7:苦痛のにおい(短編版以降の話はここからになります)
たくさんのご高覧と感想ありがとうございます。
暖かいお声をいただき今回連載版を始めさせていただきました。
短編版以降の話はここからになります。
連載にあたり、王の名前を「グレゴール王」に変更しました。そのうち別の王様が出る可能のほうが多いためです。
今後は二話ほど(伸びるかもしれません)レオノーラ視点で物語が始まる前の、主人公イスハルの捕まるあたりを書いてそのあとで短編後の時系列の話を書いていこうと思います――
……と思っていたのですが、書いていて面白くなかったのでそのまま三人の道中からという展開に変更しました。
今後ともよろしくお願いします。
月が空に見え始めた。
もうそろそろ夜を迎える頃合だが、イスハルはなんとなくどきどきそわそわとしている。
今まで王宮の外に出る機会は極端に少なかった。
戦争に従軍し、天幕の下で眠ったことは初めてで、ここ数日の人生の変転には興奮を隠し切れないでいる。
今日は新しいことばかりしている。
イスハルはこれまで馬車を引いていた馬の背をくしけずってやり、「おみずのみたい」「ぼくもおみずのみたい」と前足で地面を掻いておねだりする馬に近くの水場から汲んできた水桶を置く。顔を突っ込んで水を飲む馬の様子を興味深く見つめていた。
これまでは高級奴隷として人形の修理、生産に携わっていたが、馬丁(馬の世話人)の仕事をするのは初めて。
あとは、単純に生き物がかわいいというのもある。
「イスハル、もうそちらは構いませんわよ」
「こっちに来て火に当たろう」
本当のところは馬の傍にもう少しいたいが、イスハルは頷いて向かった。
「まず。長期の目的と短期の目的を決めようと思う」
ジークリンデの言葉にイスハルは頷き、レオノーラは、まぁそうですわね……と頷いた。
イスハルも異存はない。
「わたしの長期の目的はお嫁さんだよ」
「わたくしの長期の目的もお嫁さんですわね」
「……」
「……」
二人は殺し合いをしそうな目をお互いに向けた。
「ご結婚の当てが二人ともあるんだ。それはいいな。きっとお綺麗だろう」
今の剣呑な空気はなんだったのだろうかと思いながらイスハルも頷いた。
結婚か、と考え込む。奴隷身分の人間は結婚をしないわけではないが、相手は同じ奴隷に限られる。自分も解放奴隷になれば、主人に許可を取る必要もなく結婚する権利を持てる。
イスハルは密やかに決心する。解放奴隷になればレオノーラやジークリンデが誰かと幸せになる光景を傍で見ずに済む権利も持てる。
心の中にちくりと刺さる胸の痛みは、嫉妬なのか、寂しさなのか。
「俺の長期の目的は……まず解放奴隷になること。それから人々の役に立つ仕事を……あの、レオノーラ」
「おまえ、イスハルに引っ付きすぎじゃないかい!!」
イスハルの心の中に沸き立つ嫉妬の感情を嗅ぎ取ったレオノーラは彼を後ろから抱きしめていた。自分が結婚するという言葉で香り立つ嫉妬のにおいが可愛くて仕方なかったのだ。機嫌よさげにしっぽが揺れている。
かなりムッとした目で睨むジークリンデは……空気を一新するように言った。
「お前はどうするんだい、獣将姫レオノーラ。一族の試練は?」
「あら、お詳しいのね」
恥ずかしがってじたばたするイスハルを解放すると、レオノーラは頷いた。
「一族の試練? ……それは?」
「獣氏族の荒事をなりわいとする<獅子><狼><熊>と、それ以外のおおむね全てを意味する<聡耳>氏族で、地位ある立場に立候補した人が行う儀式ですわよ。
身に着けられるだけの武具、財産だけで旅を行い、もっとも一族を栄えさせる成果を持ってきた人は一族で重要な役職に付くのです」
「なるほど……」
初耳であるイスハルは感心したように頷いた。
「例えば実りを豊かにする新種の肥料の作り方。例えば製鉄の方法。例えば最新の軍法。例えば天候の見抜き方。
例えば有能な才人……」
イスハルは自分を見るレオノーラにきょとんとした顔をする。
ジークリンデが言葉を挟んだ。
「それは金じゃいけないのかい」
「……数代前に<狐>の獣人の方がこっそりと富札で一山当てた金で地位についたあとの滑稽話をお聞きになりたい?」
「駄目だったのは想像がつくね。
それじゃ、次だ。差し迫った、なるべく早く解決するべき目的を決めよう。
……それは王国の追っ手から逃れることだと思う」
イスハルは不思議そうに首をひねった。
王国の王子、ヴァカデスは自分の身代金の支払いを拒み、不必要なものと切り捨てたのに、どうしてわざわざ追っ手がくるというのだろう。
だが世間知らずであるイスハルと違い、レオノーラとジークリンデの二人は王国がこのあとどのように凋落するのか察しがつく。
自動人形という技術を失えば、様々なところでしわ寄せが来て、最後には破滅するだろう。
それを補うにはイスハルという稀代の有能な奴隷を再び王国のため酷使しなければならない。
しかし、それだけは絶対に許せない。二人にとっては王国よりも、優しい彼のことが大切だった。
