あなただけを・・・(5)
そのホテルは芸能人がよく利用する事で有名でもあり、そういった心遣いが出来ている一流のホテルであった。都心部にありながら利用客の客層は限定され、政府官僚や外国の要人や有名芸能人なども多く利用していた。渋谷センター街を脱出した2人はタクシー乗り場でタクシーに飛び乗り、今日、未来が宿泊予定であるこのホテルへとやって来たのだ。幸い周人がネクタイ姿な為、乗り込む際もタレントとマネージャーという感じにしか思われなかったようで不審がられる事もなかった。周囲からの携帯による撮影もなく道も空いていた事もあってリラックスしたのか、未来はタクシーの中で襲い来る眠気と戦う羽目になってしまった。隣に座る周人は時計を見やり、今が9時前だと確認しながらホテルに着いてから由衣にメールしなくてはとぼんやり考えていた。そんな超リラックスした2人をルームミラー越しにチラッと見やるタクシーの運転手は小さな微笑みを見せながら何も話しかけることなくただ目的地へと向かって車を進めていく。実際10分程度のドライブも終了し、わざとエントランスを奥ばらせているロータリーへと進むタクシーは自動ドアの正面に停車し、未来と周人は出迎えのボーイに導かれながらホテル内部へと足を踏み入れた。ややオレンジがかったようなホテル独特の照明は6階まで吹き抜けとなっており、その天井につり下がる見事なシャンデリアがその照明の大元だ。ガラスをふんだんに使用したそのロビー正面には昇りと降りのエスカレーターが広い感覚を明けて2階へと繋がっている。また吹き抜けの壁を走るエレベーターは内部も見えつつ、きらびやかなライトアートで光の演出を施されており、さらには奥の方に小さな噴水まである豪華さを持っていた。
「白木さん?未来です。今戻りました・・・はい・・・」
ロビーに到着するや否や、すぐにスマホを取りだしてマネージャーである清へと連絡を入れた未来は簡単に言葉を交わしたのみで電話を切り、周人をうながしてエレベーターへと乗り込んだ。他に一緒になった客もなく、無言の2人を乗せたエレベーターは上昇を始め、音も揺れも感じさせないまま静かに9階で停止した。先に未来を降ろし、部屋へと向かうその背中を追うようにして歩く周人はまるで密会か浮気をしているかのような錯覚を一瞬覚えたが、そんな自分に苦笑しつつ1931とプレートが掲げられている部屋の前で立ち止まる未来を見て表情を引き締めた。慣れた手つきでカードキーを差し込み、ドアを開く未来は一瞬隣の部屋の様子をうかがうような動きを取ったが、すぐに周人の方へと顔を向けた。
「早く入って・・・清さんが気付くとアレコレうるさいから」
超有名アイドルが男を連れ込もうとすれば、マネージャーがうるさくなるのは当たり前である。そう思う周人は未来の言葉に苦笑しつつ、今の自分の状況に思わずドキドキしてしまった。ドアを開けたままそう言われた周人は気を取り直してお邪魔しますと小声を出し、アイドルの泊まるホテルの一室に密かに入るという事からか柄にもなく興奮した自分を押さえながら部屋の中へと足を踏み入れた。さすがに超高級ホテルとあって中は周人たちサラリーマンが出張で泊まるビジネスホテルとはかなり違っており、広さもかなりあった。入ってすぐの壁にはクローゼットが埋め込まれる形で設置されてあり、その向かい側にはトイレとユニットバスが別々に部屋分けられていた。実際風呂場も広く、脱衣所自体も広いのだがもちろんそこまで周人は見ていない。そしてメインの部屋には大きめのシングルベッドが壁際に設置されていて、その上で楽な姿勢を取った目線の先に大きめのテレビが置かれていた。バルコニーと部屋を仕切っているのは床から天井までの大きさを持つ窓、その手前にはテーブルと椅子も置かれており、さらにバルコニーにも白いベンチと丸テーブルが置かれているのだった。絨毯もふかふかであり、大きめのタンスも置かれるその部屋に入った周人はもはや呆気に取られるしかなかった。去年のクリスマスに菅生が用意してくれた由衣と過ごすためのホテルの部屋も凄かったが、あれはいわば特別室であり、この部屋はごく一般の部屋なのでこのホテルのスィートルームなどは全く想像すら出来ない豪華さをもっている事だろうと想像できる。
「そこに座って・・・コーヒーでいいですか?」
クローゼットの脇には小さいながらも冷蔵庫があり、その上にはインスタントのお茶やコーヒーなどがポットと共に置かれていた。すでにコーヒーを準備し始めている未来を手伝おうとしたが笑顔で止められてしまった周人は仕方無しに恐縮しながらも肘掛けのついた大きめの椅子に腰掛けた。窓の外にはネオンと車のライトと赤いテールランプが行き交う光が見えており、隣や向かいにあるホテルやオフィスビルで視界で遮られているもののやはりそれなりに見晴らしはよかった。
