阿倍鳥という男
会談の日、早目に用意して待っていた。しばらくすると使用人が現れて「お連れしました」と言うので鷹揚に頷いて登場を待つ。そして目的の人物が部屋に入ったが、その男を見て非常に驚いた。裴子郎はこれでも名門裴家に連なる者としてそれなりに衣服を着こなしていたが、その者は漢人以上に漢人らしい風雅な装いをしていた。そして香を炊き込めているのか、仄かに甘い香りをしていてこの様な未開の国にこの様な人物が居るのかと思った。
その目元の優しげでかの偽朝である斉の蘭陵王を思わせるような優雅なその男は拱手の礼を取ると、名前を名乗った。「お初にお目にかかります。大倭国の東の領地の軍尼長、まあ貴国で言うなれば貴国の元の王朝での十二大将軍というところでしょうか? 今で言えば鎮戍でしょうかね~」とびっくりするような博識ぶりをさりげに披露しつつウンウンとうなる。少し間を置いて「ああ、申し訳ないですね。とにかくそのような役職に任じられている阿部鳥と申します。この度は暇をいただきありがとうございます」と紹介された。
呆然としていたが慌ててこちらも礼をして「私は裴子郎と申す者、よろしくお願いします」と紹介する。「名門裴家の方が御使者とは大変でしたでしょう。それでなくても南北に別れて色々おありでしたでしょうから」とちょっとした世間話から始まり、いえいえそれほどでもというありきたりな挨拶を繰り返した。
しばらくして「失礼ですが、あなたは幾分毛並みが違うようにお見受けしますがどうしてなのでしょう? ひょっとして貴殿の居る東方では皆こちらの風俗に似ているのでしょうか?」と質問してみると予想外の答えが返って来た、「いえいえ、皆が皆というわけではありません。もちろんそういう人も居ますが、我が家の伝によると先祖は父祖は魏末に一時的にこちらに来た漢人、母祖に当たるのが当時まだ大倭国が邪馬台国と呼ばれていた時代の女王をしていた人でしてね。それ以来貴国の先進的な物を学ぼうという気風が代々受け継いでいるのですよ」と。思わぬ答えに驚いていると鳥は苦笑いしながら「おかげで、こちらでもあちらでも煙たがられていますよ」と言った。
「ははは、それは大変ですな。貴殿の苦労が偲ばれます。」と半ば同情的に言うと、嬉しそうな顔をして「いやあ、そう言っていただけるとありがたい」と声をはずませる。そこで裴子郎はすかさず「貴殿の任地はどの様な状況ですかな? 統治には苦労されておられるのでしょうな」と言うと、阿倍鳥は少しいやらしい笑みを浮かべながら「おや? 間者の真似ですかな?」と突っ込んだため慌てて否定した。
「あちらはしょっちゅう揉め事で大倭国の威光を使って調停の連続ですよ。飛鳥王国という国なんですがね、任地先の地域をあら方統一した強国なんですがね」と疲れた顔で言う。「それほど酷いのですか?」と興味を持って問いかけると、「過去には池辺王子という者が兄王(敏達天皇)の娘で未婚の斎宮を犯す、兄王が薨じた途端勝手に橘豊日王(用明天皇)を僭称して混乱させる、彼一人でこれですよ? まあたまたますぐにお亡くなりになったのですが」と疲れた顔を見せた。だが南北の戦乱の記憶新しい彼にとってはこれが疲れるという程のものなのか? と思う。これがギャップと言うやつなのだろう。そんな益体もない事を頭の中でグルグル周っている最中にも彼の不満はさらに続く。
「池辺王子の同母兄に穴穂部王子というものが居ますが、今の女王 豊御食炊屋姫王様(推古天皇)が先々代の王后であった時にこれまた犯そうとしました。まああの兄弟は札付きでしたね。女を犯す事になんの罪悪感も感じないという具合でしたな。まだまだありますよ? 三輪山という山があるのですが、この山が代々王家の信仰の山でしてね。この山の大地と蛇神の信仰を守るべきだ、という一派と、代々伝統的な豪族閥から漢人は仏法を信じているから仏法を広めるべきだという珍説をくりだす一派が現れまして大戦になったってのもありましたね」、と疲れたようにかたる。
「漢人が仏法を信じている、ですか・・・・」と呟いて裴子郎は首をかしげる。確かに仏法はそれなりに盛んではあるが、多数派どころか政治として動かすだけの力を本格的に持ち始めたのは陛下の御世になってからだ。かつては南北それぞれで偽朝の皇帝も含めてまれに仏教を押し付ける事があり今も陛下が同じ事をしてはいるが、やっと少数派という言葉を手に入れた程度だ。自分達はやはり子の教えや、それとは反対に神仙医学の道に進むのが殆んどだ。たまに遠くから経典なる物を持ってきて皇帝からお褒めの言葉を貰っているが、あれとて本当に理解した上での事なのか非常に怪しい。いや、というよりはほぼ間違いなく神仙修行で仙人に近づいた、と思っていると言えるだろう。
と、考えているうちに、阿倍鳥がさらに言葉を続ける「全くこういう不毛な議論、いやそれはあくまで名目であって本質は王位争い、こればかりが続きますよ。今の女王様は見事な治世でバランスを取っているし、中途半端な漢人の知識しかないとはいえ蘇我馬子という男は漢人式で見事な差配をしているので安定していますが、二人が亡くなればどうなる事やら。またあちらと筑紫の往復かと思うと」とはあとため息をつく。