「どうして……そうなるんだ? 俺を捨てたのは王国だぞ」
「賭けてもいいですが、今頃あの国は大変な事になってますわよ」
彼女達はお互いの事を嫌いぬいていたが、イスハルの味方であるという一点で相手をどうにか許容していた。
「恐らくは確実にイスハルを追ってくる。わたしはなるべく早急に王国と距離をとることを勧めるよ」
「異議はありませんわね。……ですが、獣氏族のほうも完全に安心――と言えるのかどうか」
レオノーラは溜息をついた。
知識と技術に不理解な一族の男達、<獅子><熊><狼>の戦を得意とする氏族より、身体能力が人間に近い<聡耳>の氏族たちのほうがイスハルの凄さを理解してくれるだろう。だが、獣氏族全体では上記の三つの力は強い。身を隠すには少し心もとないのだ。
「陸路、海路。どちらでも構わない。王国はいずれ壊滅するとしても……さすがに明日明後日滅ぶほどじゃないだろう。追っ手が来る前に逃げる必要があるんだが。
……一つ提案がある」
ジークリンデは立ち上がって、止めたままの馬車を指差した。
「あの自動人形は、どこかの湖にでも沈めておくべきだ」
イスハルの身から――強い悲しみが混じった、苦痛のにおいが溢れてくる。
獣人として突然変異的に頭のいいレオノーラはジークリンデの発言の意図を察し、その正しさを認めながらも、彼女に激しい怒りを感じていた。そのしっぽは彼女自身の腰に巻きつく。警戒のしぐさを自然と取っていた。
「……あなたの発言の意図は分かります。
王国内ではもうすでに自動人形は使用不能になっているのでしょう。その中で、目立つ自動人形を馬車に乗せて動いていれば必ず噂にのぼるでしょう。検問の際には誤魔化しようもありません。
確かにそこから王国の追っ手に追跡をかけられる恐れがありますわね。ですが……!」
レオノーラは眉間に怒りを込めて言葉を発する。
あの自動人形はサンドール師がイスハルの身の安全のために残したもの。
性能や戦闘力などはこの際どうでもいい。一番重要なのは……もう亡くなった師の残した大事な遺品だということだ。
なおもいい募ろうとするレオノーラを、イスハルがそっと手を触れて押しとどめる。
彼は微笑んでいた。決して諦めるべきではない大切なものを諦めた笑顔で微笑んでいた。体から、激しい苦しみのにおいを発しながらも、微笑みを取り繕っていた。
「いいんだ。レオノーラ。捨てていこう」
いいはずが、ない。
あまりに無理をしている痛々しい笑顔にわけも分からず吼えたくなる。
レオノーラはイスハルを抱きしめながらも、身のうちから湧き上がる怒りに苛まれていた。
長年奴隷として生活してきたイスハルは自分の意志を自由に言い表すことが許されなかった。それまでの生活が彼の身に刻みつけた傷跡のような奴隷意識は未だ強く残されている。
「あなた……ジークリンデ! どうしてそういう事を仰るのよ!!」
イスハルと一緒にいたというならば、師の遺品である自動人形を彼がどれだけ大事にしているか知っているだろうに、なぜ捨てていこうなどと冷酷な提案ができるのか。
怒りと共にジークリンデの襟首を掴みあげ……ふと、そこで鼻腔に苦痛のにおいが突き刺さった。
イスハルの体から発せられるものだろうか……そう思ったが、違う。
この強い苦痛のにおいは目の前のジークリンデの体から発せられていた。
どういうことなのか――そう思ったレオノーラへと、ジークリンデはめくばせする。察せ、と言わんばかりだ。
「さぁ、どうするイスハル。……対案があるなら、聞こうか」
ジークリンデの言葉を受け、イスハルは不思議そうな表情をする。
自分で何かを決めることを許されず、誰かの道具であることを強いられてきたイスハルに対して、対案があるのか? と尋ねられ……彼は考え込んだ。
本当は師の残した自動人形を捨てていくなんて絶対にいやだった。
だがジークリンデの提案は、自分たち一行の身の安全のためには必要な判断だと思った。自分自身の苦しみや痛みに耐える事に慣れすぎて、師の遺品を捨てていく提案を拒むという意識さえなかった。
王宮で奴隷として働いていた時を思い出す。
師と共にどれだけ改善案を提出しようとも受け入れてもらえなかった。反応は罵倒と折檻ばかりで、いつか苦痛に耐える事が当たり前になっていた。
けれど。
かつてとは、違う。自分の心を汲み取って、自分の代わりに怒ってくれたレオノーラがいる。自分一人だけではないし、ジークリンデもきちんとした対案があるなら耳を傾けてくれる度量があった。
イスハルは、自分たちの身の安全を守りつつ、師の遺品である自動人形を人目より隠しながら移動する必要があった。
「あの……あの、意見を……言っていいかな」
それは長年奴隷として生活してきた彼が、自分の意思で、自分のやりたい事を意見として現した、奴隷意識からの脱却となる最初の第一歩だ。
体に染み付いた鞭と罵倒への恐怖で心の底から震えが沸きあがる――だが、鞭よりも罵倒よりも……師の忘れ形見を捨てていくことのほうが、もっと……つらい。
「……アイテムボックスを、どこかで手に入れられないだろうか」