「こういうホテルには慣れていたんだけど・・・波島のホテルに行ってからはこういう景色には、なんかうんざりしちゃうんです」
コーヒーをテーブルに置きながらそう言う未来は窓の外に見える都会の景色に目を細めながらどこか悲しい目をしてみせた。
「その波島にいるわけですね・・・渋谷の狼、確か名前は・・・・え~と・・・」
「黒崎、黒崎星さんです」
つい先程、芳樹と話していた時とは違い、普段通りの口調に戻った周人が困っているのを見かねたのか、すぐさまピアスの男の名前を口にした未来に周人は渋い顔をしながら湯気をたてているコーヒーカップへと視線を落とした。
「すみません・・・実際、名前を覚えている人たちの方が少ないんです。その時は相手の名前なんかどうでもよかったから」
言い訳するつもりなどないが、未来が恩人と呼んだ人物の名前を知らないのは失礼だと思う周人は視線を下げたままそうつぶやくように、だがはっきりとそう言った。
「あなたの事、いろいろ聞きました・・・」
「そう・・・で、彼はなんて言ってましたか?」
「『全てを奪われた』、と・・・」
水平線近くまで続くエメラルドグリーンの美しい海を見ながらお互いの話をし、夢を語り合った波島での事を今でもよく思い出している未来は思い出す仕草もなくすぐさまそう答えた。周人もまたそれは予想していた答えだったのか、全く表情を変えることなく顔を上げて未来を見つめるようにした。
「今でもオレを恨んでいるヤツは多いでしょう。自分の欲望を満たすため、関係のない者まで八つ当たりするようにケンカしまくったから・・・」
「彼女さんを、殺されたそうですね・・・・『キング』という人に」
少し言いにくそうにしながらも未来はその事を口にした。だが、それはピアスをくれた黒崎という男が話をしたわけではない。実際は映画で共演した人気ロックバンドのボーカルで演技にも実力がある黄味島悠斗のマネージャーをしている佐伯緑と黒崎の会話を盗み聞きした際に知った事実である。
「彼女は公園で襲われ、その際に心臓発作で死んだんだ。第一発見者のオレは『キング』と遭遇したが逃げられた・・・けど、顔ははっきりと覚えていた」
そう切り出し、簡単ながらその当時の状況を説明し始めた。恵里の事件をこうも簡単に話をしたのは由衣に次いで2人目だったが、もちろんそんな事など知る由もない未来はただうなずくばかりであった。
「警察はオレの証言から犯人を割り出したが、逮捕はしなかった。実際は出来なかったんだ・・・ヤツは政府の要人に飼われていたからね。だからって納得できるわけもなく、オレは『キング』を捜した・・・・東京の街のヤンキー共は皆『キング』の配下だと言われていたから情報を仕入れるためにケンカもした」
一旦そこで話を切ると窓の外に浮かぶネオンの街並みへと視線を向ける。何かを思い出しているような目は悲しみをたたえているのが未来にも読みとれる。
「実際は『キング』だけを倒せばよかったんだ・・・でも、何もかもが許せなくて、街をうろつくヤンキー共や街自体を仕切るリーダー、キング配下の7人の男たちを叩きつぶす事でうさを晴らしていたにすぎない」
「・・・その中に、彼がいたんですね」
未来のその言葉に再度視線を戻した周人はどこか影のある表情をしながら小さくうなずいた。降りしきる雨の中、蹴りを放つ星。その蹴りをわざと見てから避ける周人はその避ける動作のついでに回し蹴りを放つ。相手の蹴りが届く前にすさまじい速さの蹴りを星の頭にヒットさせる周人は倒れて動かなくなった相手を冷たい目で見下ろしながら向かってくる彼の舎弟どもの腕をへし折り、全員を叩きのめしてから雨の渋谷へと姿を消したのだった。覚えているのはそんな程度であり、はっきり脳裏に焼き付いているのは相手の身長の高さと左耳にある十字架のピアス、そして降りしきる冷たい雨ぐらいなものだ。その程度の記憶しかないのは、周人にしてみればそれはただの通過点でしかなかったからだ。
「彼の全てを奪い、『キング』を倒した事で極められていた上下関係は崩壊した・・・今の街が乱れた若者で溢れているのはオレのせいだと言ってもいいだろう」
すでに冷めかけているコーヒーを口にやる周人を見る未来は何も言わずにただジッと周人を見つめているのみである。
「彼だけじゃない・・・オレはいろんなヤツからいろんな物を奪い去った。恨まれるのは当然だよ」
「彼も確かに、恨んでました・・・いつかは自分の手で倒したいとも言ってました。でも今はもう恨んでいないと思いますよ」
小さな微笑みを浮かべてそう言う未来は無意識的にそっと左耳のピアスに触れる。その仕草を見た周人は黒崎に対する未来の想いを見たような気がして淡い微笑を浮かべて見せた。そんな周人の微笑を見た未来は何故か星の微笑をそこに重ねてしまい、頬を赤く染めたのを悟られないようにそっとコーヒーを口にしながら窓の外を見るようにして周人から顔を逸らせた。
