遣隋使の状況
大業三年(607)のこの年は忘れられない年になるだろう。「日出づる所の天子、日没する所の天子に書を致す。恙なしや」、傲慢無礼な書を天子の前で官吏が読んでいるだろうが、隋の煬帝楊広は顔面がプルプルとふるえて真っ赤になっているだろうし、読み人本人や公卿等は顔を蒼くして大変な状態になっている事は少し考えれば想像付く。だが俺には関係ない、とばかりにどこ吹く風かのような表情でシュブチは鴻臚邸の庭で胡坐をかいて座り、目をつぶってひたすら時が経つのを待っている。
「さあ、どう出る?」、シュブチはこの大倭国の賭けについて身の回りを整理した上で外交官に志願した。シュブチは元は孤児であった。幼少の頃は日々の食べ物にも事欠き、獲物を追って禁猟区に入ってしまった所を捕らえられた。だがそこにアハケミ帝が自分を拾って教育を受けさせてくれ、さらには小礼にまで出世させたもらった。「元より命は捨てる覚悟。そもそもが先代の隋の国主が我々の文化を否定して改めろ等となじったのが悪い。我々はずっと天と陛下を崇拝していたのを言うに事欠いて改めろ、等とは無礼千万だ。そもそもお前達だって我々と同じような民族だったではないか」
「ざまあ見ろ」、そんな罵詈雑言をしばし頭の中で喋っていると、スススと静かな足音が聞える。恐らく官吏が来たのだろうが、ずっと拝礼したままのシュブチに官吏の姿は見えない。「シュブチと申したな」との質問に「ハッ」と短く返事をする。すると苦虫を潰したような声音で「ふん、所詮は礼も知らぬ蛮夷だな。ありがたく思え、海よりも深く山よりも高い陛下の徳によってその無礼は許す。さてその方等の親書の答礼使としてこの方をその方等の国へ送るように」との言葉を聞いて一瞬にやけたが、すぐに素面に戻って「解かりました」と答えた。
官吏の「では子郎どの、頼みましたぞ。こちらがシュブチじゃ」との言葉が聞えた後、足音が近付いてくる。そしてシュブチの前に立ち止まったと思うと優しい声音で話しかけてくる。「あなたがシュブチ殿ですね? 面を上げてください。私は裴子郎(世清)と申します、どうぞよろしく」とのおよそ漢人とは思えない丁寧な挨拶に驚いて顔を上げると、そこには穏やかな容貌をした青年が立っていた。「こちらこそよろしくお願いします」と挨拶を返した後、官吏から「子郎殿、あとは任せましたぞ」との言葉を受けて二人で退出した。緊張感はあったが、心は終始晴れやかだった。「こういうのも悪くは無いな」、そう呟くと裴子郎を連れて大倭国へと帰途につくのであった。
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大倭国は東方大国として隋から認められる程の国家となっていた。任那を大倭の直轄地として治め、西の百済王国は属国化に成功していた。だが、未だに東方では掴みどころが無く時には平気で約束を破る新羅が存在し、北方では騎馬民族中心の国家である高句麗が存在するなど未だ油断ならぬ情勢であった。特に高句麗とは局地戦では勝利をした事もあるが、隣国隋の対策もあってハンデを抱えていた状況から、未だ全面的な戦争で勝利したとは言えない状況であった。
一方で国内情勢に目を向けると、天そのものを崇拝する誇りある大倭の文化に対して遥か東では三輪山という山と大地を崇拝する文化の国が、さらにその向こうでは海を崇拝する文化の国、さらにその向こうの平野と山がある騎馬の国、それらが急速に力をつけて将来的な脅威となりつつあった。だが、大倭国は依然として大国である事には変わりなかった。
シュブチは火山を見て驚く裴子郎を横目で見る。「し、子郎殿、山から火が噴いておりますぞ。これはなんたる事だ」と付き人の一人が慌てている、裴子郎は冷静に「落ちつきなさい。見てください、麓を集落の皆さんは落ち着いているでしょう?」とたしなめているが、実は本人が一番驚いている。「あれは我が都を守られている阿蘇山という火の山です」、シュブチは得意気にそう話す。裴子郎は世の中は広いと実感しているが、感心している暇は今は無い。実は今回の答礼使の大きな目的は将来的な軍事行動の布石だ。煬帝は度重なる無礼な返事をした高句麗に対して軍事行動を計画しているが、対する高句麗側の援軍に周らない様説得をしなければならない。その為にあの感情のまま書かれた国書も百済で破り捨てて新たな国書を急造したのだ。
結論を言うとアハケミ帝こと阿毎多利思北孤との会談は上手く行き、高句麗出兵の為の準備はこれで整ったと言える。高句麗はこれで四面楚歌に陥り、恐らくはまともに我々に対抗できないだろうと裴子郎は手応えを感じた。最近ことに朝政が乱れているがこれも瑣末な事、この戦に勝てば再び安定するだろうと楽観していた。
会談を終えてシュブチの案内で牛車に乗り込んだ。しばらくしてシュブチが何やらこちらに何か言おうとしてはやめている風に見えたので、裴子郎はニコッと微笑んで「どうしました? 何か頼み事があるのなら聞きますよ?」と冗談めかしに言うと、シュブチは申し訳なさそうな顔をしながらおもむろに「実は私に子郎殿に会わせていただきたいと仰る方が居て私も困っているのですが・・・・・」と語った。ふむ、としばし思案したがまあ特段害になる事も無いし無駄なりの収穫もあるかと思って「解かりました。それくらいならよろしいですよ。してどの様な方なのですか?」と質問した。するとシュブチは「実は皇族に連なる方なのですが、わけありの血筋でして私も陛下同様好きにはなれません。ですが陛下も遠慮なさられてるようですので、こちらとしても無下には出来ないわけでして」と苦りきった顔をしながら言葉を発した。その表情を見て「解かりました、して会談はいつ頃になりますかな?」と聞くと、「明朝、日が中天に達する頃で」と言ったので了承したのであった。
次回は明日投稿します。