第86話『夏季試験当日』
それから、あっという間に月日は流れ────私達は夏季試験当日を迎えていた。
雲一つない青空の下で、思いっきり潮の香りを吸い込む私はサラサラの銀髪を風に靡かせる。
船の手すりにもたれ掛かり、周囲を見渡す私は────視界いっぱいに広がる青い海に目を細めた。
私は現在、学校関係者と共に豪華客船に乗って試験会場であるエトワール島へ向かっている。船は完全に貸し切りで、設備も充実しているため、かなり快適だが……。
「うっ……!気持ち悪い……」
「……吐きそう」
我が家の次男と三男は船酔いを起こしたようで、顔を真っ青にしている。
甲板の隅に座り込む彼らは普段の余裕そうな態度が嘘のように、弱々しかった。
他にも船酔いになっている人はチラホラ居るが、あそこまで酷いのは彼らだけだ。
「ライアンくんやルーカス先輩でも船酔いになるんですね。なんか、意外です」
近くの従業員から、二人分のジュースを受け取ったアンナは『はい、どうぞ』と言って、彼らにそれを渡す。
普段なら、ここで憎まれ口の一つでも叩くところだが……彼らは素直に礼を言った。
キンキンに冷えたジュースを口に含み、一つ息を吐く。多少楽になったのか、二人の表情は僅かに和らいだ。
社交的なルーカスはさておき、口うるさいライアンがあんなに大人しいのは珍しいな。それほど弱っていると言うことか……。
「エリンちゃん、お待たせ!はい、これ!限定のトロピカルジュースだよ!とっても美味しいから、飲んでみて!」
無駄に色鮮やかなジュースをこちらに差し出すアンナはキラキラと目を輝かせる。
期待の籠った眼差しを向けられ、私は内心溜め息を零した。
トロピカルジュースだか、なんだか知らんが……所詮は飲み物だろう?腹に入れば、みんな同じだというのに、何故こんなに勧めてくるんだ?お菓子ならともかく、ジュースに拘る理由が分からない。
ちょっとオシャレに盛り付けられたグラスを受け取り、私は海のように真っ青な液体を見下ろす。
『こんなものが美味しいのか?』と疑問に思いつつも、アンナの好意を無下にする訳にはいかないため、とりあえず一口飲んでみた。
「!?」
カッと大きく目を見開いた私は口に広がる味わいと爽やかな香りに衝撃を受ける。
生クリームのような甘さとはまた違う、さっぱりした甘さに一瞬で心奪われた。
「お、美味しいでしゅ……!!とっても、とっても甘いでしゅ……!!」
パァッと表情を明るくさせる私はゴクゴクッと一気にトロピカルジュースを飲み干す。ついでに飾りとして盛り付けられたパイナップルやオレンジも平らげた。
今回ばかりは私の負けだ……!トロピカルジュースはただの飲み物ではない!甘味そのものだ!私の認識が間違っていた……!
「あ、あの……お代わりって、ありましゅか?」
己の認識の甘さに負い目を感じる私は少しモジモジしながら、そう尋ねる。
チラリと不安げに視線を上げると、アンナは口元に手を当てて悶絶していた。
「っ〜……!!エリンちゃんが可愛すぎる……!!じゃなくて、お代わりは自由だよ!この船に乗っている間は飲み放題だからね!直ぐにお代わりを持ってきてもらうよう、頼んでくるよ!」
思わずポロッと本音を吐露したものの、アンナは何とか持ち直した。
が、指の隙間からポタポタと垂れる鼻血は隠し切れていない……。色んな意味でやばい変態と化したアンナは『はぁはぁ』と息を荒らげつつ、従業員にトロピカルジュースのお代わりを持ってくるよう、頼んでくれた。
やり取りの一部始終を見ていた従業員は頬を引き攣らせながら、そそくさとこの場を去っていく。
なんか、悪いことをしたな。初対面の奴にアンナの幼女趣味はキツかったか……。まあ、普通はそうなるよな。私も最初はかなり引いたし……最近は感覚が麻痺して、あまり引かなくなったが……。
やっぱり、アンナはただのヤバい奴なのだと再認識し、私はどこか遠い目をする。
『何でこんなヤバい奴が傍に居るんだろう?』と真剣に考える中、アンナはポケットから取り出したハンカチで鼻血を拭いていた。
「えへへへへ!エリンちゃんの上目遣い、最高!喜んでいる顔もめちゃくちゃ可愛かった!エリンちゃんって、妖精さんみたいに愛らしいよね!」
だらしなく頬を緩めるアンナは『可愛い』と連呼し、気持ち悪い笑い声を上げる。
色んな意味でヤバい彼女の言動に、私は思わず危機感を抱いてしまった。
ただの小娘に恐れを成すなんて、私らしくないが……こいつは例外だ。戦闘面で負けることはないだろうが、こいつの趣味にはついて行けない……。
ブルリと身を震わせる私は炎天下にも拘らず、寒気を催す。
そして、鳥肌の立った両腕をさすっていれば────アンナの背後に見知った人影が現れた。
「────こらこら、アンナくん。顔が大変なことになっているよ。それじゃあ、不審者と間違えられても文句は言えないね」
そう言って、アンナの背後からニュルッと出て来たのは担任(仮)のシオンだった。
遠出であろうと、変わらない甚平姿に呆れるものの、頭に乗った花冠に気づいて苦笑いする。
澄ました顔をしているが、なんだかんだ浮かれているらしい。
バカンス気分を味わえるのは豪華客船に乗っている間だけだけどな。船から降りれば、夏季試験の始まりだ。
「うわっ!?ビックリさせないでくださいよ、シオン先生!ていうか、そんなにやばい顔していました?普通だったと思うんですけど……」
「船の従業員や他クラスの生徒から苦情が入るくらいには、やばかったよ」
「えぇ!?そんなに!?」
思わずといった様子で大声を上げるアンナは慌てて口元を手で覆い隠す。
図らずとも周囲の注目を集めてしまう彼女はようやく自分のやばさに気づいて、ちょっとだけ頬を赤く染めた。
「一部の従業員は『不審者が紛れ込んでいるかもしれない』って疑っているから、自重しようね」
「は、はい……」
シュンと肩を落とすアンナは『すみません……』と蚊の鳴くような声で謝罪する。
『よくやった、シオン!』と心の中で賞賛する私は運ばれてきたトロピカルジュースのお代わりに手を伸ばした。
何故か従業員から同情的な眼差しを向けられているが、気にせずトロピカルジュースを飲む。
そして、『美味しい!』と目を輝かせると、従業員達は私のグラスが空く度にトロピカルジュースを持って来てくれるようになった。
────その後、心優しい従業員のおかげで快適な船旅を過ごすことが出来た私だったが、楽しい時間はずっと続かない……。
トロピカルジュースを合計二十杯飲み干した頃、ついに目的地であるエトワール島が見えてきた。
首都一個分程度の大きさしかないその島は多くの軍人と兵器で溢れ返っている。島の中央には軍事施設と思しき建物が一つ建っていた。
あれは恐らく、寝泊まりするために建てたものでは無いな。となると、やはり……ここでの一週間はキャンプ生活になりそうだ。
『面倒だな』と眉を顰める私は思ったより、過酷な試験に溜め息を零す。
早くも帰りたい衝動に駆られる私を他所に、豪華客船はエトワール島の近くで止まった。