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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十四章
83/127

あなただけを・・・(1)

自宅マンションのエントランスをくぐる事無くそのままマンション正面右側にあるゴミ置き場のさらに奥へと早足で向かう男は険しい表情を全く変えなかった。会社帰りとおぼしきスーツ姿のその男は通勤にしては少し大きめの鞄を右手に、そして奇妙な筒のような長細い物体を布で巻いた状態で左肩に担いでいた。そのまま上着のポケットから革製のキーケースを取り出すと、片手で器用にボタンを外し、ぎっしり詰められている鍵の中から1つの鍵をはじき出すようにして取り出すと今来たゴミ置き場の奥にあるマンションの住人専用のガレージへとやって来た。今見た限りそのガレージに車はまばら程度にしか存在していない。ざっと見ただけで十台の車が止まっているかどうかぐらいなものだ。


「アンロック!」


男は怒っているかのような口調でやや大きめの声を出した。すると、4台ほどが固まって止められている車のうち、夜目にも鮮やかな白いボディの車のドアロックが解除されるようなゴスンという低い音が男の靴音以外しんと静まりかえった駐車場に響き渡った。男は今にも駆け出しそうな歩調でその白い車に向かうと、キーを手にしたまま運転席のドアに手をかけた。そのままそのドアを横ではなく縦方向に開くと後部座席に鞄と筒を放り込むようにして車内に押し込んでからレーシングカーを思わせるような人型に窪みが掘ってあるシートに体を滑り込ませた。そしてすぐさまキーを差し込むと、それを回さずにそのすぐ上にある赤い色をした四角いボタンを押した。次の瞬間、突如車のエンジンがかかり、振動と共に重低音の響きが車体を通して男の体に伝わってきたのだった。手際よくさっとシートベルトを締めた男は左手でサイドブレーキを解除するとハンドルに添えてあった右手の指でハンドルの奥側にくっついているピストルの引き金のような物を1つ押した。次に左足でクラッチを踏み込むとブレーキを踏んでいた右足をアクセルの上に乗せ、さらに引き金を1つ押してからアクセルを踏み込みながらクラッチを緩めていく。


「ライトオン、ナビゲーションシステムオンライン」


出口のある右側へ車体を移動させつつ男は独り言のようにそう言うと、何も操作していないのにライトが点灯し、さらに正面にあるエアコンやカーステレオの上にある画面、おそらくカーナビの表示画面であろうモニターが勝手に光を灯し始めて今いる場所の地図を表示させた。


「経路検索、渋滞チェック」


ガレージの出口で行き交う車の流れを確認しながらはっきりした口調でそう言うと、近隣の地図を表示していた画面は尺度を上げて広範囲に表示を変えるとさらに道路の表示に重ねるように赤と青のラインを表示した。


「チェックオーケイ、カット」


流暢な英語でそう言うと、道路を赤と青で表示していた地図画面は一瞬にしてCGによる立体的な表示で運転手が見ている実際の景色と同じ状態を映し出した。ただ違うのはCGだとわかる建物に詳しい名称が表示されている事ぐらいなものか。リアルに表示されたその画面を見ることなく、男は少々車の多い大通りへ向かって車を進めるのだった。


薄暗い廊下には申し訳程度の電気しか灯っていなかったが、待合い室の一角だけにはしっかり明かりが灯っていた。茶色い背もたれの無いソファに腰掛けながら、斜め前に半分だけ開かれたドアの方を見つめる女性の表情は周囲同様暗かった。ここにこうして座ってから約1時間ぐらい経つだろうか。診察室と書かれたその半開きのドアの向こうに青山恵が消えてからすでに三十分近くが経過していた。ぐったりしながらも意識を回復させていた恵だが、高熱でつらそうな表情をしたまま体に毛布を巻き付け、自分をここまで運んできた三宅光二の体に抱きかかえられるようして診察室へと入ったのだがいまだに出てくる気配はなかった。通常の診察時間はすでに終えている病院の電気が消されていくのを見ながら、待合室で1人待つ吾妻由衣は不安と緊張が入り交じった表情を浮かべながら白い無機質な床と診察室のドアとを交互に見ることしかできないでいた。昨日今日で行われた毎年恒例の中学三年生を対象にした塾の合宿の疲れもある由衣だったが、そんな事すら気にならなくなっている。自分に猛アタックをしてくる美少年佐藤純一郎も参加したこの合宿において肝試しをした際に、不意を突かれたとはいえキスをされてしまった事のみが鮮明に記憶に残っているぐらいで、戻ってきてすぐに倒れてしまった恵の介抱と病院への搬送でほとんど内容は忘れ去られてしまっていた。どうせならキスをされた事実や唇が触れ合った感触も忘れ去りたいと思う由衣だったが、その忌々しい思いは決して消えることはなかった。そんな事を思いながら大きなため息をつく由衣は背後の自動ドアが開いた音に何気なしにそちらへ顔を向けた。非常灯が灯された赤い色に染まる夜間用出入り口からやや早足でやってきたのは四十代ぐらいと思われる女性だった。Tシャツにパンツというラフな格好をし、表情も固いその女性は一度由衣の方に視線をやってから診察室の方へと顔を向けた。中を覗き込むようにした女性だったが、その中の様子が把握出来ないために待合室のソファに座る由衣に少々青ざめた顔で恐る恐る言葉をかけた。


