日本成立と壬申の乱
「賊将サチヤマ、貴君を捕縛して都に移送する。大人しく従うように」、劉仁願・郭務ソウ・劉徳高三人は博多に上陸してその地を総司令部とした。そして大倭国を滅ぼし皇帝や群臣百官等を移送する手続きをしていた時、「申し上げます!! 倭人の軍と思われるものが船で東に向かって脱出しているようです」との報告があった。三人は顔を見合わせたが、劉仁願はすぐに指令を出した。「追撃には劉徳高殿に任せ、郭務ソウ殿は後軍に。金ユ信!!」と新羅王国の総大将を呼ぶと「ハッ」と野太い声が返って来た。「そち達の部隊を二つにわけ一つは大野という所に城を築き、もう一つは郭務ソウとともに進軍して早急に城を築け。それと郭務ソウ殿を倭州鎮将都督として賊を討伐せよ」と命令を下してそれぞれ下がった。「さてわしは刺史様(劉仁軌)に報告せねば」と百済への帰途へとついた。
663年、長門城、そこで葛城皇太子の簡易な即位式が行われた。阿倍御主人は「すでに大倭国は無く、陛下は囚われの身となりました。これからは殿下が王ではなく帝位におつきください」と進言した。御主人からすれば自らが日本の主になる絶好のチャンスだったが、単独で唐軍と戦う無謀性を考えとりあえず彼を囮にする事を計画した。
葛城皇太子はその進言に対して冷徹な目を向けながら自信満々に「そうだな。だがただの皇帝では面白くは無い。我等は天命を受けた特別な存在、すなわち天の皇帝、天皇と名乗る事にしよう。そして国号の忌々しい大倭国ははずし、日ノ本、日本としよう。唐の恩人に対しても皇帝とは名乗っていないし、一字国号ではなく蛮族の二字国号を名乗っている事からいくらでも言い訳が出来るという面もあるしの」と語った。「御主人!!」と呼ばれて御主人は「ハッ」と短く答えた。天皇(天智天皇)は「御主人には臣を与え、同時に小織を与える。飛鳥まで逃げるが、とりあえず軍勢のある吉備まで行くぞ」と言うと出立した。
その後は激戦の連続だった。符を兵士として使役するまでの力に至っていない御主人は、それでも見せ兵としての役割は充分に果たしたと言える。だがそれも大唐軍に見破られた攻められる事になった。落とされた城は朝鮮式山城として新羅兵によって改良されて守備兵を駐屯させるという手堅い方式で徐々に追い込まれた。茨・常の戦いでは120の兵に大唐軍約2万5千の船団が襲い掛かり、御主人の活躍によって難を逃れる事が出来たが80の兵が無くなった。辛くも逃れた天皇一行は何とか吉備王国に駐留させていた2万の兵と合流し、徐々に後退しながらも相手に損害を与えつつ交渉を行った。
思わぬ抵抗を受けた大唐軍に、司令官の劉徳高は一計を案じた。5千の兵を山陽道から畿内に向けて強行軍で進軍させ、畿内各地に対して大唐軍に呼応するように使者を派遣した。この要請に、失脚した摂津の元小織中臣連鎌子、小錦上津守連嶋麻呂、南東河内を実質的に支配している大山上錦織連針魚等が呼応した。5千の兵の内、500の新羅軍に高安城を作らせて兵を駐屯し、錦織連針魚が竹内・平石・水越・千早の4峠を封鎖して飛鳥への道筋を完全に絶った。
これを見た天皇・御主人も軍を二手にわけ、一軍は天皇・御主人が指揮して神崎の津に注ぐ川から、もう一軍は大海人皇子が指揮して河内湖から淀川を遡上した。神崎の津ルートの天皇・御主人の軍は途中の淀川で中臣連鎌子軍と会戦したが、河内湖経由の一軍が合流して挟み撃ちした事と御主人の呪術・勇猛な大海人皇子の活躍で大いに打ち破って山城から山科を経て近江に逃げ込んだ。そして、再度和睦交渉を持ち込んだ。
