あなただけを・・・(11)
月曜日は中学二年生及び三年生の授業がある日であり、本来であれば光二が二年生を、忍が三年生をそれぞれ担当している日でもある。だが、体調が優れないということで忍が休みとなり、急遽由衣が代行して三年生に数学を教える事となってしまった。友達と買い物に出かけていた際に康男からの電話を受けた由衣は突然の事で驚いたが、それを快く了承したのだった。時間的に家には戻らず、送迎のバスに駅前で拾ってもらう事となり、駅の南側に位置するバスのロータリー前でその迎えを待っていた。目の前にはうっそうとした森のごとき公園があり、5年前、ここで同級生3人に襲われた際に周人に救われた事を思い出しながら、あの時周人に助けられていなかったら今の自分はどうなっていただろうと考えてみた。きっと3人に替わる替わる犯され、身も心もボロボロになっていただろうとしか想像できない。そのまま周人はもちろんの事、この世の全ての男に対して不信感と恨みを持っただろうと思えた。そして、周人が現れなければ、彼の優しさや強さ、その心の大きさを知ることもなかった、付き合う事も、愛し愛される喜びを噛みしめる事もなかっただろう。周人自身、あまり好きだとか愛しているとか言わない性格のため正直不満もあったのだが、自分を見る目、そして思いやりの気持ちは十分に由衣の心に伝わっていた。この人を好きで良かったと、心から言える存在がいることに嬉しさを感じていたのだ。そんな事をぼんやり考え、にやけていた由衣は目の前にゆっくり止まるバスに気付いてあわてた様子で顔を引き締めた。まだどの生徒も乗せていないバスの中から手を振っているのは運転席の康男のみである。そんな康男に笑顔を見せながらバスに乗り込むと挨拶を交わしてその運転席のすぐ後ろへと腰掛けた。
「すまんなぁ、急に」
「いいですよ、恵さんに負担かけられないし」
今日買ったバッグが入れられている紙の包みを足下へと置きながらそう言う由衣をルームミラー越しに見ながら、康男はまず1人目の生徒が待つ待ち合わせの場所へ向けてバスを出発させた。今日は中学生二年生が九名、三年生が十四名といつもよりも若干少なめだ。やはり夏休みというよりはお盆前ということもあるだろう。中にはちょっと早めの休暇を取った父親の都合に合わせて旅行へと出かけている者もいるようだった。由衣は純一郎と顔を合わせることを少しばかり嫌に思っている自分がいたのだが、それは顔にも言葉にも出すことはなかった。おそらくこの間のやり取りで彼氏である周人をナメてしまったであろう純一郎がどういった態度に出るかが不安だったのだが、光二も康男もいるからとその不安を振り払った。ちなみに東塾は盆休みを少し長めに取ってあり、今週と来週は休みという風にしていた。そのため、康男はこの二週間だけは西塾に専念出来る。恵や光二に負担をかけた分、ここで楽をさせてやりたいと思った事から、この際とばかりに東塾を長期休暇にしたのだった。
「付き合って1年経ったけど、どうだい?」
不意にそう言われた由衣はちょっと上目遣いに何かを考える様にしながら困った顔をしてみせた。
「う~ん・・・なんだろ。普通ですね・・・」
素っ気ないまでのその返事に苦笑するしかない康男だったが、ごく自然に見える2人の関係を見ているだけに、その言葉には納得していた。
「結婚とか、どうだい?」
「今はそういう自分が想像できないなぁ・・・でも、もちろん将来的にはしたいです、というか、しますよ・・・絶対に」
きっぱり結婚すると言い切る由衣に、苦笑から本当の笑みへと変化させた康男は中学生当時のあの高飛車な由衣がこうまで変わるものかと感慨深くなってしまった。
「昔の、君に嫌われていた頃の木戸君が聞いたら・・・腰抜かすだろうね」
そう言う康男に渋い顔をしながらもケラケラ笑う由衣は窓の外を流れるよく見慣れた景色へと視線を向けながら、遠くを見る目をしてみせた。
「周人も、私も・・・きっとショック死しますね」
