素直さの価値(3)
夕食をとりながら生徒たちを見やる康男の目が由衣をとらえる。ちゃっかり新城の横を陣取り、嬉しそうに会話をする由衣を見た康男は自然と笑みをこぼすと安心して料理を楽しむことが出来た。この間の事件からわずか2日しか経っていないため、やはり心配になっていたのだ。昼間はプールに行かずに残った美佐と娯楽施設に行って卓球を楽しんだ後、休憩がてらテラスに行った康男は1人とぼとぼと歩きながら庭園のベンチに向かう由衣を目撃していた。後を追うようにテラスへとやって来た美佐に2人分のジュース代を手渡し、由衣の傍に行くようにうながした後、そのままテラスで2人の様子を見ていたのだ。2人はしばらくベンチに座って会話した後、プール自体には入らなかったもののプールサイドでにぎやかに遊んでいた。そしてプールから戻ってきた由衣がいつもと変わらぬ様子で楽しそうにしているのを見た康男は正直ほっとしていたのだ。そして夕食を取っている今の様子からしても、もう大丈夫だろうと心の底から安心していた。夕食後は入浴の時間となっており、その後19時から英語の授業が待っていた。明日は朝10時から数学、昼食後15時まで残った教科を短い時間に区分けて勉強するのだ。昼間の疲れもあって眠い生徒たちを引き締めるべく、いつもの緊張した張りつめられた空気で授業を行う恵もまた自身の疲れを吹き飛ばすかのようにピリピリしていた。そのせいか、あっという間の2時間が過ぎ、21時になって一同は解散となった。取り決められた消灯時間は22時であり、それまでは自由行動であった。康男は生徒たちと卓球をし、恵は部屋で雑談、新城と貴史は男子生徒数名とレースゲームに熱中するのだった。やがて22時になり、皆各自の部屋へと戻っていった。だが生徒たちと同室となっている恵は部屋に生徒たちを残し、康男たちがいる先生たちの為の部屋へと向かった。既に部屋の中では持ち込んだビールやおつまみとスナック菓子でささやかな宴会が始まっていた。23時には確認を兼ねた見回りをしなくてはならないのだが、今日は先生の息抜き日でもある。そのせいかあまりお酒に強くない新城や貴史も缶ビールを片手にお菓子を頬張った。恵も小さめの缶を手に取り、それを口にした。他愛のない話で盛り上がる中、新城が23時の見回りを行うべく立ち上がり、少々乱れていた衣服を正す。それを見た恵はアルコールのせいで熱くなった体を冷ます為にと、それに同行する事を申し出た。新城も康男も同意したが貴史だけはかなり不満顔であったのは言うまでもない。新城と何かあるのではないかと恵が気になる貴史を制し、2人で見回りをさせた康男の表情は酔いもあってかどこかいやらしく見えた。
予想通りと言うべきか、男子生徒は枕を投げたりプロレスまがいの事をして暴れていたが、女子生徒は布団の上に転がって学校の事や恋愛についての談笑をしていた。新城と恵がそれぞれそれらをいさめると、一応生徒たちは大人しくなって布団の中に入ったが、すぐまた元の状態に戻るのは目に見えている。早く寝るよう形式的に言い残し、2人はジュースが飲みたくなってそのまま部屋には帰らずに自動販売機があるロビーに向かった。普段からお酒をあまり飲まない2人はビールの味に飽きてしまったのだ。小さな正方形のテーブルを挟むように並ぶソファに向かい合わせで腰掛け、今買ったばかりのジュースでささやかな乾杯を行う。先ほどのビールのせいか程良い気分でジュースを飲むと、甘い味が口いっぱいに広がっていった。
「なんか、落ち着くなぁ・・・」
新城は思ったより柔らかいソファに埋まるようにしてそう言った。ビールの影響で頬を少々赤らめた恵も相づちを打つ。久々の開放感がたまらなく心地良かった。
「結構焼けちゃったなぁ・・・」