「このピアスをくれた時、もう恨みがないから、『魔獣』を倒す気が無くなったからと言ってました」
今の言葉から、当時からしていたピアスにはいつか自分から全てを奪った『魔獣』に復讐を遂げるという念がこもっていた事を悟った周人は未来にそれを手渡す事でその念が消えたという事を理解できた。
「恨みが消えたのは、どうやら君のおかげみたいだね」
優しい口調と表情に、未来は周人の方を見ることが出来ずに窓に反射して映る自分の耳に光るピアスを見つめた。
「私も・・・襲われかけたけど、彼に助けてもらったんです。実際は影で彼がいろいろ動いてくれて、もう2度とそういう事がないようにしてくれたんです。その時に、あなたの気持ちを理解できたんだと思います。近い境遇に立って、そこで・・・・ようやく」
窓越しに周人を見てはにかんだ笑みを見せた未来に周人も自然と笑みがこぼれた。今の言葉には星に対する想いの強さがこめられているかのような気がしたからだ。周人はコーヒーを飲み干すと未来と同じように窓の外へと顔を向ける。もう顔もろくに覚えていない黒崎という人物を思い出しながら。
「今でも間違ったやり方をしてきたと思うよ・・・『キング』だけを倒しに行かなかった自分を、間抜けだと思う」
「でも凄いですよね。黒崎さんが言ってました、『オレはキングを前にして震える事しか出来なかった』って。そんな人を相手に・・・・よく勝ちましたね」
つい最近どこかで同じような事を聞いたなぁと思いつつ、周人は1人苦笑してみせた。景色から周人に向き直る未来はそう言うと小さな笑顔を浮かべてみせる。そこにはもう照れた表情はなかった。
「そりゃ怖かったよ・・・勝てないとも思ったし。でも・・・負けたくはなかった。ただ、彼女が味わった恐怖と苦痛を、アイツにも思い知らせてやりたいと思ったんだ・・・彼女を守ると約束しながら実際守れなかった自分が出来るのはそれだけだったからね」
やや顔を伏せがちにしながらテーブルの片隅を見つめる周人は麦わら帽子をかぶった亡き少女の笑顔を思い浮かべる。はかないほど白い肌をした自分の元彼女の顔は決して忘れることはない。そして、今一番大切で愛する人も、それを望んでいなかった。
「いつか、また、黒崎って人とは会うの?」
ここでようやく自分を見た周人の顔に浮かぶ優しい表情を見ながら、未来は小さくうなずいた。そして思い出す、夜の浜辺で約束した言葉を。
「いつか夢を叶えたら、その時はまた波島へ行きます・・・いつになるかはわかりませんけど、おばあちゃんになっていても、その約束だけは果たします」
その表情は微笑みをたたえつつも凛とし、はっきり夢に向かって突き進んでいくといった意志もこめられているように思えた。周人は未来に微笑み返すと優しい表情を見せたまま大きくうなずいた。
「早く会える事を祈ってます」
「ありがとう」
お互い微笑み合い、和やかな雰囲気が漂う中、突然周人はズボンの右後ろのポケットの方を見るような仕草を取った。何事かと同じように覗き込む未来だが、周人がそこから携帯電話を取り出したのを見て小さく笑うと、そのまま空になったコップを2つもって冷蔵庫の方へと歩いていった。気を遣わせたと思いつつも折り畳まれた電話の小窓を見やった周人はそれを開き、そこに映し出されているピースサインをした可憐な少女の笑顔をたたえた由衣の画像を認め、電話を開いて着信ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし」
『もっしー、私!今、いいかな?』
明るい口調は相変わらずだと思う周人は苦笑混じりにいいよと答えるとチラッと未来のいる方を見やった。どうやらコーヒーのおかわりを用意してくれているようであり、そのまま左手の腕時計に目をやるともう十時前である事が判明した。
『恵さん、今日無事に退院したって・・・一応出勤は来週からだけどね。だから来週いつでもいいから塾に顔出して欲しいんだけど』
どうやら恵の退院をいち早く伝えたくてメールではなく電話したようだ。周人は来週はそう予定もなく、忙しくもないだろうとすぐにOKの返事をした。とりあえず無事退院できたのはよかったと答える周人は窓の外に流れる車のライトが作り出す光の川を見下ろした。
『今、家?』
そう聞いたのは周人の言動や話し方が怪しいわけではない。いつも忙しい周人は残業で十一時を回ることも徹夜をすることも知っているだけに何気なくそう聞いただけだった。周人は一瞬今一緒にいる人物が誰なのか教えようかと思ったのだが、金曜日に理紗と出かける約束を話した時の由衣の苦々しい顔を思い出し、とりあえずはふせておくことに決めた。
