不満
ゆらゆら、揺れる水の中。
その水面の向こうに、光が見える。
――あれ?
『死』を思い出した途端、気管にまで水が入ってきた。咳き込みながら、身体を起こす。頭が水面から出て、ようやく息ができた。喉が痛い。
「お目覚めか、命の神の祝福を受けし者よ」
水は胸ほどまでの深さだった。冷たいというよりは、冷たさの中にぬるさを感じる。だが、下着も靴もぐっしょり濡れた感触は、いただけない。
顔を、手の甲で拭う。それでようやく、声の主を見ることができた。
あの、案内役だ。
名前は緑表示に戻っている。
灰色の髪、灰色の瞳、神官服の中年の男は、水辺の縁から見下ろしていた。
「ここは命脈の泉。大神殿の奥深くに存在する。そなたたちにとっては死後に目覚める聖域だ」
視界の端のステータスは、全てが半減している。これがデスペナルティなのだろう。
咄嗟に腰帯に手を伸ばす。が、そこに短剣はなかった。
案内役は目を細めた。
「なかなか、順応しているな。
そなたたちが死した時、持ち物の何かが命を落とした場所に遺される。それは、金銭、装備、道具袋……様々な可能性がある。今回は、これだ」
一振りの短剣が、案内役の手にあった。男の腰帯には同じものが吊るされている。要するに、自分の遺品がアレなわけで。
「死すれば、失われるものも多い。せいぜい足掻くことだ」
その場に、短剣を置く。
案内役は身を翻した。そして、石造りの建物から、四角く切り取られた出入口を通り……姿を消す。
とんだチュートリアルである。
泉の縁に手を掛け、軽くジャンプして出る。プールの中から飛び出す要領だったが、服付靴付なので最悪だ。ぼたぼたと足元に雫を落としながら、短剣を拾う。
そのさなかも、息が切れる。身体が重い。座り込みたくなって、少しためらったが、構うものかとそのまま座り込んだ。聖域だというが、今は自分以外、誰もいない。
「お兄ちゃん!」
その声には、妙に聞き覚えがあった。出入口から響いたそれに視線を向けると、黒髪の少女がいた。先ほど見た灰色の神官服の白のミニバージョンに身を包み、手には木製の杖を持っている。ミラ、と緑表示された名には、当然、見覚えがない。しかし、その少女は自身へと駆け寄り、痛ましげにあちこちを見て、力なく膝をついた。自身と同じ、黒の瞳が弱弱しく揺れている。
「お兄ちゃん、ホントに『命の神の祝福』を受けちゃったんだね……」
そうか、これ……っ!
唐突に、分かった。
ミラという少女の声は、自分の従妹のものにそっくりなのだ。
たったそれだけで、嫌悪感が襲う。
死、記憶、そして……幻界は、自分にこの上、何を与え、奪うつもりなのか――。
「――誰?」
尋ねた声音は低かった。
キャラクタークリエイトでは、音声も選べる。完全なオリジナルを選んでもいいし、元々の自分の声をベースにしても作成可能だ。
オレは、自分の声をベースにして、やや低めの音声を作成した。身体の中に響く声音に違和感はさほどない。ただ、彼女への問いかけは、硬質で突き放した物言いにならざるを得なかった。
ミラは驚いた。目を瞠り、こちらをじーっと見ている。その容貌はまさに「妹」で、シリウスの外見から血縁を思わせるようなものを拾い上げていた。ただ、わざとらしいほど愛らしい見た目になっている。「妹」のくせに。
「え、と、記憶、ないの?」
「少なくとも、あんたに関しては」
これも、チュートリアルの続きのようだ。
恐らく、サポートキャラクターだろう。想像がついても、こんなものを連れ歩きたくはない。
邪魔だ。
困った様子で首を傾げ、ぷーっと頬を膨らませる。
その仕草ですらも従妹を思い出させて、イラつく。
「この世でたったふたりっきりの兄妹なのにぃっ」
「知らん」
皓星に、妹はいない。
幻界のシリウスにそういったものがいたのだとしても、知りようがない。少なくともキャラクタークリエイトで「家族構成」の選択肢はなかった。
「ひどっ。覚えてなくったって、わたし、お兄ちゃんの妹なんだからね!?」
「だから、知らん。ついでに言うと要らん」
「がーん……」
今どきの女子高生でも言わない気がする発言をしつつ、ミラは本当に蒼白になっていた。ふるふると杖の先が震えている。
「わ、わたし、お兄ちゃんが選ばれたって聞いて……」
「選ばれた?」
「命の神に……だから、死んじゃったけど、生き返ったって。まともに動けないだろうから、家に連れて帰れって」
「――案内役にか」
頷くミラに、溜息が漏れる。
確かに、ここで座り込んでいても、デスペナルティは一向に改善する余地が見られない。時間経過が必要なのか、特殊な治療が必要なのかはまだ判断がつかなかった。サポートキャラクターが必要な状況、と受け取るほうが正しいのかもしれない。
――まあ、普通、可愛い女の子が出てきて「お兄ちゃん」呼ばわりしてくれりゃあ、喜ぶよなあ……
よりにもよって、従妹の声でさえなければ、自分もこれほど腹を立てなかっただろう。
