宵さんの夏
その夜は久しく暑かった。着物の袖をまくるなど料理の時だけで済むというのに、いつもなら気に入り肌を撫でる心地がただまとわりつく布と化してしまっていた。
濃紺のそれを見ながら困った顔をするも、じんわりと滲む汗は風さえ吹けば心地よいはずだと言い聞かせ、涼しい顔をして薄暗い廊下を歩いた。
いつもなら着替えを済ませてから人に会うというのに、そのままでいいから今すぐにきてほしいのだと客が騒ぎ立てたのだという。
整わない身なりで人に会うなど避けたいことこの上ないのだが、皆が迷惑しているのなら早く済ますにこしたことはない。
ぱたぱたと事を伝えにきた受付嬢の、何度も頭を下げながら涙声で話す様は見ていられるものではなかった。
店の門を閉める時間はとっくに過ぎている。
飲み過ぎ帰らぬ客など寝かせておけばいいものを。普段なら身なりを整えて、寝かしつけるなり話を朝方まで聞くなりするのだが、調理場の支度もままならないうちに呼び出されたとあってはそうもいかない。
早々に片を付けて山積みの作業を済ませた後は朝方お帰りの客をにっこり万全に見送らねば。
黒い足袋は襖の前で止まっていた。そもそも出番ではない。足袋すら、黒のままなどと。
襖の前に両膝を付き、丁寧に頭を垂れる。
「宵ノ進にございます」
言うと襖が勢い任せに開いた。
薄暗い廊下に比べひどく明るい室内の光が藁色の髪を照らすと、影が伸びそれを遮った。
顔が見たいと言われれば顔を上げる。話がしたいと言われればその通りにする。
籠屋の店主を困り顔にさせることなど望まない。
待ちかねた、待ちかねたと上機嫌に空の酒瓶を傾ける客が料理を美味しいという。ずっと話がしたかったのだという。
普段厨房にいてお座敷には出ないものだから、呼び出しは珍しいことではない。
「ありがとうございます」
再度深く頭を下げるとぐいと肩を掴まれた。
まとわりつく蒸した夜の空気に酒の匂いが混ざり、ああ料理酒はどれにしようかなどと献立を考える。名を呼ばれ、顔を上げると頭の先から首筋を何度も視線が行き来する。
幾度か繰り返すこともある。それほどまでに頭を下げているだろうかと自嘲するも気にする者がいるはずもない。
酔っ払い三十路近そうなこの男、大丈夫なのだろうか。焦点が合わない眼をした客は、機嫌良く笑うと手を引きぐいと抱き寄せた。
ああ、またか。
目を細め、そのまま閉じる。抵抗せず、されるがままに。いつもこうだ。会いたいというものなんて。
「また、いらしてくださいな。腕をふるいます」
言葉は途中で客の怒号に掻き消された。
いきなり何だと金茶の目を見開くも、聞き取れたものではなく耳をつんざくばかり。これでは受付嬢は泣く。
首を掴まれ畳に倒されると、そのまま両手に力が込められちりと痛みが走った。次いで僅かに感じた熱さ。食い込む爪が皮膚を裂いたのだろう、きっと両手を離したときにはよく染まっている。うっとりそんなことを思いながら、息のできぬ圧迫感に初めて己の手が意思とは別に動いた。
ぱちん。
客の頬を叩いてしまった右手が強く掴まれる。
離れた客の手の先は斑に染まっていたけれども、咳き込みよく見ることができずにいた。
振り上げる、小刀も、手のひらの一部に見えるほど。
違和感に、左手を伸ばす。蒸した空気、張り付く着物。
「あつい、な」
違和感の先に指を滑らせれば、まとわりつく水が鬱陶しい。じんじんと、あふれる水のついた手で呆然と見下ろす客の頬を撫でた。
「はじめから、言ってくださればいいでは、ないですか。私に、望むこと。こたえて、みせますのに」
不思議なくらい笑えていた。またくるよと言ってもらえる微笑みを乗せ、相手の言葉を待つ。
けれど、初めからわかっている。手を離し、見下ろしては立ち上がりよろけながら走り去ることも、あとから身投げすることも。それを止められないことも。
ああ、またか。
脇腹に突き立った小刀をなぞると皮膚が裂け、水玉が伝い水溜まりと一つになる。
うとうとと、目を閉じようとした時に聞こえたのは暗い廊下を歩く音。
その規則正しく乱れぬ速度、板の軋む音。
目を見開き、無理やり体を起こして脇腹に突き立つ小刀を抜く。
袂に隠し、赤色の滲む畳の上に膝を折り、すました顔をする。
そして開け放たれたままの襖の前に、見慣れた小綺麗な服。仕事帰りだという白いシャツからは、変わらず薬品の匂いがした。
「お会いしとうございました、杯様」
「うそをつけ。着物も変えぬまま人に会うことをきらうお前が喜ぶはずはない」
杯は、切れ長の目をさらに鋭くすると、この有様は何だと吐き捨てた。
客が去った部屋は散らかっている。下げられぬままの膳、転がった酒瓶や茶碗。汁物がこぼれていないことに胸をなで下ろすも、降り注ぐ杯の視線がなんともいえぬ圧力を乗せていて苦笑した。
「宵ノ進、立て」
「はい、杯様」
すっと立ち上がり穏やかに笑ってみせる。
杯の眉間にしわが寄り、脇腹を目で指した。
「それはなんだ」
「へまをしまして。私も転ぶことだってあります。どうか上のお部屋へ。ここでは杯様に不釣り合いかと」
まさかお得意様にこのような場と姿を見られようとは。
