715. スズキノヤマ帝国 親子
百合の結婚式と披露宴が終わって、ローズとエフェルガンが子どもたちと一緒に、久々の休日を過ごしている。明日から子どもたちにとって、人生初の国内公務なので、エフェルガンは彼らのことを気にしている。
可能な限り、人の前では魔法を使わないようにしてほしい、と彼は言った。ローズもうなずいて、念入りに子どもたちに言った。なぜなら、まだ幼い子どもたちに被害を加えようとする人が現れる可能性は大きいからだ。以前フィリチア王国では彼らが狙われていたせいで、護衛官のソラがフィリチアから追い出されたきっかけになった。ソラは今、スズキノヤマでローズの特別護衛官になった。
「エメスさん、ローリーおいちい」
フェルザがいうと、料理長のエメルが嬉しそうにうなずいた。
「お褒めにあずかり、嬉しく存じます」
エメルが言うと、侍女達も嬉しそうにフェルザを見ている。エフェリューと柊と違って、フェルザが翼を持っていない。その代わり、彼の体から葉っぱが生えている。
怪しいと言った人がいるけれど、アルハトロスでは木の精霊種族はさほどおかしくない存在だ。ローズの兄である欅も、小さい時に葉っぱで覆われていた、と本人が言った。今でも魔法を出すと、体中から葉っぱが出ている。これはローズの母親であるフレイの遺伝だ。木の精霊である彼女も力を使うと、体中から葉っぱがたくさん出てしまう。けれど、葉っぱは大人になると、体に入って、一旦なくなるように見える。
「殿下はとても心が優しいお方でございますね。皇后様とそっくりでございます」
エメルが言うと、侍女達がまたうなずいた。フェルザが彼女たちを見て、机の上にあるお菓子を一つ取って、口に入れた。
「皇后様も、エメルさんの料理がお好きですよ、殿下」
「うん」
一人の侍女が言うと、フェルザがうなずいた。そして彼はエメルを見て、にっこりと微笑んだ。
「クッキー、ローリーおせて下さい、エメスさん」
「殿下に・・、料理を?」
「うん」
フェルザがうなずいた。
「皇后にあげゆー」
フェルザが言うと、エメルが周囲を見ている。すぐに答えられないので、確認する、とエメルが言うと、フェルザは理解した顔でうなずいた。そしてフェルザは机の上にあるお菓子一つかみを取って、庭の向こうで遊んでいる兄弟の元へ行った。
「殿下はとても優しいお方でございますね」
侍女の一人が言うと、エメルがうなずいた。今日は久しぶりに皇帝一家のためにクッキーを焼いたので、運んだところでフェルザと会った。
「料理のことは後ほどフォレット様に聞いてみます」
「はい、お願いします」
エメルがうなずいて、もうすでに空になったお菓子箱を片付けて、厨房へ戻った。
また焼かないといけない、と彼女が微笑みながらその器を見て、再び材料を量った。お菓子はほとんどフェルザに食べられたからだ。5人で食べると、十分の量だったのに、と彼女は思わず笑みをこぼした。
忙しくクッキーを焼いているエメルと違って、ローズとエフェルガンがのんびりと座りながら子どもたちを見ている。フェルザが持って来たクッキーがもうとっくに終わってしまった。ローズでさえ、一つももらえなかった。子どもたちの食欲が最近とても上がっている、と護衛官らから聞いた。一般的な子どもが食べる量では、全然足りない。今の所、一人分の一回の食事の量は、大人の二倍だ。
今年で三歳になる三人の子どもたちが確かに成長期だ、とエフェルガンが思った。けれど、彼らの体が太っている様子もなかった。至って普通だ、とエフェルガンはその三人を見ている。
「大きくなるかな」
エフェルガンは笑っている子どもたちを見つめながら言った。
「多分、そうだと思う・・」
「そうだな」
エフェルガンはローズを見て、微笑んだ。彼女の成長は、他人とは異なっているからだ、とエフェルガンはローズの反応に気づいた。そして彼はローズの背中に手を回して、自分に寄せた。
「でもあの食欲は間違いなく、あなたに似ているな」
「む!」
「ははは」
ローズの顔が赤くなった。けれど、エフェルガンが笑っただけだった。それを聞いたケルゼックたちも思わずにやっと笑った。うんうん、とソラでさえうなずいた。子どもたちの食欲を見れば、間違いなく、ローズに似ている。