「違いない」
そう言って笑い合う2人を、指定の場所で待つ最初の1人、佐藤純一郎が待ちかまえていた。だが、純一郎は2人に簡単に挨拶したのみで由衣には何もせず、近寄ることすらせずに後方の席に座った。いつものバッグではない、大きめのリュックが気になったぐらいで、後は恐ろしいほどに大人しいのだ。だが、由衣にしてみればいきなり何かを仕掛けてくると思っていただけにどこか拍子抜けしてしまった。そんな由衣の膝の上に置かれている白いバッグの中で何かの音楽が軽快に鳴っている。聞き慣れたその音楽が周人からのメール着信を告げるスマホから奏でられているものだとすぐに理解した由衣は、音の鳴り止んだスマホを取り出すと離れているにも関わらず純一郎から画面を隠すような格好を取った。今の音楽で康男や純一郎にスマホが鳴り響いたことはばれてしまっている。由衣はバスの後ろの方に座っている純一郎がどういう目で自分を見ているかがわからないだけに、こうして隠れるようにしながらスマホを見ているのだ。メールの受信を確認すれば、『周人携帯』と表示されており、由衣はそのまま隠れるように身を潜めながらメールを開いてみせた。
『今日、予定通り青山さんの様子を見に行く。多分10時頃になるかも・・・早く着いたら着いたでいいよね?』
そう書かれている文章から、指定の時間的に残業になったんだなと小さく苦笑した。最近は暇だ暇だと言っていたのだが、今日に限って残業とは、どうやら普段の行いが相当悪いらしい。
「今日、周人来ます。10時頃だそうです」
短くそう康男に告げると、康男はうなずくだけで何も言わなかった。おそらく純一郎の事を考えての事だろう。
『了解!私、今日、塾に臨時で授業入ったから、直接来て欲しいなぁ。よろしく!』
そう返事を打ち終えると送信キーを押した。スマホの画面に『メールを送信しました』と文字が浮かび上がる。そしてものの十秒ほどの間にまたもさっきの着メロが流れたが、離さずに手に持っていたスマホのキーをすぐに操作したためにその曲はイントロクイズのように2秒足らずで事切れてしまった。
「返事早いなぁ」
感心したようにそう言う康男をミラー越しに見て微笑む由衣は内容を確認して、スマホをそのままバッグの中へとしまい込んだ。
『了解しました、姫!』
とだけ書かれた返事だったが、由衣にはそれで十分だった。そんな由衣の背中をジッと見つめる純一郎の口元には不適な笑みが浮かんでいる。舐めるように見やるその目つきもどこか余裕があり、何かを企んでいる様子がありありと表情に出ていた。心なしかその目つきも普通ではないような感じがする。
「今日で君は俺の物になるのさ・・・そして、君は新時代の王妃になるんだ・・・」
由衣から窓の方へと顔を向けた純一郎の言葉はもちろん前に座る2人には聞こえない。そして座席の配置のせいでその表情も読みとることが出来ない2人は和やかな雰囲気を保ったまま楽しそうに会話を続けているのだった。
忍の休みに連動してか、今日は紀子も休みであったために昼間周人から伝授された対忍用の秘策は次回へと持ち越しとなってしまった。光二は昼間周人の会社に面会に行ったことは誰にも内緒にしており、もちろん周人もこの事に関して他言するつもりはなかった。たとえそれが由衣であっても。とにかく、康男と恵を除く2人は授業を行う為にそれぞれの教室へと向かい、残された2人もこの秋からの受験対策用カリキュラムに関しての打ち合わせを行っていた。だが、そんな打ち合わせ自体も小1時間もあれば終わってしまい、8時過ぎにはコーヒーを飲んでくつろぐ態勢を取っていた。
「映画、昨日見てきました。ありがとうございました」
一口コーヒーを飲んでからまだお礼を言っていなかった事に気付いた恵のその言葉に、康男はにこやかに微笑みと一旦間を置いてから言葉を口にした。
「そうか。で、どうだった?」
「久々のデートだったけど、楽しかったですよ」