過ごしていただくのは整った、整った場であるべきだと慌ただしくなる頭の中をなだめ杯に目をやれば、不機嫌極まりない顔をしてまっすぐに睨まれる。
「宵ノ進」
「はい」
「だれがそんな顔で笑えと言った」
杯の手が脇腹に触れる。濃紺の着物にこびりつくものを確かめるようにして、未だじわじわと疼く傷を見るなり低い声がまた名を呼んだ。
知っている。最初から、誤魔化さずに話せと言われていることくらい。知らないふりで返すことも、相手だって知っている。
だけれど意思とは別のところ、体は遂にふらりと傾いて天井を向いた。
畳に打ち付けられるはずが腕一つで阻まれて、首を仰け反らせたままぼんやり謝罪の言葉を口にした。ああ、あつい。
「もう少しで、やっと、らくになれましたのに」
眠ることが、できましたのに。
「その癖はいつまでも直らんようだな」
杯の声が刺さる。また簡単に手当てをして、介抱されるのだろう。それを断ることくらい、知っているくせに。
「おまえがいなくなって泣く者はいるか」
容赦なく傷口の手当てをしながら杯が言う。仰け反った首とぼんやりしていく頭に巡るものが心地よい。いくつか浮かんだ顔と姿は、皆目元を手で覆うだろうか。
「いるのでしょうね」
思いのほか声が出ず、力の抜けた指が小刀を放り出す。
ああ。かくしていたのに。
小さな音を立て、杯の目がそちらへ向くとゆっくり寝かされしばし間が空く。
「さかずきさま」
返事をするような男でないのはわかっている。小刀を眺め何を思っているのだろう、おもむろに拾い上げた杯の目を読むことすらおぼろげで、思考がついていかず瞬きで済ます。
「先程私の弟が橋から飛び降りようとした男を捕まえたそうだ」
「生きて、らっしゃる」
「お前の名と謝罪を繰り返していたと」
珍しいこともあるのですね、どうしてか、その言葉を紡ぐことができなかった。
「さかずきさまは、わたしがいなくなったらなかれますか」
上手く言葉が出ない。いつもすらすら出るくせに。刺された、くらいで。
「楽しみにしていろ。花くらいは手向けてやる」
「なにいろ、でしょうね」
ああ、あつい。
抱え上げられながら、思考を深追いせぬままに目を閉じた。
目が覚めたのは翌日の昼のこと、寝かされていた自室を出るなり雇い主に休暇を言い渡され店の皆にも言い募られとさんざんだった。
「何もするなと言われましても……」
文台に肘をつく。七日。七日だ。店が七日休みなどと。その間にできることもあるだろうに、何もするなが雇い主の命ならば従いはせどどうにかなってしまいそうだ。
「調理場にお掃除お洗濯、買い出し、帳簿、皆の食事……お客さんの、お見送り……」
普段自分が受け持つそれらを何一つしていない。空をゆるゆると飛んでいく鳥をただ眼に映しては、この数日のように空の色を眺め終わるのだろうかと思う。
たまには空でも見ていろ。薬箱の中に入っていた紙切れに書かれた杯の言葉通りにしているなど、本人が知ればまた睨むに違いない。
かといって何か思いつくわけでもない。これまでずっと、あの人が生きているために必要なことをしてきた。それ以外なんて、思いつくはずが。
「宵」
声と同じくして襖が開く。始めから返事を待たずに部屋へと入ってきたその者は、わざと傾げた首と微笑みをたたえて届け物だと紙を差し出す。
大瑠璃。この店の元看板にして、幼い頃からの友である彼はいつだって、その黒い眼に人を映して話す。黒い髪を揺らして、いらない? なんて聞くものだからたちがわるい。
「文、ですか」
受け取ると大瑠璃は畳の上に寝そべる。いつも気まぐれにどこかの部屋に居座って、何をするでもなく過ごす。そんな彼の口から出たのは忘れかけていた事だった。
「牢の中から。よかったね、生きてて」
「初めてですね、生きてらっしゃるのは」
中身を読み終え筆を執る。
大瑠璃の戯けた声が聞こえた。
「返事を書くの?」
「またいらしてくださいと。お酒はやめるそうですよ」
「へえ。また会いに来るよ。それまで、刺されるのはまずいんじゃない」
一度筆が止まる。そういえばあの小刀、見覚えがあったような。
「宵、夏祭りに行かない? 虎雄はみんな休ませてるし、抜け出すのも悪くないでしょう」
「虎雄様に伝えるなら」
「よかった。今夜、連れ出してね」
やわらかく笑った気配にそちらを向けば、畳の上に寝そべったままおはじきを広げる大瑠璃と目が合う。
「なんて顔してるの。それとも引っ張り出されるのが好き?」
「私といると、刺されるかもしれませんよ」
それか、別の何か
「この大瑠璃が? ふふ、宵は抵抗しないもの。たまには言いたいこと、言ったらいいんじゃない。あ、そうそう。朝日がね、綿菓子が美味しいって。あとお面もほしいな」
おはじきを指の腹で撫でながら眠たげに言った大瑠璃は、緩く何度も瞬きをして身じろいだ。
「綿菓子、ですか」
「あはは、知らないんだ。いい機会だよ、宵。それにね」
出かけたかったんだ。宵と。
返す言葉を聞かぬまま眠ってしまった大瑠璃はたちがわるい。
「久しぶりですね、出かけるなんて」
筆を置き、寝顔を眺めながら髪を撫で、吹き込む生ぬるい風に目を細めた。
「生きているなんて。本当に、不思議なこともあるものですね」