8:死角の涙
ジークリンデの頬を涙が伝った。
それをイスハルに見えない位置で秘かに手で拭い、相手が重要な一歩を踏み出したことへの歓喜を隠しながら言う。声が上ずっていないか、ジークリンデはそれだけが心配だった。
「……なるほど、いい案だね」
否定ではない。
これまでと違う反応にイスハルはほっと、安堵の溜息をつく。
アイテムボックス。
あるいは資産とも言われる魔法の物品。一見するとただの袋、箱であったりするが、外観よりもはるかに大量の品物を収納できる。
本来あるべき重量をゼロにし、大量の品物を輸送可能とする代物だ。
もちろん高額だが、商人をはじめとして大きな組織ならば持っている。
「もちろんわたしのお財布にはたくさんのお金がある。わたしの大切なイスハルのためなら使うにはやぶさかではないよ。アイテムボックスのお金ぐらい出してあげよう。ふふ。
問題は……次に目指す場所が、それほど賑やかではない地方都市ということだ」
あまりに便利なため、アイテムボックスの需要は高い。
だがイスハルの自動人形を格納しておけるものとなるとかなりの性能を要求されるだろう。地方では重量のある金属を輸送するためのアイテムボックス需要などは多くないから、都会に行く必要があるが……人目の多い場所では、自動人形を隠すのも限界があった。
大きい都市となると検問などもあるだろう――そこで見咎められるのでは意味がない。
「大丈夫、材料があれば作れる」
「は?! 作れますの?!」
「強い魔力を帯びた魔獣の皮を天産蚕の絹糸で縫うんだ。糸をリボン状にしてメビウスリングと呼ばれる形で縫い付けることで魔力が特異な形で流れて空間がよじれるけど、一部の魔術師たちの秘奥でね。正確な形はむかし師に教えてもらった。
天産蚕の絹糸はないけど、俺の魔力糸で十分代用できるし――あとは相応の格の魔獣の皮を取る必要がある」
自動人形を問題なく収納できるレベルの獣皮となると、危険な魔獣となるが、そこは問題ないと思う。
獣将姫と宮廷魔術師の腕は確かだし、山奥で人知れず戦う場合ならば自動人形を使用しても問題はないだろう。
ジークリンデは考え込む様子を見せる。
「確かに……隠密行動を考えるなら目立つ人形は捨てるべきだろうけど、強力な戦力を捨てるのも惜しいのは確かだ。
いい対案だ。わたしが提案したものよりも隠密行動と戦力の維持ができる。イスハルの提案を支持しよう。そっちのしっぽ女は?」
「もちろん異存などありませんわよ」
決まりだね、とジークリンデが頷く。
「このまま次の日は都市で一泊して旅の疲れを落とそう。
もし市場に流れている魔獣の皮があったら買い取ってそれを使う。なければ、近隣の魔獣の情報を集めて手ごろな奴を狩って皮にしよう。
それでアイテムボックスを製作し、人形を入れて目立たぬように王国より離れる。いいね?」
空に月が浮かぶ。もう夜遅くだ。遠くから夜鳥の鳴き声が響いている。
イスハルは間近に接する馬が珍しくて可愛くて仕方ないのか、今は馬と一緒にすやすやと穏やかに寝入っていた。
そんな彼と少し離れた位置で、ジークリンデとレオノーラはお互い火を囲んでいる。
レオノーラが口火を切った。
「……あなた、わざと、だったのですわね?」
「まぁ、ね」
今回の一件で、イスハルが抱え込んだ病理にレオノーラは気付いた。
長年の奴隷生活が彼に残した影響は根が深い。長い時間を掛けて意識を変えていくべきだが、今回の荒療治は上手くいったと言ってもよいだろう。
「できるなら一声欲しいところでしたわね」
「すまないね。会話の途中でふと思いついたことで、君に話している時間はなかったよ。だが獣人の鼻のよさは信頼していた」
レオノーラが彼女の意図に気付いたのは、その強い苦しみのにおいのおかげ。
イスハルに自主性を蘇らせるために打った一芝居を察せたのは、獣人特有の嗅覚。あの状況で、ジークリンデは自分の感情のにおいを嗅ぎ取られることも計算に入れていたのだ。
「……ジークリンデ。わたくし、あなたの事が好きではありません」