短くそう言うのみでどこか素っ気ないものを感じる康男は今ここには誰も邪魔をするべき人間がいないことから、思い切って恵の本心を探ろうと考えを巡らせた。
「三宅君は木戸君と比べてどうだった?」
不意に周人の名前を出されてドキッとした恵は見事なまでにその反応を表情に出してしまった。そっと様子をうかがうように康男を見るが、実に冷静にコーヒーを飲んでいるのみでこれといった意味ありげな態度は取っていない。
「どうって・・・・どうもないですよ・・・・」
「彼、僕的にだけど、木戸君に似てると思うよ・・・もちろん、男としての器に関しては木戸君の方が上だけど、そうなる資質は十分にあると思う」
そう自分なりの考えを口にする康男にうなずくしかない恵だったが、自分の中ではやはり周人への想いが強いせいか似ているとは思えてもそうなるとは思えない。
「たしかに、似てますよ・・・でも、木戸クンみたいには思えません」
「そりゃそうだ、彼は木戸君じゃないからね」
そう言ってコーヒーを飲む康男だが、その口元はさっきよりか心なし緩んでいる。そんな康男に唇を尖らせる形を取って見つめる恵は相変わらず意地が悪い言い方をすると思いながら大きなため息をついた。
「でも、似てますよ・・・優しいトコ・・・・」
そう言う恵は顔を伏せながら昨日の光二を思い出していた。周人ほどのさりげなさはないものの、常に自分を気遣ってくれている気持ちは十分に感じることが出来た。自分をいつも気にしながら、かといって腫れ物に触るでもなく接してくれるぎこちない優しさを十分に。
「木戸君は、彼は特殊だ・・・彼の優しさの原点は君も知っての通り『恵里ちゃん』にある。大切な人を亡くした彼だからこそ、女性に優しくできるんだ」
それは恵も十分にわかっている。そしてその優しさの原点を理解し、受け止め、丸ごと包み込んだのが由衣なのだ。その由衣だからこそ、周人も彼女を好きになり、全身全霊をかけて愛し、守り、包み返しているのだ。
「三宅君も複雑な事情がある・・・だからこそビクビクした内向的な性格をしていた」
「でも、変わった・・・まだまだ木戸クンにはかなわないけど、頼りになるというか、なんか、上手く言えないけど・・・頼もしく感じる時がありますね」
その言葉に、康男は周人という呪縛を解き放つ存在が光二である事を確信した。亡き恋人『恵里』を想い続けた周人にとって、それが由衣であったように。
「で、次のデートはいつなんだい?」
康男はにやけた顔をさせながら肘をついてそうたずねる。しかし、康男の予想を遙かに上回る答えに、肘からがくっと崩れ落ちてしまった。
「三宅君に決めてもらってますよ、全部ね」
勝ち誇ったようにそう言う恵を見る康男は苦い顔をしながらも徐々にそれを本物の笑顔に変えていくのだった。
担当している曜日が違うせいか、はたまた純一郎を意識してしまう自分のせいか、調子が狂って思わぬ苦戦を強いられた授業だったが、いつもと変わらぬ様子で授業を受けている生徒たちに救われる感じでいい雰囲気は保たれていた。忍の代わりとあって一部の女子生徒たちから不満の声が上がったものの、心配された純一郎も気味が悪いぐらいに大人しく真面目に授業を受けていた。それにこういう状況になれば必ずからんで来たであろう『忍信者』の紀子も休んでいるというのが一番大きいだろう。なんとか無事に代役を務めた由衣は授業を終える宣言をした後でホッとしたような大きなため息をついてみせた。そんな様子を薄ら笑いを浮かべて見ていた純一郎だったが、由衣の傍に寄ってくることもなく重そうな黒いリュックを背負うとそそくさと教室を後にしていった。どうやら今日は大人しく引き下がっている様子の純一郎にホッと胸を撫で下ろす由衣は何人かの生徒たちと談笑しながらホワイトボードに書かれた数式を綺麗に消していった。談笑といっても、そのほとんどが周人との関係を問うものだったが。自分の彼氏であるということ意外は話さない由衣にブーイングが飛んだりしたのだが、苦笑気味に外へ出るようにうながせば皆素直にそれに従った。外にはすでにバスが出てきており、あわてて階段を降りる様子に注意をしながらしっかりと戸締まりをする。階段を少し上がった場所に腰掛けている光二の横をすり抜けるようにしながら手を振ってバスに乗り込む生徒たちを見ながら、由衣はゆっくりと階段を下りていった。
