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秀頼戦記  作者: 浮き草
プロローグ・三国志編
2/8

司馬懿の野望(2)

「さて、これからが正念場じゃがな」と疲れたようなため息を吐きながら言葉を吐き出し、椅子に座ってくつろぎながらここに至った経緯を振り返る。時に景初二年、三国志と呼ばれる時代の事である。


中平元年に起きた黄巾の乱を発端とした後漢末の動乱は、まさしく血で血を洗う闘争の連続であった。その中で綺羅星の如く英雄が出現し、巧みな駆け引きを行う軍師や政治家、一騎当千の武将がしのぎを削るある意味人材の宝庫、いわば黄金時代であった。最も皇帝に近い男と言われた大スター皇甫嵩・朱儁の二人、暴虐でありながらも有能であった董卓、董卓死後の涼州三人組李カク・郭汜・張繍、最強の鬼神呂布や名門袁紹・袁術、劉表や張飛燕等が激しく凌ぎを削っていた。


しばらく経つと、当初の知名度こそ低かったものの非常に有能な三人の男に集約されていった。後漢の皇帝を擁立して本人の天才的な頭脳と、その頭脳に匹敵する才の持ち主である荀彧の補佐の元華北を纏めた魏の太祖武皇帝曹操。フロンティア精神にあふれて新たな時代を築かんとした南方呉の長沙桓王孫策と初代太皇帝孫権兄弟。時に感情のまま動くが、持ち前の洞察力と計算高さと人物眼を武器に巴蜀を纏めた、かの袁紹や曹操の義弟(姉は劉夫人)蜀漢の初代皇帝昭烈皇帝劉備である。この三人は常に中華統一の為にしのぎをけずっていた。


だが時代が下がるにつれ、第一世代が死に絶え、もしくは歳を取ると保守的になり、今存在する世界が全てとなって時には派閥争いになってしまうのは世の常である。蜀漢では劉備の遺言に反して馬謖を重用して卑しい出身ながら力を持ち始めた魏延との権力争いに終始し、なんとかこれを治めて独裁的な権力を手中にして結果の出ない出兵にいそしんだ。一方呉では孫和派と孫亮派の争いが収集の付かない状態になった。


そしてここ魏においても陰湿な動乱の最中であった。


曹操亡き後、異民族とのハーフながら若くして類稀なる治世をもたらした魏の初代皇帝文皇帝曹丕。だが彼は40代で急遽崩御した。崩御の間際、四人の人物に遺言して息子に託した。曹真・曹休・司馬懿・陳羣である。二代目には明皇帝曹叡が即位した。曹叡は年少であったが治世の前半はまだ安定していた。いわば第二世代とも言われた曹丕の友人である太子四友筆頭の司馬懿や陳羣の補佐を受けていた事も大きかった事は確かで、魏の安定に大いに貢献した。


だがそれ以上に魏の柱となっていたのは曹丕に託された曹一族の二人の存在であり、この二人ある限り魏が倒れる事等はありえないと思われた。


まず一人目は曹真、彼は司馬懿や陳羣より年下だが第一世代と言っても良い人物だ。曹操に大変気に入られて養子として準皇族の扱いを受けながら常に第一線で活躍している。虎豹騎の隊長として霊丘の賊を討ち、漢中の戦いでも当時の英雄たちを相手に一歩も引かない戦いをした。曹丕の時代には西部を一時蜀漢に占領されるも趙雲を撃破してこれを取り戻し、諸葛亮も容易に手を出せない相手として認知された。そして三代目曹叡の時代には大将軍に加えて大司馬となり、さらに皇帝の徳の高さを示す外国の朝貢というもので大国である大月氏国を朝貢させる事に成功させた。大月氏国は十万戸の戸数を持つ大国で、はるか万二千里の彼方から朝貢してきたのである。この功績は磐石かと思われた。彼の存在はまさしく司馬懿を始めとする諸臣の目の上のたんこぶでもあったのだ。


そしてもう一人は曹休である。曹休も曹操の養子となり、つねに曹真の先輩としての自覚を持った人物だ。曹真の前任の大司馬となり対呉の要として第一線で活躍した。


だが柱石とも言うべき準皇族にして有能な二人の人物が居なくなった。曹真は太和五年(231)に、曹休は太和二年(228)に薨去したのである。そしてそのころからタガがはずれた。それ以前から曹叡は燕王曹宇を寵愛して将来の大将軍としてのプランを持っていたが、同時に中書令である劉放・孫資も側近として重用していた。そして両サイドの仲が悪かった事は不幸だったが、それに輪をかけて複雑にしたのは曹叡の優柔不断さだ。曹宇は確かに皇族であり大将軍候補であったがあくまで候補。実際に大将軍になったわけではない事が付け入る隙を与える事になった。劉放・孫資も宮中実務官僚群筆頭として派閥を作り、皇族である曹宇派以上とも言われる勢力になった事で闘争が激化した。そしてお互いの排斥を図ってテロルが横行したのである。


この両派の争いを止めるべき準皇族の元老はすでになく、そして皇帝自身も体調を崩し始めて事態は収拾のつかない所まで深刻化した。この様な情勢を冷静に見極めて己が皇帝への野心を満たす為に、第一段階として第三勢力作りの為に策謀を働かせたのが司馬仲達(懿)である。司馬仲達(懿)は長年最大の障壁だった曹真曹休が退場したあと曹真の後釜として対蜀戦線にて活躍し、諸葛亮の親征に対しては籠城で手足も出させずに五丈原で諸葛亮が亡くなるという形で大打撃を与えた。


そして運命の歯車が動き出した。曹叡が実質政務が取れない状態になるや、北東地域にかねてから目をつけていた司馬仲達(懿)はカン丘倹が長雨の時期に重なった影響で公孫淵討伐が失敗したと見るや、公孫淵は必ず長雨の時期での籠城は無敵と思い込んで油断するだろうと見越しあえて同じ時期での討伐を計画した。そして密かに参内すると明元郭皇后の許しを経て強大な軍権を手に入れた。


「あのまま西に居て大月氏を朝貢させても、所詮は元侯殿(曹真)の二番煎じにしか過ぎぬ。なんとしても、かの蓬莱の国を朝貢させねば。張天師殿の易によれば、今回の件で全て上手く行くだろうと仰っておられる。今は信じよう・・・・・・」


そう不安になりながら推し進めた今回の計画も不思議な事に見事に上手く行く。公孫淵攻めの途中の景初二年(238年)六月、蓬莱の国伊都国の使者と名乗る者を強奪する事に成功して強引に魏への朝貢使と名乗らせ、戦時でまともな物がなかったのでそこらに居る燕人の捕虜を捧げ者の奴隷として強引に洛陽へ送った。そして現在に至る。

これで終わります。次回は一週間後程です。

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