706. アルハトロス王国 鬼人の婚約者
その夜、夕餉の後、エフェルガンは一足先に青竹屋敷へ帰った。屋敷に帰ると、ズルグンとファルマンがすでに彼を待っている。エフェルガンは早速ローズの執務室に入って、二人を来るようにと命じた。
「で、どういうことか、はっきりと申せ」
エフェルガンはソファに座って、戸惑ったファルマンを見ている。ズルグンは何も言わず、ただファルマンを見ている。
「私は、ただ自分の不安を言っただけでございました」
ファルマンは難しい顔で答えた。
「不安とは?」
エフェルガンはファルマンを見て、尋ねた。
「私は、事実上、新規貴族でございます。経験したこともなく、想像することすらございませんでした。元々貴族の百合嬢と違って、私は貴族の生活を経験したこともございません」
ファルマンが答えると、エフェルガンは無言で彼を見ている。
「二人が結婚したら、何をするか、少しずつ想像しておりました。ズルグン様の教えもございますが、貴族の生活をなんとなく想像できるようになりました」
ファルマンが息を呑んで、ずっと無言で見つめているエフェルガンを見ている。
「百合嬢に、そのことを言うと、彼女が微笑んで、心配は要らない、と仰いました」
「それで?」
「ご自身を、自分で守れるから、問題ない、と仰いました」
「ふむ」
「ですが、私はそれを否定致しました。確かに百合嬢がお強いと分かっております。が、戦闘経験が全くなしに等しいとなると、このことが大変危険だと存じております。なので、結婚したら、彼女にしばらくの間、屋敷にいるようにと願いました」
「彼女がそれを断った・・か?」
「はい」
ファルマンがうなずいた。
「それで喧嘩になったのか」
「はい」
ファルマンがため息交じりで答えた。エフェルガンもため息ついて、考え込んでいる。
「その方は、どうしたい?」
長い沈黙の後、エフェルガンが聞いた。
「私は百合嬢を扱いきれない、と自覚しております」
「ふむ」
「今の私が、彼女を守れる自信がございません」
「ふむ」
エフェルガンがまた考え込んだ。
「半年後のその方は、今と比べられない力を持つだろう」
「それでも、やはり私には無理でございます」
ファルマンは悔しそうに言った。
「可能なら、私は辞退致したく存じます」
「ふむ。辞退したら、その方の貴族位も剥奪されるよ?」
「仕方がありません。私の力不足でございます」
「ふむ」
エフェルガンがまた考え込んだ。彼が思った以上にこの問題は深刻だ。
「分かった。とりあえずこのことを保留する。その方は今まで通り、頑張って訓練を受けよ。勉強も、しっかりとやるようにせよ」
「はい」
「下がって良い。ズルグン、しばらく残ってくれ」
ファルマンが頭を下げて、部屋を出て行った。
「ズルグン、なぜ彼があんなに自信を失ったか?」
エフェルガンはズルグンに尋ねた。
「恐れながら、私にも分かりません。ただ、あの喧嘩で、彼の自尊心がかなり傷付いてしまったではないか、と思っております」
「百合嬢と激しく喧嘩したのか?」
「激しく、と申しますと・・、はい、そうでございますね」
「まさか、口喧嘩ではなく・・」
「その通りでございます。百合嬢とは、その、殴り合いの喧嘩でございました」
「・・・」
「ファルマン殿はまったく反撃しておりませんでしたから、負けたのでございます」
「反撃したら、彼は勝てるのか?」
「難しく存じます。いいえ、恐らく、無理でしょうねぇ」
百合はファルマンよりも強かった、ということだ。
「ふむ」
エフェルガンがため息ついた。
「だから彼が自信を失ったのか」
「私どもはそう思っております」
ズルグンはうなずいた。
「ケルゼック、ガルタ将軍を呼んでくれ」
エフェルガンがしばらく考え込んだ後、側近のケルゼックに命じた。ケルゼックが驚いたが、彼はうなずいて、外へ出て行った。
「陛下、ガルタ将軍が参りました」
「通せ」
エフェルガンはため息ついて、扉から入って来たエルク・ガルタを見ている。
「お呼びですか、陛下」
エルクがエフェルガンを見て、尋ねた。
「ああ」
エフェルガンがため息ついた。
「その方はまだ百合嬢を好きか?」
「それを答える前に、訳をお尋ねしてもよろしいですか?」
エルクが答えず、逆にエフェルガンに聞いた。エフェルガンはため息ついて、ファルマンと百合の喧嘩を話した。
「なるほど。だから外で彼があんな様子だったのか」
「外でまだいるのか?」
「はい。ガレー殿の店の近くで彼が座って、空を見つめている様子でございます」
エルクが言うと、エフェルガンはまたため息ついた。
「余は、彼の願いも、その方の願いも、そして百合嬢の願いを可能な限り、手伝うつもりだった」
エフェルガンがまたため息ついた。