「お疲れさまぁ」
「お疲れさまでした」
階段を下りて職員室の前に立つ由衣はドアノブに手を掛けかけてそれを止め、おもむろに光二の方を振り仰ぐ。ジッと自分を見つめるその視線を受けて小首を傾げる光二だったが、ついこの間までこう見つめられては赤面していた自分を忘れていた。
「なんです?」
「ううん・・・何でもないよ」
にこやかにそう言うと、由衣はそのまま職員室の中へと入っていった。だが教材を置いてまたすぐに出てきた由衣はすでに動き始めているバスに向かって大きく手を振った。窓越しに手を振る生徒は男子の比率が高かったが、それでも皆笑顔で手を振ってくれていた。光二も階段の上から立ち上がり、手を振っている。やがてバスが大通りへと消えると、光二は再び階段の上に座るとそこから見える大通りを臨む景色を見やるようにした。タバコこそ吸っていないが、周人を思い出させるその行為に思わずクスッと笑顔を漏らす由衣は最近どことなくだが周人に似てきたと思う光二の変化を感じ取っていた。去年のアリス誘拐事件までの光二はしょっちゅう恵にしかられる気弱で頼りない青年であった。だが、それからの光二は体を鍛え、精神的にも男としての成長を遂げている。合気柔術を習っている体は引き締まり、顔つきもぐっと男らしくなっている。普段は頼りなさそうなごく普通の年相応の青年たる感じを出している周人と、それはどこか似ていた。優しいところも、そして気遣いも。
「佐藤、バスに乗らずに帰ったよ・・・駅まで歩くそうです・・・」
自分を見て頬を緩ませていた由衣にそう告げると、由衣はその表情をいっぺんに曇らせた。
「なんで?」
「そういう気分なんだそうです・・・」
素っ気なくそう答える光二はさっき康男にその旨を伝える純一郎の真意を探ろうとしたが、そこからは何も感じ取れなかった。だが、彼の中にある黒い闇の部分は色濃く残っており、光二の中の何かが油断をするなと警告を発しているのをずっと感じていた。そしてその予感は現実の物となった。
「ユイ、迎えにきたよ」
塾の裏手、ちょうど2階3階へ上がる階段の真裏あたりからゆっくりと姿を現したのは純一郎だった。服装もさっきのまま、背負っている黒いリュックもそのままに闇の中から姿を見せた純一郎は口元に浮かぶ邪悪な笑みを消すことなくゆっくりと由衣に近づいていった。
「どっかに行く約束、してたっけ?」
いつも通りにそう言う由衣だが、いまだかつて感じたことのない邪悪な雰囲気を出す純一郎の歩みに合わせて無意識的に1歩ずつ後ろへと下がっていく。目も鋭く、雰囲気もまるで違っているせいか、恐怖を感じたためだ。
「約束はしてないよ・・・でも、今日から俺と一緒になるんだ」
「一緒?」
由衣と同時にそう口にしたのは階段から立ち上がり、由衣と純一郎との間に立った光二であった。邪魔者たる光二を睨み付ける純一郎から、ますます邪悪で悪意に満ちた気が膨れあがっていくのを感じる。
「負の波動・・・殺意の・・・波動か」
合気柔術で学んだ人の中に芽生える内気、自然が発する外気。優しさ、慈しみ、無我という『正の気』に反する怒り、悪意、そして殺意たる『負の気』。師範である哲生が教えてくれたその正と負の気の関係を思い出した光二は握る拳に力を込めた。
「おれは新時代の王になる・・・そして、ユイがその妃、王妃なんだ」
大げさな動きで両手を広げる純一郎はまるで自らの胸に飛び込んで来いというような仕草を取った。そうされて戸惑う由衣は身を固めるように胸の前で両手の拳を握ると、さらに数歩ジリジリと下がった。
「王?・・・王って何?」