「あの、すみません、青山恵の母親ですが・・・・・・」


恵の名前が出た瞬間、由衣はあっという顔をして思わず立ち上がった。そのまま頭を下げてみせた由衣はどこかホッとしたような気持ちになるのを感じるのだった。


「私、同じ塾で働いている吾妻と言います。恵さんは今、診察室の方に行ってます」


病院という場所を考慮して少々声を潜めるようにそう言った由衣の言葉に母親は深く頭を下げると強ばっていた表情をやや緩めてみせた。


「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


いきなりそう謝った母親にびっくりしてしまった由衣は事の経緯を大筋で説明し始めた。今日、塾の合宿から帰って来た時はまだ元気そうだったのだが、職員室に入った途端に倒れてしまった事。そんな恵を介抱しつつあわてて車を用意してここへ運んだのが1時間ほど前の事で、診察が始まったのは三十分ぐらい前、付添で光二が一緒に中に入っている事をかいつまんで説明した由衣は母親に診察室の方へ入るよううながし、自分は再び待合室のソファに腰掛けた。とにかくあわてて出てきたために携帯電話しか持ってこなかった由衣はポケットからそれを取り出すと、マナーモードに切り替えているその電話の着信やメールの受信の有無を確認した後にギュッと強く握りしめるのだった。そのまま目を閉じて祈るような格好をしていた由衣は近づいてくる人の気配に顔を上げ、そちらの方へと頭を巡らせる。診察室のドアを閉めながら姿を現したのは付添で中に入っていた光二であり、険しい表情を少し崩して小さなため息をつくと、無言のまま由衣の隣に腰掛けた。


「今検査してます・・・・相手が女性だから一緒に奥まで入れなかったんでよくわからなかったけど・・・おそらく入院になるだろうってことです」

「そう・・・」


そう説明する光二の言葉に対し、つぶやくようにそう答えた由衣は泣きそうな表情を浮かべたままうなだれるように床を見つめるだけだった。


「お母さんが来られて助かったよ・・・・で、塾長は?」


たった今交代で奥まで入っていった母親に恵を任せて光二は一旦外に出てきたのだ。本来であれば同じ女性の由衣が中に入るのがベストだったのだが、動けない恵を抱えて中に入っていた光二がそのまま医師の質問に答えていたのだ。その間に塾長である大山康男や周人に連絡を取っていた由衣は診察室に入っていいものかどうか迷ったあげくにこの待合室のソファに腰掛けて康男や周人を待つことにしたのだった。


「多分もうすぐ来ると思う・・・周人もすぐに来るって言ってたし」

「そうですか・・・」


暗い声のままそう答えた由衣にどう声をかけていいのかわからない光二は横目で由衣を見やりながらつぶやくようにそう返した。


「僕が、もっと早く気付いていれば・・・・・・・」


心を読める能力を持っていながら何故こうなるまで恵の異変に気付かなかったのかを悔やむ光二は唇を噛みしめ、強く強く拳を握りしめる。ここ最近、能力が低下しているのか恵に対してのみ心を読んだり微妙な表情の変化などを細かく知る事が出来なくなっていた。由衣や忍など、恵以外の人にはそれが可能であるにもかかわらずだ。


