708. アルハトロス王国 貴族の愛と役目
百合とファルマンの騒動から数ヶ月が経った。ダルゴダス家ではもうすでに百合の結婚に向けて準備が行われている。その忙しい日々の中、菫が中庭で座って、本を読んでいる。
「何を読んでいるの?」
菫が声をかけた方向に視線を向けると、微笑んで、本を見せた。ローズがにっこりと微笑みながら菫から本を受け取った。
「あら、難しい本ですわ」
ローズはそう言いながら、本を読み始めた。確かに難しい。その本のタイトルは「政治とお金」だった。
「この本は誰から?」
「エルク様から頂いたの」
「へぇ?エルク・ガルタ?」
「うん」
「仲が良いの?」
「うん。この前、学校で会ったんだ。訓練の休みの日に、彼は音楽を教えに来たけど、その後、軽く会話して、仲良くなったんだ」
菫が言うと、ローズはうなずいた。
「それで彼がこの本を?」
「うん。私が経理に興味があると話したら、エルク様は東メジャカで起きた横領事件を話した。私の働きによって、たくさんの悪い役人が捕まったって」
「そう、彼が言っていることは本当よ。菫さんのおかげで、東メジャカが助かったわ。本当にありがとう」
ローズがにっこりと微笑んで、本を菫に返した。
「隣に座っても良い?」
「うん、どうぞ」
菫がうなずいた。ローズは菫の隣に座って、中庭を見つめている。
「母上に言われたけど、菫さんの縁談が来たってね。相手は宮殿の若き軍人ですって」
「興味ない、とお返事をお願いします」
「分かった」
ローズの答えで、菫は不思議が目でローズを見ている。
「意外とあっさりですね」
「だって、菫さんは私の妹ですもの。百合さんもそうだし、私自身も興味ないと思ったら、そうなるからね」
「政治道具になりたくないのは本音なんだけどね」
「へぇ」
「でもそれが無理なのね」
「まぁ、ダルゴダス家の娘として生まれた以上、それが運命かもしれない」
今年は14歳になった菫の答えを聞いたローズが微笑みながら言った。実際に、ローズの結婚について、いろいろなことがあった。政略や思惑もたくさんある。危うく戦争になるところだったことも、ローズ自身も理解している。
今度の百合の結婚も、スズキノヤマと里の駆け引きがあっても、過言ではない。
「お姉様、エルク様って、まだしばらく里にいる?最近見ていないの。音楽の教室にも顔を見せて来なかった」
「いると思うよ。彼は今ザーガ隊長のところで訓練していると聞いたけど、週末にまた里に戻るよ」
「ああ、良かった」
菫がホッとした様子でいうと、ローズは思わず眉をひそめた。
「どうして?」
「エルク様にいろいろと聞きたいことがあったから」
「へぇ」
「彼は結構経理の計算方法とか、詳しいのです」
「それは意外・・」
「あら、お姉様は知らなかったのですか?」
菫が聞くと、ローズが首を振った。
「エルク様は、経理学を卒業したんですよ」
「それは初耳だわ」
「うん。彼は経理だけではなく、その関連の学問も学んだって。すごいよね、尊敬しっちゃいます」
菫がそう言いながら、エルクからの本を見ている。
「そう、すごいね」
ローズが微笑んで、うなずいた。
「やはり菫さんのお相手となると、学問が必要だわ」
「いや、その・・」
菫は慌てて首を振った。
「まだ分からないんです」
「でも、エルクさんに対して、尊敬しているでしょう?」
「うん。私も、そんな大人になったら良いな、と思ったりして」
「そんな大人になるには、基本的に、どんなことでも根気よく物事を進めていることだよ。菫さんはすぐに飽きて諦めるから、何事も進まない」
「確かに・・」
「でも、エルクさんのような人になりたいのなら、これからはもっと頑張る!、という心を持たないといけないと思うよ」
「うん」
菫はうなずいた。その通りだ、と彼女は思った。
「実はね、エルクさんは、たくさんの学問を勉強しながら、仕事もやっている。両方、両立しているんだよ」
「すごい。ここにいても?」
「そうだよ」
「うわー・・」
菫はローズを見て、瞬いた。
「彼はガルタ家の当主だから、家のこともしっかりとやっているよ。たくさんの家臣がいるから、彼らのお給料も、いろいろと考えなければならないのよ」
「当主・・?」
菫が首を傾げた。確かに彼女は一度エルクの実家に行った。けれど、ただの宿の感覚で、一泊泊まっただけで、特別に覚えることなんてなかった。