「そういえば、里の父上が壺とか言ってたよね?」
ぎくっ、とローズが固まった。
「あれは何だ? 荷物の中に入っていただろう?」
「・・・」
エフェルガンの問いかけにローズが答えなかった。ただ、彼女の顔が真っ赤になった。それを気づいたエフェルガンがますます気になった。
「何、何のことかしら?」
「ローズ、正直に答えて」
「うむ・・」
どう答えれば良いか、ローズが落ち着かなくなった。
「今答えなくてはダメだの?」
「逆に聞くけど、その壺のことは、今答えると、まずい?」
「う、うん」
ローズは小さな声で答えた。
「分かった」
エフェルガンが微笑んで、うなずいた。なんとなく彼が察している。子どもたちがいるから、そう答えたらまずいことであろう、と。結局その後エフェルガンは壺について、何も聞かなくなった。その代わり、エフェルガンは虫や蛙を持って自慢している子どもたちに、笑顔で対応した。
皇帝として、非常に珍しい、と誰もが思った。彼自身も、一度も父親にそのような会話などしてもらったことがなかった。
夕餉になると、皇帝一家はわざと平民と同じ身なりをして、夜の市場を楽しんでいる。子どもたちが嬉しそうに串焼きを舌鼓した。ローズも同じく、とても美味しそうに食べた。
エフェルガンは串焼きの店主と軽く世間話をしながら串焼きを食べている。エフェルガンの近くで毒味役ハティとアマンジャヤがさりげなく立って、食事の安全を確認している。そして護衛官らも目を光らせて、周囲の安全を確認している。そんな感じの皇帝一家だからか、 周囲の人々にばれている。人々がなんとなく、彼らは皇家だと感じたからか、わざと距離をとって、遠くから見ている。
食事を終えると、一家が少し夜店を行って回ってから宮殿へ戻った。このように、エフェルガンとローズがいつも自分の目で民の暮らしを確認している。物の相場や治安など、確認している。けれど、地方となると、とても難しいことだ。広いスズキノヤマにどうやって平等に回っていくのか、今でも大きな課題だ。
そのための領主だ。エフェルガンにとって、領主の存在は大事だ。領主は皇帝の目、手、足となってもらうための存在だ。今は彼に忠誠を誓った領主らが同じように、毎回予告なしでどこかの町へ行き、市場へ回って、どこかの屋台で食事しながら民の生活を確認する。危険な仕事だけれど、エフェルガンの政策の中でとても重要な政策でもある。
もうタマラや東メジャカのような謀反を許さない。エフェルガンはそのことをとても理解している。なぜなら、龍が直々に彼に言ったからだ。一頭だけではなく、ほぼ全員が現れて来たからだ。
二度はない、と。
今度はローズに危険を加えるようなことが起きてしまったら、国そのものが滅ぼされてしまうからだ。だから彼は、何しても、ローズと子どもたちを守ることを誓った。例えそれは戦争を意味することでも、と。
翌日。
子どもたちにとって、国内初の公務が行われた。彼らは首都周辺の子ども園や学校に訪問した。人々が彼らの姿を見て、瞬いた。特にフェルザの姿は、スズキノヤマでは大変珍しい木の精霊種族の姿で、人々の注目の的となった。
「母親が木の精霊ですから、子どもが木の精霊であってもおかしくない」
ローズがにっこりと言うと、人々がうなずいた。考えてみたら、そうだ。彼らはうなずいて、理解した。ローズは薔薇の木だから、フェルザが葉っぱで生まれてもとても自然なことだ。だからその背中の青い鱗に対する疑問もなかった。何らかの植物の特徴であろう、と。
子どもたちが遊んでいる間にローズが人々と会話している。改善して欲しいところと、維持して欲しいことも、いろいろな意見を聞くことができた。今までいなかった皇后の姿だ、とその場にいる人々がそう思いながら、賢明に意見を述べた。すると、ローズは耳を傾けて聞いている。彼女自身も意見を出して、人々の理解を求めている姿もあった。その姿勢が、人々に大変好評だ。
一日の公務が終えると、子どもたちが疲れたか、夕餉を食べる前に、早く眠っている。執務室から戻ってきたエフェルガンは微笑みながらローズと二人で夕餉を楽しんだ。
翌日。
ローズたちは次に向かった先は別の州だった。魔法の輪っかが開くと、領主一家がいる。首都と同じように、突然訪問を行って、見回った。驚いた人々の顔がとても印象的だった。
