第56話『自問自答《ルーカス side》』
いつの間にそこに……!?気配を全く感じ取れなかった……!
ところどころ切り傷がある茶髪の男性はクスクス笑いながら、こちらを見下ろしている。
彼の視線の先にはシオン先生の足元に落ちた短剣があった。
状況から考えて、奴の投げた短剣をシオン先生が慌てて弾いた……ってところかな?
シオン先生の体はもう既に限界の筈なのに、僕を守るためにこんな無茶を……。
「ルーカスくん、早くここから逃げるんだ。この男は冗談抜きでやばい……!」
頭から血を垂れ流しながらギュッと短刀を握り締めるシオン先生はゆらりと立ち上がる。
もう既に彼の体は満身創痍の筈なのに、僕を守るためだけに彼は敵の前に立ちはだかった。
根性が成せる技としか思えない行動に、茶髪の男性は色素の薄い瞳を細める。
「たった一人の生徒を守るためにまだ立ち上がりますか……」
「僕はフラーヴィスクールの教師だからね。生徒を守るのは当然の行いだよ」
「なるほど……では、その結果死んでも後悔しないと?」
茶髪の男性がそう問い掛けると、シオン先生は『はははっ!』と心底おかしそうに笑い声を上げた。
「愚問だね────後悔なんて、する筈ないさ。未来ある子供を守って死ねるなら、本望だよ」
迷う素振りすら見せずにそう答えたシオン先生はゆるりと口角を上げる。
躊躇いも後悔も感じられない凛々しい姿に、僕は大きく目を見開いた。
職務内容に生徒の安全が書かれていたとしても、僕とシオン先生は所詮他人だ。血の繋がりもなければ、友人のように親しい関係でもない。
そんな奴を命を懸けて守る価値があるか?と言われれば、答えは否だ。
それなのに────シオン先生は『未来ある子供だから』という理由だけで、あっさり自分の命を懸けた。まるで、それが当たり前かのように。
分からない……シオン先生の考えていることがこれっぽっちも理解出来ない。
「ふふふっ。そうですか。貴方はかなりのお人好しみたいですね」
「さあ、それはどうだろうね。分別のある大人なら、皆こうしたと思うよ。子供を守るのは僕達大人の役割だからね」
シオン先生の返答に、茶髪の男性は興味深そうに目を細め、クスリと笑みを漏らす。
そして、クルリと手首を回し、まるで手品のようにナイフを取り出した。
光に反射し、銀色に光るそれを彼はおもむろに上へ投げる。
すると────彼の体から黒い靄のようなものが現れ、宙に浮いたナイフを包み込んだ。
その靄は実体を持っているのか、ナイフが靄を通過して落ちてくることはない。
何だい?あれは……。魔法……とは少し違うようだけど……。
「貴重なサンプルを殺してしまうのは非常に残念ですが、貴方がその子供を守ると言うのなら仕方ありません。さっさとケリをつけましょう。逃げ出した人質も回収しないといけませんし」
『残念』『仕方ない』と言う割に笑顔を崩さない彼は靄に包まれたナイフをおもむろに構える。
レンズ越しに見える色素の薄い瞳が愉快げに細められた。
ゾクリと背筋に悪寒のようなものが走る。
本能的な恐怖が僕を支配する中、茶髪の男性はパチンッと指を鳴らした。
それを合図に、靄に包まれた複数のナイフが一斉に放たれる。
弾丸並のスピードで迫ってくるそれを、シオン先生は短刀で叩き落とした。
カランッと音を立ててナイフが床に落ちる中、茶髪の男性が手のひらを前に突き出す。
すると、その動きに合わせて彼の周りをウロウロしていた黒い靄が前へ飛び出した。
「ルーカスくん、早く下がって!」
「え?でも、それじゃあシオン先生が……!」
「いいから、早く下がりなさい!」
珍しく命令口調を使うシオン先生に押され、慌てて立ち上がると、数歩後ろに下がる。
何がなんだか分からない状況で視線を右往左往させていると────僕達の方へ向かってきた黒い靄が毒蛇のような形に変わった。
それも一匹や二匹じゃない……少なくとも十匹は居る。
輪郭は少しぼんやりしているが、本物の蛇のように『シャーッ!』とこちらを威嚇してきた。
こんな力、見たことない……!変身魔法や幻影魔法の一種だろうか……?でも、それにしては少しリアル過ぎるような……?
