あなただけを・・・(2)
遅れてリフレッシュルームにやってきた周人は1人離れて座っている遠藤に目を留めてニヤリとした後、自動販売機のすぐ前にある席で香のトークにつかまっている島原を見てから行動を起こした。四角いスペースに自動販売機は3つ。入り口正面奥と左右の壁奥に1つずつだ。右側に島原と香、そして遠藤は左側の自動販売機の奥に座っている。他には誰も人がいないため、何食わぬ顔で遠藤の前を通過した周人は自分を見ている遠藤を無視してコーヒーを買うとコップを取りだし、その遠藤の前に座った。遠藤は無表情なまま周人に向けて一瞬視線を送ったのみですぐさま白い丸テーブルの上に置かれたアイスコーヒーを見つめた。
「あのおばさん・・・ウザイ!」
小さな声でそう言う遠藤に苦笑を漏らした周人は遠藤の肩越しに向こう側に座っている島原たちの様子をチラッとうかがうようにした。背中を向けている香の表情はわからないが、一生懸命何かを話しているようだ。島原はその話しにただ相づちをうっている。
「そういや、お前さ、今月誕生日だっけ?」
唐突にそう言われた遠藤は何を言い出すんだと言わんばかりの表情を浮かべた顔を上げた。そもそも、周人が自分の誕生日を知っている事自体が気持ち悪い。そんな遠藤の表情から何を考えているかを読みとった周人はコーヒーを一口飲んで一旦間をおいてから話の続きを始めた。
「この間、宮崎さんと話してただろ?」
その言葉に何かを思い出したのか、納得したような顔をした遠藤は鼻でため息をつくようにしながら周人を見やった。
「そういや、そういう話もしたな・・・それがどうした?」
「お前って結構裕福だろ?欲しい物とかあるのかなぁって思っただけだよ」
さりげなくそう言う周人がコーヒーを飲むのを見やる遠藤の視線は鋭かった。だがそんな視線を受けても全く動じない周人は逆にその視線は何だと言うような表情で遠藤を見た。
「裕福とは言っても、そうたいそうなもんじゃない。お金をもらうぐらいだ。欲しい物もその金で買うぐらいだが・・・たいがいは小遣いとして使うってところだな」
「じゃぁ人からもらって嬉しいものってないわけか?」
「いや、あるぞ。アトラスの財布だ」
今遠藤が言ったアトラスの財布とは、最近人気のブランド商品である。値段もそう高くはなく、その財布も5千円もあれば結構なものが買えるほどだ。周人も由衣がモデルをしている雑誌で見た程度の知識しかないのだが、1ヶ月の小遣いで十分買える上にお釣りも盛りだくさん返ってくる代物だと認識している。
「それなら自分で買えるだろ?」
率直に疑問を口にした周人に向かって目を細めながら見やる遠藤はこれみよがしなため息をついてコーヒーを全て飲み干した。
「だからあえて欲しくはないんだよ。自分で買うならもっと高いのを買うさ」
だったらそういう安い物を欲しがるなよと、今の遠藤の言葉の意味がいまいち理解できない周人は育ちの環境の違いを痛感しながらとりあえずリサーチは完了した事にホッとした。そんな周人の心情など知らない遠藤はさっさと立ち上がると空になったコップをゴミ箱に捨ててリフレッシュルームを後にした。
「金持ちの気持ちは理解できねぇや」
つぶやくようにそう言ってから周人も紙コップをゴミ箱に捨てた。そしてそのまま島原と香の方を見やるが2人の話はまだ続いていそうであり、終わる気配がなかった。とりあえずお盆休み前までいることになった島原との別れも近い香の猛攻撃なのだろうが、既に婚約者がいる島原にしてみればいい迷惑でしかない。苦笑を浮かべて2人の様子を見ながらリフレッシュルームを後にした周人は島原の婚約者、綾瀬桜の顔を思い浮かべながらエレベーターホールへと向かって歩くのだった。