「そして、彼も将軍だよ。菫さんは知っていると思うけど、彼はスズキノヤマの第四将軍だよ」
そう聞いた菫がまた瞬いた。
「良く分かりませんでした。最初は興味なんてありませんでした。百合お姉様のお相手だったかな、と思ったりして、そしていつの間に相手が変わって、ファルマン様になって・・」
「まぁ、父上が選んだ相手だからね」
ローズがうなずいた。これだけはどうしようもない。複数の男性が現れた場合、それらの男性らが戦うしかない。そして最終判断はダルゴダスが決める。それはダルゴダス家のルールだ。
「でも、エルクさんは百合さんと別れて、仕方がないことだと言っていましたよ」
「そうですか。じゃ、私が彼に話をかけても問題ありませんよね?」
「問題ないと思うよ。二人きりじゃなければ、基本的に、誰と会話しても制限はないよ」
ローズが微笑みながら言った。
「ありがとう、お姉様」
「うん」
ローズがにっこりと微笑んだ。
「そうだ、エルクさんのために、手料理を振る舞ってみたら?」
「え?私は無理だよ」
菫は首を振った。
「あなたは相当勉強したでしょう?」
「そうなんだけど、自信がありません。まずかったらどうしよう」
「食べてもいないのに、なぜまずいと分かったの?」
ローズが笑った。実際に彼女は昔ロッコに手料理を振る舞ったことがある。決してきれいな料理ではなかったけれど、ロッコが美味しそうに食べてくれた。
「エルクさんが週末に戻って来るから、それに合わせて、本のお礼として、彼にあなたの手料理をご馳走することも良いわ」
「うむ、私はできるかな・・」
「料理長に相談しましょう。はい、本をちゃんとお部屋にしまいなさい。汚れると困るでしょう?」
「あ、はい」
ローズが立ち上がって、微笑みながら手を伸ばした。菫はローズの手を取って、立ち上がった。そして彼女たちが軽い足音で中庭を後にした。
その日から菫は一所懸命に料理を習いに行った。料理長セティの厳しい指導の下、なんとかきれいなお弁当ができた。ガルタ家に、事前に下男が菫の招待状を届けに行ったので、ザーガの訓練から戻って来たエルクは貴族の正装で青竹学園に出向いた。
「あ・・」
菫が現れたエルクを見て驚いた。彼女は普通の服だけだった。
「私は着替えた方が良い?正装に・・」
「菫様はそのままで良いですよ」
エルクが微笑みながら答えた。彼は丁寧に菫の手をとって、口付けしてから、二人が学園の庭園に入った。学園は本日休みだから、人がいない。エルクの配下が菫の護衛官とともに場所の安全を確認してから、二人はその庭園の東屋に座った。
「今日はどうして私を?」
エルクが尋ねると、菫は恥ずかしそうにエルクを見ている。
「うむ、ローズお姉様に言われました。本のお礼をしないといけないって・・、なので、お昼を作ってみたのです」
「そうですか」
「はい」
「皇后様は今スズキノヤマにいらっしゃるのですか?」
「はい。あ、これですね」
菫は緊張した様子で侍女が持っている弁当箱を受け取って、開けて、机に並べた。
「私の手料理です。百合お姉様の腕前には勝てないと思いますけど、精一杯頑張りました。お口に合うと良いんですが・・」
菫が言うと、エルクは料理を見つめてから、再び菫を見て、微笑んだ。緊張している彼女の顔を見て、エルクはうなずいた。
「私のために、わざわざ・・、ありがとうございます。では、頂きましょう」
エルクが近くに置かれているフォークで弁当箱から料理を取って、口に入れた。
「美味しいですね」
エルクが言うと、菫の顔に笑顔が現れた。
「良かった~」
「二人で食べましょう」
「え、あの・・」
「皿は二つあったのですから」
エルクは次々と弁当箱の料理と皿に盛って、菫の前に差し出した。そしてエルクは配下から葡萄ジュースを受け取って、器に入れた。エルクがグラスを菫にあげると、自分のグラスを持って祝杯した。
「あなたの瞳に、乾杯」
「えっ、あの・・」
戸惑った菫を見て、エルクは笑って、その器の中身を飲んだ。そして料理を食べながら、和やかな雰囲気で二人は経理や会計について会話していた。