対する唐側も遠征先で兵が疲れている上に軍を養うだけの食料を調達出来ず、道士側も霊山程度の階位で聖祖大道玄元皇帝こと太上老君の加護を得ているとは言えない状況だった事、飛鳥では大将軍大錦中阿曇連比羅夫や小錦下大伴連馬来田が頑強な抵抗を見せて押され気味だったので、劉徳高は交渉に応じて進軍を宇治で止めた。10月に入ったばかりの頃である。そこで駐屯して大々的な閲兵式を行った。
11月には大まかな交渉がまとまり、12月には大唐の臣下となる事、駐屯軍の駐留を認める事、九州や吉備出雲王国の領有権を放棄する事で合意し、財物を献上して日本滅亡の危機は免れたのであった。
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「あーはははは」、謁見の間から大きな笑い声が聞える。その音を聞いて「はぁ」と思わず溜め息が出てしまう。何故この様な事になってしまったのか? 大海人皇子はもはや兄が自分の地位さえ安泰ならそれで良いと思っている、としか思えない。さらに女性の淫靡な声も聞え始めて、もはや聞いてもおれずに宮中から退出して屋敷に帰った。
屋敷から帰ると正夫人で兄である天皇(天智天皇)の娘ウ野讚良皇女が出迎えていた。「おかえりなさいませ。あなた、小織阿倍臣御主人様、大錦上阿曇連比羅夫様、大錦下大伴連馬来田様、小山上三輪臣安麻呂様、小山中尾張連花香様、そして広瀬・竜田に仕える神職の方々が既にお待ちになっております」と言うと、大海人皇子は「うむ。そちは席を外すか?」と夫人を労わるように気遣いながら問いかけた。
ウ野讚良皇女は夫の眼を見据えて「いえ、大丈夫です。妾婦は生まれては親に仕え、嫁いでは夫に仕えよと言います。元より覚悟は出来ております。それに妾としても、もはや父や弟の横暴に我慢がなりません。この様な事は一刻も早く終わらせるべきです。あなたが兄殺しの汚名をかぶるなら、妾は父殺し・弟殺しの汚名をかぶりましょう」と力強く語った。
天智二年(663)、近江に逃げ込んだ一行は正式に和睦した。そして一度も飛鳥に帰る事もないまま天智六年(667)、正式に近江に遷都するとともに天皇制の確立や国号の制定をおこなった。ちなみに近江に逃げ込んだままという事実には緘口令がしかれ、一度飛鳥に帰った後に遷都をおこなったという事になった。
ちなみに麟徳二年(665)、南朝鮮・日本の大総督である劉正則(仁軌)は、高宗弘孝皇帝が封禅の儀を行った際に新羅・百済・耽羅・倭四国の王を引き連れて参加し、大司憲楽城県男(男爵)に封じられた。この出来事が日本に伝わるや、日本の都督代理として居座った郭務ソウやその都尉である智尊とともに上京して毎年の様に大宴会、近江に遷都した頃にはそれが大々的になっていた。天皇(天智天皇)や大友皇太子を筆頭として左大臣蘇我臣赤兄や右大臣中臣連金等が唐の文化に魅せられ、さらに封禅の儀を伝えるために来日した劉徳高は大友皇太子を見て「このような素晴らしい人物が王位についたら、聖人の世が訪れる」と言われた事から近江朝廷は有頂天になった。その一方で民間では唐の奴隷商人達が来日して、兵とともに大量の女子や子どもを性奴隷の為に、若い男を労働奴隷の為に賠償金として輸出して巷には怨嗟の声が満ち溢れた。
天智七年(668)の事、大海人皇子とウ野讚良皇女が参内した時、大海人皇子が「兄上、毎日の様に唐の蛮将とともに飲んでいるようですが、民は困窮にあえいでおります。なにとぞ身を律して、兵の蛮行をやめるよう要請していただけるようお願いします」と言うと、横から左大臣蘇我臣赤兄が出てきて「これは殿下、違な事を仰られます。そもそも子の教えでは奴隷や奴婢は認められておりますよ? それに女子もあのような素晴らしい国の子どもを産ませていただけるのならむしろ感謝してほしいものですな」、ははははと笑いながら言ったのを聞いて愕然とした。