周人が席に戻った時には既に遠藤は机の前でパソコンのキーボードを叩いていた。そんな遠藤の前に座る周人をチラッと見てくる理紗に意味ありげな視線を送った周人は遠藤に気付かれないためにメールの画面を立ち上げ、そこに遠藤が欲しいと言っていた『アトラスの財布』の事を書き記して送信し、とりあえずの返事を待った。会社内同士でメールを送ればすぐに相手に届けられる。周人が送信ボタンを押してからものの3秒かからない時間に理紗はそのメールを受信したという表示を画面の中に認めることが出来た。さっそくそれを開き、中身を確認する。理紗はそこに書かれている物がどこで売っているかを調べるためにインターネットを立ち上げようとしたが、隣に座る遠藤が不意に自分の方へと体を向けたためにあわてて画面の中に表示されていたメール画面を消すのだった。今の動きを不審がりながらも仕事の話をした遠藤にホッとする理紗はとりあえず仕事をするふりをしながら再度インターネットを立ち上げて財布の売り場を検索し始める。さっきのうろたえる理紗に小さく苦笑しながらも自身の仕事に戻った周人はその品物であれば自分が付いていく必要はないと考えていた。アトラスの財布であればたいがいの大手デパートに行けば売っており、比較的容易に手に入れる事ができるからだ。その後、島原と香が戻ってきてから小一時間ほどは皆無言で仕事に集中していたが、周人が画面から視線を外して軽く首を回していると画面上にメールが受信されたという表示が現れた。非常にリラックスした状態で右腕だけを動かし、マウスを操作して今来たばかりのメールを開封させた。
『金曜日の定時後、桜ノ宮のデパートでお願い出来ますか?』
件名も無いそのメールの内容に周人は一瞬動きを止める。眉間にしわを寄せてジッとその画面を凝視している周人を何気ない顔で見ていた理紗はその反応からあまりいい返事は貰えないなと判断していた。と、周人は椅子に座り直すと軽やかな動きでキーボードを叩いていく。素早く短い手の動きからしてやはり良い返事は期待できないと思う理紗だったが、すぐさまやって来たメールを開いて意外そうな顔をしてみせた。
『了解。では定時後すぐに行きましょう』
今日は月曜日だから金曜日まではまだ日数がある。彼女に了解を取らずにこうも早々と返事をしていいものかと思いつつ席を立つとチラッと周人の方を見やった。だが周人は理紗など眼中にないようで画面に集中していた。何故かそんな周人に腹を立ててしまった理紗はそのままズカズカと大股でトイレへと向かっていくのだった。
定時を告げるチャイムの音が鳴り響く中、島原と遠藤はそれを全く気にする様子もなく仕事を続けていた。いつもであればそこに周人も加わっているのだが今日は事情が違う。早々と帰り支度を整える香に負けず劣らずのスピードでパソコンの電源を落とすと鞄を取り出し、財布や携帯を詰め込むようにその中へと入れていった。
「お、今日は早いやん、デートか?」
チラッと上目遣いに周人を見ながら島原がそう言うと、同じように遠藤も顔を上げた。
「いえ、お見舞いに行くんですよ。友達が入院したんで」
パソコンのモニターの電源を落としながらそう言う周人はすぐに鞄を掴んで椅子をしまう。
「お疲れさまでした~」
さっさとそう言い残すと香とほぼ同時にオフィスを後にした。そんな2人の背中を見送る理紗もあわてたように鞄をひっつかむと遠藤に対してにこやかな挨拶を残し、その場を去っていった。残された2人は一旦顔を見合わせたがまたすぐに仕事へと戻り、無言のままパソコンに向かうのだった。理紗は何故自分が早足で歩くのかという理由もわかっていなかったが、とにかくさっさと行ってしまった周人の後を追っていた。あの出張以来、理紗の中で周人の存在は確実に大きくなっていたのだが、その分、周人に対する苛立ちも大きくなっていた。苛立ちの理由は自分でもわかっている。だが、何故周人が気になるのかがわからない理紗だが、あまりそんな事を考えることもなくただ周人の背中を追っているだけだった。エレベーターホールにやってきた理紗は数人いる人垣の中に周人の姿を捜すが、そこにはいない。どうやら2機あるエレベーターの内、現在3階にいる事を示すランプを灯す奥にあるエレベーターに乗り込んで先に降りていってしまったようだった。少しがっかりする自分に気付いてますます苛立ちを増幅させた理紗は腕組みをして待ちながら今上がってきたばかりのエレベーターに乗り込んだ。少し狭い箱の中に大人がひしめき合う。それがさらに理紗のイライラを募らせ、徐々に目つきも鋭くなっていった。結局各階に止まったせいで大幅に遅れを取った理紗は門へ向かう人の波を見て大きくため息をつくとさっきまでの早足が嘘のようにとぼとぼとした足取りで歩き始めた。
「腹が立つ・・・・・原因はわかってるんだ・・・・・あいつが、偽善者だから・・・似てるんだ」
