20:文句あるか
「ハルティア王国をそのまま放置する――そうする事で、現政権は破滅する。そうなれば獣氏族に仇名す不穏な隣国は弱体化し、脅威はなくなる。間違いじゃない」
真っ先に獣氏族の事を考えるべき立場ならば、そう、確かに間違いではない。
しかし、その代わりに隣国の民衆が飢える状況を見過ごすことは、人として正しいのか?
国家同士の冷酷な判断の中に、人道主義をさしはさむことは難しい。イスハルがやらねばならないのは、長い視野で見ればそれが獣氏族の益になると信じ込ませることだ。
「ただしその後に残るのは荒れ果てた農地の残骸と飢えた民衆、そして……あるところから食料を奪おうと考える傭兵と民衆の混合軍だ」
「叩けばよい」
「戦闘種族以外の<聡耳>には人間との付き合いがある人もいたはずだ。心理的なしこりが残る」
「いいたい事は分かる。しかし、少し弱いな。獣人の戦士の死と引き換えにしてまで、そんなしこり、などという曖昧なものを気にする必要があるのか?」
獣人の舌鋒には遠慮容赦などない。まぁかかっているものが同胞の命となれば慎重になるのも当然なのだが。
「まず、戦う事で、ヴァカデス王子とその国家運営に関わる首脳陣をまとめて根こそぎ破壊する。
時間をかければかけるほど、ハルティア王国の金庫に残った金は目減りする一方だが、今ならまだ多少は奪える金銭が残る」
「我らは金銭を奪うために戦う気はないぞ。あくまでハルティアが戦争をしかけるから、迎え撃つだけだ」
「金と共に、ハルティアがこれまで培った農法のノウハウと熟練の農業技術者が確実に手に入る」
む、と族長たちが一様に押し黙る。<獅子><熊><狼>の戦闘氏族の長ではなく、<聡耳>内の、穏やかな農耕を営む獣人たちの長だ。
「それとともに自動人形が使用不可能になったため、ハルティアでは現在空前の人手不足になっている。
……ヴァカデス王子とその取り巻きが自滅する様子を対岸の火事として眺めるのもいい。だが、彼らが腐りきって自滅するまで待つと、農地のほうも荒廃が進み、再生に時間がかかる」
「奴らの耕した農地のお守りを我らにせよと? 草の面倒など誰がするか!」
先ほどイスハルを叱責した男は正しく否定したつもりだったようだが……周囲の人間から一斉に白い目で見られ戸惑ったように小さくなる。
この場で膨大な農地がもたらす安定した食料が、どれだけ一族の繁栄に帰依するのか、指導者層であるなら知っておくべきことだからだ。
「これを放置し続けた場合、ハルティアは夜に出歩くことさえままならないレベルに治安が悪化し、悪の温床となる。そしてハルティアと獣氏族の土地は地続きである事を考えれば……隣国に政情不安定なスラムを抱え込む事になる。
それよりはヴァカデス王子と指導者層を一掃し、隣国の政情安定と民衆の保護を約束したほうが長期的には益となる」
ふむ、と族長たちは一考に価すると考えこむ。
戦力差を埋める手立ては後で考えるとして、確かにここで戦ったほうがいいかもしれない。
こういう事は歴史の上では多々あることだった。長年存在し、腐敗した上層を敵国が一掃し、権力者がいなくなった事でその時代にもっとも適切な統治システムが後に乗っかり、結果的にその国の繁栄に帰依するのだ。
「……俺はいいと思うぞ! なるほど、人道に沿い、なおかつ長期的な視野で見れば我ら獣氏族の利益にもなる!」
意外な事に真っ先に大きな声をあげたのは、イスハルの事を『奴隷が余計な口を聞くな』と叱責し、先ほども『草の面倒など』と罵倒した男であった。
もっと頑迷固陋に反抗するかと思ったが、突然の手のひら返しに舵を切ったことでイスハルは訝しいながらもうなずく。
「それに引き換え、レオノーラ! お前は<獅子>の氏族の出でありながら隣国の民衆が飢えて苦しみ、腐敗の一途を辿る悪辣な策を提示するとは、恥を知るがいい! お前は奴隷などよりもはるかに品性下劣な女よ!」
だが、そいつが言った言葉にイスハルは凍りついた。
……彼は知る由もなかったが、この<獅子>の男は元々頭脳明晰でありながら先の戦で軍功を立てたレオノーラに対して激しい敵愾心を抱いており、彼女を中傷するためなら結局は何でも良かったのだ。
そんな風に面罵されたにも関わらずレオノーラは平気な顔で聞いている。
……彼女も、実のところハルティアとは一戦し、これを討つべきとは思っていた。
最初に提示した安全策だが、内心族長たちが反発していることを察している。戦や荒事を生業とする戦闘氏族の面々が、いくら一兵も損なわずに勝てると聞かされても、自分達がもっとも活躍する場を奪われ面白くないのだろう。
その直後にイスハルと同じ意見を提示するつもりだったレオノーラだが、これはこれで悪くない結果だと判断していた。
脳筋ばかりで技術や戦略に理解のない獣氏族の連中にレオノーラを嫌っているものは多い。
ならば自分が『民衆を飢えさせる冷酷で臆病な戦術を意見する、血も涙もない女』として悪役になったほうが、ハルティアとの戦いに対して彼らを団結させやすいだろう。
獣氏族での栄達など期待していないレオノーラは、いまさら彼らに嫌われたところで痛くもかゆくもない。
さぁ、あとは具体的にどう勝つのかを提言しなければ――そう考えたレオノーラは、天幕の中に響く甲高い音を聞いた。
イスハルが、レオノーラを侮辱した男の頬を張ったのだ。
<獅子>の獣人は最初機嫌よさげに大笑いしていたが、近づいてくるイスハルを気にも留めなかった。
意見に賛同してやったことに礼を言われるのかと思っていたし、警戒もしていなかった。人間の男など脅威に感じるわけがない。
だからこそ、奴が平手で叩いたことに最初は唖然とし、じんじんと痛む頬の痛みに次第に理解が及んでくると……徐々に腹の底から激怒が沸きあがってくる。
「こ……こ……小僧、貴様今何したああぁぁぁ!!」
相手を恐慌させる恫喝めいた獅子吼を前に、しかしイスハルは相手の怒りなど吹き飛ばすような激しい怒りと共に睨みすえた。
濃密な怒りのにおいに、周りの獣人たちが思わず警戒のあまりしっぽを巻くほどだ。
「獣氏族の捕虜にされ、身代金を支払われず、明日をも知れぬ二束三文の奴隷にされるところだった俺を助けてくれた恩人が彼女だ。
その彼女を嘲笑した。恩人を侮辱した、だから殴った……文句あるか!!」
まさか<獅子>の威圧を前にして一歩も怯むこともなく、正面から堂々と喝破されるとは思わず男は二の句を告げぬまま後ずさり。
庇われた形のレオノーラは喜びのあまりしっぽをふりふりして、蕩けたようなご満悦顔をイスハルに向けている。
ジークリンデだけは面白くなさそうな顔の後……仕方ないか、と嘆息した。
そういう風に仲間を大切にしているからこそ、二人とも彼に好意を持ったのだから。