連続公務になれてきたか、子どもたちの顔にも余裕が出て来た。そしていくつかの州に回った後、今夜は宮殿ではなく、トキア屋敷で泊まることになった。
突然ローズたちが来たので、執事のバユタマが急いで部屋の準備をしている。侍女や家政婦、そして料理長が急いで準備している姿が見えた。子どもたちが広い畑で成長しているマシタードの植物を見ている。青ビッツはもう収穫し終えたから、今畑に何もなかった。
その夜、町長の訪問を受けた後、ローズ達はゆっくりと過ごした。次の日に、子どもたち学校や子ども園に訪問した。そして市場に行って、昼餉を食べた。ローズは市場で商売している骨スープ店主のラハッドと周囲の屋台の店主らと会話してから、絨毯工房や薬品工場に足を伸ばした。
午後になると、エフェルガンはトキア屋敷へ現れた。トロッポ領主ダミアンもエフェルガンと一緒にいて、ローズや子どもたちに挨拶した。和やかな挨拶の後、ダミアンもその日にトキア町で宿泊した。
翌日。
ローズ達はトキア町を発って、次の町へ向かった。止まる度に、エフェルガンは市場を確認したりすると、ダミアンの顔がかなり緊張した。けれど、最後まで民の不満な声がなく、ダミアンの顔に安堵の色が見えた。エフェルガン達と別れた際、ダミアンは手を振って、旅の安全を願っていた。
「あら?」
レホマに入った間もなく、ローズが突然何かに気づいた。エフェルガンも気づいて、思わずダルセッタを近くに着陸させた。
「ローズ?!」
「お兄様!」
畑の中から柳が彼らに気づいて、走った。彼の近くにエルキアもいた。エルキアが素早く頭を下げて、エフェルガン達に挨拶した。
「どうしてここに?」
柳が手を伸ばして、ローズをダルセッタの上から降ろした。エフェルガンも降りて、周囲を見渡した。
「公務です」
「柊たちと?」
「はい」
ローズがうなずいた。子どもたちも降りて母親の元へ走った。
「お兄様はどうしてここに?」
「エルキア殿に甘えて、こことヒスイ村で農業の勉強をしている」
柳が言うと、エルキアがにっこりと微笑んだ。その通り、とエルキアは言った。
「それよりも、日が暗くなったから、俺の家に泊まれ」
柳が言うと、エフェルガンは考え込んでいる。
「宿を探そうと思ったが」
「俺の屋敷ならお前らが入れる。まぁ、兵士や護衛官の一部が申し訳ないが、部屋が足りないかもしれない」
「柳殿は今どこに住んでいるのか?」
「空だった古い屋敷だよ。誰も使わないから、エルキアが使って良いと言って、家臣まで貸してくれている」
柳が言うと、エフェルガンがエルキアを見て、確認する視線を送った。エルキアがうなずいて、その屋敷のことを説明した。
昔ガラント家が使った屋敷だった、とエルキアはエフェルガンに説明した。
それを聞いたローズが思わずハインズに視線を移した。
ハインズの父親は元レホマ領主だった。ハインズは以前、父親の姓であるガラントを名乗った。その方が就職しやすい、と母親は言った。けれども、実際は彼の両親が結婚していなかった。下女だった彼の母は身ごもったままハインズ家を追い出された。けれども、父親が認定書を出した。その紙一枚だけで、彼がガラント家の仲間入り・・、と思ったけれど、世間は彼に優しくなかった。名門であるガラント家からの圧力もあって、ハインズがなかなか仕事に就くことができなかった。唯一ハインズに声をかけたのは、当時のエフェルガンの近衛隊長であるオレファだった。
けれど、ガラント家とハインズの因縁が終わらなかった。終いに、ハインズを殺そうとした事件が起きた。そして企んでいるのが、ガラント家であることは公になった。怒ったハインズは今、ガラントの姓を捨てて、母親の姓を名乗った。今の彼は、ハインズ・アメルンだ。
そして、柳が住んでいるのは、そのガラント家の住まいだった屋敷だ。
「分かった。今夜は柳殿に甘えて、そこで泊まろう」
エフェルガンは答えた。ケルゼックがうなずいて、護衛隊に合図した。これからその屋敷が皇帝一家が泊まる場所なので、隅々まで確認しなければならない。ソラも動いて、屋敷を確認してきた。
「柊、お父上は優しくしているのか?」