こればかりは、どうしようもない。
イスハルを見るときのジークリンデは、レオノーラと同じにおいだった。
「いいんじゃないかい? わたしも君の事嫌いだし」
おかしそうに笑うジークリンデだったが、言葉とは違って嫌悪や憎悪のにおいなど欠片ほども感じられない。
彼女は馬の傍で眠るイスハルに目を向けた。
「でも……君がイスハルの味方であることは分かった」
「それはお互いに、ですわね。でも不埒なまねは許しませんわよ、彼はわたくしのもの。わたくしの戦利品なんですから」
「金貨の束を君の顔面に投げつけてやってもいいんだぞ」
お互い敵同士。だが彼の味方ならば、思うところはあっても矛を収めることにしよう。
ジークリンデは頷いて立ち上がると、すやすやと眠っている彼を見た。
こんなにも穏やかそうな顔は初めて見る。彼を解放したのがあのしっぽ女だというのは少しばかり悔しい気もするけど……その笑顔を向けているのが自分だけではないことに、僅かに嫌なものを感じるけど……イスハルが幸せであることが、何より重要だった。
(レオノーラ、レオノーラ、嫌なやつ。獣人特有の気安さであんなにべたべたして)
「……ごめんね、イスハル。……いじわるを言ってごめん……」
必要なことだと思っている。
長年封じ込められてきた彼の自主性を蘇らせるには荒療治がいる。だがだからといってイスハルの僅かな拠り所だった遺品を捨てようと提案した時の、彼の凍りついた笑顔を思い出すたび罪悪感で悲鳴をあげたくなる。
頬を涙が伝った。寝入るイスハルの穏やかな顔に落ちた。
朝。
朝食を済ませて馬たちを馬車に据え付け、再び旅路を再会する。
「ふと、目を覚ました時に思いついたんだけどもね」
ジークリンデは言う。
「確かに自動人形を引っ張って移動して移動するのはリスクがある。
けれどもイスハルなら、この自動人形を遠隔で操作し、都市の外で待機させておくという選択肢があったことを忘れていたよ。わたしとしていたことが、うっかりだった」
「あら。そう言えばそうですわね」
昨日の会話の目的がイスハルの自主性を蘇らせるためならば、目的自体はすでに達している。
イスハルの遠隔操作の射程距離は下手な都市間よりも長い。それに大推力を有するこの高位量産型ならば、多少遠隔地でも緊急時には呼び寄せることが可能だ。
そして、今明かした言葉は……昨日の時点でイスハルが改善案を出せなかった時に師の形見である自動人形を手放さずに済むように用意した意見だ。
「それなら次の都市で魔獣の皮を買い置きする必要もないし、すぐに王国から遠ざかる行動に移れますわね」
安全を取るならそのほうがよさそうだ。レオノーラは言うのだが……イスハルは残念そうな顔。
「イスハル、何か気になりますの?」
「うん。まぁ……」
「遠慮なく仰ってくださいな」
イスハルは馬の顎を撫でてやりながら、答えた。
「重い荷馬車を背負わせて行くのが、可哀想なだけだよ」
「あら」
よく見れば、そうだ。
金属の塊である自動人形を引かせるための馬。数匹連れてきたのだが、もうすっかり情が移ってしまったのだろうか。
「別にいいよ、イスハル。アイテムボックスはあるに越したことのない品物だし……。
わたしとしては。君が素直な感情を露にしてくれるほうが嬉しいな」
こうして感じるまま、心の赴くままに行動することを自然とできるようになってくれれば。
自分のために生きていけるようになってくれれば、二人も嬉しい。
「なにせ、わたしとレオノーラはきみの友達なんだからねっ」
「ああ。……うん」
レオノーラはそのまま何も言わずにイスハルを抱きしめた。
恥ずかしくて暴れるイスハルと、かなりムッとしたジークリンデの視線を受けるが、気にはしない。
「あの……レオノーラ。どうしたんだ」
「このしっぽ女! その唐突な抱きつき癖やめてくれないか!?
やめろといわれてもどうにも我慢できない。
照れたように俯くイスハルからは、自分達二人と同じ、恋に似たにおいがした。