王位争いと滅亡
「やれやれ、唐突にこの様な話を持ってこられてもな」、かの阿倍鳥の息子で既に老齢の身である阿倍内麻呂は難波の邸でうんざりしたような顔をした。父祖代々の任地であるこの畿内において統治を任されている自分に、よりにもよって政変の手助けをせよとはかの男は豪胆としか言い様がないと思った。
父の鳥より代々我が家の言い伝えを聞き、さらに父から正統な大倭国の国主の地位を再び阿倍氏の手に戻す事を遺言された。その野望の為にも飛鳥王国の兵は欲しかったのだが、如何せん飛鳥王国はあいも変わらず王位争いに明け暮れて全く安定せずに使い物に全くならない。
今日尋ねて来た尋ねて来たその豪胆な男軽王子(孝徳天皇)も腰ぎんちゃくの様に暗躍の真似事をしている中臣鎌子とともに、自分の政権を認めるよう要請してきたのだが、政権が本当に安定しないこの現状で果たして力を貸すことに意味があるのかと頭を痛めている最中だ。
そもそも豊御食炊屋姫女王は蘇我馬子とのコンビで安定政権を築きあげたが死後、山背王子が王位継承を要求してきてにわかにきな臭くなった。山背王子は秦という大金持ちの豪族の力を背景に積極的に運動を展開していた。だが世間を最も驚かせたのは山背王子は常日頃蘇我氏が政治を壟断していると批判しておきながら、なんとよりにもよって蘇我蝦夷大臣の邸に赴き自分は蘇我氏の血を引いていると宣言し、蘇我氏の為に政治を行う裏取引を持ちかけた事だ。
だが自分で発言した通り母は人臣で、さらに祖父は王位僭称者のレイプ魔というのは体裁が悪すぎた。反対に日頃自分の意見を取り入れた蘇我蝦夷大臣は年長主義ではなく大陸の嫡流主義こそ正統として、渟中倉太珠敷王の正統な後継者であった押坂彦人王太子と異母妹糠手姫王女の間の王子である息長足日広額王(舒明天皇)を即位させた。そして薨去した後は皇后にして同じく押坂彦人王太子の孫娘にあたる天豊財重日足姫王(皇極天皇)が女王として即位した。
「父上、軽王子は豪胆と仰いましたが、かの人物はどれほどのものでしょうか?」と息子の御主人が尋ねると、内麻呂は「軽王子は豪胆で先進性に富む人物じゃな。山背王子の反乱を覚えておるか?」と尋ねる。「ええ、もちろん。王位継承争いに敗れた山背王子は反乱を起こした事件ですよね? 人目につかない所では、かねてから斑鳩寺に軟禁していた一族や馬等を生贄にして太元帥御修法を行って民もろとも殺そうとしたとか。幸い父上が止めた事で未遂に終わりましたが」と答えると、「その通りじゃ。実はその事を知っておる者は少ないが、討伐軍の中に知っていながらあえて先陣を切ったものがおるのじゃ」との父内麻呂の言葉に御主人が驚き、「まさかそれが軽王子だと? もしそうならクレイジーとしか言えませんな」と思わず唸る。
御主人は「そのような王子なら、蘇我氏を滅ぼそうと決断するのも頷けますな。ですが、彼の何がこの様な決意をさせたのでしょうか?」との質問に内麻呂は「王子には何も残らないからじゃよ」と語った。どういう事かといぶかしむ御主人に内麻呂は「王子は先進的な人物には間違いない。だが若年ながらそれ以上に先進的、いやあそこまで行けばカルトと言うべきか。そんな人物が居てのう」との言葉にそれは誰か?と御主人が尋ねる。
「女王様の子息である葛城王太子と大海人王子じゃ。この兄弟は常日頃自分には天命が降りていると言っておっての。まあ両親が即位したという事例はあるのじゃが珍しい部類じゃし、父親の先代の王も両親は王族、そして母親の現女王様も両親が王族、これは非常に珍しい事でのう。しかも息長王子家や外国の吉備王家がついておる。そして祖父を王祖大兄として母方の祖母を王祖母尊とする事を献策して認められたのじゃ。それを契機に自分達は新王朝、つまり押坂王朝であり嫡流による継承は当然と宣言したのじゃ」と内麻呂は言葉を吐く。