「いや、外だよ。ついさっきまで社長と一緒だったから。今はまだ赤坂なんだ・・・もう帰るところだけどね」
とりあえず事実だけを報告しながらも胸がちくりと痛んでしまう。周人は心の中で由衣に詫びるとポットからコップへとお湯を注ぐ未来の姿を横目でとらえた。まるで愛人と浮気をしている亭主のような心境の自分に思わず苦笑が漏れる。
『そっか・・・あんまり遅くならないでよね?これでも一応心配なんだから』
「心配?」
『そう・・・う・わ・き!』
一言ずつ区切ってそう言う由衣の言葉に小さく苦笑した周人はコップを持って現れた未来を見てさらに口元を引き上げて笑みを浮かべたが、声に出して笑うことはしなかった。
「身の危険じゃないのかよ・・・・」
『その場合は襲った方の心配をするね』
きっぱり、それでいてあっさりそう言い切った由衣に対して今度ははっきり笑う周人に由衣もまた小さく笑い返す。そんな周人の笑顔を見た未来は微笑ましい気持ちになりながら再び周人の向かい側に座ると背伸びをしながら窓の外の景色に顔を向けた。
「まぁ、とにかく帰ったらメールするよ」
『はぁい、待ってます!』
「じゃぁな、一応お休みって言っておくわ」
『うん、マジで早く帰りなさいよ。明日もお仕事なんだからね!』
すでに妻のような口振りでそう言う由衣にまたも苦笑する周人だが、そこは素直にはいと返事をする。よろしいという由衣の返事を聞いてから別れの言葉を口にした周人は由衣からの返事を聞き、向こうが電話を切ったのを確認してから自分も電話を切る。そのまま元あったようにズボンのポケットへと携帯をしまうとにこやかな顔をしながら自分を見つめている未来に片眉を上げて疑問の表情を浮かべた。
「いえ、仲いいんだなぁって思っただけです」
その表情から言いたいことを悟ったのか、未来は嬉しそうな顔をしながらそう答えた。
「まぁ、仲はいいよ」
「彼女、怒ってませんでした?」
「いや、君といることは話さなかったからね。いらない心配をかけたくないし、何より、アイドルと一緒だとわかると怒るから」
「嫉妬?」
その未来の一言に周人は意味ありげな苦笑をしてみせたが、そのまま苦笑を微少に変化させた。
「君にじゃなくって・・・・オレに嫉妬しそうだから・・・彼女も君のファンなんだ」
その言葉を聞いて周人の苦笑の意味を理解した未来もまたさっきまでとは違う笑顔を向けるのだった。周人は2杯目のコーヒーに口をつけると未来の左耳に光るピアスを見つめた。普段であればそういう風に何かを勘ぐるように見つめらることを嫌う未来だったが、周人からは不思議とそういうものを感じない。全ての事情を知っているのもあるのだが、星に感じたものと同じ安心感を得ることができる自分を不思議に思うのだった。
「そういえば、私が黒崎さんの特徴を話したとき、顔色1つ変えませんでしたね?」
昨日の事を思い出しながらそう言う未来は探りを入れてわざとそう説明した事を詫びるのを忘れなかった。だが周人は謝る必要はないと前置きしてから今の質問に対する答えを口にし始めた。
「オレは『魔獣』と呼ばれ、ヤンキーを狩ってきた過去を持つ。それを受け止めているから、誰に『魔獣』と呼ばれても動揺はしない。実際オレは『魔獣』だからね・・・・だからそのピアスを見た時から、君がオレを『魔獣』と呼んでも仕方がないなと覚悟をしてたのさ」
その説明を受けて納得したのか、未来はうなずいたのみで何も反論しようとはしなかった。
「彼は波島のホテルのレストランで働いています。もし、波島へ行くことがあったら会いますか?」
さっきの質問とはまるで違う方向の質問を投げたが、周人の反応は違っていた。さっき質問した時には表情も変えることなく淡々と答えたのだが、今は困っているというのが顔つきや態度ですぐにわかってしまう程であった。
「・・・・正直に言うと・・・・・会っても仕方がないよ。詫びるのも変だし、何より向こうも困るだろうしね・・・・会ったらその時考えるけど、わざわざ会うつもりはないよ」
床に視線を落としながらそう言う周人は言葉を選ぶようにしながら慎重に答えを切り出した。今の言葉からも、周人の過去に対する反省というべきものが読みとれる。未来はさっきまで浮かんでいた笑顔をかき消し、曇った顔つきで周人を見るのがやっとだった。
「それに、さっきの芳樹を含めて一部の人間を除いて、今でもオレを殺したいと思っている連中は山ほどいる・・・実際そういう人たちに会っても、オレは殺されるわけにはいかないからまた戦うだろう。きっとこのまま永遠に過去のしがらみからは抜けられないよ」
「過去のしがらみ・・・・・・」