ふと疑問に思い「なぜですか? 先々代との間に子どもは居ないのですか?」と聞くと、阿倍鳥は「それが竹田王子という優れた人が居たのですが、先代の泊瀬部王(崇峻天皇)に殺されましてね。私も期待していたのですが」とがっかりした風を見せた。そして「今では蘇我馬子の娘婿で仏法派の末席にある斑鳩王子と、馬子の孫にもあたる息子の山背王子が、秦河勝という食わせ物と組んで後釜を狙っているというわけですよ。しかも山背王子は非常に血気盛んでしてね」これは相当荒れてるな、と思い鳥の苦労を思いやったがすぐに思い直して、「おめでとう。これで大倭国アハケミ帝の治世は磐石ですな」というと、阿倍鳥は首を横にふり「それが今回会見を求めた本題の一つです」と語る。
裴子郎は首をかしげ「私に何か頼みでも?」と尋ねると、「まあ私の頼みというかお願いの前に、貴殿に関係したお願いがあります。貴国が行おうとしている高句麗征伐ですが、恐らく止める事は不可能でしょう。子郎殿は古の文化を代々受け継いできた名門の家の方、出来ればそういった家に対して身の安全を第一に考えて巻き込まれぬよう言うてくださらぬか? これは文化存続の為に必要な事なのです」、唐突にそう言われた事で混乱し「ちょ、ちょっと待ってください!! 貴殿はこれが失敗すると仰るのですか?」と尋ねるとうむと頷いた。
阿倍鳥は憂鬱な表情をしながら裴子郎に語る、「高句麗攻めは現在の天意には沿うていません。と言いますか、天意は天朝の天命が尽きている事告げています。再び革命が起きるでしょう」との言葉に裴子郎はうろたえながら「それは何を根拠に?」と質問する。するとしばらく阿倍鳥は「昭明星が海の向こう坎の亥(北北西)の方角に出ております。これは兵が起こり変事が起こる印です。また占いによるとその歳、月に金星が隠れその地に災いをもたらすと出ました。また西の地において帝星が賊星に犯され、その後歳星が鶉首の側を通過し、老君の世が訪れるだろうとありました。これをまとめると恐らくは高句麗遠征によって変事が起こり、天朝は高句麗に敗れた後、帝が賊に殺害され、そして鶉首の地にある者、私の見立てでは恐らくは唐国公殿(李淵)に天命が下ると思われます」、あまりにすらすらと出るそら恐ろしい予知に身震いをする。
というか、同時に裴子郎は予想外な結論に驚き「ちょっと待ってください。易姓革命が起こると言いたいのでしょうが、それがよりによって唐国公閣下(李淵)ですか? 確かに二聖と言われた皇后様の一族外戚ですが、だからこそその様な近しい関係に天命が下るというのは不自然ではないですか? それに非常に無礼な発言ですが、唐国公閣下は貴きお方ではある物の所詮は八人の貴き方の中で一番下。どうみてもこの二つがネックになっている唐国公閣下よりも陛下と距離を置き、八人の貴き方の中でも御三家と言われた家の一つの出身である蒲山郡公閣下(李密)の方がよほど可能性があると思われますが」とまくし立てたが、「その様に言われてもこれは天命ですから。しかも家格を言うのなら、今の天朝は元は八人の貴き方どころか十二人の大将軍の家にしか過ぎないでしょ? 天はすでに是連氏ではなく大野氏にしろと仰っているようですよ」とニヤリとしながら言った。蛮人と侮る事はやはりしなくて正解だったと思う。彼はどこまで掴んでいるのだろうか? 今、市井では盛んに唐国公閣下を褒め称える話が飛び交っている事を。
呆れたような目を向けながら「とりあえずはありがとうございます、とお礼を言っておきますよ。それで、私への忠告は本当は報酬の様な物でしょう? 私はあなたに何を提供すれば良いのですか?」と問うと、阿倍鳥はすかさず「ここからは本題ですね。今貴国で唐国公閣下をやたら持ち上げる流言を飛ばしている等不穏な動きをしておられる王子元(延)・王徳広(遠知)の二人と、その裏で糸を引いている張天師(子祥)殿とのアポを取っていただきたい。この国も時期に変革の時を迎えるでしょうから、色々と用意をしておきたくてね」と遠い目をする。
その言葉に驚いた裴子郎は思わず「まさか、この大倭国が倒れると仰るので?」と質問すると、阿倍鳥はそうだと頷く。「あなたも貴族クラスの墓を見たでしょう」と質問すると、裴子郎は「ええ、なんとも珍妙な形の墓ですな。私が訪れる前の知識では大倭国は我々とほぼ同じの円形だと思っていましたが」と言うと、阿倍鳥は頷き「その通りです。ですがここ最近は私の管轄している国が急速に力をつけましてね、その文化に大倭国も侵食されている状況です。この前方後円墳なる墓もその文化の一つなのですよ」と半ば楽しそうに言う。
裴子郎はこの様な稀有な人物にあえて良かったと思ったので一も二もなく了承した。それは良かったと笑みを浮かべながら阿倍鳥が話すと、「いえいえ、今回貴方に会えたのですから良かった。大人しく貴方の忠告に従って長安に逃げるとしますよ」と返した。それでは、と阿倍鳥が立ったので裴子郎も見送りの為に席を立って歩く。
「恐らくもう会う事はないでしょう、つつがなくお達者で」との阿倍鳥の言葉に、遠い異国の地のはずが何故か郷愁にも似た哀しみが押し寄せた。「あなたも」というと深々と礼をした。
翌日には帰路の途についたが、向こうは常に人を蹴落とす事しかしらない人間ばかり。名門の家に生まれながらも常に人と付き合う時はそのリスクがあったが、なぜか異国の地で友人と呼んでも良い存在に不思議な感情が芽生えた。「まだもう少し居たい」、そんな事を思いながら船の上から海を眺めるのだった。
もう2から3話をほど前史が続きます