御主人はしばらく考え込むと「今までの王位持ち回り方式とは違って安定化に導く大きな手法ですが、王子本人にとっては継承の目が完全に費える。それを潰す為には政権を支えている蘇我を滅ぼす、ですか。確かに豪胆な男ですな。しかしこの二人は、ある意味サチヤマにとっては脅威になるでしょうなぁ」とにやけるが、「これ、陛下と呼ばんか陛下と」と笑いながら叱責した。「まああの王子は蘇我馬子を尊敬しているようじゃから苦渋の決断ではあるじゃろうがの」というと、御主人は「で、父上はこれからどうするのですか?」、そうじゃのうと悩む。悩んだ時は占いに限るとばかりに、これから取るべき道を占った。
女王四年(645)、軽王子は中臣鎌子とともに兵を挙げて宮中に押し入り蘇我入鹿を殺害した。同時に分家の石川麻呂とともに蘇我宗家を滅ぼし、難波にて軽王子は即位して天万豊日王となった。結局阿倍内麻呂が決断したのは、難波の土地を提供はするが強いて争いには介入しないという消極的な物だったが、息子の御主人には常にチャンスをうかがう様に固く言い聞かせていた。。天万豊日王は詔を発して、その中で聖徳太子こと斑鳩王子ではなく蘇我馬子を挙げて「馬子にならって仏法をおこさんとす」と発言した事に、尊敬する人物の家を滅ぼさざるを得なかった苦悩が見える。さらに自分の息子有馬王子を太子として、初めて元号を制定して大化元年とする等改新をおこなったが、女王はこの簒奪に抗議、二朝並立となったのであった。
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「ぐずぐずせずにさっさと来い!! すぐに兵を送らねば、この戦いの後はそち達を滅ぼすぞ!!と命令して急がせろ」、アヤケミ帝ことサチヤマは苛立ちながらそう言い放って使者を出発させた。大徳の地位についている皇族のトクゼン(宗像徳善)は御前に出て「恐らくは出雲国や吉備国、飛鳥国も兵は送ってきますまい」と諦め顔で諫めた。「いや、そんなはずは無い。事実飛鳥国の女王は既に吉備王国まで来ているではないか」と反論するが、トクゼンは「それは日和見主義ですじゃ。恐らくはぐずぐずと進軍を遅くしているようじゃ、諦めるしかないのかも知れませんのう」と諦め顔で語る。「おのれ~ この戦で勝利を挙げて後、阿倍御主人も飛鳥の女王や出雲吉備もともに滅ぼしてくれるわ」と悔しげにはきすてた。
大倭国及び朝鮮半島は緊迫の状態にあった。飛鳥の女王(斉明天皇)十五年(660)年、長年属国であった百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた。大唐帝国は朝鮮半島には介入しないだろうと思われていたが、百済王国が高句麗の同盟国であった事が仇になった。しかも大唐側も今回は本気のようで、突厥帝国攻めで帝国の分解や中央アジアの安定に大いに貢献した元勲のケイ国公蘇定方(烈)を総司令官とした。かの名将の巧みな用兵によって新羅軍は使い物にならなかったが、大唐軍だけで瞬く間に百済王国を滅ぼし義慈王・太子が降伏したのである。これを受けて大倭国は鬼室福信の献策で豊璋王を擁立して百済王国を復興した。
一方日和見と思われた飛鳥王国は実は重大な局面に立たされていた。遠征の途上吉備王国において、優柔不断で気弱な王を差し置いて女王(斉明天皇)は一方的に兵を徴発し、その数二万あまりにまで達していた。ところが女王は篤く石人を信仰しており、遠征途上でも巨大石人を作る等時間を浪費していたがその途中で病にかかり重篤になってしまった。
阿倍御主人はハァと嘆息しながら「最後まで困ったお方だ。太子様、どうしますか? 無理にでも薬を飲ませる事は出来ますが」と聞いた。葛城王太子(天智天皇)はしばらく考えるそぶりを見せたが、おもむろにその冷徹な目を向けて「無用だ。母上は薬を拒まれていた。それならその意思を尊重するまでだ。おっと、そろそろ石人様へのお祈りの時間だ。では、これにて失礼する」と言って出て行った。傍らでその言葉を聞いていた大海人王子(天武天皇)は悲しげな顔をしながら、「母上はもう長くないのか? 」と聞いてきたので阿倍御主人は「残念ながら長くは無いでしょう」と宣告したため顔をうつむかせながら退出した。その後、女王(斉明天皇)は女王二十一年(661)に薨去した。