時間を稼ぐつもりなのか、はたまた素朴にそう思ったのか、由衣は質問を続ける。その間に光二は両手に内気を溜め、ジッと心を落ち着かせるようにしながら歩みを止めた純一郎を見やった。
「『キング』を失い、今は戦国の時代だよ・・・そして今、それらを統括したのが、黒金さんだ」
『キング』という言葉には反応できた2人だが、『黒金』という言葉に眉をひそめる。聞いたこともない名前だが、今の言葉からどういういきさつからかはわからないが『キング』の座に着いたということがうかがいしれた。
「今のおれは黒金さんの四天王なんだ・・・選ばれた存在さ。だけどね、すぐにヤツも倒しておれが『王』になる!」
静かに噛みしめるがごとくそう言う純一郎は星のまたたく天高く両手を広げると狂気に満ちた表情浮かべた。
「それと吾妻さんがどういう関係なんだ?」
極めて冷静にそう言う光二をキッと睨む純一郎。もはや負の波動はますます膨れあがり、光二の全身に鳥肌を立てていった。これほどまでの負の波動、恐怖は昨年のアリス誘拐事件の首謀者、ゾルディアックという軍人以来だ。
「オメーには関係ないだろうが!」
「私も聞きたいわね・・・私は関係あるもん」
まるで自分に酔いしれているかのような純一郎は光二を一喝した後、由衣にはとろけるような甘い笑顔を見せた。だが、天使のそれは悪魔の気によって邪悪なものとなって由衣たちの目に見えていた。
「黒金さんは新たな『キング』となって、その王妃にあの赤瀬未来を指定した・・・近い内に彼女は芸能界を引退して黒金さんのものとなるだろうよ」
夢に近い妄想を口にする純一郎だが、話を聞いただけでも背筋が凍るほどの権力、実力を持っていた『キング』と同等の力があるのなら、それもまんざら夢ではないと思えてしまう。
「その黒金さんを超えるおれなら、赤瀬未来を超える女以外は受け付けられない・・・そう、それがユイ、君なんだ」
「あの未来ちゃんより私が上ってのは嬉しいけど、王妃になんかにはなりたくないわね・・・もちろん、未来ちゃんもそう言うだろうしぃ」
あくまで強気で悪態をつく由衣だが、そんな由衣にますます嬉しそうな顔をする純一郎はぞくっとするその笑顔を由衣に向けたまま言葉を続けた。
「おれは君を見た瞬間、ピンと来たんだ・・・おれの妃はこいつしかいないってね・・・が、彼氏の存在が気になっていた・・・君が処女であるかも気になったけどね」
「ゴメンね、処女じゃなくってさ」
「まぁいいさ・・・そんなのは問題じゃない。問題なのは彼氏だったが、全くたいしたことがなかった。それに、あいつじゃ君にはふさわしくない」
思わぬカミングアウトした由衣の言葉すら無視した純一郎の中で邪悪な気が一気に膨れ上がる。もはや体内に溜め込んだ光二の気とはまるで大人と子供ほど違う大きさにまで膨れあがったその邪気に、光二は知らず知らずのうちにガクガクと足が震えるのを感じていた。
「さぁ、行こう・・・まず君を黒金さんに紹介する。そして、その場でおれがヤツを倒して、それで君はおれの妃だ、新たな時代の王と王妃の誕生だぁ!」
両手を広げる純一郎の表情は恍惚とし、もはや普通ではない状態にあった。即座にそれが薬物によるものだと悟った光二は戦う構えを見せながら1歩近寄る純一郎を睨み付けた。
「その前にウザイのを片づけよう・・・それから、君をさらうんだ」
「彼女の体が目的か?」
さらに1歩詰め寄る純一郎を睨む光二だが、実戦の経験も無ければ技らしい技も知らない。習っているのは己の中に作用する内気の充実と基本の型だけなのだ。しかも内気などまともにうまく扱えない光二のそれはもはや技と呼べる物ではなかった。それでも、今ここで由衣を守れるのは自分しかいないのだ。逃げたい気持ちを押さえつけ、勇気を奮い立たせる光二はゾルディアックを前に常に冷静でいた周人の姿を思い出し、自分も冷静になれと言い聞かせ続けた。
「強引に体を奪っても仕方がないよ。おれが欲しいのは彼女の心・・・たとえ始めは恐怖からであっても、最終的に彼女はおれに心も体も捧げるのさ、自らの意志でな」