そうつぶやく理紗の頭の中には茶色い髪を長く伸ばし、つり目がちの細い目に4つのピアスをつけた男の顔が浮かんでいた。言葉とは反するほど周人には似ていない風貌のその男の顔を何度も忘れようとしたのだが、無理だった。
「結局、信じられるのはお金だけね」
自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、理紗は背筋を伸ばしてきびきびと歩き始めた。ズキンと心が痛むのは頭から離れない男のせいか。ますますイライラを増加させていく理紗に向かって真横から1台の車が短くクラクションを鳴らした為、その理紗のイライラはついに爆発寸前となって表情に表れ、まるで悪鬼のごとき睨みでそのクラクションを鳴らした車の運転手に怒りの視線を浴びせた。そして罵声を上げようと大きく開いた口はそのまま驚きを形作るとパクパクとするのみで声は出なかった。遠藤が所有している赤いスポーツカーたる試作マシン『フェニックス』に似た形状をしたその白いマシンに乗って手を小さく振っているのは周人である。もはや驚くしかない理紗の真横に車を着けた周人は運転席の窓を全開にするとにこやかな顔をしながら話しかけてきた。
「駅まで送ってってあげようか?」
意外なその言葉に我に返った理紗は怒ったような顔をしながら前を向いた。その表情を見て苦笑を浮かべた周人はそっぽを向くようにしたままの理紗に構わず話を続けた。
「そうか・・・じゃぁとりあえず金曜日は空けておくから」
その言葉には反応を示した理紗は目だけを周人の方に向けながら唇を尖らせ、すねたような顔をしてみせる。そんな理紗に苦笑ではない小さな笑みを漏らした周人はそのまま車を併走させながら人混みを避けるように器用に運転を続けていた。
「彼女、きっと怒りますよ・・・・・私ならいい気しないから」
素っ気ない口調ながら今までにない発言に少なくとも驚いてしまう。自分を気遣うような発言をした理紗に戸惑う気持ちを感じた周人だったがそれを出さず、笑みを絶やさずに顔を理紗の方へと向けた。
「そうだな、まぁ、うまく言うさ・・・・・・ちゃんと言えばわかってくれるし」
「絶対怒られるね」
「そん時は素直に謝るさ」
「許してくれないって」
「そうかもな」
どんなにきつい言葉を投げても全く動じない周人の言葉に、周人の彼女に対する愛情をはっきり感じる事ができた理紗は胸の中で黒い物がうごめくような感じに戸惑いつつも、相手を信用し、また彼女も周人を信頼している事に対して無性に腹が立つのを感じていた。
「彼女のこと、好きじゃないんだ」
立ち止まってそう言い放つ理紗に何かを感じた周人だったが、それは表に出さずにジッと理紗を見つめた。
「好きに決まってる。彼女が死んだらオレも死ぬだろう。けど、彼女の為には死ねないが、命は懸けられる」
「口だけなら何とでも言える!」
周囲の目も気にせずに大声を張り上げた理紗は言い終えた後、すぐにハッとした表情を浮かべて見せた。ジロジロと自分に視線を浴びせていく人たちを無視するように早足で歩き始めた理紗にため息を漏らす周人は彼女の内面の奥を見たような気がして表情を暗くしてしまった。再度ため息をついた周人はアクセルを強めに押すと人混みを避けて乗用車用の門をくぐり、そのまま西桜花中央駅方面へ向けて車を走らせた。その車の後ろ姿を見送りながら、理紗は寂しげな表情を一瞬見せた後、眉間にしわを寄せて険しい表情を浮かべるのだった。
「どんなに信用しあっても、結局は裏切られるのに・・・・」
そう吐き捨てるようにつぶやく理紗は人の波でごったがえすバス停を通り過ぎると、駅方面に向けて歩き出すのだった。
西桜花中央駅にあるデパートのガレージは3カ所にあり、その全てが立体駐車場となっていた。大きなバスのロータリーの脇道から入るようになっているその駐車場への入り口のそばには雑貨屋があり、その雑貨屋の裏口は大通りに面した十字路の一角に存在していた。ノースリーブのシャツにチェックのミニスカートを履いた由衣は一通りの雑貨を見た後、大通りをのぞむその店の前に立っていた。周人との約束の時間は5時45分にこの店の前なのだ。いつも周人は時間より早めに来るので今も10分前にその場所にいる由衣だったが、その予想通り車の通りが一番少ない右側の道路から見慣れた白い機体がやって来るのが目に留まった。