それが最後の言葉 2
自室に入り、一人になれば泣いていた。
自分で決めたからといって、それで収められる感情でもなかった。
こんなに、心を占めるものがあるとは、自分でも考えたことがなかった。
ただ、一人になれば泣いていた。
それから出立の日まで、悪魔が顔を見せることもなく数日。
その日、1日の終わりに屋敷へ戻ると、玄関に悪魔がいた。階段の手すりに座っていた。
「……ただいま」
「……おかえり」
そんな日常の一言さえ、交わすことが嬉しかった。
けれど、悪魔が顔を出す時は用事がある時だ。用事がない時は何日だって何週間だって、顔を見せに来たりはしない。嫌な、予感がした。
「街を出る準備ができたよ」
「…………」
そんな言葉、聞きたくなかった。
「裏に、馬を繋いだよ。馬車もあるから、あれで出るといい」
そんなこと、して欲しくなかった。
いくら自分が言ったこととはいえ、そんな風に手伝ってくれると悲しくなる。
離れるのが当たり前みたいに。そんな風に言わないでほしい。
「じゃあ……明日、出発する……ね」
こんな言葉嬉しくない。
もっと何か言っていたら、変わっただろうか。一緒にいる道もあっただろうか。
目の前が真っ白だ。
普通の顔ができているだろうか。
「ありが……とう……」
絞り出した言葉は、耳に届いただろうか。
出かけて、戻ってくればいいというものでもない。
不安が押し寄せる。
狼がいなくなったわけではないから、また増えれば森は通れなくなってしまう。
悪魔が拒否すればここには来られない。姿を消されてしまえば会うことはできない。悪魔がずっとここにいるとも限らない。
しばらくその場に立ちつくし、悪魔がいなくなっただろう頃に、そのまま玄関の床に座り込んだ。横になる。
冷たい。
悪魔に言えるような言葉は持ってない。
どれだけ寂しいと思っても、言えることなんてない。
ぼんやりと。つるつるとした床を見る。眠くなることもなく、ずっとその場にいた。鐘が鳴るのを聞いてから、むくり、と起き上がる。
ぼんやりとしたままで、屋敷の外へ出ると、もう馬車が用意してあった。
「え…………」
幌付きの馬車で、中にはすでにエルリックが寝かされていた。
エルリックの髪を撫でる。つやつやとした髪。小さな頃は、ずっと撫でてみたいと思っていた。
「…………」
屋敷を見上げる。
悪魔の姿は見えないけれど、きっと屋根の上に……いる。
屋根の上に向かって、両手を上げた。
これで、最後だから。
すると、星空のような翼が、マリィを包み込むように降ってきた。
「マリィ」
名前を呼ばれるだけで、嬉しい。
「悪魔……さん」
悪魔はマリィをふんわりと包み込むように、そばに立つ。
じっと見つめるしか術がない。この手でそのまま抱きつくことができればどれだけ素敵だろう。
けれど、誰かを求めるにも、約束をするにも、マリィはまだ未熟だった。
頭のすぐ近く、手を伸ばせば届きそうなところに悪魔の頭がある。
上げた手は、そのまま下ろした。
「ありがとう……」
それだけで。それだけで精一杯だった。
「うん」
「さようなら、悪魔さん」
「さよなら、マリィ」
それが、別れの前の最後の言葉だった。
離れがたい手をやっと離すと、マリィは、一人で馬車に乗る。
馬車が動き出すと同時に、悪魔の翼は羽ばたき、空の中へ消えた。