そう言って一気に間合いを詰めた純一郎はもはや光二の想像を遙かに超えた動きで無防備な腹部に正拳突きをはなった。ガードする暇すらなく宙に浮く体は2、3メートルほど吹き飛んでからごろごろと地面を転がった。その衝撃を受けて息も出来ずに腹部を押さえ、体を痙攣させる光二は途切れそうになる意識だけを失わないようにしながら胃から逆流しそうな吐き気を堪えてうずくまるのがやっとだった。そんな光二を見てフンと鼻であざ笑う純一郎は逃げようと走る由衣に迫るとその腕を掴み、強引に両手を背中の方へと回すとどこから取り出したのか、メタリックな輝きを持つ銀色の手錠をかけた。後ろ手に両手の自由を封じられた由衣をグッと引き寄せ、自分から顔を背ける由衣の頬を一舐めしてみせる。
「今すぐにでもセックスできる状態になってるけどね、おれは・・・」
そう言う純一郎は由衣の背中に回ると手錠をかけられた手首を持って体をひねると、自分が現れた塾の裏手へと向かって苦痛の表情を浮かべる由衣を押したまま進み始めた。
「待ちなさい!」
言いながら玄関から飛び出した恵はその手にほうきを持っていた。プラスチック製の青い柄の先端を向けながら純一郎へとジリジリ迫る。
「お前には興味ないよ・・・その体にもね」
そう言うと由衣の足をすくうようにして倒すと素早い動きで恵へと迫った。目を閉じながら力任せに横薙ぎに振るわれたほうきは空を切り、全く手応えを感じることなく恵は腹部に強烈な打撃を受けて悶絶した。地面に倒れ込みながら口をパクパクさせて涎を垂らすその姿から、女性に全く手加減をしなかった純一郎を睨み付ける由衣は不自由な両手を駆使しながらなんとか身を起こした。
「お前ぇ!恵さんに何するんだっ!お前なんか、お前なんか周人に殺されちゃえ!」
「おいおい、可愛い顔が台無しだよ・・・それにもっと丁寧な言葉を使ってくれ、王妃なんだからさ」
おもむろにほうきを拾い上げると、それをいとも簡単に真っ二つに追ってみせる。折れてギザギザになった柄の先端を倒れて動けない恵の頭の上へと持っていくと、2、3回突き刺すような仕草をしてみせた。
「こいつ、殺すよ?」
「や、やめて・・・」
「じゃぁ、おれの妃になる?全ておれに従う従順な妃にさぁ」
もはや凶器と化したほうきの柄で恵の髪を掻き上げるようにするその仕草に、この男なら恵すら殺しかねないと思う由衣は身を震わせながら唇を噛みしめた。
「・・・・わかったわ」
消え入りそうな声に不満ありありの顔をしてみせる純一郎はその狂気に満ちた目をしながら恵を突き刺さんとばかりに勢いよくほうきを振り上げた。
「わかった!なる・・・・なります・・・・なるからっ!」
「あっそ」
その言葉に満足したのか、純一郎は満面の笑みを浮かべて見せた。その顔を悔しさでいっぱいな表情で見つめる由衣だったが、これでひとまず恵の安全は確保されたとホッとし、すぐに周人が来てくれる事を切に願った。十時には来ると言っていただけに、それまで時間を稼げばどうにかなると考えたのだ。だが、そんな由衣の希望を打ち砕くかのように暗闇が支配する周囲に恵の悲鳴が響き渡った。
「め、恵さんっ!」
足を押さえて悶絶する恵は腹部の痛みすら忘れる激痛にさいなまれていた。なんと純一郎は持っていたほうきの柄を深々と恵の右太股の裏に突き刺したのだ。棒が刺さったままそこを押さえる恵をあざ笑う純一郎は目に涙を溜めながら自分を睨む由衣へと近づくと天使のような笑顔を見せた。
「さ、行こう!」
「こんなことしてただですむと思ってんの?あんた傷害で警察行きだよ!」
もはや恐怖よりも怒りに燃える由衣は今にも噛みつきそうな勢いでそう叫んだ。だが、純一郎は涼しい顔をしたまま肩をすくめる仕草をするのみだった。
「黒金さんは警察とも繋がってる、かつての『キング』のようにね・・・これぐらい揉み消せるんだよ」