横に控えている漢人の智尊に耳打ちされた大友皇太子はニヤニヤと笑みを浮かべながら、「まあ、そう言うてやるな赤兄よ。叔父上は私の様な徳を持てない事に嫉妬を抱いているのだ」と言って二人で爆笑した。だが夫人のウ野讚良皇女がそれに激怒し、「民を思いやらぬものに何が徳ですか!! 父上も大友もこの朝廷も最早狂っているとしか思えませぬ」と発言した事で空気が重くなりギクシャクしはじめた。
ちょうどその頃大山中大伴連吹負は、度重なる天皇と唐軍の暴虐ぶりに憤慨して他の家とは違って当主代理の兄を大海人皇子の元にやり、自分は飛鳥・吉野の二箇所に行在所を作ると共に河内の倭漢直老や錦織連等を味方に引き入れ、ついには河内国守来目臣塩籠までもを味方にして着々と挙兵の準備をしていた。
その頃阿倍臣御主人は大倭国崩壊後も難波に居住していたが、彼も天皇のあまりの大唐べったりの態度には辟易していた。そこで阿倍引田臣比羅夫や息子の阿倍布施臣広庭等を呼ぶと、そこで阿倍氏として大伴吹負に呼応して味方する事を明言した。その一週間後、今度は大海人皇子となんとウ野讚良皇女の連名の令旨が来た。そこには飛鳥、その後吉野の方まで身を隠すという物であった。この行為に天皇は激怒して誅しようとしたが、結局飛鳥を監督させる事にした。何故ならやらせる事がいっぱいあるからなのだが、最も重要と思っていたのは民政ではなく天皇陵であったというのは天皇らしい。
天皇は大海人皇子・ウ野讚良皇女に対して認める変わりに、天皇陵の内、河内国古市にある欽明天皇陵を改装して飛鳥に移す事、推古天皇以降の天皇陵は全て飛鳥近辺から追い出してゴミ集積場として竹内峠近辺(大阪太子町)に移す事等を命じて、これには大海人皇子も応じた。そして欽明天皇については別の諡号があったが、天に選ばれた国を押し開いて作ったという事で新たに『天国排開広庭天皇』を贈った。その一方で敏達天皇陵を巡っては皇祖を冷遇したとはいえ実の父であるから移すのはどうかとなったが、やはり皇祖はあくまで敏達天皇の後継者ではなく欽明天皇の後継者であるという事でゴミ集積場行きになった。
さらに時が過ぎて天智十年(672)、阿倍臣御主人が阿倍引田臣比羅夫とともに飛鳥行在所を訪れると、そこには大伴兄弟・倭漢直老、そして広瀬・竜田の呪術師集団が居た。ひとしきり挨拶を交わした後御主人が「これはお早いお着きで。と言いますか、何かあったのですか?」と言うと、ウ野讚良皇女が嘆息しながら「来月、父が山科で極秘に単独で馬乗りをするそうじゃ」と語った。その言葉だけで何を言わんとしているか? は察する事が出来た。大伴吹負は「やるんなら俺の所の伴部から出しても良いがこういう仕事は老、お前の分野だな」とふざけながら言ったところで、比羅夫は冷静に皇子・皇女に対して「本当によろしいのですか? 殿下にとっては兄であり父でありますが?」と尋ねると、大海人皇子は目をつぶって沈黙していたがその横でウ野讚良皇女は「妾はもはや彼の人を父とも思わなければ主とも思いません。知っていますか? 彼は庶民だけでなくて貴族や我等の娘や息子まで渡すよう通達がありました。なんでも大唐や新羅に奴婢として仕えさせるとか。近江朝廷の者は生かしておいてはなりません」と力強く語った。阿倍御主人はため息をついて、「それでは、せめて天皇の最後にふさわしく血を流さないやり方でやりましょう。吹負殿、見届け人に誰ぞ選んでくだされ」と頼むと、大伴吹負は軽く手を挙げて「任せとけ」と返した。