「三宅君だけのせいじゃないよ・・・・私もそう。恵さんの負担を知ってて・・・」

「いいえ、僕です。こんな力がありながら・・・・」


そう力をこめて言い切った光二の方を見る由衣はどう言葉を返していいかわからずに押し黙ってしまった。やがてそのまましばらく流れた沈黙を破ったのは夜間用入り口から姿を現した康男の足音だった。無意識的に足音のする方を見やった2人はほぼ同時に立ち上がると、険しい表情を浮かべている康男に自分たちの方からも近づいていった。


「スマン、遅くなった。で、青山さんは?」

「今、お母さんがいらして中で診察室です。おそらくしばらく入院かと・・・」

「そうか・・・」


光二の説明を聞いて表情を曇らせた康男は由衣たちにうながされてさっきまで2人が座っていたソファに腰掛けた。そのままここまでの経緯を説明していた2人だったが、診察室から姿を現した恵の母親の姿を認めて皆一斉に立ち上がると、康男はそのまま頭を下げて母親に詫びた。


「申し訳ありません。娘さんに無理をさせてしまいました。何の言い訳もありません・・・どうか、お許し下さい」


深々と頭を下げた康男に対し、穏やかな口調で顔を上げるよう言った母親は少々困ったような顔をしながらも笑みを見せていた。


「あの子が悪いんです・・・私も無理するなと何度も言ったんですが無視してましたから」

「しかし、実際その無理をさせたのは私です・・・何とお詫びを申していいやら」

「それに関してはもう言いっこなしで。それより先生からお話がありますのでみなさんご一緒にいらして下さい」


意外なほどあっさりしている母親に由衣と光二の緊張も解けていく。康男は再度深々と頭を下げると母親にうながされて診察室の方へと向かって歩き出した。由衣と光二は同時に顔を合わせると硬い表情をしたまま2人の後に続いて診察室に向かって歩くのだった。


医師の診断により、恵は過労による免疫不足で風邪をこじらせたという事が判明した。夏場とはいえ、冷房の利いた部屋にこもりっぱなしの上、ろくな睡眠と食事を取らなかった事がその主な要因とされてとりあえずは3日間の入院となってしまった。これにより、康男は経営的に打撃をうけながらもここまでよく頑張ってくれた恵を気遣い、また、同じような事を起こさないよう光二や由衣に負担をかけない策を練る事となった。今は薬で眠っている恵をとりあえず光二が看ておき、母親は入院の手続きを済ませた後に着替えやら入院に必要な物を取りに一旦自宅へと戻った。もしかすれば3日以上の入院も視野に入れておかねばならないと医師は言っていた。康男は由衣に帰るよう言葉をかけたが、とりあえず母親が戻って来るまではと待合室にいることにした。一旦病室に向かった康男は10分ほどで戻って来たのだが、ソファに座る由衣の暗い表情を見て心が痛むのを感じていた。康男を見上げるようにしてみせる由衣の表情はかなり暗い。合宿で多少日焼けした肌だが、薄暗いここでは青白く見えてしまう。不謹慎ながらそんな由衣を綺麗だと思う康男は緩みかけた表情を引き締めると、由衣の隣に腰掛け、膝の上に置いた手を組み合わせた。


「すまなかったな・・・こんなになるまでそっちをほったらかしにして」


つぶやくようにそう言う声だが、感情がこもっているせいかはっきりと聞き取れる。由衣はジッと床を見つめたまま少し大きめに息を吸い込むと小さな声で言葉を発した。


「そうですね・・・・・・でも、私も、同罪です。いつも意気揚々と恵さんを置いて帰って。一度倒れた時に、もっと気遣うべきだった」

「・・・正直、僕の心に油断があったんだ・・・・」


康男はそう言うとソファの背もたれに身を預け、暗い天井を見上げるように顔を上に向けた。


「結局、何もかもを青山さんに任せっきりで、それでいいと思っていた。正直に言うとね、もう東塾の建て直しは不可能に近い。ならいっそ終わらせようかと思っていたんだ。こんな事になるなら・・・もっと早くに決断すればよかった」


沈痛な面もちで天井を見上げていた康男は眉間にしわを寄せて目を閉じた。由衣は何も言わずに首だけを動かして康男を見やったが、夜間出入り口の自動ドアが開く音に気付き、康男とは反対側に位置するそちらに視線を走らせた。