その言葉に、由衣の中で何かが弾けた。こんな理不尽な事があっていいのかと、怒りをさらに倍増させた。それはかつて『恵里』を殺しながらも何の罪にも問われなかった『キング』と同じであり、また同じ事が繰り返されるという事に対しての激しい怒りであった。
「ぜぇったい許さない!絶対にぃっ!」
「誰もおれたちを裁けないのに?」
「『魔獣』が黙ってない!お前は絶対殺される!」
「フン、『伝説の魔獣』ね・・・・・あんなの、問題ないね」
そう言う純一郎が由衣の腕を掴もうとしたその瞬間、その手を払うようにして下から上へと蹴りが舞った。由衣は一瞬周人かと思ったが、なんとそれは光二の放ったものだった。
「許さない・・・絶対に、お前だけはぁっ!」
怒りに満ちた光二から発するのもまた『負の波動』であった。がむしゃらに猛攻撃を放つ光二にやや押され気味の純一郎だったが、空手のジュニアチャンピオンの肩書きは伊達ではなく、思わぬ不意を突かれたとはいえそれらの手数を全て見切って避けていく。今の内だと恵に駆け寄る由衣は自由のきかない両手にもどかしさを感じながらもそのかたわらに滑り込むようにしてしゃがみ込むと、血を流すその傷を痛々しい表情で見やった。
「恵さん!大丈夫?しっかりして!」
「だい・・じょうぶだって・・・・・・それより、あんた、逃げなさい・・・・アイツの狙いは、あんたなんだから・・・」
苦悶の表情を浮かべる恵は痛みを堪えて優しい口調でそう言う。自分の方が危険な目に遭いながら自分を気遣ってくれる恵に涙が溢れてくる。だが、こんな状態の恵をほったらかしに出来るわけもなく、由衣はふるふると首を横に振った。
「恵さん置いて行けないよぉ・・・それにもうすぐ周人が来てくれるから!そうだ!携帯!電話を・・・」
職員室内に置いてある鞄の中のスマホを思い浮かべた由衣は閉じられた白いドアの方へと顔を向けた。
「甘いよ」
由衣の肩を蹴るようして押し倒すのは純一郎だった。短い悲鳴を上げて倒れ込む由衣は恵の横でほこりにまみれながら苦悶の表情を浮かべる。
「電話したところで、何の効果もないって」
「ある!周人が来れば、あんたなんか!」
「えらく、信用あるんだなぁ、あのおっさんは・・・なりきり魔獣のくせに」
見下すようにしながら吐き捨てるようにそう言う純一郎は肩をコキコキいわすと周囲を見渡すようにしてみせる。しんと静まり返った周囲に人の気配はない。あるのは砂利道で横たわる光二の姿だけだった。その光二は腹部を押さえながらも懸命に立ち上がろうとしていた。今まで生きてきた中で感じたことのない激痛が身体のあちらこちらで引き起こされる。体を支える腕も青く、震える足にも思うように力が入らなかった。顔も少しばかり腫れており、それでもその激痛に耐えながらなんとか身を起こして立ち上がった。さっき腹部に喰らった蹴りのせいか、胃の中の物が逆流しそうな吐き気をこらえ、由衣と恵の横に立って自分を見ている純一郎を見やった。
『内部に働く気を集中させれば、体力の回復、筋肉の硬化など様々な効果が得られる。と、言っても、まぁ、ようは気持ちの持ちようだけどな』
どこかはっきりしない意識の中で、師範である哲生の声が頭の中に響いていた。光二は薄く目を閉じると呼吸を整えるようにしてゆっくりと深呼吸を始めた。組み手をする前に必ずといっていいほど哲生はそうしていたのだ。見よう見まねだったが、そういう哲生の一挙一動を五感を鋭くさせて見ていた光二は、自分も知らないほど哲生に近い状態で体内の気を整えていった。気のせいかはわからないが吐き気もなくなり、痛みも若干ながら引いてきている。そして今度は頭の中で昨年アリスを救うために、由衣を守るために戦った周人の姿を思い浮かべた。
「お前、結構しぶといじゃん」
感心した様子もなく、感情のこもらぬ口調でそう言う純一郎はゆっくり光二へと近づいていった。だが、光二は全く動くことなく深呼吸を繰り返しているのみだ。
「もうすぐ周人が来てくれるから!それまで、頑張って!」
