つかまえた。けれど
長い、黒髪。
明るく軽い印象の彼女とは対照的に、まるで平安時代を彷彿とさせるような腰よりも長い黒と、質感の違う黒が目に入る。
近づく。
反射的に駆け出し、オレはその背へと手を伸ばしていた。
「――アシュア!」
携帯電話が、地面の石畳を滑っていく。
漆黒のスーツ越しに掴んだ腕は、細かった。レンズの奥で驚愕に大きく見開かれた瞳も、闇に近い大地の色合いだった。
それが、細められる。
「離して」
驚きに比して、冷徹な声音を響かせた。怒りや苛立ちの混じったそれを無視し、オレは携帯電話を拾い上げ、その腕を掴んだまま引っ張る。
冗談じゃない。
あれから、どれくらい経ったと思ってるんだ。
「片桐君!?」
「ちょっとそこで待ってて!」
カフェの前は目立ちすぎる。
まともに話す気のなさそうなひとに逃げられまいと、オレは図書館への通路のほうへと場を移した。幻界ではなく現実だが、やはり女性だからだろう。掴んだ腕を逃れようと振りほどこうとしていたが、その力は弱弱しかった。
まずは携帯電話を質に取ったまま、腕を離す。ちらっと見た画面はブラックアウトしていた。
「アンタ……っ、何考えてんの!?」
「話したかっただけだって」
「はぁ?」
「この前、逃げただろ」
険しい表情が、指摘を受けて一瞬視線をさまよわせる。神官らしいおひとよし具合は変わらないようだ。
よほど掴まれた側の腕が痛かったのか、撫でさすりながら、そのひとは視線をこちらに戻した。
「何のことだか。とにかく、ケータイ返して」
「返したら逃げるだろ」
小さな溜息が、その唇から漏れる。
肩から落ちた髪を後ろへと流し、かぶりを小さく横に振った。
「話だけならいいわ。厄介なことになるから、先にケータイ返して。……アンタ、皇海学園の警備員にしょっぴかれたいの?」
そうして、手が差し出された。
どこか確信に満ちた、しかも具体的な内容に、オレは即座に携帯電話を返す。あからさまにホッとした様子で、相手は肩から力を抜いた。その指先が画面をフリックし、何かを操作している。
よかった、こわれてはいなかったようだ。
最後にタップし、画面を落とす。しかし、即座にその携帯電話は点灯した。ロー、という文字が表示されているのは、見えた。
目の前で操作されているのだから、見ずにはいられない。
その視界から、携帯電話は鞄の中へと放り込まれていった。
「……出ないのか?」
「だいじょうぶでしょ。よかったわね、こっちも見過ごしてくれるみたい」
視線がオレから、横にそれていく。振り向けば、通路の奥のほうで警備員が立っていた。身体を強張らせると、相手は逆に、軽く警備員のほうへと手を振ってみせた。
「間一髪ね。皇海学園はどこもかしこも防犯カメラだらけだから、トラブルにおわせると警備員さん走ってくるの。気をつけなさいよ」
愛想のよいところは同じだな。
しかし、オレを見上げると、打って変わって冷たいまなざしへと変わる。やや声を低め、そのひとは尋ねた。
「で、何? 話って」
「――何で逃げたんだよ」
「そこから!?」
オレとしてはショックだったのだが、どうやら相手にとっては驚きらしい。いや、だって逃げる必要ってあったか? あれ。
「リアルでゲームの知り合いに会ってびっくりしただけよ」
「だから、今も逃げたわけ?」
「そう」
あきれ顔ではあったが、嘘は見出せなかった。
ずっと、あの時のアシュアには喜びと対極に位置するものがそこに在ったように見えて、否定ばかりをつきつけられたように感じていた。
それだけのことかと知れば、少し気持ちが楽になった気がする。
「納得できたなら、早く戻ってあげなさいよ。さっきの子、彼女じゃないの?」
「……」
腕組みをしながら促すスーツの女性は、どこからどう見ても凛々しい。最初に見た、あのテントの中での働きぶりと十分に重なる姿だった。
