711. ローズの一日
「へぇ、柳兄上がレホマへ?」
スズキノヤマへ戻ったローズが聞くと、エフェルガンはうなずいた。
「レホマにしばらくいるらしい。農業の研究だ、と学校から報告があった」
「レホマってあんなに農業が優れているなんて、知らなかったわ」
「領主オマール・ヘルダが農業学校出身でね、レホマでいろいろな改革をしたと聞いた。今は麦や小麦の生産量が全国一位だよ」
「すごい!」
ローズが瞬いた。エフェルガンが微笑んで、ローズの手をとって、神殿の外へ出て行った。
「百合嬢とファルマンの住まいもできているよ、ローズ」
「へぇ」
「見てみるか?」
「良いの?」
「もちろんだ」
エフェルガンがうなずいた。
「タマラ州は二つに分ける」
エフェルガンがローズの手を取りながら庭を歩いている。
「北タマラと南タマラだ。今のタマラが広すぎるだけではなく、豊過ぎる割に、海に面する場所が広すぎる。領主だけに任せる防衛となると、荷が重いと判断した」
「確かに・・」
ローズがうなずいた。確かに西側の港の防衛がとても大変だ。港が多いだけではなく、港意外の場所も多数ある。敵が隠れて上陸できるほど、とても広い。二つに分けることによって、新しい領主らがもっと効率的に仕事ができる。
「東海岸は断崖絶壁が多いから、海岸線が長くてもさほど問題じゃないんですね」
「ああ」
エフェルガンがうなずいた。
「それに、東海岸だといくつか海軍基地があるからとても安全だ。西側の海軍基地ははパララとタマラだけだ」
「うむ」
「だから北パララにも新しい海軍基地を作る。あと国軍基地もそれぞれの州にも作る」
「ふむふむ。良いかもしれないね」
ローズがうなずいた。百合の結婚は来月に行われるから、スズキノヤマではその結婚式のために準備が着々と進められている。
「フクロウに乗ろう」
エフェルガンが言うと、ローズは彼を見ている。
「百合さんは首都に住むの?タマラじゃなくて?」
「北タマラと南タマラは別の人がやる。ファルマンは厚生大臣をやってもらおう」
「厚生大臣?」
「内務大臣と連携するようにね」
「いきなり大臣になって、大丈夫なの?」
「大丈夫だ。彼に数人の補佐官を与える」
「うむ」
「それに百合嬢もいるから、大丈夫だ。意外と彼女が鋭いから、きっと彼を支えてくれるだろう」
エフェルガンが微笑みながら、ローズを抱きかかえて、フクロウに乗せた。そして護衛官らと一緒に町の南へ向かった。
「大きな屋敷だわ」
「子爵なら、このぐらいの大きさの屋敷に住むよ」
「へぇ」
ローズがその屋敷を見て、うなずいた。本当に大きい、と彼女は思った。
「これって、古い建物でしょう?」
「ああ」
「誰のだったの?」
「父上が昔買った家だ」
エフェルガンが答えると、ローズが彼を見ている。
「前皇帝陛下が?」
「皇帝になる前の家だ。母上と結婚したばかりの彼の家で、長年誰も住んでいないから、ファルマンと百合嬢との結婚が決まった時に改造した」
「そうなんだ」
「中身はほとんど新品だ。外側も結婚当日ぐらいまできれいになる予定だ。庭もすべてきれいにするから、心配するな」
エフェルガンが笑いながらフクロウを着地させた。そして彼はローズを抱きかかえながら、フクロウから降りた。
エフェルガンたちが庭に現れると、その建物から数名の護衛官らしき者が現れて、丁寧に頭を下げた。
「この者たちがアルセンナ子爵様の護衛官らになります。もうすでに数名がアルハトロスの方に移動致しました」
ケルゼックはローズに説明して、彼らの名前を言った。執事や侍女たちもいて、ローズたちに頭を下げた。執事が中へ案内して、いろいろな準備が進んでいることを報告した。
「こちらはアトリエでございます。百合様が刺繍が大変お好きだと伺っておりますので、このような部屋をご用意致しました」
執事が説明すると、ローズがうなずいた。とても広々とした空間で、きれいで落ち着いた色合いの部屋だ。数々の糸や織物の機械も入っている。機械は数種類があって、きれいに並べられている。
「うわ、里の織物の機械まである」
ローズが言うと、エフェルガンはうなずいた。
「ズルグンが提供してくれた」
「後でお礼を言わないと」
「ははは、そうだな」