周人の言葉を反復する未来は演技の度にそうするようにその人物になりきるように、周人になったつもりでその意味を考えてみた。彼女を殺され、復讐のために多くの人間を痛めつけてきた。そして恋人の仇を討ち、それでその気が晴れたのだろうかと。皆が恐怖する相手にも戦いを挑み、勝利したということからも、どんなにその人を大切に想っていたかは理解できる。
「彼女を亡くしたというしがらみからは脱出できたわけですよね?」
現在彼女がいることからも、亡き元彼女に関しては吹っ切れていると思われる。去年の夏に星から話を聞いた時、『魔獣』と戦ったのは七年前だと言っていた。つまりは周人が元彼女を亡くして今年で8年の月日が経っている事になる。
「今の彼女が好きだと気付くまでだから・・・4年近くかかったけどね・・・・」
つぶやくようにそう言う周人は過去に想いを走らせているのか、小さな小さな笑みを口の端に浮かべた。その笑みの意味が理解出来ない上に、未来にしてみればたった4年で吹っ切れたのかという思いが強くなっている為、ここで初めて周人に対して言いしれない不快感を感じてしまった。
「『キング』を倒してから3年経った頃、今の彼女に出会ったんだ。まぁ、お互い印象は最悪だったけどね」
「今から・・・5年前、ですね」
「塾の講師のバイトをしてて、彼女は当時生徒で中学三年生・・・・これがまたクソ生意気でヤな子供だった・・・・」
頭をかきながら本当に困ったという仕草を取る周人を見て、少し不快感が消えていくのを感じる。だが、今の話を聞く限り、当時ハタチの周人が当時中学三年生の少女に恋をしたという事になる。今度は別の不快感が未来の胸を黒く埋めていった。はっきり言ってあまり正常とは思えないが人それぞれとも思う未来はあえてその不快感を顔には出さなかった。
「けど、その子はある事件がきっかけでオレに興味を持ってね・・・元カノの事なんか思い出す暇がないほどに振り回された」
いきなりデートしようと言われたあげくに恋人同士でという設定を組まされた事、苦手なジェットコースターに半ば強引に乗せられた事、クリスマスにジッポライターをもらった事、由衣との思い出を振り返っているのか何とも言えない優しい表情を見せた周人からは彼女に対する愛情の深さがうかがい知れた。
「そのせいかはわからないけど、気が付いたらオレも好きになってた」
「で、付き合ったんですね」
「いや・・・告白されたけど、断った・・・オレは仕事上3年間外国での暮らしが決まってたし、彼女はやっと高校生だからね。結局再会した去年の今頃に付き合い出したってわけだよ」
そう言うと椅子から立ち上がる周人は憂いに満ちたような表情をして未来を見た後、ネオンのきらめく街並みの方へと顔を向けた。気が付けば、さっきまで周人に対して持っていた不快感も消えている。
「オレにはもう、彼女しかいない」
自分に言い聞かせているかのようにそうつぶやく周人の顔は窓に反射してぼんやり映っているのでよくわからない。今の言葉は取りようによってはノロケのように聞こえるが、未来にはそういう風には聞こえなかった。
「ほんじゃ、そろそろおいとましますか・・・・遅くなりすぎて迷惑だろうし」
くるっと振り返った周人には子供のような笑顔が浮かんでいた。未来はそんな周人を見て自然な微笑みを見せる。無造作に足下に置いてあった鞄を手に取ると、未来を制して空いている手で空になった自分のコップを持ち、冷蔵庫の上にあるトレイの上に置いた。
「最後に1つだけ、いいかな?」
玄関の前に立った周人は体を半身にしながら背後に立つ未来を振り返る。小首を傾げる仕草も可愛いと思える未来を見ながら、周人は小さな笑みを口元に浮かべた。
「どうして『魔獣』がオレだって気付いたの?」
未来はあの時、自分が言った言葉を思い出す。『やっぱりあなただったんですね』、と。つまりはすでに目星をつけていたという事を自ら告白したようなものだ。もっとも、菅生から昨日の未来と清の会話を聞かされていた周人にしてみればその台詞を聞くまでもなく既に知っている事な為、その質問自体に深い意味はない。ただ、『きど』という人物を捜していた未来が何故初対面にして周人を『魔獣』と見破ったかだけを深い意味もなく聞いてみたかったのだ。
「似てたんです・・・持ってる雰囲気というか、空気というか、そういうのが黒崎さんと。実際黒崎さんはどこかキツイ感じで、木戸さんは柔らかい雰囲気を持っていたんですけどね・・・でも、似てるって、直感で・・・」
そういう未来自身もうまく説明できない事をもどかしく感じており、どこまで正確に周人に伝えられたかは疑問だったのだが、周人は意味ありげな笑みを見せており納得した顔をしていた。
「そうか・・・似てるのかもしれないな、そういう男とは」
星の事を名前すら知らなかった男が言うべき言葉ではない。そういう疑問を口ではなく、顔で表現した未来に向かってさっきまでとは違う感じの笑みを見せた周人はしっかりと未来に向き直る格好でその瞳を見つめた。