「あ!」


思わずそう声を上げた由衣の方を見やり、その視線が入り口付近へと向いているのを見た康男は同じような声を上げて小さく笑みを漏らした。2人の視線の先にいるのは出張を終えてそのままこの病院に向かった由衣の彼氏、木戸周人であった。彼は自宅に寄ってこず、すぐさま車で駆けつけた事を物語るスーツ姿であった。そんな周人の姿を見たせいか、暗い表情しか見せていなかった由衣が少しだけ笑顔を見せた事に内心ホッとした。


「青山さんは?」


目の前に立つ由衣にそう声をかけた周人は2人の緊張を感じてか、やんわりした口調でそう問いかけた。周人が運んできた穏やかな空気は張りつめていた由衣の雰囲気を解きほぐし、心に安らぎを与えていた。


「今、病室。3日ほど入院だって」

「そうか・・・・塾長、お久しぶりです」


右腕に掴まるようにしている由衣を従えたまま周人は康男の前まで歩み寄り、軽く頭を下げながらそう挨拶をした。


「久しぶり、元気そうで何よりだよ」


苦笑気味にそう言う康男はバツが悪そうな顔をしながら2人にソファに座るよううながした。周人は由衣を引き連れたままソファに腰掛け、康男は入り口脇にある自動販売機から缶コーヒーを3つ買って戻ってくると周人の横に座った。周人は受け取ったコーヒーの礼を言いながら端に座る由衣にそれを手渡しながら事の経緯の説明を求めた。とりあえず由衣から簡単な説明を受けた周人は1つ1つうなずきながら話に聞き入り、全てを聞いた後にコーヒーを口にしてから言葉を発した。


「なるほど・・・でも、まぁ、誰が原因って言ったら、青山さん本人だろう」


意外な事を言う周人に康男と由衣は不思議そうな顔をしながら同時に周人を見やった。こういう時、周人は実に冷静な判断で物を言う。普通に考えれば1人ではさばけない程大量の仕事を与えた康男に問題と原因があるだろう。確かに自分の健康管理を怠った恵が悪いのは明白だが、その大元の原因を作ったのは康男なのだ。


「1度倒れて自分の限界を知った・・・なのにまた同じ事をしでかした。由衣や三宅君を信用して分担すればよかったのにね。でも、まぁ、責任感が強いからね、彼女は」


まるで恵を知り尽くしているかのような言葉に由衣は複雑な気持ちになってしまった。だが、かつて一緒にアルバイトをしていた周人が恵の事を理解していても不思議ではない。それでもやはりいい気はしない由衣は押し黙ったままコーヒーを口につける。康男は今の周人の言葉に黙ってうなずくと、言う通りだとばかりに小さなため息をついてみせた。だが、周人の言葉とは裏腹に責任を感じている康男にしてみれば今の周人の言葉は重くのしかかり、心を痛めるばかりであった。


「そしてそんな責任感の強い彼女に全てを任せっきりな塾長も悪いし、しっかりフォローしなかった由衣も悪い。結局、みんなが悪いのさ」


重苦しくなりかけた空気を読んだのか、周人はそう言葉を続けた。肩をすくめるその仕草から、場の空気を読んだ付け加えの台詞ではない事をさとった2人は小さく笑い合うと表情を緩めて周人を見やった。周人はそんな2人を交互に見やると薄い笑みを浮かべた。


「そうだね・・・みんなが悪いね」

「だから次からはみんなで頑張ればいい・・・オレも手伝える分は手伝うしさ」


いつも残業だ出張だで忙しい周人のその言葉に、由衣は瞳を伏せながらそっと周人の頬をつかんだ。グニグニとそのつまんだ指ごと周人の頬を自由に動かす由衣は片目を開いて周人を横目で見やれば、いきなり何をするんだという表情を浮かべた周人の顔が確認できる。


「あのね、一番忙しい人が何をどう手伝うって言うんだか・・・もう!」

「いや・・・今日の出張から考えれば忙しいのもあと1日2日程度だよ、ホント」


頬をされるがままにしている周人は極めて真面目な顔をしながらそう言うが、説得力はあまりない。由衣はずっと手を動かしながら疑いの目で周人を見ていた。康男はそんな2人を見て小さく笑うと、少し目を細めて何かを懐かしむような表情を浮かべるのだった。そんな康男の表情に気付いた由衣が怪訝な顔をしたせいか、周人も頬をつねられたままそちらを振り仰いだ。