エフェルガンが微笑みながら美しい中庭に入った。きれいな東屋があって、池もあって、職員の住む場所や裏庭もあって、護衛官らの練習所もあって、ローズとエフェルガンはその屋敷を満足そうに見ている。
「あれは?」
「多目的の棟だ」
エフェルガンが屋敷の一角にある建物を見て微笑んだ。執事が部屋の扉を開けて、何も入っていないきれいな部屋を見せた。
「百合嬢が教育訓練の先生としてそこで技術を教えることができるし、刺繍を披露する場所として使える。使い方が自由だ」
「へぇ」
ローズがうなずいた。彼女は再び部屋を見て、そして窓から見えた美しい庭を見た。エフェルガンがここまでやるとは、ローズは思っていなかった。
けれど、その理由は理解している。百合はローズの妹で、しかも鬼人だ。龍神族であるローズと違って、百合は鬼人だ。武人ではないけれど、彼女は紛れもない鬼人なので、エフェルガンの期待が高い。
「ここならローズがスズキノヤマにいる間、いつでも会いに行けるだろう」
「うん、本当に素敵だわ。ありがとうございます、陛下」
ローズは頭を下げて、エフェルガンに礼をした。エフェルガンが微笑みながらローズの肩を触れて、彼女の頬を口付けした。
「姉であるあなたが喜んでくれて、嬉しい。これで大丈夫だ」
エフェルガンがローズの手をとって、再び歩いた。二人が屋敷の前に行くと、その庭で一面百合の花が植えられていることに気づいたローズが思わず息を止めた。
「きれいだわ」
「良かった」
エフェルガンが微笑んだ。
「宮殿にも植えようか?」
「うん。香りが良い」
「ははは、そうだね」
ローズがしばらくその庭を見つめてから、エフェルガンとともにその屋敷を発った。
あの日から二週間が経った。
結婚式の準備のために、ローズは一先早く里へ戻った。数々の贈り物を確認して、ファルマンと連絡を取った。ファルマンの周囲に数人の護衛官らがいることを見たローズは思わず微笑んだ。今まで彼がエフェルガンの周囲にいた護衛官だったのに、今では守られる立場になった。
けれど、それはファルマンの道だ、とローズは思った。人は変わる生き物だ。ファルマンはこれからたくさんの民を守って、導く立場になる。そして百合はファルマンのそばにいて、彼を支える。そう思えば思うほど、ローズはとても嬉しくなった。
「これらの贈り物は明日ダルゴダス家に届けられるね?」
「はい」
執事のラカがうなずいた。使用人らがそれらの荷物を片付いて、部屋から持ち出した。それらの贈り物の中身はほとんど食料だ。
ファルマンの謁見を受けた後、ローズは護衛官たちと一緒に龍神の都へ行った。神殿に行ってから、ローズはアルハトロス女王鈴に謁見した。
「話は聞いたわ」
女王鈴は玉座に座りながら微笑んだ。
「あなたが書いたあの絵本、勇者タケル物語を読んだよ。面白かったわ」
「ありがとうございます」
「で、その本はいつ頃全国に配布するの?」
「このまま準備が順調であれば、来月から順番に学校の方から配布します」
「あい、分かったわ」
女王鈴は微笑んでうなずいた。
「もう一つ」
鈴はまっすぐにローズを見ている。
「ダルゴダス家の三女、菫の縁談なんだけど・・」
「はい」
「可能なら、彼女はスズキノヤマに出したくない」
「それは彼女次第です」
ローズが即答した。
「ローズ、あなたに続いて、百合もスズキノヤマへ行くのは仕方がないことだと思うけど、菫までスズキノヤマへ行ってしまったら、アルハトロスにとって、損だわ」
「どうなんでしょう・・」
ローズがため息ついて、女王を見上げている。
「ダルゴダス家の娘には、限られた期間内に、そのお相手を選ぶ自由が与えられます」
「そう、あなたと同じく、ね」
女王がローズを鋭い視線で見ている。
「そう、私と同じく、百合さんも、菫さんも、そして将来に撫子さんもね、限られた期間と選択の中で、好きな人を伴侶として選ぶ権利が与えられます」
「百合までは良いとして、菫は可能な限り、こちらがもらいたいと言っているの」
「ならば、ガルタ将軍と良い勝負ができる男性を、アルハトロス側から正式に指名して、父上に連絡して下さい」
ローズが微笑みながら言った。それを見た鈴がまたため息ついた。
「それは難しい注文だわ。あなたも知っているでしょう、この国の現状が、・・とても厳しいわ」
「ええ、もちろん」
「だったら・・」