「最終的に百合嬢の婿に選んだのはダルゴダス公爵だったが、全員が納得した結果だと思った」
エフェルガンはため息ついた。
「陛下、タマラで百合嬢から聞いたことがございました。彼女が家に閉じ込められて、ただ子どもを産めば良いという生活が苦手らしいでございます」
「ファルマンが申したことはまさしくそれだと思うがな」
「そうでございますか」
それを聞いたエルクもため息ついた。
「そうなると、百合嬢はわざとその婚約を壊したのでしょう」
「わざと?」
エフェルガンは耳を疑った。
「はい」
エルクがうなずいた。
「それでもできないなら、結婚してもすぐに離婚するでしょう」
「それはまずい」
エフェルガンがため息ついた。貴族同士の離婚は問題になるからだ。
「だが、ファルマン殿が新規貴族であることも理解しているつもりでございます。彼女の守りに悩んでいることも理解するが、私なら、彼女を自由にさせます」
「それは大変危険だと思うが?」
「彼女は鬼人で、私よりも強いでございます」
エルクはためらいなく答えた。
「彼女の周囲に、暗部と数名の剣士を付ける。それだけで十分でございます」
「彼女が襲われたら、どうする?」
「暗部の一人に、助けを呼ぶ人がいれば、大丈夫でしょう。彼女自身が助けが来るまでなんとかなりましょう」
「ずいぶんと彼女を高く評価したな」
「彼女は皇后様の妹君でございます。なので、彼女はそれなりのお力を持っているでしょう。実際に聞いた話だと、彼女はあの謀反軍に向かって覇気を発したそうでございます」
エルクが微笑みながら言った。確かに、とエフェルガンはうなずいた。
「ですが、百合嬢のことを今でも好きでいる私は、タマラ州の領主になるのが、可能な限り、遠慮したくと存じます」
「ふむ、分かった」
エフェルガンがうなずいた。
「結論的に、その方は今でも彼女のことが好き、と」
「そう思ってくだされば、ありがたく存じます」
エルクが丁寧に頭を下げた。エフェルガンは考え込んだ。確かにガルタ家の力では楽に百合を守れるでしょう。代々将軍としてやっているその一家は、自衛する手段を持っている。将軍として支えているのもガルタ家出身の暗部や兵士らだ。だからエフェルガンは彼を失いたくない。
突然扉がノックされて、護衛官の一人が見えた。
「失礼致します。陛下、皇后様がお帰りになりました」
「ここに来るように、と」
「はっ!」
彼はうなずいて、部屋を出て行った。そしてしばらくすると、ローズが見えて来た。
「あら、ガルタ将軍もいる」
ローズが彼を見て、微笑んだ。だから外でガルタ将軍の配下がいるんだ、とローズは思った。大体何のことか、彼女は理解している。
「ローズ、百合嬢と話し合ったか?」
エフェルガンは頭を下げたローズを見て、うなずきながら尋ねた。
「ええ、話し合ったけど、ここで言っても良いの?」
「構わん」
エフェルガンがうなずいた。ローズはうなずいて、百合との話し合いの内容を何もかも報告した。
ファルマンとエルクの言う通りだ、と。
「要するに、彼女がどうしたいか、まだ分かっていない」
「そうなります」
ローズがうなずいた。
「一応父上が、二人とも冷静になってから、二人を呼んで、どうしたいのかを確認したい、と言いました」
「具体的に、それはいつごろ?」
「三日後です」
ローズが答えた。
「陛下、皇后様に質問してもよろしいでしょうか?」
ズルグンが頭を下げながら聞いた。許す、とエフェルガンがうなずいた。
「ありがとうございます。皇后様、もしも婚約が解消されたら、どうなりますか?」
「うーん、母上から聞いた話だと、非が誰にあるか決まるらしい。この場合、百合さんが先に言い出したから、ダルゴダス家側から謝罪がある。またファルマン殿のための教育など、恐らく約束通り、最後までやると思う。その費用が何割か負担するでしょう、と聞いたわ」
「分かりました。ありがとうございます。質問は以上でございます」
ズルグンは頭を下げて、礼を言った。
「分かった。余もその日に、ここにいよう」
エフェルガンがうなずいた。
「ガルタ将軍、その方が後回しになるのだが、万が一、百合嬢とファルマンとの婚約が解消された場合、ファルマンの後を継いでくれるか?もちろん、将軍としての役目も今のままで」
「喜んで承ります」
「だが、もしも百合嬢が婚約を解消しないと言ったら、この話はないと心得よ」
「かしこまりました」
エルクが頭を下げた。エフェルガンがうなずいて、今日はエルク達を下がらせた。
エルクがズルグンと一緒に屋敷を出ると、ガレーの店の前にいたファルマンがいなかった。彼らはそのままそれぞれの家に帰った。
「ここにいるのか?」
ファルマンに声をかけたのは家主のジャルダだった。
「ああ」
ファルマンがうなずいた。
「聞いたぞ。お主が派手に喧嘩したらしい」
