、船体設計の見直し、行過ぎた強武装に対する反省、電気溶接の多用や軽量化による積載マージン増大という手法にたいする不信など多方面にわたって建艦政策に影響が及んだ。
巡洋艦加古就役時に起こった復元性能の不足問題や同じく加古に起こった室戸沖での火災事件を超える、海軍艦政を揺るがす大事件だった。
事件当時すでに就役していた艦も含めワシントン軍縮条約以降に計画されたほとんどの艦艇について船体強度が見直されることになり、海軍の艦艇建造は長期に亘ってほとんど停止状態になる。
設計の新しい艦艇は軽量化のため軽合金を艦上構造物に多用し、電気溶接工事を大きく取り入れた設計になっていた。
事件後、問題のある艦艇は船体強度の確保の為の大規模な改修工事が行われた結果、多くの艦が兵装の一部撤去や速力・航続力の減少による性能低下に甘んじることになる。
この強度見直しの流れの中でも電気溶接技術や新素材に対する研究は続けられており、今回の事件によって中小艦艇の建造方針が大きく変更されることはなかった。
ロンドン条約以降設計建造されていた中小艦艇は将来的な装備の強化を見込んだ設計がされており、船体強度面でも復元性においても現状に対して大きな安全マージンが確保されていたためである。
これらの艦艇の設計においては、個艦の性能強化よりも経済性簡易性など大量建造の為の技術が優先されていたことも方針の持続の大きな要因となっていた。
それ以降の日本海軍の艦艇建造に大きな影響を与えたこの大事件で艦首破断の重大事故を起こした吹雪型駆逐艦初雪と夕霧は、いずれも舞鶴工廠において建造されていた。
重大事故を引き起こした第4艦隊の演習には事故を起こした2隻以外にも吹雪型駆逐艦が参加しており、初雪夕霧以外の吹雪型駆逐艦には大きな損傷がなかった。
事故艦を除く8隻はいずれも舞鶴工廠以外の造船所で建造されていたことから、両艦を建造した舞鶴工廠に疑惑の目が向けられた。
同工廠には事件後艦政本部から調査団が送られ、その建造工程、設備、技術、工員や監督職の能力などが詳細に調べられた。
調査の結果舞鶴工廠の吹雪型駆逐艦建造に大きな瑕疵は無かったとされたが、調査終了後同工廠では大量の人員の入れ替えや工員の解雇があったほか、建造設備の大規模な刷新が行われている。