紺色のTシャツの裾をめくりながら赤く日焼けした肌を露出させてそう言う恵を見やる新城はアルコールのせいではない赤さを顔に出しながら胸が高鳴るのを感じた。いつもと違う環境のせいか、今日の恵は一段と綺麗に見えた。昼間のプールで健康的に焼けて赤くなった肌やアルコールでうっすら赤い頬、そしてどこか憂いをもった表情。新城は初めて会った時から恵が気になり、今では淡い恋心を抱くようになっていた。アルバイトの曜日も全て重なる恵からは大学にいる女子生徒たちとは違う雰囲気を感じていた。美人で聡明ながら、厳しさと優しさを合わせ持っている恵は今まで出会ったどの女性にも無い独特の空気を持っているように感じていたのだ。言いたい事ははっきりと言う性格も好きだった。自分から好きにならない限り決して恋愛しないと決めている新城が自然と恵に恋をするまでそう時間はかからなかった。ごく自然に恵に惹かれ、ごく普通に恋をした。たしかに顔立ちが美人だったせいもあるが、新城は恵のその内面に惹かれたのだ。だが、その容姿からして今まで相当な数の女性と付き合ってきたであろうと思える新城だったが、意外にも彼女と呼べる存在がいたのは1度きりであった。しかもそれは高校時代である。その時は新城が告白をしてそのまま付き合ったのだが、実際の彼女は新城が思っていたような女性ではなかったのだ。気だてがよくて優しいと思っていた彼女は実は新城という容姿のいい彼氏を持つということをステータスのように考えている人だったのだ。そう、今の由衣のように。だから新城は由衣を本能的に毛嫌いしているのかもしれない。とにかく、そんな彼女の実態を知った新城が別れを切り出し、わずか1ヶ月ほどで破局していた。それ以来やや恋愛に対して臆病になってしまった新城は今まで全く恋愛できずにいたのだ。変に考えこんでしまうせいもあったが、やはりそのことが精神的に傷になっているせいもあった。だが恵の場合は気が付いた時には気になる存在になっており、彼女の事を知れば知るほどその想いが強くなっていったのだ。しかし、彼女が最初に付き合った女性とは違う性格だとわかってはいるのだが、どうにも勇気が出ない。つまりは告白できないのだ。とりあえず距離を縮める事から始めようと心に決めた新城は今日のこの合宿でその目標を達成する最大のチャンスを得たのだ。そして今、恵に対して自分が今一番気になっている事を聞く覚悟を決めた。だが唐突に切り出せる話題でもない為、とりあえず遠回しに攻めて行くことにした。
「やっぱりこういう場所は、彼女と来たいところだね」
しみじみした口調でそう言う新城に、恵は苦笑を漏らした。
「新城クンならそういう人、すぐに見つかるでしょうに」
背が高く目鼻立ちもすっきりして髪もサラサラ、雑誌のモデルと言われても即座に納得出来るほどの容姿を持つ新城に彼女がいないというのはどうも納得できなかった。本命や遊びの女性を複数持っていると言われても納得できるほどの顔立ちである。はっきり言っていない方がおかしいのだ。だが逆に新城にしてみれば、ともすれば女優のような容姿をしている恵の方こそ彼氏がいないのがおかしいと思っていた。前髪を斜めに垂らした恵の顔は美形であり、実際何度もナンパやスカウトを受けているという話を康男を通じて聞いたことがあった。その件に関しては新城もまた同じなのだったが。
「自分から好きにならないと、駄目なんだ・・・でも・・・」
「でも?」
小首を傾げ、やや上目遣いに自分を見やる恵は抱きしめたいほどに可愛らしかった。
「昔、いろいろあってね・・・・臆病になってる。なんか怖いんだよ。好きになる、付き合うって事がね」
自分の弱さを素直に口にしながら俯き加減に恵を見た新城は薄い、どこか儚げな微笑を浮かべていた。
「じゃぁ、今は好きな人・・・いないの?」
意外と恵はあっさりその事を聞いてきた。自分に興味がないのか、ジュースを飲みながらのその質問に新城はやや逃げ腰になってしまった。だが逆にこの質問こそが恵の事を聞く最大のチャンスだと悟った彼は、一気にずっと気になっていたことを切り出した。