それほど、リアルもゲームも変わらないんだなと思いながら、オレはことばを選んだ。
「まだ話は終わってないだろ」
「大学構内に女子高生ひとり置いといちゃダメって言ってるの。今日が何の日か知らないわけじゃないんでしょう? ナンパされるわよ。ったく、デートするならここじゃなくったっていくらでも場所はあるでしょうに」
打てば響くように、つっこみは返された。
ゲーム内の声よりも、低めの音。
ナンパされたとして、彼女はどう出るだろうか。
……一夜の恋もアリかとついていってしまいそうだ。
遠距離恋愛はイヤなのだから、近距離短期間ならいいだろう。しかも、クリスマスに彼氏がいないのはという理由を含めると、問題点が喪失する羽目になった。
「まあ、その時はその時かな」
「はいはい、ごちそーさま! 青少年保護育成条例違反で捕まらないように祈ってあげるわ」
「せ?」
「十八歳未満の男女との……って説明させないでよ。雰囲気でわかるでしょ!?」
自分で言いながら頬を赤らめる様子に、わかった。
わかったが。
オレは苦笑して、否定する。
「まあ、だいじょうぶだって。オレもあっちも十八になってるから」
「……へ?」
「ついでに言えば、お互いもう進学先も決まってるんだ。だから、心配いらないよ」
赤らんだ顔が、またもや驚きに変わる。
そして、ばしばしと自分の髪が顔に当たるほど、かぶりを横に振った。
「あー、もう! ってことは後輩なわけ? 口の利き方には気をつけたらどうなの!?」
「そういえば……そうでした」
この学内にいる大学生であれば、すべからく自分の先輩にあたる。オレは居住まいを正した。
「あと、現実なのにゲームの名前で呼ばないで」
「って、名前、知らないんですけど……」
「先輩でいいでしょ」
アシュアが先輩かー、と思うと、来年からの大学生活が楽しみになる。発言からして法学系らしいので、おそらく専門教科で会うことはないだろうが。
オレは首筋に手をやった。手の熱さが、冷えた首をあたためる。
うん、これは逃せない。
「先輩」
「……何?」
「連絡先、教えて下さい」
「アンタがナンパしてどーすんのよ!!?」
いや、ナンパのつもりはないんだけど。
ちなみに、口説いているつもりもない。
あの魔術師とリアルの連絡先を交換するくらいなら、オレとしたってかまわないじゃないかと思っただけだ。
幻界のβ2に合わせて、ログインもできるし。
一緒に遊べたら。
そんな安易で浮かんだ提案に合わせて、もうひとりの神官の姿が思い出された。
冷えた空気が、更に冷えたようだった。
首筋の冷たさは手の熱さを奪う。オレはその手を握り締め、下ろした。
また、会える。
まだ、会える。
まだ、会えない。
もう、会えない。
忘れたわけではなく、ただ日常に埋もれさせて遠ざけておいた記憶が、心まで冷やす。
ああ、違う。
これは、頭が冷えたのか。
「……ちょっと、どうしたの?」
胸の奥にある、見たくないものをまともに見てしまった衝撃で、とっさにことばが出ない。怪訝そうに、その中に心配の色さえ浮かべて、そのひとはオレの顔を覗き込んだ。
「片桐君、まだー?」
遠く。
彼女の声が聞こえた。
途端、その身体は離れていく。
「どんな一日でも、楽しく過ごしたもの勝ちよ。私も、友達とこのあと予定があるの。じゃあ……またね」
スーツ姿は身を翻して、図書館のほうへと姿を消す。
入れ替わるように、彼女が腕にまとわりついてきた。
「ここの……院生?」
知らない。
学年も、大学生なのか、院生なのかすらもわからない。
「ん、先輩」
でも、否定のことばは出したくなくて。
オレはただ、事実だけを口にした。
彼女はふぅん、と関心もなさげに相槌を打つ。
そのあたたかさが、今はただ、ありがたかった。