「君たちは、あの頃のままのいい関係を今でも変わらず続けているんだなぁ・・・・何か、凄く嬉しくなるよ」


言われた由衣は顔を赤くして周人から手を離すと照れた表情を見られたく無いのかそっぽを向いてしまった。周人は今さっきまでつねられていた頬をさすりながら苦笑して見せ、そんな2人を見る康男は本当に嬉しそうな笑顔を返した。由衣が周人を好きになり、高校の合格祝いに出かけた際に告白をしようとしたが結局いろいろあって達成できなかった事を聞いた康男と米澤が2人の為にディナーを企画した。そのディナーにおいて華麗にドレスアップした由衣に驚きながらも楽しい時間を過ごした2人は夜景が綺麗な展望台で雪の降る中、お互いの気持ちを確かめ合った。だが、結局付き合うことなく別れた後、周人の海外勤務などもあって3年後に再会してようやく交際をスタートさせたのが去年の事である。それら全てのいきさつを知っている康男にとってみれば自分は2人のキューピット役を演じただけでなく、今でもずっと見守っている保護者のような気持ちを持っているのだ。周人を大嫌いで、男は貢がせる為の存在でしかないと思っていた頃の由衣もよく知っているだけに、康男にしてみればこの2人が付き合っているという事自体が嬉しくて仕方がないのだ。しかもあれから由衣も大人になり、付き合って1年も経つのにいまだに小悪魔的に周人に接する由衣の姿は昔の日々に見せた由衣となんら変わりがないように見えていた。それだけ自然体で一緒にいる2人を微笑ましく見守っている康男は嬉しさを堪えきれずにそう言ったのだった。何より、跳ねっ返り娘だった由衣が今の言葉で照れた赤い顔を見せるのだ。康男にしてみればそれすらどこか新鮮に感じられたのだ。


「そうですね、いい関係ですよ」


素直にそう答えた周人の笑顔に康男もまた笑顔を返した。はっきり自分との関係を照れる事無く康男に告げた周人を嬉しく思う由衣はますます顔を赤くしてしまったせいかおもむろに立ち上がるとトイレへ向かって早足で去っていった。そんな由衣の背中を見やる残された2人は噴き出すように小さな笑いを漏らすと顔を見合わせるのだった。


由衣がトイレから戻ってくるのとほぼ同時に恵の母親が病院へと戻ってきた。とりあえず母親と交代に由衣と周人は帰る事になり、康男は光二とともに今後の対応を話し合う事にした。実際は由衣もその話し合いに参加しようとしたのだが、康男によって帰るよう命じられた上に周人にも説得されたのだ。渋々周人の車に乗り込み、家路に着いた由衣は合宿と恵の入院騒ぎのせいか、その夜は早くに眠くなってしまい十時過ぎには深い眠りについていた。


翌日、いつも通りに出勤してきた周人だったが、久々の車通勤となっていた。昨日は恵が眠っていたために面会できなかった事もあって、今日は帰りに由衣を拾ってからお見舞いに行くことにしたためだ。警備主任の小倉が驚く中、車用に開かれている黒い鉄の門をくぐる周人は軽く頭を下げて小倉に挨拶をすると社員用の駐車場の中で自分のオフィスがある建屋に一番近い位置に車を止めた。時間も早いせいかまだ車の数も少ない。朝の八時にしてすでに暑い日差しをうけながら、周人はビルの正面玄関をくぐった。どうやら受付嬢をしている早坂聖子の姿も見えない事から、いつもより数分早く来たことを悟った周人は人気のないエントランスを革靴の靴音を響かせながら綺麗に清掃された廊下を歩いてエレベーターホールへと向かった。勝手に出てくるあくびを噛み殺す周人はエレベーターを呼ぶボタンを押すと2、3回首を回して骨を鳴らしてみせる。目を閉じてふぅとため息をつく周人は完全にリラックスしていたせいか、不意に後ろから声をかけられて飛び上がらんばかりに驚きを表現した。


「おはようございます」


そう言った本人すら面食らうほどの周人の驚きようは凄まじく、びっくりした拍子に出た奇声はエレベーターホールのみならず、1階全てに響き渡るほどの大きさであった。目を全開に見開いた周人のその瞳に飛び込んできたのは体を硬直させたまま自分を驚きの表情で見ている宮崎理紗の姿であった。この四月に入った新入社員である理紗は薄いピンクのブラウスに黒のやや短めのスカートを履いていた。茶色い髪も今風な彼女は化粧の仕方も今風でマスカラで目一杯大きく見せている瞳をさらに大きくしたまま周人を見つめていた。