そこで広瀬・竜田の呪術師集団を束ねる男から御主人に対して、「その様な生ぬるいやり方でよろしいのですかな? 我々なら病にして七転八倒の苦しみを与えますがな」と問いかけたが、御主人は「それは聞き捨てならんな。天皇は神聖にして不可侵、それに対して害するだけでなくその位としての尊厳すら踏みにじる様な行為を平気でしろとは、お主たちは何やら危険な匂いがするのう」と少し仙気を出すと宮司集団はたじろき次の言葉が出なかった。そして天智天皇の処理については決定したのだった。
天皇十年(671)、日頃のストレス発散の為に一人で山科において馬を走らせていたところ、上空より巨大な手が出てきて天皇の襟首を掴んで空へと消えていった。後に靴が片方落ちていたのを捜索隊が見つけたが、結局天皇自身は見つからなかった。そこで崩御したものと見なして大いに葬礼をおこなった。諡号は天命を開いた英雄的な天皇ということで『天命開別天皇』と贈られた。もちろん大海人皇子夫妻も同意して。陵は消えた地である山科とされた。
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そして天皇元年(672)、大友皇太子が即位し、百官はそのままとした。朝廷では先代の崩御に関して大海人皇子夫妻に真偽を問いただすべきだという意見と、犯人は夫妻なのだから兵を発してただちに討伐するべきだとする意見で別れていた。左大臣蘇我臣赤兄と大夫果安兄弟は慎重派、右大臣中臣連金と大夫巨勢臣人は強硬派だった。
だが意見がまとまらないまま時が過ぎた6月、兵を集めるために皇子夫妻及び元大倭国皇族宗像徳善の娘で妾との間に生まれた長男高市王が東に向かったのを機に大伴吹負が倭漢直老と共に挙兵した。朝廷側の穂積臣百足を斬り殺して穂積臣五百枝と物部首日向を捕虜にした。これを聞いた朝廷側は新羅王国級伐サンで倭国都督府配下壱岐島占領軍トップの壱伎韓国を唐・新羅兵連合軍の将として河内国に派遣した。強姦になで斬り、進軍の後には草木も生えない状態である事を告げられた河内国守の来目臣塩籠は、皇子側につく事を決めるもそれを察知した壱伎韓国がたちまち古市の北にある国司館を囲んで自害に追い込み、大伴吹負軍とにらみ合う形になった。
一方皇子側は長男の高市王を伊賀にやって伊賀を服属させたが、その伊賀に向かうか伊勢に向かうかで頭を悩ませていた。阿倍臣御主人は広瀬・竜田の神人衆を呼び出すとこう言った、「伊勢は大国ゆえそち達には少し泥を被って貰う」というと両衆はいぶかしんだ。代表が「一体どういう事ですかな?」と問われた御主人は「そち達の神と伊勢の神は同一という事にしてもらおう。なに心配するな最高権威になれはしないだろうが、陛下が一々神を祀るために伊勢まで行けるはずも無い。そうするとそち達は名こそ取られるが、実はそのままじゃ。そうまでしなければ、この戦は負けてわしだけでなくそち達の命も危ないからな」と言われて仕方なく頷いた。
返事を受けた御主人はすぐさま皇子夫妻の元に行って進言した、「陛下、伊賀か伊勢かを悩まれておられるなら速やかに伊勢にいかれませ」と進言すると、「何故か?」との返事が返って来た。御主人は「伊賀は高市王殿下が持ち前の有能さを発揮して完全に抑えております。ですが伊勢は大国にして、未だその態度をはっきりさせていません。大鹿首は元を正せば皇祖母様であられる糠手姫様を生み出した氏族、息長足日広額天皇様がご即位出来たのも大国伊勢が背後で支えていたからです。同時に大鹿首殿にとっては朝廷側も血族、そこで大鹿首殿にはこう仰られると良い。朝廷において最も尊い神として伊勢の神を、天皇家は伊勢の神の子孫とすると」と答えた。皇子夫妻は「そちもそういう占いが出たのか。実はわしの方にも同じ占い結果が出た」と聞いて御主人は驚いたが、それなら話は早いとさっそく着手するのだった。