「そういう青山さんは、どうなの?」
思っていたより自然と、そしてさらっと言えた新城は心の中の緊張を悟られまいと同じようにジュースを口に含んだ。逆にその質問をうけた恵はジュースの缶を両手で覆い隠すようにしながら俯いてしまった。それを見た新城は重苦しい何かが胸を覆っていくのを感じていた。聞いてはいけなかったのではないかという疑心暗鬼にとらわれ、俯いたままの恵を見つめる事すら苦しくなってしまったのだ。だが恵はゆっくり顔を上げるとはにかんだような笑みを浮かべて新城を見た。その愛くるしい笑顔にますます動悸が激しく高鳴る。もしかしたら自分の事を好いてくれているのかもしれないという淡い期待が頭をかすめた。
「私の質問には答えないで・・・ズルイなぁ~」
恵はそう言うと下唇をちょっと尖らせてすねたように新城を見た。
「あー、いや、ゴメン・・・・オレは・・・いるよ、一応まだ片想いだけどね」
新城はやや引きつったぎこちない笑みを浮かべてからそう言った。やや声はうわずったが、恵は微笑むだけでジュースの缶をくるくると回している。
「私も、片想いだなぁ、今はまだ・・・・・」
再びはにかんだ笑みを浮かべたが、その相手を想ってそう答えているのかさっきよりもはっきりと照れが見て取れた。
「なんだ・・・一緒か・・・」
「そうだね」
恵は再度俯き加減でそう答えたきり、黙り込んでしまった。場の空気が思っていたよりも重くなっていく。もし恵の想い人が自分でないとすれば、新城の恵への想いもこれでお終いなのだ。それが怖い彼はそのことを確かめる勇気がなかった。だからといってこの重い空気をどうにかしたいと思う新城は今自分が思っていることを話す事にした。
「オレの好きな人ね・・・・きっと好きな人、いると思う」
恵はその言葉にそっと顔を上げた。新城は視線をやや横に流しながらそう言った後、パッと明るい笑顔を見せた。
「すっげぇ魅力的な人なんだ、だから、まぁ、多分だけど・・・そう思う」
「そうなんだ・・・・私の好きな人はね、すごく優しい人」
恵は新城の笑顔につられたのか、小さく笑いながらそう告白した。その時の恵の照れた顔から、新城はその好きな人が自分でないことを悟った。だが、まだ望みが絶たれたわけではない。まだ彼女は片想い中なのだ。自分に振り向かせるチャンスは残っているのだ。それがいかに女々しい事かは重々承知している。しかし、どうしても諦めることはできないのだ。今以上に自分を磨き、いつかは振り向かせたい、その想いはいずれ自分にとってプラスになると信じている。実らぬ恋であっても、たとえ叶わない恋だとわかっていても、彼は恵の事が好きなのだ。
「お互いがんばろうな?」
新城はそう言うと立ち上がった。恵も、うんと頷き、同じように立ち上がる。おそらく部屋に残った男2人でも宴会が続いているだろうと思いながらその部屋に戻る新城と、西塾の女子生徒たちが眠る部屋へ戻る恵は康男たちがいる部屋の前で無言ながら手を振って別れた。この時の恵の顔を見た新城は、しっかりと自分の気持ちを受け止め、そしていつかは恵を振り向かす事ができる男になろうと誓ったのだった。
翌日も変わらず暑い日差しが照りつけていた。午前中の数学は新城が担当し、午後の国語を恵が、社会を新城がそれぞれ担当し、理科に関しては康男が授業を行うことになっていた。それぞれ45分の授業であり、昼食時には生徒の面倒を貴史に任せ、短い食事時間を削って打ち合わせを行った。朝食は和食だったが、昼食は洋食である。揚げ物をメインにした料理をみんなわいわい騒ぎながらもきれいに平らげていく。そして短い休憩時間を挟んで午後の授業が始まる。満腹感から来る眠気を吹き飛ばす先生たちの声がやけに頭に響き、何故かいつもよりも勉強に集中できるのだった。