柳は柊を抱っこしながら聞いた。ローズはエフェリューを抱いて、エフェルガンの隣で歩いた。フェルザは指をしゃぶりながらエフェルガンの肩に頭を置いた。眠そうだ、とエフェルガンがフェルザの頭をなでながら微笑んだ。
「へーかはやさい」
柊が答えると、柳は一旦考え込んだ。そして彼が微笑んで、柊の頭をなでた。
ローズの顔にそっくりだ。目の色がオレンジじゃなければ、もっとかわいいのに、と柳は思った。
「そうか。お父上は野菜か」
柳が笑みを見せた。
「野菜だから、美味しく食べないとな。ははは」
柳が言うと、エフェルガンは苦笑いした。けれど、どういうことか理解していない柊が、首を傾げながら柳を見ているだけだった。
その屋敷に行くと、ローズが瞬いた。とても大きい。それ以上に、豪華だ。けれど、柳が住んでいる場所はごく一角だけだった。厨房に近いから、食事するのも楽だ。その一角はどちらかというと、使用人部屋の近くだ。エフェルガンが眉をひそめながらその部屋を見ると、エルキアはタジタジしながら説明した。柳のリクエストで、その部屋にいるわけだ。借りた家臣も料理人と身の回りを世話する下男一人だけだった。
「一応部屋がいつもきれいにしているらしい。俺がそこに泊まりたいといえば、いつでも泊まれるが、面倒だ。見れば分かる」
柳が屋敷の中に入って、その豪華なリビングに入った。ローズが瞬いて、周囲を見ている。確かに広い。それだと、確かに部屋が多くてダイニングまで行くと少し距離がある。だから柳がそう思ってもおかしくない。ローズが部屋を見回っている間に、フェルザがもうぐっすり眠って、エフェリューもあくびし始めた。柊は柳の腕でおとなしくしている。
「この屋敷、ずっと前から?」
「と言いますと?」
エルキアがローズを見て、エフェルガンを見ている。エフェルガンはさりげなくうなずいた。
「ガラント家がいなくなってから、ずっと空っぽ?」
「はい」
エルキアがうなずいた。
「ガラント家の人々は、今は何処へ?」
「全員、もうここにいらっしゃらないのです」
エルキアが丁寧に答えた。ローズはその答えを理解した。全員、処刑された、と言う意味だ。ハインズを除いて・・。
その日の夜、全員食事した。エルキアは自分の屋敷から大至急応援を頼んだ。またレホマ領主オマール・ヘルダにも緊急連絡を送った。
「食事は屋台で買えば楽なのに」
ローズがそんな慌ただしい厨房を見てエルキアに言うと、エルキアは首を振った。恐れ多い、と彼は言った。今日はレホマ自慢の小麦料理を出す、とエルキアの妻が厨房にいる。彼女はエルキア屋敷の料理長と一緒に今夜のご馳走を作る、と張り切っている。
「考えてみると、こんなに立派な屋敷があるのに、誰も使わないと、なんだかもったいない」
「そうだな。エルキア・ブロッサ夫妻はこの近くで普通の屋敷に住んでいる。領主ももっと西の方にいるから、ここからだと遠い」
エフェルガンがローズの背中に手を回して、中庭を歩いている。子どもたちがもうすでにぐっすりと眠っている。夕餉ができる時に起こすように、とエフェルガンは護衛官らに命じた。
「ここは結局何に使うの?毎日掃除だけだと、結構お金がかかるでしょう?」
「ふむ、どうするか」
エフェルガンが考え込んだ。確かに、毎日掃除するだけでも、お金がかかりすぎる。その負担がレホマの民が背負っている。簡単に言えば、無駄に税金で賄っているのだ。
「家具は競売にかけようか」
長い沈黙の後、エフェルガンが言った。
「屋敷は・・」
彼はその豪華な屋敷を見て、瞬いた。本当にもったいない、と彼が心のどこかに思った。
「飾りを外して、それも競売にかけよう。建物を作り直そう」
「ん?何にするの?」
「農業研究所にしよう」
「お!」
ローズがうなずいた。
「研究員がここに泊まりながら仕事もできるね」
「ああ」
エフェルガンがうなずいた。
「この広い庭も、田んぼや畑にもなるから、積極的に品種改良ができるようにしたい」
「素敵だわ」
エフェルガンがうなずいて、微笑んだ。二人はしばらく中庭を満喫した。食事ができたという知らせを受けた後、全員食堂へ向かった。まだ眠そうな子どもたちもおとなしく座って、手を合わせて食事をした。
