第2話『公爵様』
父親に連れて来られたのは、屋敷の中でも特に豪華な客室だった。
まあ、相手はあの公爵様なのだから一番いい部屋を使うのは当然と言えるが……。
数える程しか入ったことの無い客室で、私は客人にチラリと視線を送る。
これは少し……いや、かなり意外な人物だな。
まさか、最も人間味に欠けると言われるマルティネス公爵が現れるとは……。
私が住まうここモーネ国には、三つの公爵家が存在する。
宰相として、代々国王陛下を陰から支えるベイリー公爵家。
魔法学の研究を通して、国に貢献するフローレス公爵家。
そして────武力に秀でたマルティネス公爵家。
三大公爵家と呼ばれる、この三つの家が代々国王に仕え、モーネ国を支えてきた。
特に今代の当主リアム・マルティネスはまさに生きる伝説と呼ばれ、齢二十八歳にも拘わらず数々の功績を収めている。
最近まで戦いの前線に居たらしいが、国王の命令で帰還を果たしていた。
近年稀に見る天才だから、手元に置いておきたかったのだろう。戦争で死なせるには、惜しい人材だからな。
『そんな大物が私に一体、何の用なんだか』と疑問に思いつつ、相手の反応を窺う。
すると、彼がこちらを向いた。
サラリと揺れる艶やかな金髪をそのままに、彼はじっと私を見つめる。
何の感情も窺えないエメラルドの瞳で。
「突然呼びつけて悪かった」
「い、いえ……!滅相もごじゃいましぇん!」
年相応に見えるよう、私は必死に無邪気な子供を演じた。
何故こいつが私を呼び付けたのか理由は分からないが、変な勘ぐりをされるのは面倒だ。
ここは適当に切り抜けよう────私の軟禁生活のために!
と、固く誓う私はいつものように目立たない壁際に佇んだ。
そう────いつものように……当たり前みたいに……私は壁際に立ってしまったんだ。
それが運命の分かれ道になるとも、知らずに。
「……何故、ソファに座らない?お前はエリン・オルティスだろう?使用人でもないのに、壁際に立つ必要がどこにある?」
「「あっ……」」
リアム・マルティネスからの鋭い指摘に、思わず父親とハモってしまった。
どうやら、父も私が壁際に立っていることに疑問を抱かなかったらしい。
恐らく、この状況に慣れてしまったからだろう。
私もつい癖で壁際に立ってしまったが……これはかなり不味いな。
本来、貴族が壁際に立つなど有り得ない。
それがたとえ、妾の子であったとしても……。
『やばい!』と密かに焦りを覚える中、リアム・マルティネスはゾッとするほど整った顔立ちに苛立ちを滲ませる。
そして、鞄から一枚の書類を取り出した。
「お前達が末娘を虐待しているという噂は、本当だったか」
「なっ、え……そ、それは……!!」
「もはや、言い訳の余地などないだろう。その娘が当然かのように壁際に立ったのが、何よりの証拠だ。お前やそこの使用人だって、私が声をかけるまで壁際に立つ娘に違和感すら抱かなかった。それが当たり前の光景だから、受け流していたのだろう?」
「っ……!!」
リアム・マルティネスにあっさりと論破され、父は言葉を失った。
悔しそうに歯を食いしばり、膝の上で拳を震わせるばかり……。
大方、『この若造が……!!』とでも思っているのだろう。実力に歳は関係ないと思うがな。
「未来ある子供を冷遇するなど、本来であれば許されない行為だが────その娘を私にくれるなら、この事は見なかったことにしてやる」
「「!?」」
やはり血は繋がっているのか、私と父はほぼ同じタイミングでリアム・マルティネスに視線を寄越した。
彫刻のように美しい顔を凝視し、これでもかというほど大きく目を見開く。
いっ、今、なんて……?『その娘を私にくれるなら』って言ったか!?
「そ、それでリアム様がこの事を黙っていてくれるなら構いませんが……エリンを引き取って、どうするんです?」
「それは私の勝手だ。それより、早くこの書類にサインしろ。私はあまり暇じゃない」
「は、はい」
あの小煩い父をあっという間に黙らせ、リアム・マルティネスはエメラルドの瞳に私を映し出した。
切れ長の瞳は少しキツい印象を持たせるが、嫌いではない。
一体、何故こいつは私を引き取ると申し出たのか……。
書類まで準備して乗り込んできたということは、恐らく突発的な行動ではないだろう。
ここに来る前から、私を引き取る決心していたと考えるのが妥当だ。
「か、書きました!で、ですから今回のことは……」
「分かっている」
再度確認するように言葉を投げかける父に対し、リアム・マルティネスは煩わしげに眉を顰めた。
心配性の父を睥睨し、エメラルドの瞳に私を映し出す。
「おい、お前。一緒に来い。直ぐにこの屋敷を出て行くぞ」
「えっ?で、でも……お洋服とか、いらないでしゅか……?」
「ああ、必要ない。お前の身一つあれば、それで良い。日用品なぞ、後で好きなだけ買わせてやる」
金髪翠眼の美丈夫はおもむろにソファから立ち上がると、私にそう宣言した。
翠玉の瞳に迷いはなく、淡々としている。
『好きだけ』って、随分と太っ腹な貴族様だな。
まあ、公爵ともなれば幼女の生活費なんてはした金に過ぎないだろうが。
壁際に立つ私はリアム・マルティネスに手を掴まれ、促されるままこの場を後にした。