「なんとなくだけど、そういう気がしただけだよ・・・・早い内に夢を叶えて、波島へ行き、お互いの気持ちがしっかりと結ばれる事を祈ってるよ」
決して星を好いているとは言わなかった未来からその感情を読みとった周人の言葉に顔を赤くしながらも、未来は力強くうなずきながらありがとうと礼を述べた。
「もう会うこともないだろうけど、頑張って下さい」
そう言ってスッと右手を差し出す周人に、未来もまた右手を出し、しっかりと固い握手を交わす。微笑むその顔を見た未来が感じた温かい雰囲気は、南の島で感じたあの暑さとすがすがしさを持った風に近いものがあり、これが星と雰囲気が似ていると思えた原因だと、今、確信した。
「あたなも、お元気で・・・・彼女さんと仲良くして下さいね」
そう言ってから手を離した未来に淡い微笑を見せた周人はそのさわやかな笑顔を残すと、そのままドアを開いて振り返ることなくその部屋を後にした。ゆっくりと閉じられていくオートロックのドアを見ながら、今の今までそこにいた男の背中に遠い南の島にいる想い人の背中を重ねた未来は心からの小さな小さな笑顔を浮かべるのだった。
午前中の日差しとは思えないほどきつく照りつける太陽の光を避けるようにしながら建物の影に車を止めた恵はそのままの状態で周囲に人影がないかを慎重に確認した。まだエンジンがかかっており、エアコンから流れてくる冷たい風はそれでも設定温度を高くしているにもかかわらずひんやりとした空気を送ってくれていた。昨日退院したばかりとはいえ、点滴と食事、そしてじっくり休養を取ったおかげで体力も回復して元通りの元気を取り戻したと言える。が、康男は実際の業務を来週からにして今週はゆっくり休むようと言い聞かせてあった。だが、自分が休んでいる間にみんなの負担が大きくなっているのではないかと危惧していた恵はいても立ってもいられなくなって母親が所持している軽自動車を運転してさくら西塾までやって来てしまったのだ。見た限りでは人の気配はなく、塾にも電気が灯っていない。しっかりとそれを確認した恵はチラッと電光表示された車内の時計に目をやり、時間を確認する。午前十時ちょうどを示す表示が目に入った後、エンジンを切って小さいながらもゆっくりと深呼吸をしてみせた。今日は金曜日であり、予定通りならばいつも通りの授業となっているはずで夏休みの補習はない。明かりもない様子から予定通りだと判断した恵は塾の鍵がポケットにあるのを確認してから車を降りる。再度慎重に人気がないのを確認した恵はゆっくりと、だがやや早足気味にコソコソと1階玄関の前に立つと、もう1度左右を確認して鍵穴に鍵を差し込もうとした。
「なぁにやってんです?コソコソと・・・可愛いドロボウさん!」
不意にかけられた言葉に体を硬直させてしまった恵はうまく鍵を差し込むことができずにドア自体に鍵の先端をぶつけてしまったあげく、小脇に抱えていた小さなバッグも落としてしまう始末。声がした玄関横にある鉄の階段の上へとあわてた様子で顔を上げた恵の目に飛び込んできたのは腕組みしながらため息をついているややにやけた顔をした光二の姿であった。もはや赤面を通り越した恥ずかしさとバツの悪さでうつむくしかない恵は落ちた鍵をゆっくり拾い上げながらどう言い訳をしたものかと思案に暮れる。そんな恵を見て腕組みを解き、階段を下りてくる光二はポケットから鍵を取り出すとスッと横へスライドするようにドアの前から退く恵に笑顔を見せながら鍵穴に鍵を差し込んだ。
「どうぞ」
ドアを開いて今度は光二がその前から横にスライドして紳士的な手振りで中に入るようにうながした。とりあえず、どうも、とつぶやくように言ってから職員室となっている1階の部屋に足を踏み入れた恵は1週間程度しか留守にしていなかっただけにもかかわらず、凄く懐かしい思いが胸にこみあげてくるのを感じていた。自分のスリッパに履き替え、ゆっくりと中を見渡すように入っていく恵の後ろ姿を見ながら入り口脇に置いてあるエアコンのリモコンを操作する光二はその華奢な背中を見つめながら小さな笑顔を作ってみせるのだった。日の光が明るく窓越しに差し込んできているためか思った以上に明るく、電気をつける必要はなさそうである。とりあえず自分の机に向かった恵は自分が倒れた時の状態よりも少し整理されてすっきりしたその机上を見て何とも言えない複雑な思いが胸をよぎっていくのを感じていた。右隣の光二の席には自分が使用していた黒いノートパソコンが置かれており、様々な書類や教材といった紙が山積みされていた。これを見ただけでも自分の代わりに光二が頑張ってくれていた事は容易に想像が出来る。
「ありがとう・・・・迷惑かけたね」