「だからこそ、菫さんに自由にさせたいと思っています」
ローズはまっすぐに女王を見て、微笑んだ。国のためなんかに、菫の幸せなんて犠牲にしたくない、とローズは思った。
「成人まで後一年、菫さんのお相手を見つけるように頑張って下さい、陛下」
ローズが頭を下げて、はっきりと言った。
「けれど、菫さんの縁談について、陛下は龍神様に助けを求めてもいけませんよ。いいえ、・・というか、私がそれを許しませんからね」
ローズが頭を上げて、まっすぐに鈴を見ている。
「はぁ~、まったく、姉に向かって脅迫するなんて・・。そんな妹を持つ私って不幸だわ」
「脅迫だなんて、とんでもありません」
ローズは微笑みながら鈴を見ている。二人の間はしばらく冷たい空気が流れている。ローズと一緒に謁見の部屋にいる護衛官らが緊張が走った。
「どういう意味なの?」
「それは本当の意味で、私は本気よ。もしも陛下が龍神様に願って、菫さんの縁談の邪魔をしようとしたら、その時はもう一人の私が陛下のお相手になります」
「やめておくわ。そこにいる護衛官よりも怖い青蛇が私を殺しに来るからね」
「あら、分かっていらっしゃるじゃないのですか」
ローズがにっこりと微笑んだ。青蛇とはロッコのことだ。ロッコは、ローズのためなら、ためらわなく女王を殺す、と宣言したからだ。
「分かった。下がって良いわ。頭が痛い・・」
「では、失礼致します。頭痛の薬は後ほどお届け致します」
「要らないわ」
ローズが頭を下げてから、謁見の部屋を後にした。
「はぁ、疲れたわ」
ローズが肩を叩きながら歩いている。懐かしい風景だ、と彼女が中庭を見ている。ほとんど瓦礫だった東宮殿はもうきれいになっている。
「お懐かしいですか?」
ソラが聞くと、ローズはうなずいた。
「ええ。でも、毎回ここに来ると、いつも喧嘩してしまうのよ」
ローズがため息ついた。
「姉君とは、仲が悪いですか?」
「悪くはないけど、良いとも言えないわ。しかし、彼女の立場から考えると、そうせざるを得ないことも理解している」
ローズはため息ついて、また歩いている。
「でも、そのためで私の人生が、とても複雑になってしまったわ」
ローズが足を止めて、ソラを見ている。
「ごめんね、ソラ」
「なぜいきなり謝罪なさるのですか、皇后様?」
「なぜでしょう、ね」
ローズが微笑んだ。そんな彼女を見たソラも微笑んだ。
「さて、行こうか。もう一つ行きたいところがあるわ」
ローズが魔法の輪っかを唱えた。彼らはその輪っかを渡ると、行き先はエコリア山にあるローズの家だった。
「ここは?」
ハインズが聞いた。
「私の家だよ」
ローズは輪っかを閉じて、鍵を置いたところに手を伸ばした。鍵を手にして、扉を開けると、彼女が一年ぶりに窓を開けた。
「ローズ様が命じていれば、ラカと使用人が掃除してくれるのに」
ハインズが言うと、ローズは首を振った。
「ううん。自分で掃除すると決めたの。ここは私にとって、とても特別な場所なの。私はここで育って、魔法も勉強した場所でもあるわ」
「ミライヤ大賢者の家、と聞いておりますが?」
「うん。ここはミライヤ先生の家だった。庭の向こうにある離れの屋敷は私とモイとダルガさんが住んでいた場所なの」
ローズが微笑みながら離れの場所に鍵をあけた。ハインズが周囲を見て、護衛官らに指示した。彼らが急いで動いて、窓を開けた。
「今は、ここも、この山丸ごと、麓にある村や船着き場まで、全部私の物になったけどね」
「すごいですね」
ハインズが言うと、ローズが笑って首を振った。
「いや、どうなんでしょうね。本当にすごいのはミライヤ先生よ。彼女はこの山を丸ごと買ったから、麓の村が助かったの。以前はかなり酷い税金の取り立てにされたらしいが、この山を買うことによって、持ち主であるミライヤ先生がすべて払ったのよ。村全体をまとめて、百年分ね」
「すごいですね」
「うん」
ローズは水場に行って、水を汲もうとした。けれど、エファインが真っ先にバケツを取って、水を汲んでいる。
「あら、皆、楽にして下さい」
「我々が気楽にやっていますよ、ローズ様」
エファインが言うと、ソラも笑ってうなずいた。彼の手にはモップがあった。結局その日の掃除はほとんどハインズ達がやることになった。