エルキアの妻と娘も一緒に食事した。今年三歳になった娘がとてもかわいかった。世話好き彼女が半分寝ている柊に食事を手伝っている。エルキア夫妻はヒヤヒヤしながら彼女を見ている。なぜなら、恐れも多く、柊は第三皇子だからだ。
そんなヒヤヒヤとしているエルキア達と違って、ローズ達は美味しそうに食事した。エフェルガンも食事の美味しさに褒めて、レホマの小麦を称えた。そう聞いたエルキアが嬉しそうにうなずいて、笑みをこぼしながら食事した。
食事の後、エルキアたちは自分たちの屋敷に帰った。柳が自分の部屋に戻って、子どもたちも再び眠った。
「ここにいるんだ」
ローズが言うと、ハインズが振り向いた。
「ローズ様が、お休みにならないのですか?」
「うん」
ローズがうなずいた。ハインズがずっとあのリビングで絵を見つめている。その絵を描いたのは彼の父親、前レホマ領主だった。
「絵を見ているんだね」
「はい」
ハインズがうなずいた。
「私が知らない男だが、母は一度愛した男でございます。多分今でもその気持ちが変わらないと思いますが・・」
ハインズがため息ついた。
「ハインズは彼と会ったことあるの?」
「昔、一度だけ会いました」
「へぇ、どんな感じだった?」
「どんな感じと聞かれても・・」
ハインズは困った顔をした。
「彼は私に一言も、何も言わなかったのです。ただじーっと見て、母に認定書を書いて、無言で渡しました」
ハインズがため息ついた。自分は父親がいた、ということだけは記憶にあった。生涯で、たった一度だけだった。
「ハインズは、どちらかというと、お母さんに少し似ているんだね」
ローズもその絵を見ている。きれいな絵だ。広がったのどかな風景をとても美しく描かれている。
「多分・・、自分は良く分かりません」
ハインズは照れながらうなずいた。確かに彼の唇は母親に似ている。けれど、彼の目や鼻が、母親には似ていなかった。
恐らく、父親に似ているでしょう、とローズは思った。ハインズの父親の目の色は黄色い。だから暗殺者がハインズの目の色が黄色いことを知っている。ただ良かったことに、ハインズの相棒であるエファインの瞳も黄色い。体の大きさが少ししか違わないから、あの時の暗殺者も混乱したのでしょう。
「ハインズ」
「はい」
ローズの問いかけにハインズが答えた。
「記念に、何か欲しい物がある?」
ローズの質問にハインズが首を振った。
「彼は私と母を捨てた男でございます」
ハインズがローズをまっすぐに見つめている。
「母は一人で私を育ててくれました。この仕事もできるまで、ほとんど母が一所懸命働いて、お金を送ってくれたからでございます。その男の一欠片も、必要ありません」
ハインズがはっきりとした口調で答えた。けれど、ローズはなんとなく分かった。母親の稼ぎだけでは、ハインズの学費を払うことができない。母親が何らかの支援を父親から受けていたのでしょう。そしてハインズも気づいた。気づいたけれど、否定し続けている。
「分かったわ」
ローズがうなずいて、微笑んだ。けれど、彼女はハインズの心を理解している。とても複雑な気持ちだ、と彼女がハインズを見ている。
「今夜はハインズが非番だから、ゆっくり休んで」
「はい」
ハインズも微笑んで、ローズを見ている。エファインが現れて、毒味役アマンジャヤと一緒に来た。彼の手には白湯が入っている魔法瓶があった。どうやらさっきローズが全部白湯を飲み干したようだ。
「ここにいるのか?」
エフェルガンまで部屋を出て行った。彼がお風呂から上がってきて、ローズが部屋の中にいなかったことに気づいた。
「うん、白湯が終わったから、新しく取って来てもらったの」
「そうか」
エフェルガンが微笑んだ。そして絵の前に立っているハインズを見て、一瞬にして理解した。
「その絵は気に入ったのか、ハインズ?」
「あ、いいえ」
ハインズが首を振った。
「気に入ったなら、この旅が終えたら、もらっても良い。あれは競売をかけても売れないから、捨てられて、もったいないと思うがな」
エフェルガンが微笑んだ。
「では・・」
ハインズが瞬いた。
「ケルゼック、明日エルキアに、その絵はこちらがもらうと伝えてくれ。里の屋敷に送るように」
「はっ!」
「宛先は、タニア夫人に」
ケルゼックがうなずいて、ハインズを見た。ハインズは頭を深く下げた。彼の目に涙が流れている。




