影法師
真夏の週末。
私は妻子と共に海水浴へ赴くべく、準備をしていた。
妻はおかずを弁当箱に詰め、今年で三才になった息子は
リビングで車の玩具を走らせている。
「お父さん、物置から浮き輪を持ってきてくれる?」
妻に頼まれて、私は物置に向かう。
玄関から外に出ると、空は真っ青に晴れ渡り、穏やかな風が庭木を揺らしている。
父から譲り受けた一戸建ての横手に回り、物置の前に立つ。
少し錆びた戸を開くと、奥行きのある物置の薄暗闇に光が射し込んだ。
もともと車庫であった物置は、私が車を持たないために、今や単なる物置と化している。
その最奥に設えた金属棚の前。
そこに、少女が一人、立っていた。
洋風の喪服をまとった彼女は、銀色の眼差しで私を凝視する。
彼女の首には麻縄が巻きついて垂れ、手首には幾筋もの傷が刻まれ、
赤黒いかさぶたになっている。
彼女の足元には空になった瓶と、零れた白い錠剤が散らばっていた。
「幸せそうね、お父さん」
喪服の少女は私をじっと凝視しながら呟いた。
「毎日死ぬことばかり考えていたあなたが、そんな風になるなんてね。
たかが子どもが一人できただけで、そんな風になってしまうなんてね。
私を必死に求めたことなんて、もう忘れてしまったのでしょうね」
遠くから、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
車が風を切って走る音が聞こえてくる。
「辛いことがある度に、死にたいと呟いたくせに。
眠る前には、目覚めないようにと願ったくせに。
自分には生きる価値がないと、震えて泣いていたくせに。
どうして、そう簡単に忘れてしまえるの?」
子どもたちの笑い声。
窓辺に揺れる風鈴の音色。
「でも、いいの。
あなたはきっと帰ってくる。
私のもとに帰ってくる。
私を愛した人は、みんな、私のところに帰ってきた。
ある人は首を吊り、ある人は手首を切り、ある人は薬で眠りについた。
あなたもきっとそうなるわ。
ねぇ、お父さん。
私はあなたの娘だもの。
最初の子どもだもの。
交わらずに生まれた娘だもの。
お父さんのことは、私が一番よく知っているよ」
喪服の娘は微笑むと、その姿を消した。
彼女が立っていた場所には、小さなダンボールが一つ置かれている。
口封じのテープが剥がれたダンボールに近づき、中を覗き込む。
真新しい麻縄と、買い溜めた睡眠薬。刃が折られていないカッター。
仕事を与えられなかった品々が、悲しい目をして、こちらを見ている。
「それ、捨てておくから」
振り向くと、物置の戸口に妻が立っていた。
外光を背にする彼女の顔は、陰となって見えない。
不安と恐怖、そして僅かな怒りを感じながら、私はしぼんだ浮き輪を手に取る。
薄暗い物置から立ち去る直前、嘲るような笑い声が聞こえたような気がした。