由衣の声と共に彼女の中にある恐怖と焦り、そして不安が頭の中に流れ込んできた。去年、この純一郎を遙かに超える強さを持った相手を前にしても全く臆することがなかった由衣が、今、恐怖に怯えきっているのだ。
「守るんだ・・・その為に・・・コレを習ってきた」
呼吸を整えながらそう自分に言い聞かせた光二は目を開くと、何の構えも取らずにすぐ目の前まで迫った純一郎を見た。自分の持つ能力を解放し、純一郎の意識を読みとる。純一郎は自分の戦闘エリアに入った光二に対し、すかさず右足が振り上げた。
『死ねよ』
その意識の中に混ざるのは右足で自分の頭を蹴り上げるという意志。それを読みとった光二は両手を畳み、顔のすぐ真横でその蹴りをブロックした。が、すぐに右の拳が腹部に襲いかかる。今度は半身になりながらそれをかわした直後、左の足が跳ね上がるも、それを右手の平で受け止め、その腕をひねるようにして純一郎の身体をくるりと空中に回転させた。そのまま宙を舞うその腹部に掌を押しつけようと体重を乗せた右手を差し出すが、反動を付けて自ら回転する身体の速度を速めた純一郎はその手をかわしながら着地と同時に回し蹴りをはなった。だが、それは虚しく宙を裂くのみで、光二は体をひねって後ろに飛び下がり、間合いを置いてたたずんだ。
「へぇ~、別人みたいになったね」
ことごとく攻撃をブロックもしくは回避されながらも余裕の笑みを見せる純一郎を見る光二は落ち着いた息づかいでゆっくりとした呼吸を繰り返した。相手の攻撃を受け止めてその反動を利用し、そのまま勢いに任せて投げる程度の当て身は習っているものの、こうも連続で素早い攻撃をされてはそれを避ける事しかできない。実戦経験の無い自分が半年の道場通いの成果を十分発揮出来ているとはいえ、やはり攻める技を知らないというのは実戦においては無力に等しい。それは純一郎も感づいており、攻めればいつかは当たるだろうとの意識が光二の頭に流れてきていた。
「さぁて・・・どこまで避けきれるのかなぁ」
言いながら左右交互の蹴りに拳による突き、回し蹴りに顔面へのパンチと、まさに怒濤の攻撃を仕掛ける純一郎にもはや防戦一方の光二は意識は読めてもその攻撃の速さについていけず、何回かに1度は攻撃を喰らうようになっていった。かといってどこにどういう攻撃が来るかがわかっていても、それに対する技を知らない光二にしてみれば反撃のチャンスすらないのだ。もはや呼吸も乱れる光二はまたも腹部に拳をめり込まされ、側頭部に蹴りを当てられる。腹部への一撃は息すらままならない状態を生み出し、蹴られた頭は意識が飛ぶ。ぐらぐらゆれる意識と身体をふんばるべき足も、すでに力がはいらない状態になった。こうして地面に倒れ込むのも何度目か、光二は口の中に広がる血の味と砂の感覚にもはやかろうじて息をして意識を保っている状態にあった。もう立ち上がる気力もなく、痛みも感じないほどに身体はボロボロであった。
『もういいや・・・このまま寝てれば・・・よく頑張ったほうだよな』
自分の中でそうつぶやくと、遠くの方で由衣が悲鳴混じりに自分の名を呼ぶ声がするのを聞きながら光二は目を閉じてしまった。意識は徐々に薄れ、閉じられたまぶたは重く、もはや指1本動かせない状態へとなっていった。
『想いだな・・・人の想いは何よりも強い』
不意に頭の中で哲生の言葉がこだました。その言葉は光二の意識を再び暗黒の縁から呼び起こさせる響きを持っていた。混濁する意識の中、暗闇に迷い込んでいた光二の意識は徐々にだが小さな光を灯していくのだった。
『目を開いて!今、あの子を助けられるのはあなただけなのっ!』
不意に聞こえてきたのは女性の声。小さな光の向こう側から聞こえてきたその声は、あの合宿の日に行われた肝試しの最中、由衣の危機を知らせたあの女性の声と同じだった。光の向こうに目を凝らす光二が見たその言葉の主であるシルエットは、まだ少女とおぼしきショートカットの髪型をした女の子の姿だった。