日本が動乱に揺れていた頃大唐軍の情勢も変化してきた。668年には念願の高句麗を新羅と連合して滅ぼしたが、新羅王国は大唐帝国から受けた恩に対して、「恩? そんなものは知った事ではない。敵を利する行為をおこなった相手側にこそ非がある」として軍勢を引き払った頃を見計らって同盟関係を破棄、統一に向けて力を注いだ。結果として倭の都督府は半分孤立状態の形になり、反対に新羅王国は殆んど何も働きもないまま戦勝国という果実だけもぎ取るように九州にも新羅兵を駐屯し始めた。
大伴吹負軍とにらみ合っていた壱伎韓国軍は、漢人将軍のみを次々と処刑して九州駐屯の新羅軍からの応援を待った。その隙をついたのが引田比羅夫である。引田比羅夫は住吉連や難波忌寸等の軍を引き連れて背後から兵を挙げた。「売国奴は全て殺せ」、冷徹な司令や自身も縦横無尽の活躍をした。大伴吹負は好機とばかりに壱伎韓国を徹底的に撃破して、壱伎韓国を追い詰めた。壱伎韓国は「この倭奴隷風情が、わが新羅帝国皇帝陛下への冒涜にあたるのだぞ!!」と苦し紛れに発言したが、吹負は「黙れ!! 日本は日本人の物。お前達の欲望のはけ口に使われるために存在するのではないわ!!」と一喝して首を跳ねた。
一進一退を続けていた両軍だったが、皇子側のその後は順調だった。伊勢を味方に引き入れた後、美濃国司少子部連サヒチに対して天智天皇の偽造した遺言と大友皇子が反乱を起こした事を告げた。実直なサヒチは激怒して一も二もなく味方になる事を表明した。
一方の御主人は朝廷側のある人物と会っていた。その人物は御主人を見ると恭しく礼をとって「おひさしぶりです」と挨拶した。御主人はその人物を見るとおもむろに「ひさしいの。さて今回の用件じゃが、実はお主にはある仕事をして欲しいのじゃ」と語った。相手は苦笑しながら「あなたの立場からすると大体解かります。ですが、私の様な舎人一人裏切っても大勢に影響は無いでしょう。それほど強い一族でもないですし」と吐き捨てるように語った。それに対して御主人は「やれやれ、お主は勘違いしておるようじゃの」とため息まじりに語る。「勘違い?」と疑問を浮かべる顔をして問うと御主人は「そうじゃ。わしはお主にこちら側につけ、と言うておるのではない。背後から大友皇子の首を斬り落とせと言うておるのじゃ」と語った。
その言葉に相手は驚愕の表情を浮かべて、「殺せ・・・・ですと? 陛下を?」と信じられないような顔をした。じゃが御主人は「陛下? 天皇ではない。正統な天皇は我々の陛下のみ、奴はあくまで大友皇子殿下、いや賊軍となった今はただの某じゃ。そして賊将を討ち果たしたお前には、当然陛下の御世で栄誉栄華望むがままになるじゃろう」と提案した。しばらく逡巡したが相手は「それはまことでございましょうな?」と聞くと、うむと頷いたため「では、汚らわしき賊将某はそれがしの手で討ちましょう」と同意した。御主人はニコニコして「では頼みましたぞ、物部麻呂殿」と言ってその場を立ち去った。
7月、瀬田橋の戦いは熾烈を極めた。近江朝廷率いる唐・新羅軍と、日本独立の為に戦う皇子側で一進一退の攻防を繰り返したが、その戦いは突如として終わる。物部麻呂が天皇の首を背後から斬り落として皇子側に寝返ったのだ。これを受けて軍勢は瓦解、かくして後継者争いは近江朝廷の天皇を殺害して幕を閉じたのであった。
次回はプロローグ最終章
沒落と復興