後ろから近づく気配を感じながら机の上を見たままそう感謝を言葉にする恵はそれ以外どう言葉に表していいかわからなかった。自分が倒れた時もてきぱき動いてくれたのは光二だったと見舞いに来た康男や由衣から聞かされている。それに仕事の面でもかなり頑張ってくれたのだ、いくら感謝を言葉にして足りないほどだ。それにこまめに病院までお見舞いに来てくれたこともあってか、恵は全く光二の方を見れない状態にあった。
「仕事に関しては、まぁ、慣れないせいもあって手間取った感もありますけど、そうたいした事はしてませんよ」
普段通りの口調でそう言いながら、光二は台所へと姿を消した。その隙にというわけではないのだが、恵は光二の机の上に置いてあるさくら西塾の経営経理状態をまとめる書類や、教材の補充やテキスト選びの資料をざっとながら目を通す。思った以上に、もしかすれば自分以上に綺麗にまとまられているのではないかと思うその資料を目にしながら、この数日間でよくもここまでといった感嘆のため息を漏らす恵は見舞いに来ても一切そう言うことを話さなかった光二にかつての周人の姿をそこに重ねてしまった。さりげない優しさを見せ、それをひけらかす事もしなかった周人。今では親友であり、また、親友で同僚となった由衣の彼氏でもある周人は今でもその優しさを変わらず持ち続けている。そんな周人と今の光二はどことなくだが同じ雰囲気を持っていると思える恵は複雑な心境を隠すかのように閉じられた窓の方へと顔を向けた。と同時に台所からアイスコーヒーを手にした光二が姿を現し、自分の机と恵の机の上にそれぞれのコップを置いた。部屋がまだ暖かいせいか、そのコップには汗をかいたように水滴がいくつか見受けられた。とりあえず自分の席に座った恵は久しぶりのその感触にひどく懐かしさを感じてしまう。大学生の頃から座り続けたこの椅子を数日間しか空けることは少なく、それこそ1週間ともなればお盆休みや年末年始以外には無いことだった。そのせいか、雰囲気的にも若干の違和感を覚える恵は小さなため息をついてからコップにささっているピンク色のストローに口をつけた。光二はいつも美味しいコーヒーを入れてくれる。心を読めるその能力のせいか、恵や由衣の好む味というものを熟知している光二は今回も絶妙なテイストのコーヒーを用意してくれていた。恵はその愛らしい唇をストローから離すと小さく美味しいとつぶやいた。そんな口調、仕草、表情にはからずも見入ってしまった光二はそれを誤魔化すようにコーヒーを一口含むと、少し間をおいてからゆっくりと話を始めた。
「しかし、何でまたこそ泥みたいに?出勤してくるのは来週からって聞いてたのに、驚きましたよ」
こそ泥と言われて一瞬ムッとした恵だが、確かにそう思われても仕方がない程に挙動不審だった自分を思い出して反論はしなかった。塾の事が、仕事が気になって家でも落ち着かなかった恵はそれならばいっそのことばかりにこのさくら西塾までやって来たのだ。誰かに見つかれば叱られる上に追い返されるのがオチだと思った末の行動だったと簡単に説明した恵の言葉に、光二は苦笑しながらも柔らかい雰囲気を保って相づちをうった。
「塾が、ここが好きなんですね」
微笑みながらそう言う光二は空いたスペースの少ない自分の机の上を見渡すようにしてから肘をつき、その手にアゴを乗せるようにしてみせた。
「そうね・・・ここが私の居場所って気がする。でも・・・木戸クンたちと一緒に過ごしたあの日々がなければ、こういう気持ちにならなかったかもしれないわね」
ハタチの頃の自分を思い出すような、どこか遠い目をする恵の脳裏をよぎるのはここで過ごした周人との思い出の数々。電車で初めて出会った時、塾で再会した時、由衣の言動で傷ついた周人を励ました事、塾から行ったプールでの思い出や映画を見に行ったデート、そして周人の過去を知った上での告白。結局フラれてしまった自分だが、その結果には納得していると思っていた。誰も周人の心の中にある分厚い氷は溶かすことができないと思っていた。だが、その氷を無理矢理砕くのではなく、温めて温めてゆっくりと溶かしてみせたのは周人を最も嫌っていた由衣だったのだ。そんな事を思い出し、少し表情を曇らせた恵の事が気になってしまった光二はダメだと思いながらも彼女の心の中を読んでみたくなり、結局好奇心に負けて自らの能力を開放してしまった。だが、全く何も聞こえてこない。やはり恵の思考だけが読めなくなっている事に首をひねる動きを見せた光二を横目で見やった恵は眉間にしわを寄せながら睨むようにしてみせるのだった。
「何?」
不意にそう言われた光二があわてた様子で恵を見れば突き刺さるような視線を浴びせられている事に気付いた。もはやどう返していいかわからない光二は言い訳も思いつかずに引きつった愛想笑いを浮かべるしかなかった。
