長い、一日
時計の針は夕暮れ時を指していたが、室内は断熱遮光カーテンのおかげで闇の帳が降りたかのようだった。VRユニットを外した視界はうすぼんやりとしていて、何もかもが危うい。
ローテーブルに放った眼鏡を指先の感覚で掴み、掛け直す。足元に転がった様々なモノが、今は邪魔に感じた。
まず、幻界の公式サイトを確認したが、殆どがサービスチームからのメッセージの繰り返しだった。そして、予想通りの内容が無情に記載されていた。
――プレイヤーデータを含む、全データのリセットを行ないます。β2テスト実施時には、当該プレイヤーのβテスト終了時における経験値によるレベルの反映、及び、スキルポイントをリセットした状態で改めて付与可能にいたします。
全データのリセット。
その文章は何度読み返しても、内容は変わらなかった。
公式サイト内にある掲示板だけではなく、幻界でひっかかるサイトやSS内の流星群などはすべてチェックした。
幻界のチュートリアルに対する批判が炸裂しており、その次に運営に対する誹謗中傷が多かった。だが、つい先ほどのメッセージ後からは、急なβテスト終了に対する不満が書き連ねられている。
死を伴う始まりの案内は、特に自身の死とサポートキャラクターの死に対しての内容に問題があるというのが、大多数の意見だった。その点について、オレ自身も同意見である。やはり、運よく生き延びることができたミラの存在は、先へ進むにつれてその大きさを増していく。回復職なのでなおのことだ。
「――皓星、ごはんよー」
軽いノックとともに、母の声が聞こえた。
ほんの少し検索をかけただけのつもりが、気がつけば軽く小一時間が過ぎていた。夕暮れ時から夜へと時間は移り、「ごはん」の単語に空腹を思い出す。
立ち上がり、すぐにドアを開く。
すると、リビングに戻ろうとしていた母がくるりと振り向いた。
「え、もう食べる?」
「……できたんじゃないのかよ」
「できてるけど、いつもすぐ出て来ないじゃないの」
己の胸に手を置いて考えるまでもなく、返すことばがなかった。
すぐに出て来ないことを見越して、テーブルにはごはんと汁物がまだ出ていないようだった。ぼんやり待つつもりが、やはり気になる。携帯電話を片手に検索をと指先を動かせば、茶碗が目の前に置かれた。
「ご・は・ん」
ややキレぎみの母の声に、即座に携帯電話をポケットに仕舞った。
炊き立てのごはんに、野菜たっぷりの豚汁、何種類かの揚げ物にサラダという夕食は、汁物を残してやっつけやすかった。
「もうちょっとゆっくり食べたら?
そういえば、せっかく会ったのに、昼間も結名ちゃんとあんまり話してなかったでしょう」
「受験なんだから、遊んでる場合じゃないだろ」
「あれだけ真面目に勉強してるんだから、たまには息抜きにどこか誘ってあげたら?」
「全部断られてるし」
「――ふがいない……」
向かい合わせに座る母に、ひとしきりこき下ろされる。
未だに熱い豚汁は、ふーっと吹いてもなかなか冷めない。エアコンは程よい涼しさを保っているが、熱いものを口にしたせいで噴き出る汗はどうしようもなかった。
ログイン前に、シャワーを浴びるか。
「一応、VRユニットの予備は買ってあるんだけどさ……もうβテストも終了だって言われて」
「皓星? 誰がゲームに誘ってあげてなんて言ったの?」
「――」
母と生きる世界の違いを思い出し、オレは具だけをとりあえずピックアップして口に放り込んだ。よって返事はできない。残念。
視線を逸らしてひたすら汁椀を握り締めていると、母は席を立って、冷蔵庫から何かを取り出した。
「結名ちゃんには昼にあげたんだけどね」
真っ白なレアチーズケーキをカットし、ラズベリーのソースまで添えて提供される。ようやく豚汁を飲み干し、オレは息をついた。
「アイスコーヒー」
「はいはい」
たっぷりの氷入りのグラスに、ペットボトルのコーヒーが注がれていく。そのあいだにレアチーズケーキを大きめにフォークで切り分け、口に運んだ。極めつけに満腹になりそうなのだが、このまま横になってゲーム中に寝たりしないのか心配だ。
差し出されたグラスに無言で手を伸ばす。
すると、それは軽やかにオレの手を避けた。
「暇なら、おでかけに誘ってあげてね」
「――わかった」
息子との邂逅は食事時程度、となっている母にしてみると、必死の交渉なのだろう。ただ、今はとにかく時間が惜しい。
適当に返事をして、オレは残りのケーキと、コーヒーを飲み下した。