「お兄ちゃん」と呼ばれる度に、苛立つ羽目になりそうだ。
しかも、見た目もどことなく、現実な自分に似て……。
しまった。
余計にイライラしてきた。
舌打ちした自分に、びくりとミラが身を震わす。
とにかく、いつまでも聖域にいるわけにもいかない。
人間、諦めが肝心である。
昨今の座右の銘になってきたことばを思い浮かべ、気を落ち着かせた。
「――わかった。とりあえず、連れて行ってもらえるか?」
何らかの形で休養しなければ、デスペナルティは解消しないのだろう。全身ずぶ濡れだし。
自宅まであると言われれば、今はとりあえず身を寄せるしかない。多くのプレイヤーも、本来ならこの時点では尻尾を振ってついていく流れのはずだ。
同意を示すと、途端にミラの表情が輝いた。
涙ぐみながら大きく頷く様子に、少し胸が痛む。
「うん、うん……! お兄ちゃん、立てる?」
「そのさ、お兄ちゃんってのはやめてもらえないか?」
心底嫌になって、思わず頼んだ。「シリウスでいい」と言うと、ミラは露骨に傷ついた顔をした。そして、唇を尖らせる。
「お兄ちゃんを呼び捨てとか……ありえないし……」
「オレとしては、お兄ちゃんって呼ばれることのほうがありえないから」
何とか立ち上がり、水気を絞れるところだけは絞る。さすがにここで服を脱いで、という選択肢はない。
腰に短剣を吊るし、出入口に向かう。ミラもすぐついてきた。
「――シリウス?」
「何だ」
小声で呼ばれ、いらえを返す。破顔する自称妹は、一般的に美少女と評されるのだろうと結論付けた。よく考えなくても従妹とそう変わらないのではないかと気づいて、うんざりする。
「今夜、何が食べたい? わたし、がんばって作るから。あ、でも、材料あるのかな……」
今度はこちらが首を傾げる番だった。
「兄妹なら、一緒に暮らしてるんじゃないのか?」
「わたしは神官見習いだから、今は宿舎だよ。ホントに覚えてないんだね」
呆れたように言いながらも、出入口を出たあと、階段を昇り……大神殿の中を迷わず彼女は進んでいく。そのさなか、UIの存在が気になった。視界の端にあるステータスバー、そこには自分の名前がある。どう使うのか、と考えただけで、幾つものアイコンが視界に表示された。その中で地図を選ぶと、「大神殿」という地図が映し出された。未だにグレーダウンしている場所が多いのは、そこを自分が歩いていないためのようだ。
「何してるの?」
「いろいろ」
ミラにしてみると、何もないところで手が宙を舞っているように見えるのだろう。不可思議そうにこちらを見て尋ねたが、それ以上は訊かなかった。これもまた『命の神の祝福を受けし者』だからとでも思ってくれたのかもしれない。
時折、神官服と擦れ違う。その度にミラは立ち止まり、胸の前に杖を持ち、もう片手で何か象りながら礼をしていた。幻界特有の礼、のようだ。特に会話は交わされない上に、こちらが礼をしても、相手は礼を返さない。ミラが神官見習い故かもしれない。身分の低いほうが、上の者に礼を取る。そういう世界であることもわかった。
やがて、ホールのような場所に出る。大扉が開かれていて、その向こうにオレンジ色の日差しが見えた。潜り抜けると、地図が切り替わる。大扉の向こうは大神殿の玄関口らしく、階段の最上部になっていた。夕暮れの中に、様々なものが見える。
大階段の真下は広場になっており、何か門のようなものがある。そこを中心に、大通りが街壁にまで伸びていた。正面だけではなく、左右にもある。地図では東西南北に通りがあるようだ。通り沿いに様々な店が軒を連ねている。道行く者の服装といい、中世都市の様相を見せるそれは、明らかに現代日本ではない。
その地図には、名前も表示されていた。
――ガディード。
この町の名前である。
立ち止まったオレに、ミラが階段を下りる前に気付いた。
「シリウス、だいじょうぶ?」
「……ああ」
整然としていて、どことなく統一感のある街並みは、素直に美しいと思った。
幻界には、このガディード以外にも様々な町があるのだろう。外に出れば、魔物が闊歩する世界だ。武器を手に、旅をすることができると思えば興奮する。
今、オレはファンタジーの世界にいるのだ。
画面越しではなく、生きて、歩いている。
「ホントに、何にも覚えてないんだね」
眩し気に目を細め、ミラはそう呟いて身を翻した。
足早に大階段を下りていく。
何も覚えてないんじゃなくって、本当に知らないんだって。
どれだけ寂しそうに言われたところで、こればかりはどうしようもない。
言外に責め立ててくる自称妹の背中を追うように、オレもまた階段を駆け下りる。そして、本来の身体よりも体力が失われていることを忘れていて、階下でまた座り込むはめになったのだった。
幻界のクロスオーバーとは異なり、幻界のクロスオーバーβのシリウスはあくまでベータテスターです。
よって、正式オープン時には採用されていないイベントもあります。ご了承ください。