家の掃除が終わると、戸締まりした。そしてローズたちは歩きながら、会話して、麓の村へ向かった。村長と挨拶してから、彼らは船に乗って、エスコドリアの町で食事した。以前エフェルガンと子どもたちと一緒に食事した場所と違って、今回はダルガの大好物の鹿のシチューを食べに行った。
食事した後、ローズは飴玉を買いに行って、魔法で再び里へ戻った。
「お帰りなさいませ、ローズ様」
「ただいま、ラカ。あれ?客が来たの?」
「はい」
執事のラカがうなずいた。
「ローズ様とお目にかかりたくいらしゃった、アルハトロス元第三将軍、エルガザー殿でございます」
「エルガザー殿が来たの?!」
ローズは驚いたあまり、大きな声を言った。ラカがうなずいて、中へ案内すると、そこでエルガザーとズルグンは親しげに会話している姿があった。
「エルガザー殿! わーい、お久しぶり!」
ローズがエルガザーの元へ小走りながら大きな声で呼んだ。エルガザーが杖を取って、立ち上がって、頭を下げた。すると、ローズが足を止めて、エルガザーの姿を見つめている。
命が別状がないということを聞いたけれど、実際の所、彼の足が一本しかない。目も、片目しかない。痛々しい傷痕がエルガザーの顔にあった。スズキノヤマで起きたモルグとの戦いの傷痕に違いない、とローズが瞬いた。
「お久しぶりでございます」
「その姿は・・」
「本当は、この姿で見せたくないのですが、ズルグン殿がどうしても、と仰って・・」
エルガザーが難しい顔で言うと、ローズは頭を振った。
「どうぞ、座って」
ローズがエルガザーを丁寧に座らせた。ズルグンは何も言わず、ただうなずいただけだった。
「会えて良かった。本当に生きてくれて良かった。ずっと心配したわ。女王陛下と喧嘩したぐらい、あなたのことが心配なの」
「ローズ様・・」
エルガザーが目から出て来た涙を拭いた。
「今は、何をしているの?」
「子どもたちがもう大きくなったから、妻と二人で生活しようと家を売って、そう思った矢先で妻が亡くなってしまって・・、今は部屋を借りて、飴玉を売っています」
エルガザーが言うと、ローズが耳を疑った。仮にも第三将軍だった男が、飴玉売りで生計を立てているなんて、信じられない、と彼女は思った。
「エルガザー殿の足を治します。杖がなくても歩けるようにします」
「それは・・」
「でも、その代わり、この里に引っ越して下さい。手続きと費用は私が出しますから」
ローズがまっすぐにエルガザーの顔を見つめている。
「私の体がもう弱くなったのです」
「それも治します。20代と同じぐらい、元気な体にします」
ローズがエルガザーの手を取った。
「では、私は何をすれば良いですか?」
エルガザーは逆にローズに聞いた。
「ラカ、皇子たちは今どこに?」
「今はお風呂・・」
ラカの言葉が終わる前に、走った足音が聞こえている。
「こうご、おからなしまし!」
「おからしなし!」
「おかりましまし!」
三人がローズの足を抱きしめて、キラキラとした目で見ている。ローズが微笑みながら全員抱きしめた。
「ただいま」
ローズがうなずいて、彼らにエルガザーに自己紹介させた。
「はみまて、エベユーです」
「フェーザ」
「ヒヤギ」
三人の名前を聞いたズルグンとエルガザーは思わず笑みを見せた。エルガザーが子どもたちに自己紹介した。
「素晴らしいお子様たちでございます」
「ありがとう」
ローズが微笑んだ。
「エルガザー殿、私の子どもたちに、戦い方を教えて下さい」
「ですが・・」
「その体を完全に治しますから、子どもたちに剣の使い方を教えて下さい」
ローズが頭を下げると、子どもたちも母親を真似て、頭を下げた。
「おねがします」
「おねがしします」
「ねます」
ローズは柊の言葉を聞いて、少し眉をひそめた。けれど、その後、彼女がエルガザーの様子を見ている。
「このお年寄りでよろしいのですか?」
「それが理由でダメだったら、最初から頼まないわ」
「ははは、そうでございますね」
エルガザーが笑った。
「分かりました。よろしいですよ」
「ありがとう、エルガザー殿」
「こちらこそ、ローズ様」
エルガザーが大きな笑みを見せた。ローズもうなずいて、嬉しそうにエルガザーを見ている。あの大きな熊の元将軍が、これから子どもたちの剣の先生だ。彼の第二の人生が始まったばかりだ。