さらに時が経ち663年、一つの国が表舞台から消えようとしていた。鬼室福信によって百済は一時的に再興された。だが今回の総司令官が大唐軍の元勲蘇定方(烈)ではなく熊津都督劉正則(仁軌)にだった事から緊張が一気に緩んだ。百済王扶余豊璋は名将鬼室福信を殺害して大混乱になり、元百済太子扶余隆が豊璋の暴虐性を大々的に吹聴した事もあって百済遺民の兵士の間に同様が広がった。そして運命の海上戦、白村江の戦いにおいて大倭国・百済連合軍は大敗。「ただひたすら突っ込めば勝てる」というなんともずさんな戦略であった。
阿倍御主人は「唐軍が侵攻して来るぞ」との言葉を聞いてあたふたしている宮中を横目に謁見の準備の為に静に歩いている。謁見の間に近づくと「我風公旡 以五行精気 為隠形」と隠形の術を唱えて姿を隠しながら、謁見の間に忍び込んだ。そしてあちこちに札を貼り付ける。「万が一と兵を呼ばれると言う事もあるから、人払いの呪符を張っておくか」等と思いながら手の平に符の束を持つと、まるで風が吹いたかのように札が巻き上げられるように勝手に張り付いた。
先導しているのは大徳のトクゼン(宗像徳善)、後には葛城王子とトクゼンの娘婿大海人王子の二人が言葉も発さず歩いている。「この国ももう終りだな、だが軍の力では飛鳥王国には未だ及ばない。それにいくら私が天師級の力を持っていたとしても一人で戦うのは無理。せめて私に一軍を動かせる力があれば、再び我が家の栄光をこの手に出来たものを」と御主人は一人憤慨していた。
謁見の間へ入るとトクゼンは伏礼して三人を連れてきたとサチヤマに報告した。入ってきた御主人は密かに人払いの呪を施した後拝礼し、大海人王子は拝礼したが伏せず、葛城王子は驚いた事に拝礼もしないまま立つだけだった。サチヤマはこれに「無礼者!! 朕を誰だと思うておる」と激怒して言った。御主人が喋ろうとするのを葛城王子が手で制してその冷たく何の感情も無い瞳を向けて「無礼者はあなただ。あなたは既に罪人でしかない。無謀な戦を行い外交を疎かにしたあなたには帝位はふさわしくない」と嘲笑しながら言った。
「な、なにを・・・・・・」と言葉を詰まった所で阿倍御主人は「往生際が悪いですね。この国はもう終わったのですよ。同じ一族として私は悲しいですね、せめて最後ぐらい潔くしましょうよ」と突き放した。トクゼンは黙って俯いたまま、サチヤマは怒に顔を真っ赤にしながら「うるさいうるさい、穢れた血が。まあ考えてもみれば、穢れた血が蛮族の飛鳥と手を組むのも道理だな。今日のところは朕の恩恵で見逃してやるから、せいぜい傷でも舐めあっているんだな」とはきすてた。
あまりにも現実を見据えていない物言いに御主人は呆れたが、このような痴呆に反論しても仕方が無いと思い黙っていた。だが葛城王子は「穢れた血? 蛮族? それは貴様だ無礼者が。私は祖天国排開広庭天皇(欽明天皇)の後継者である押坂皇祖より天命を受けて帝位についた者。貴様の様な人間の世界に留まっているだけのちっぽけな存在とは違う事を知れ」と嘲笑しながら言い放った。最早この場に居る必要もなく大唐軍が迫ってきている事を阿倍御主人が告げると、「臣筑紫君サチヤマよ、貴殿の幸運を祈る」と言葉を発すると踵を返して出て行った。
その後、御主人と大海人皇子はトクゼンに逃げるように説得したが、トクゼンはそれを拒否して最後まで忠節を尽くす意思を示した。663年、郭務ソウは九州に上陸して進撃をつづけてついにサチヤマら群臣百官を捕縛、ここに大倭国は滅亡したのであった。
次回は壬申と独立戦争です