「あ、いや・・・その・・・・・いろいろ思い出してる顔してるなぁって思っただけです」
思った事を正直に口にするしかなかった光二は苦々しい顔をしながらコーヒーを飲んで間をあける。イマイチ今の説明に納得出来ていない恵だったが、とりあえずは言われた通りなので怪訝な顔をしながらも光二に向けている視線を和らげた。
「ここで楽しい思いをしてなかったら、今ここには座ってなかった・・・」
「でも聞きましたよ。ここの雰囲気が良くなったのは青山さんたちがバイトをしていた時からだって・・・僕も、ココ、好きですから」
にこやかにそう話す光二の表情からもそれが本心であることは十分伝わった。恵は同じような笑顔を一瞬浮かべたが、すぐに少し悲しげな表情に変化させた。
「ま、楽しい事ばかりじゃなかったけどね・・・」
ここで苦しい想いをしたのは周人への想いが叶わなかった事ぐらいだったが、恵にとってそれが今でも尾を引いているのではないかと康男が危惧するほどの出来事だった。
「木戸さんとの事ですね・・・」
康男と恵を含めた呑み会の席で話していた事なせいか、その事実は光二も知っている。結局周人が選んだのは恵ではなく由衣だった。そして、今見ても周人と由衣は固い絆で結ばれており、決して離れることはないと言いきれる間柄なのは周知の事実である。
「こんな人がいるんだなぁって思った・・・・優しくて、大きくて・・・・」
その一言一言に愛情らしき感情が見て取れる。心が読めない恵の心情だが、読むまでもなくその感情は表に出過ぎていた。
「男の僕から見ても、木戸さんは凄いと思いますからね・・・僕もああなりたいって思います」
恵から溢れている感情に対し、何故か嫉妬するような心に襲われた光二は周人に対する恵の気持ちを理解した上で周人という人物を冷静に分析してみせる。去年の秋、アメリカの富豪の令嬢と自分の彼女、そして光二を守るために戦った周人の姿を思い出す。圧倒的強さ、包容力、人格、どれを取っても自分にはないほどの大きさを持っている周人はいい意味で嫉妬に値するべき人物であると思い、今では目標にしているほどである。そんな彼を好きになっても何ら不思議はないと思う光二はそっと横に座る恵に視線を送った。
「彼みたいにか・・・難しいけど・・・三宅クンならなれそうだね」
「頑張ってますけど、なかなか・・それに、そうなったら僕に惚れちゃうかもしれませんね、青山さんは」
真剣な恵の言葉に照れてしまったせいか、最後は冗談を返してしまった事を後悔しながら、間をおくためにすっかり表面が水滴だらけになったコップを手に取った。
「そうかもしれないわね・・・・・惚れちゃう、カモね」
薄い笑みを浮かべながらそう言う恵もまたストローを口にした。思わず持っていたコップを落としそうになってしまった光二はあわてて同じようにコーヒーを飲むと、早まっていく動悸を沈めようと落ち着くように自分に言い聞かせた。思いも寄らない言葉だったせいもあるが、自分でも驚くほどドキドキした今の言葉の意味を深く考える光二は、もしかしたらという思いが頭をよぎったが、それを言葉に表すことはしなかった。
「きっと、私はまだ・・・・今でも木戸クンの事が・・・・・好きなんだと思う」
わざわざ言葉にせずにいた光二がバカらしくなるほどあっさりとその事を認めた恵の言葉に、光二は渋い顔をしながらコップを置いた。
「でも、それは決して叶わない想い・・・・ですよ」
昨年、由衣にほのかな想いを寄せながらも、周人との絆の強さをまざまざと見せつけられた光二にとってもそれは決して叶うことのない想いであった。結局、あの2人を引き裂く事はおそらく神様以外には出来ないだろう。そんな光二と同じように、光二よりも以前から2人の仲を知っている恵ならばとうに周人への想いは断ち切っていたと思っていた。だが、現実は違っていたのだ。周人のような男を理想としながらも、結局は周人自身を欲していた事になる。
「わかってる、それはわかってるんだけどね・・・」
つぐんだ口に力を入れてからそうつぶやくように言った恵は瞳を伏せるようにしながら光二のいる方へと視線を向けた。そのまま何も言えなくなってしまった光二は黙りこくったまま、2人の間に重たい空気が流れ始めた。どう切り返していいかわからない上に、恵の思考すら読めない為に困り果てていた光二がその場を取り繕うべく何とか口を開きかけた矢先、玄関のドアが開く音がして2人はほぼ同時に真後ろを振り返った。そこに立っている人物を見て一瞬ポカーンとしていた恵だったが、すぐさましまったという表情を浮かべて前を向く。光二もまた軽く頭を下げながらも苦笑いを浮かべるしかなかった。玄関先に立つ康男は腕組みしながらジッと恵の後ろ姿を睨むようにしながらフッと表情を崩して笑みを浮かべると自分専用の古びた健康サンダルに履き替えるのだった。




