誰もいないはずの世界で
風が吹く草原、鬱蒼とした森、潮騒の響く海辺、赤土の露出した山岳地帯……風景は瞬く間に切り替わっていく。魔物の姿こそ見えないが、ファンタジー感を醸し出すそれに息を呑んだ。
途端。
世界は現実のものとなった。
どことなく見覚えのある光景は、次々と変容していく。遠景から近景へとフォーカスされる視点変更は、記憶をなぞるようなものだった。
日本らしい雑多なオフィスビル街、視点が切り替わり、その内部の事務所らしき場所が映る。アーケードのある商店街から、ブティックや美容室へ。ショッピングモールから、映画館へ。どこかの学校から、教室へ。
そして、タイトルコール。
――まぼろしの自分、と、低い男の声音が耳元で囁いた。
砕け散る視界に、弾かれるように浮かぶ文字。
それもまた砕け散り、世界は黒に包まれる。
にもかかわらず、浮かぶ自分だけはどこか知覚できていた。
「ようこそ、あの場所ではないこの場所へ。
このゲームは、望む姿となり、好きな場所を散歩できるソフトウェアです……」
説明は続く。
オレは呆気に取られ、脳裏にその内容をリフレインした。
散歩。
出逢いも戦いもない、まぼろしの自分を堪能するためだけの、ゲーム。
その内容を理解している間に、見た目が男女の特徴を持ったマネキンが二体、視界に現れた。
そこから先は、幻界によく似ていた。
キャラクター・クリエイトは正直、どうでもよかった。あの世界でのように、またVRの空間を自由に歩いていける。そう思っただけで、気が急いた。
移り変わった風景のどれでも選ぶことができたが、時間は限られている。
オレは、最初の……草原を選んだ。
風が髪を、服をはためかせる。鼻についたのは、緑の匂いだ。
どこまでも広がる草原は、芝生のような整然さだった。膝よりもやや下あたりにまで伸びた草が、足元をくすぐる。遠方に、微かに、山のような影が見える気がするが、それ以外は灌木すらも見えない。
手も、足も。
服の色も。
あの時の自分と、同じものだった。
両手を握りしめても、今はもう剣はない。
だから、オレは何となく、ただ歩き出した。
山の影を、追うように。
どこにも魔物の姿はなく。
命を狙われることもない空間だった。
風が強いために、雲がたなびいている。歩く速度よりも早い動きに、上空の様子が容易くわかった。
否。
そこまで想像できるほどに、よくできたフィールドだった。
まるでレベルアップし、成長した時のように、身体の重さは殆ど感じない。
ただ、気持ちが引きずられている。
徐々に幻界に心が飛び、光景を意図的にあの世界へと重ねようとする。
散歩だと、最初の説明にはあったのに。
思わず、走り出した。
散歩が目的ならば、このような草原など繰り返しの空間にしてしまえばいい。
理屈がすぐにわかり、この世界に果てなどないと悟りながらも、どれだけ駆けても疲れを知らない身体の動きが、更にあの男を意識させた。
――まぼろしの自分じゃなくて、さ。
求めるモノが、脳裏に浮かぶ。
どれだけ走っても、何にも足を取られることはない。息切れもしない。
小さな相違に納得と虚無感を抱く。
それでも、駆けているからこそ、靴の裏に軽い衝撃を受け、地を蹴り、より強く風を受ける。
そういった作りにも、感心した。
幻界のように、この世界もまた、続いていくようになるのだろうか。
なら、同じように。
この体験が終われば、この世界も。
「――えっ……」
不意に。
視界に、小さな人影が映った。
驚きに速度が弱まり……しかし、完全に止まるより早く、オレはまた速度を上げた。
青い、人影。
草原に佇むそれは、近づくにつれて大きさを増す。
その誰かもまた、こちらに気付いたようで、大きく手を振ってくれた。
確かに「誰か」なのだと。
口元が緩む。吐き出した息が、熱い気がした。
その服装や髪の色合いが判別できるほどまで近づいた時、その瞳すらも、オレを見て目を瞠ったように思った。
知っている。
その姿を、確かに、オレは。
声に出して、彼女の名を呼ぼうとした。
なのに、その姿は――消えた。
タイムリミットの十分と、先客を思い出し。
オレは、タイムリミットを待つことなく、終了を強く意識した。
メニューは一切、視界に浮かんでいなかった。
それでも、安全装置は働いた。「終了しますか?」のやけに落ち着いた声音と同時に出た選択肢を、拳で打つ。
途端に、ずっしりとした身体の重さが蘇った。先ほどまで立っていたはずが、急に横たわっているという違和感を蹴り飛ばし、視界を覆うものをむしり取る間にも、あのスタッフの声が聞こえた。
「うぇっ!? お客さん、ちょっと早いんじゃね?」
「あっれー? 何かマズかったかなあ」
VRユニットを外せば、視界を白っぽい光が埋めた。
僅かも待たず、そのエアーベッドへとオレは目を凝らす。
だが、そこには外されたままのVRユニットしか、もはや残されてはいなかった。
「――あの、ここにいたひとって」
どういえばいいのかわからず、オレは縋るようにコスプレをした女の子へ問いかけた。首を傾げた彼女は、その目を瞬いた。
「え、なあに? お客さん、さっきのひとと知り合い?」
「VR酔いでもしたのかもな。顔顰めて出てっちゃったよ。あ、感想……」
客引きの男が答えた内容に、オレもまたVRユニットを置いて飛び出す。
しかし、講義室の外では、まばらに人が行き交うのみで。
廊下を見回しても、記憶に残った現実のあのひとは見つからなかった。
まさか、現実でその名を叫ぶわけにもいかない。
だが、思わず、ことばは出てしまった。
「――また会おうって、言ってただろ……っ」
あの世界を求める自分と。
何となく、あの神官も同じなのではないのかと思った。
会って何をするかとか、そういう細かいことじゃなくて。
ただ、本当に、ことばを交わしたくて。
すべてがまぼろしじゃなかったと――確認したかったんだ。
何もかもがまぼろしだったんだと。
そんなものはありはしないのだと。
何かに嘲笑われるような感覚が胸を占める。
壁へともたれかかる。
深く、深く。
苦い溜息が出てもなお、心の中の澱が残っていて。
夢の欠片を掴み損ねたことに、オレは強く後悔していた。