そのまま由衣の前で車は止まり、助手席のドアロックが解除される。それを確認した由衣は素早く車に乗り込むとクーラーが程良く利いたその車内で安らいだ表情を見せた。夕方とはいえ外はかなり暑く、ハンカチが手放せないほどであった。そんな灼熱地獄から解放された由衣は冷ややかな風を送る送風口の向きを自分に直接当たるように調整し、目を閉じて快楽に満ちた表情を浮かべる。そんな由衣を横目で見ながら小さく微笑んだ周人は車の流れを慎重に確認してから大通りへ向けて車を発進させた。ここから恵の入院している病院まではおよそ十五分といったところか。帰宅ラッシュに引っかからない事を祈りながら幹線道路に出た周人はそう混雑していない道に少しほっとした顔をしてみせるのだった。
「この調子なら6時前には着けるな」
「恵さん、よくなってるかなぁ?」
目を開き、前を向いたままそう言う由衣の言葉は暗い。昨日の今日であるため、あまり進展はなさそうだがそう思わずにはいられない心情を察した周人は小さくうなずいた。
「なってるさ」
少し顔を由衣の方へと向けた周人は笑顔をともなってそう言った。そんな周人の笑顔に満足したのか、自分を納得させるようにうなずき返す由衣もまた小さな笑みを浮かべた。
「でも、仕事いいの?」
今の言葉が残業しなくてもいいのかという意味だとわかった周人は車線を追い越し車線側に変更させながらうなずいてみせる。
「もう一段落ついてるし、大丈夫だ」
「なら、いいんだけどね・・・」
どこか含みを持たせるその言い方に片眉を上げる周人だったが、そこはあえて何も聞かずに運転に集中した。だが、1つ大事な事を思い出した周人は週末の理紗との買い物の件を先に言うべきだと判断し、その大事な事をとりあえず後に回して話を切りだした。
「ところでさ、ちょいと話があるんだけど・・・いいか?」
由衣は少しだけ顔を周人の方に向けてから目を細めた。こういう言い回しをする時の周人の話は大抵いい話ではない。それがわかっている由衣はそういう目で周人を見やり、周人はその由衣の視線に顔を引きつらせた。
「じ、実はさ、この金曜日の定時後に後輩の女の子と買い物に行くことになったんだ。ほら、あの遠藤の誕生日が今月でさぁ、その子は遠藤が好きで・・・・」
「プレゼントを買いに行くわけね・・・・・で、なんで周人なわけ?」
話にかぶせるようにそう言う由衣の言葉に思わず口ごもった周人は何故理紗が自分を指名したかは知らないため、素直にそのままを説明した。
「それが謎なんだ・・・正直、1人でも買いに行けるのにな」
「それって昨日一緒に出張だった人?」
「ああ、そうだけど」
由衣の口調は普段と全く変わりがない。普通に考えれば刺々しい声色になってもおかしくないのだが、あまりに冷静なその言い方に対して周人は逆に背筋に冷たい物を感じ始めた。
「やっぱりね・・・・・・・そういう気はしてたんだ」
ため息混じりにそう言うと、シートに沈み込むように浅く腰掛けた由衣は遠くを見るような目をしながら前に広がる景色に目をやった。
「多分、嫌いだったのに一緒に過ごしてちょっと気になりだしたのよ・・・だからだね」
「そうかぁ?違うかもよ」
すっとぼけた周人を横目で見やる由衣の目は冷たい。周人はそんな由衣に引きつった顔をするしかなく、もはやその顔を凝視する事も出来ずに赤に変わった信号の前で車を停車させた。
「経験者が言うんだからまず間違いない」
きっぱりそう言う由衣は腕組みをしてみせた。説得力も完璧な今の発言にはぐぅの音も出ない周人は苦々しい顔をしながら右手で後頭部を掻くとどう切り返していいかを必死で考えた。
「ま、いいわ。行ってきていいよ・・・ただし、1つ条件があるからね!」
絶対に行くなと言われると思っていた周人は由衣の意外な言葉に目を丸くした。条件というのが気になるが、とにかく礼を言うことにした周人はまだ赤信号が変わる気配を見せないのを確認してから由衣の方に顔を向けた。
「ありがとう。で、何?」
「門限は9時!9時に家に電話して出なかったら・・・・・わかってるわよね?」
最後の言葉は優しい口調だった。その口調に悪寒を感じた周人はすぐさま、はい、と返事を返すと青信号を目に留めて車をゆっくりと発進させた。
「正直、行くなって言うと思った」