混乱する思考の中で黒い靄の正体を探っていれば、こちらへ迫ってきた蛇がシオン先生に襲い掛かる。
絶えず血を垂れ流すシオン先生は出来るだけ小さい動作で蛇を躱し、短刀で斬りつけるが……斬ったそばから再生しいく。
しかも、恐怖や不安を感じないのか蛇に怯む様子はない。
そして────ついに二体の蛇がシオン先生の左足と右腕に噛み付いた。
「っ……!!」
声にならない悲鳴を上げる彼は懐から呪符を一枚取り出すと、それを急いで発動した。
捲し立てるような詠唱と共に突風が巻き起こり、黒い靄で出来た蛇の体を霧散させていく。
形を保てなくなった蛇は一旦宿主のところまで引き下がり、体勢を立て直した。
本当に何なんだ?あの靄は……。
先生に噛み付いたことから、実体を持っていることは間違いないけど……まるで霧のように曖昧で、存在が掴みにくい。
風魔法が有効みたいだけど、完全に消すことは出来ないみたいだし、倒し方が全く分からないよ。
ゆらゆらと揺れる黒い靄を一瞥し、『はぁ……』と深い溜め息を零す。
考えが行き詰まり、眉尻を下げていると────不意に赤く濡れたシオン先生の手足が目に入った。
蛇の歯型がしっかりついた左足と右腕からは真っ赤な血が流れており、痛々しい。
ただでさえ、傷だらけのシオン先生は更なる出血に『くっ……!』と苦しそうな声を上げた。
不味い……!このままじゃ、本当にシオン先生が死んでしまう!
「シオン先生、あとは僕がやります!なので、先生は休んでいて下さい!」
危機感を覚えた僕は右手で魔法陣を構築しながら、慌てて彼に駆け寄る。
『倒せずとも時間稼ぎくらいは出来る筈』と考えながら、シオン先生より前へ出ようとすれば……先生が僕の肩を掴んだ。
「ルーカスくんの勝てる相手じゃない。さっさと逃げなさい」
『お前の出る幕じゃない』と言外に言い切るシオン先生はいつになく真剣で……咄嗟に反論出来なかった。
死を覚悟する彼の横顔はどこか母上に似ている。
だからこそ、大きく心を揺さぶられた。
「ルーカスくん、理事長が出張から帰ってきたら、こう伝えて。シオン・キサラギは立派に役目を全うしました、と」
そう言って、シオン先生は一瞬だけ……本当に一瞬だけいつものようにヘラリと笑うと、風を切る音と共に消えた。
生ぬるい風が頬を撫でる中、先生は目にも止まらぬ速さで茶髪の男性に接近していく。
瀕死状態の人間とは思えないほど軽やかな動きで敵の背後に回った彼は流れるような動作で奴の首に刀を突き立てた。
これが武人の底力かと瞠目する中、短刀の刃が敵の首にのめり込む────前に、黒い靄がシオン先生の体を持ち上げた。
シオン先生の体を包み込む靄はまるで生き物のようにうねり、先生の首に纏わりつく。
そして、次の瞬間────黒い靄は細長いローブに姿を変え、シオン先生の首を絞め上げた。
ヒュッと僕の喉が鳴り、目の前が真っ暗になる。
目尻に涙が溜まる感覚と共に、僕は膝から崩れ落ちた。
「せん、せい……?」
震える声でそう呼び掛ければ、いつも開いているのか開いていないのか分からない彼の目が僅かに開く。
黒く澄んだ瞳にはこの世の終わりみたいな顔をする僕の姿がくっきり映っていた。
「ルー、カスくん……!早く逃げ……っ!」
苦しそうに顔を歪めるシオン先生は首に巻かれた細長いロープを必死に引っ張る。
でも、ロープは微動だにせず……悪足掻きで終わってしまう。
茶髪の男性はクルリと体の向きを変え、苦しむシオン先生を楽しげに眺めていた。
「解剖が楽しみですね。少々傷がついてしまいましたが、綺麗に殺してあげるので安心して下さい」
この状況下でも笑みを絶やさない茶髪の男性に、恐怖を覚える。
と同時に己の弱さを嘆いた。
どうして、僕はこんなに弱いんだろう?苦しんでいる人が目の前に居るのに何も出来ないなんて……赤子と同じじゃないか。
僕は母に守られるだけだったあの頃と何も変わっていない。どんなに技術を磨こうと、圧倒的力の前では意味が無いのだから。
────それじゃあ、僕は何もしなくていいの?
「……」
────シオン先生を死んでいく姿をただ眺めるだけ?
「っ……!」
────救えるかもしれない命を見殺しにするの?
「違う……!僕は……!!」
────違わないさ。『何も出来ない』のと『何もしない』のとでは全く意味が違うんだから。
自問自答とも言える問答を繰り返し、僕は震える手をギュッと握り締めた。
心がどんどん追い詰められていく中、もう一人の自分が僕にこう問い掛ける。
────ねぇ、本当に何もしなくていいの?
その問い掛けと共に母の穏やかな死に顔が脳裏を駆け巡った。
まるで走馬灯のように昔の記憶が鮮明に思い出される。
僕の全神経がこう叫んでいた────。
「────いい訳ないだろ!!」
全身の血が沸騰したような感覚に陥りながら、僕はバッと顔を上げた。
『今ここで立たなければ、僕は何も守れない男になる!』と言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がる。
まだ必死に足掻くシオン先生を前に、僕は────構築した魔法陣を前に突き出した。
もう二度と後悔はしたくない。あんな想いをするくらいなら、死んだ方がマシだ……!!
「風の守護者よ 今一度、我の呼び声に応えたまえ 我、汝の力を欲する者なり────トルネード!」