エルクと菫の食事のことがエフェルガンの耳に届いた。まさかの展開に、エフェルガンは驚いた。確かに二人の年齢の差が10歳以上ぐらいあった。しかし、恋なんて、歳は関係ない。それに、菫はあと一年で成人になるから、成人になった来年には、エルクは彼女を求婚できる。頑張れよ、エルク、とエフェルガンはそう思いながら報告書を見て、微笑んだ。二人の関係が順調にいけば、もう一人の鬼神の娘がこの国へ嫁いで来ることになる。報告書を引き出しに入れてから、エフェルガンは立ち上がって、笑みを浮かべながら執務室を後にして、ローズがいる宮殿へ向かった。
「フォレット、今日の手紙はこれだけなの?」
ローズが尋ねると、執事のフォレットがうなずいた。
「はい。本日はその三通だけでございます」
「うん、分かった。ありがとう」
ローズがうなずいて、封筒を開けて、中の手紙を読み始めた。ローズは毎日、民からの手紙を一つ一つ丁寧に読んで、返事を書く。今日の手紙の内容は離島に住んでいる女性からだった。彼女はモルグ人だ。ローズは彼女が書いた文章を読んで、手を止めた。
「どうなさいましたか?」
お茶を運んでいるフォレットと毒味役のアマンジャヤが来た。フォレットの質問に、ローズはただその手紙を見つめている。
「魔法がなくても、魔法瓶が使えると書いてあるわ」
ローズが微笑みながらフォレットからお茶を受け取った。ありがとう、と言って、彼女はそのお茶を飲んだ。美味しい、と。
「ローズ様が発明なさったあの魔法瓶でございますね」
「うん」
ローズがうなずいた。
「性能が魔法で維持する物よりか衰えているが、魔法がなくても、ちゃんと機能しているから、作って見たんだ。ちゃんとできて、良かった」
その魔法瓶は前世の記憶に基づいて作った物だとローズだけが分かっている。けれど、そのことはフォレットに言わない。
「民がお喜びになりましょう」
「うん。これからも生活に必要な物を魔法なしで作って見ようかな。魔法ができない種族のために、少しずつでも、彼らの生活が豊かになるように」
ローズが笑みを見せて、今日のおやつに手を伸ばした。これはエフェルガンの乳母である料理長のエメルのお手製の焼き菓子だった。
「皇帝陛下、御成~」
外から誰かの声が聞こえると、ローズが急いで焼き菓子を置いて、立ち上がった。宮殿の扉が開くと、エフェルガンが笑みを見せながら頭を下げたローズの元へ歩いた。
「お帰りなさい、陛下」
「ただいま、皇后。美味しそうな物を食べているね」
「あっ」
エフェルガンは微笑みながらローズのほっぺにかかった焼き菓子のかけらを手で摘まんで、食べた。
「フォレット、余にもその焼き菓子をくれ」
「かしこまりました」
フォレットが頭を下げて退室した。エフェルガンが机にある手紙を読んで、うなずいた。残りの二通もついでに読んで、うなずいた。
「順調だな」
「はい」
ローズがうなずいて、残りの焼き菓子をまた食べた。フォレットが来て、焼き菓子とお茶をエフェルガンの前に差し出した。毒味役が安全と宣言してから、エフェルガンが美味しそうにその焼き菓子を食べた。
「ファルマンと百合嬢の結婚の結婚に準備が着々と進んでいると聞いた」
「うん、百合さんは今儀式の最中です」
「儀式か。多いのか?」
「結婚当日まで計算すると、ほぼ二ヶ月ぐらいかな」
「毎日儀式?」
「毎日ではないけど、そうね、あれこれと合わせて、大体毎週ぐらいかな」
「多いな」
「男性がさほど多くなかったから、その辺りは不公平だと思ったこともあるよ」
「確かに」
エフェルガンはうなずいた。
「スズキノヤマでは、儀式はないの?」
「あったかもしれないが、結婚当日でやれば良い」
「む」
「皇女だと、まぁ、一週間前ぐらいだと聞いたことがあったが、未だにやる人がいるかどうか分からん」
「いないでしょう。だって、現役の皇女はいないもん」
「ははは、そうだな。皇女はローズが産んでくれればありがたい」
「うむ、そう簡単に言わないでよ」
ローズが文句を言うと、エフェルガンが笑って、うなずいた。すまん、とエフェルガンは口を尖らせているローズに謝った。
「だが、可能なら、あと3人か6人ぐらい産んで欲しい」
「・・・」
エフェルガンがまじめな顔でいうと、ローズの顔が赤くなった。けれども、皇帝にとって、皇子や皇女の存在が必要不可欠ものだ。国のために、子作りも仕事の一つだ。そして、ローズもそれを理解している。
「頑張ります」
ローズが小さな声で言うと、エフェルガンが微笑んで、ローズの唇に口付けした。甘い焼き菓子の味がした、とローズは一瞬に思って、目を閉じた。