「そりゃ行かせたくないけどさ・・・・・何があっても周人を信じるって決めてるから」
すねたような感じでそう言うが、今の言葉は周人にとって最高の言葉である。淡い微笑を浮かべた周人の横顔を見た由衣は複雑な心境ながら絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせるのだった。
「オレも信じてるからな、中学生とのデート」
交差点を右に曲がりながらそう言う周人の言葉に思わず目を見開いた由衣。一昨日の夜、合宿の肝試しでそのデート相手で中学生の佐藤純一郎から不意を突かれたとはいえキスされた事を思い出した由衣は暗い顔つきになりながらもシートに深く座り直した。
「アレはもういいの・・・・・行かないから」
暗い顔に暗い声からして何かあったなと思う周人だったが、そこにはあえて触れずにおこうと決めた。
「そうか・・・・なんだか知らないけど、ホッとした」
素直に自分の心情を吐露した周人はさくら西塾へと続く大通りへと車を進めていく。恵が入院している病院はかつて由衣を守るために右腕を負傷した際に康男によって連れて行かれた病院であった。その病院は丘の上にある住宅地の手前にあって、今いる位置からでもその姿が確認できるほどであった。由衣は病院の印である緑の十字マークを見ながらキスされた事を言うか言うまいか悩んでいた。もしここでそれを言えば、きっと周人は慰めの言葉をくれ、もしかすれば純一郎のところへ行くかもしれない。慰めの言葉は欲しいが純一郎と衝突してほしくはない、いや、おそらく腕に自信のある純一郎のことだ、周人にかかっていったはいいが逆にのされるのがオチだ。元々自分の不注意がもたらした事故として狂犬に噛まれたと思うようにしていた由衣は一瞬出かかったその事実をグッと飲み込むのだった。別に純一郎をかばったわけではない。ただでさえ内部でゴタゴタしている事をさらにややこしい事態にしたくないのだ。由衣は病院をぼんやり見ながら表情に暗い影を落とす。そんな由衣を横目で見ながらあえて何も言わない周人は膝の上に置かれている由衣の右手を空いている左手でそっと掴むと、ギュッと、だがしかし優しく握りしめてみせた。そんな手の温もりから周人の無言の優しさを感じた由衣はゆっくりと周人の方を向き、小さな微笑みを浮かべるのだった。
病院の待合室は順番待ちの患者さんでごったがえしていた。大きな病院だけあって受付も大きく、昨日は夜だったせいか狭く感じた待合室もかなり広かった。そんな待合室を横に見ながら左に向かう通路をまっすぐ行くと階段が見えてきた。入院の患者病棟はこの階段を上がった2階にあり、恵の部屋はその2階へ続く階段を上がってすぐ右側にある病室だった。病院の近所にある美味しい事で評判の小さなケーキ屋さんでプリンを買ってきた2人は階段を上がりその病室へと向かう。とりあえず個室にいると聞いていた2人はその部屋の前にかけられている表札のような白い板にマジックで書かれた『青山恵』という文字を確認してからドアをノックした。閉じられたドアの向こうから返事はなく、2人は顔を見合わせる。いないのかなと思う2人がドアに手をかけた時、不意にドアが内側へと開き始めた。清潔感溢れる白いドアの向こうから姿を現したのは恵でもなければ恵の母親でもなく、なんと同じバイト仲間の三宅光二であった。今日はバイトの日なのだが、この時間に光二がここにいるということが不思議でならない。心の中を読みとれる特異能力を持つ光二だったが、そんな事をせずともその表情から十分2人の疑問を悟ることができたせいかまずは2人を室内へと招き入れた。中は病室だけあって白で統一されてかなり質素だが、正面奥にある窓際を頭にして置いてあるベッドに横たわる恵の顔色は良くなっているように思えた。簡易パイプ椅子に小さなテーブル、そしてキャスター付きの台座にテレビも置かれており、思った以上に広いこの部屋は夕日を遮るブラインドから漏れる光で白い壁を所々朱に染めていた。ベッドの縁にある格子部分に大きな枕を置き、そこにもたれるようにして座っている恵はにこやかな笑みをたたえつつ2人に会釈をした。
「思ったより元気そうだ」
「うん。心配かけたけどね。今は熱も下がってるから・・・・」
