2:獣将姫さまのおいかりしっぽ
イスハルはレオノーラの天幕に移され、身を洗い清めることを許された。
清潔に出来ることはありがたい。捕虜の身分では体を拭うことさえ許されず、全身が埃っぽい。
『細かな話は明日にしましょう』と言われ、久々に柔らかな寝台でゆっくり眠ることが許された。
「どうなるんだろう……」
イスハルは如何に高度な知識や学問を身に着けようと、自分で人生の舵を取ることができない奴隷の身分だ。
幼い頃に困窮した孤児院から奴隷として売りに出され、師であり、父代わりであるからくり師サンドールに転売用の奴隷として購入されたのだ。
……転売用の奴隷、そう言われると聞こえは非常に悪いが、奴隷本人にとっても悪い話ばかりではない。
師によって一級の知識を伝授され、学者や技術者として大成した後、奴隷として売却される。
奴隷を購入した相手にとっては、最高級品を購入したわけだから長持ちしてもらわないと困るわけだし。当然命を使い潰すような過酷な労役を強いられるわけでもない。
……だが、解放奴隷を目指すものにとっては正直微妙な制度という気もする。
奴隷は主人が購入の際に支払った金額で自分自身の身柄を買い戻せる。
つまり卓越した技術や知識を磨けば磨くほど奴隷として高値で売れ、結果、自由を得るための対価が高額となる。
イスハルの知っている高級奴隷の中には、自由を得る事を諦め、主人から与えられる金で楽しく遊び暮らしているものもいた。
そういう生き方が悪いとは言わない。
だが……イスハルにはどうしてもそれが良いとは思えなかった。
幼い頃、イスハルと親しかった女奴隷がいた。
師の『からくり師』サンドールは優しいが厳格で、代わりに彼女は母代わり姉代わりにイスハルに優しくしてくれた。
だがある日、王宮に賊が忍び込む。
王国は重税を強いており、苛政を恨む反乱分子が王宮へと侵入し……それを見咎めた女奴隷を捕らえたのだ。首に刃を突きつけられ『喋るな』と脅されて一体何ができようか。
結果、反乱分子は城内に侵入し、貴族数名を死傷させた後、殺害された。
女奴隷は無事だった。
ただし、その次の日に処刑された。
命を捨てて警告を発し、殺害されることこそ奴隷の正しいあり方である――それが、処刑の理由だ。
だが、それはあくまでお題目。反乱分子によって死傷した貴族の親戚が八つ当たりじみた怒りで、その女奴隷に死を命じ、王国もまた奴隷一人を処刑して貴族の不満をやわらげられるなら、特に惜しくもなかったのだ。
もし、彼女が権利を保障された『人』であったなら、処刑されることなどなかったはず。
イスハルは奴隷は嫌だった。
……王国の兵は弱兵だ――それは間違いない。
にも関わらず、強国としての地位を確立しているのは……王国の貴族さえ頭を下げる知識奴隷『からくり師』サンドールの力に寄るところが大きい。
自動人形。
魔力繊維と呼ばれる強靭な筋繊維によって強大な力を発揮する労働力にして軍事力。
魔術師の命令に従い自動で動き、様々な業務に従事する機械たち。
正面からの戦いでは、自動人形を要する王国と戦うのは厳しい。
獣人はなまじ普通の人間よりも優れた身体能力を有していたからこそ、正面からの力押しで勝てていた。正面突撃は彼らにとっての伝統であり……だからこそ、これまでずっと自動人形に破れ続けていた。
それでも『仲間の屍を踏み越え、敵陣に到達できれば我らの勝ち』という考えの族長は多く……しかしこのままではまずい、と現実を見据えたものも確かにいたのだった。
「それで、わたくしに白羽の矢がたった訳です。……以前王国に留学していた、このレオノーラに。
……まさか、イスハル。あなた、わたくしの事を忘れてた……などとは仰いませんよね?」
「……え? あー……その」
ぎゅー、とほっぺを抓られるが、麗しい女主人の不機嫌そうで拗ねた表情は妙に可愛らしかった。
覚えは、ある。
イスハルは王国に仕える高級奴隷で、普通の民衆よりも遙かに高度な知識を有している。
「……今思い出しました。申し訳ありません、レオノーラさま」
「敬語はけっこうですわよ、イスハル先生」
「ええと、はい。うん……ありがとう、レオノーラ」
イスハルは当時12歳。レオノーラは当時は15歳。自分より年下に教わると聞いて怒り出すかと思ったが、彼女は獣人にありがちな知識に対する軽視とはまるで無縁で、自分達獣人が知識に置いては劣っていると謙虚に受け止めることができた。
「わたくしは王国にいた時……だいぶ参っていたのです。
新しい知識や学問を学ぼうにも、皆わたくしを獣人と見下げるにおいを発し。なのに、顔ではにこやかに友好的に振舞う。においと振る舞いに差がありすぎてずっとノイローゼでしたのよ。
あなただけでしたわ、素直なにおいがしたのは……」
昔のように首筋に顔を埋めて抱きついて来る。においで相手の感情を読む獣人として有り触れたスキンシップと知ってはいても恥ずかしいものは恥ずかしい。
レオノーラは少し顔を赤らめながらも身を離すと、書類を差し出した。
「それでは……実利的な話をしましょう。わたくしはあなたの活動、行動に対してこれだけの賃金を支払います」
「え?」
差し出されたのは契約書とも言うべき内容。労働時間からそれが伸びた際の残業手当。休日。外出の自由。その他こまごまとした内容が記載されている。
「申し訳ありません。あなたのように『糸伝令』という優れた伝達手段を持つ人に提示する額としては少ないかもしれないですが、わたくしもそれほど手持ちのお金が多くはないん……」
「給料がもらえるんですか?!」
レオノーラとしては……少し彼に不利かもしれないと提示した書面に対して、歓喜の声をあげるイスハルに思わずびくり、と震えた。
「……イスハル。あなた、何を仰ったの?」
「え? 給料をもらえるのですか? と、ですけど」
「……あなた、何を仰ってるの? 獣氏族の言語を流暢に会話し、自動人形の設計に通じ、さらにはタイムラグなしで意志疎通を行える値千金のあなたが……給料を貰ってないの?!」
まるで信じがたい不義を見たかのようなレオノーラはお尻を突き出してしっぽを倍以上に膨らませる。これはかなりお怒りのしぐさだ。そのまま駆け出そうとする彼女のしっぽを間一髪で掴んで止める。
「れ、レオノーラ! レオノーラ! 何する気だ!」
「あの失禁王子、イスハルを買い戻さないだけに飽き足らず、奴隷に賃金を支払ってなかったんですのよ!? 奴隷にだって認められた最低限のルール、自分を買い戻して自由になるという望みさえ……! 許せませんわよ!」
恐らくここでイスハルが止めなければ、怒り心頭に達したレオノーラは昼夜を駆けてヴァカデス王子に追いつき八つ裂きにしただろう。
だがそうなったら王国と獣氏族の間でかわされた和平はたちまち崩れ、再度戦争になりかねない。
両国の運命はイスハルの声量にかかっている。
誰かー、誰かきてー、と引きずられながら大声で叫ぶイスハルは、どうしてこうなったんだと泣きたくなった。