ジャルダがそう言いながらファルマンの隣に座った。やはり警備隊だから、情報が早いか、とファルマンがうなずいた。
「笑いたいなら、笑っても構わん」
ファルマンがため息ついた。事実、彼は負けた。反撃しないからではなく、反撃しても百合には勝てないと分かったからだ。女性だから殴りたくないという理由もあるけれど、・・。
「笑わないよ」
ジャルダがファルマンの気持ちを察して、飲み物を差し出した。ファルマンがそれを受け取って、ため息ついた。
「百合様は鬼人だから、強いよ。女性で武人ではないからと言って、決して弱くない」
「そうだな。今それを理解した」
「ああ、断言できる。ダルゴダス様のお嬢さんたちは全員強いよ。だって、あのダルゴダス様と喧嘩するほどの腕前だからな」
ジャルダが言うと、ファルマンは彼を見ている。
「信じられないだろう?」
「いや、なんというか、・・喧嘩したという話は聞いたことがある。あの日も戦ったし・・」
「ダルゴダス様はわざと手加減しているんだ。唯一、戦って反撃したのはローズ様と戦った時だけだった」
「殴ったということか?」
「そうだよ」
「あの御仁が?娘に?」
ファルマンが耳を疑った。
「何を寝ぼけているんだ?女性でも、戦うとなると、甘く見てはいけない。だって、死ぬぞ?相手が女性だからと言って、反撃してはいけないというルールはどこにもないぞ」
「分かっているんだけど、だがなぁ・・」
ファルマンがため息ついた。
「あなたは知らないだろう」
「何を?」
「ダルゴダス様の胸に痛々しい傷痕があったことを」
「あったような、ないような・・、すまん、覚えていない」
ファルマンが首を傾げながら聞いた。
「まぁ、ここにいれば、いつかそれを見られる機会があるのだろう」
ジャルダが笑って、手にした飲み物を飲んだ。
「あれはローズ様が付けた傷だ」
「へぇ」
「それはどういう意味か知っているのか?」
「彼女が戦えた、ってことか?」
「ははは、それは確かだ。この里の女性が誰もが戦えると言えばそうだが、違うね」
ジャルダが手にした飲み物を飲み干した。
「ダルゴダス様に、傷一つを付けるのに、俺たち武人ですら難しい。極めて難しいと言っても過言ではない。手加減されたこととはいえ、当時まだ幼いローズ様がダルゴダス様の胸に傷を負わせた時点で、俺たちが一瞬で分かった。彼女は途轍もなく、危険だ。だからダルゴダス様は彼女を押さえる必要がある。それで彼が強いことを彼女に示したことで、戦いが終わった。まぁ、あれで屋敷も半壊して、複数の建物も壊れた。グラウンドに大きな穴ができたぐらいだった。とんでもない親子喧嘩だった」
ジャルダがファルマンの顔を見て、まじめな顔で言った。
「はい」
ファルマンが瞬いた。
「だけどな、その前に、百合様もダルゴダスと戦ったんだ。ダルゴダス様が反撃する前に奥様が来て、戦いを止めたけどよ」
「はい」
「あの戦いでね、屋敷が更地になったよ」
「ダルゴダス様の攻撃で?」
「まさか」
ジャルダはそう言いながら、ため息ついて、首を振った。
「百合様がやったのか?」
「ああ。俺たちだって目を疑ったよ。あのかわいらしい女の子があまりにも怒って、屋敷の一部が、一撃で消えたよ。きれいさっぱり、とね」
「・・・」
「だから、あんたが負けても、笑わないよ。だって、相手は鬼人だからな。女でも、鬼人は鬼人だ。間違いなく、彼女は強いよ」
「そうか、ありがとうよ」
ファルマンは微笑んで、うなずいた。
「そんな鬼人に求婚したあなたもすごい、と素直に思ったけどな」
「俺は多分もう無理だ。百合様が婚約解消をするだろう。意気地なしの俺が、彼女のそばにいるべきではない」
ジャルダの言葉を聞いたファルマンはため息交じりに言った。
「まぁ、そのことに関しては、俺は何も言わない。あれは百合様とあなたの間のことだからな。だが、あれであなたが貴族から外されるんじゃないの?」
「そうだね。彼女を失って、貴族の位も剥奪されて、俺がもうすでに皇帝陛下直属護衛官の仕事も失って、これからどうするかと考えるだけでも頭が痛い」
「なら、うちにきな」
ジャルダが微笑みながら言った。
「国籍に問題があるなら、俺が保証人になってやるよ。あなたは結構才能がある。この家の罠にびびっていないだけでも、大きく評価するよ。ははは、大したもんだ」
「考えておくよ」
「ああ。元気出しな。明日も訓練があるんだろう?」
「はい」
「なら早く寝ろ。でないと、明日が大変だ」
「ああ。お休み」
「お休み」
ジャルダが家の中に入ると、ファルマンは手にしている飲み物を見つめている。今更、と彼が気づいた。これはお酒だった。しかし、彼が笑った。なぜか気が楽になったと彼は感じた。器の中身を全部飲み干してから、ファルマンが立ち上がって、自分の部屋に入った。