久々に見る周人は春先に見た頃とは違い、グッとかっこよく見えた恵は少々頬を赤くしてしまったが、夕日がそれをカムフラージュしてくれていることに感謝した。
「まぁ、これに懲りたらあんまり頑張り過ぎないようにな」
肩をすくめるようにそう言う周人にバツが悪そうな笑顔を見せた恵だったが、さすがにそれは自分が一番わかっている。
「ありがと・・・・・由衣も、来てくれてありがと」
「うん。元気そうでよかった!これ、お見舞い」
そう言う由衣はさっき買ったプリンの入った箱と、ちょっとした花を手渡した。
「ありがとう!実はお腹が減るのよ・・・・夜中とかね」
そう言って笑う恵もここのケーキ屋には目が無く、何度か通った事があったため両手放しで喜ぶ。そんな恵を見て本当に元気になったと思う由衣と周人だったが、ここで油断させてはいけないし、退院しても絶対無理はさせられないと感じていた。
「お花にお水をあげないと」
由衣はそう言うと恵から花をもらい、病室に備え付けられている花瓶を手に取った。
「案内しますよ」
光二はさっきまで自分が座っていたパイプ椅子を周人にすすめ、由衣をともなって病室を後にした。残された周人は鞄をテーブルの脇に置くと椅子に腰掛けた。ベッドと壁の間は椅子に座る周人以外誰も入れないほどだったが、位置的に恵に負担がかからない場所に移動させたためそう狭くは感じなかった。空調のない室内はさすがに少し暑い程度だったが風通しが良かったのか、それもあまり気にならなかった。
「心配かけたけど、熱も下がったし、経過は順調です」
少しはにかんだような表情を浮かべながらそう言う恵は久しぶりに2人きりになった事を意識してか、動悸を早めていた。優しく微笑む周人は昔のままであり、パーマをあてた髪型以外変わりがないように思えた。
「だからってまた無茶したら元も子もないからな・・・・多少由衣に無理させてもフォローさせるから」
真剣な事がわかる笑みを消した顔でそう言われては素直にうなずくしかない。
「でもいいの?今度は由衣が倒れちゃうかもよ」
「そうだな・・・・でも誰も倒れて欲しくないからさ・・・だから君も無理は絶対止めてくれ」
「わかってます」
仰々しく頭を下げてそう言う恵にあきれたような笑みを見せた周人だったが、実際元気そうな恵を見て心から安心していた。
「でも、こんな顔の私を見られたくなかったなぁ・・・・」
化粧も取れ、髪もぼさぼさの恵は女性らしく身なりを気にしながらそう言うと、少しでも乱れた髪を直そうと手で整えてみるがやはり無駄だった。4時過ぎから来てくれていた光二にも今の自分を見られたくはなかったが、母親と入れ替えにやって来てあれこれ世話を焼いてくれている為かさほど気にならなくなっていたのだった。だが、やはり以前好きだった、告白した周人には今の自分を見せたくないと思ってしまう恵は恥ずかしそうな表情をするしかなかった。
「心配ないよ・・・君は元がすごく美人だから。それに病人だぜ?そういうのを気にするのもわかるけど、今は体の事を心配しろって」
慰めか、美人と言ってくれた周人の言葉に感謝しつつ、あいかわらず優しい周人に恵の胸は高鳴った。
「ありがと。でもその美人をフッておいて・・・よく言うわよ」
目を伏せがちにそう言う恵に真剣な表情を崩した周人は頭を掻きながらどう返したものかと思案に暮れた。そんな周人にクスッと笑いを漏らした恵はピロッと舌を出してみせる。
「冗談よ・・・相変わらず変なところは真面目なんだから。でも木戸クン、変わらないよねぇ」
「そうかな?随分変わったと思うけど」
「全然!」
そう言う恵の顔は淡い微笑をたたえていた。その表情は綺麗であり、一瞬ドキッとしてしまった周人は照れた笑いを浮かべつつ恵から視線を外した。
「でも、良かったね・・・・由衣に出会えて。運命の人に出会えて」
「まぁな・・・でも、世の中わからないよなぁ・・・・今でも昔を思い出すとまさかって思うもん」
苦笑混じりにそう言う周人を見て小さく笑う恵だったが、不意に表情を暗くした。その表情を見て周人が何かを口にしようとした瞬間、コンコンとドアをノックする音が響いてからそのドアが開き、ガラスの花瓶に花を生けた由衣と光二が戻ってきた。テレビ台の脇にあるテーブルにその花瓶を置いた由衣は恵の反応を見るべく顔を見る。恵は満足げにうなずくとにこやかな笑顔を返した。