「み、宮崎さんか・・・・びっくりしちまったよ・・・おはようさん。今日は早いね」


理紗の顔を見てホッと一息ついた周人はため息混じりにそう言うと徐々に笑顔を見せた。いつもより二十分近く早い時間に出社してきた理紗は驚きの表情を無表情に変えながら扉を開いて人を招き入れているエレベーターにさっさと乗り込むと目的の4階のボタンを押した。周人はボリボリと後頭部を掻きながら理紗の後に続いて乗り込むと中央付近に立ち、『閉』のボタンを押して扉を閉じる指示を出した理紗の背中をチラッと見やった。


「昨日はごちそうさまでした、そしてお疲れさま」


まるで機械のような話し方だが、自分が理紗から嫌われている事を自覚している周人にとっては慣れっこである。だがそう言う理紗にどこか違和感を覚えつつ、周人はそっちこそ、とだけ返した。やがてエレベーターは4階に着き、扉を開く。いつもであればさっさと降りてしまう理紗は『開』のボタンを押したまま軽く頭を後ろにやるのみで出ようとはしない。その仕草から先に出ろという意図をくみ取った周人は言いしれない違和感を自覚しながらどうもと言い残し、エレベーターから廊下へと降り立った。そんな周人に続いてエレベーターを降りた理紗は周人の横に立つとそのまま並んで自分の席がある場所へと歩き出したのだ。これにはさすがに驚きを隠せない周人は理紗の考えが理解できずにあれこれと考えを巡らせる。


『昨日、オレ、何かしたっけ?』


1泊の出張を2人きりで行ってきたとはいえ、2人の間にこれといった溝を埋めるような出来事はなかったはずだ。かつての由衣に性格が似ている理紗は男を財力で判断している。かつて同じような考え方をしていた由衣は同級生に襲われ、それを周人に救われた事がきっかけで急接近となったのだが、今回の出張においては一切そういった事がなかった。


「昨日はあれからどうしたんです?なんかあわててたみたいですけど」


前を向いたまま素っ気ない口調でそう言う理紗だが、周人にしてみればそれは奇跡に近い出来事だった。周人に関して興味のかけらもないはずの理紗が自分からそう質問を投げてきたのだ。だが冷静に考えてみれば、横浜から帰ってきた2人は桜ノ宮で別れたのだが、周人は挨拶もそこそこにすぐさま去っていってしまったのだ。理紗の自宅は桜ノ宮から地下鉄に乗り込む道程にあるため、周人とは路線が違う。とはいえ、あまりに別れ方が素っ気なかったと思える周人は何かを勘ぐられても仕方がないなと思いつつ素直に理由を話すことにした。


「知り合いが倒れたって連絡もらってね・・・すぐその病院に向かわなきゃいけなかったから・・・素っ気なく別れて悪かったね」

「別に謝る事ないですよ・・・気にしてませんし」

「あ、そう・・・・」


今の言葉から、やはりいつもと同じ理紗だと思った周人は短くそう答えた後で苦笑を漏らした。そんな周人をチラッと横目で見やった理紗は少し唇を突き出す感じで尖らせると、自分の中にある感情にイライラを募らせていくのだった。


昨日の出張報告書をまとめた周人はその日の午後、メンバーを集めて会議スペースに立ち、横浜港工場で提議された問題点を説明していた。基本的に周人たちが行うべき問題点は2つのみであり、それに関係してくるのは遠藤だけなのだ。一通りの説明を終えた周人に遠藤が質問を投げかける。その後も2人で簡単な問答を繰り返したあと、とりあえず会議を終え、会議スペースを出た2人は向かい合わせの席に着きながらさらに問題点について詳しく話し合った。ひとまず休憩とばかりに1階にあるリフレッシュルームへ向かった遠藤を追うようにグループリーダーである島原丈もそこへと向かった。さらに島原に好意を寄せている春木香もまた周人に留守番をおしつけるような台詞を残し、2人に続いてフロアを後にしてしまった。もはやグループで残されたのは周人と理紗だけになったのだが、やはりというか何というか、会話はなかった。いや、いつもからすればないはずだったのだが、今日の理紗は周人の理解を超えた存在となっていた。


「木戸さんは行かないんですか?」

「え?・・・・あー、いや、オレは別に」


理紗に話かけられる事など全く予想していなかった周人はどこかしどろもどろになりながらそう答えるのがやっとだった。理紗は机に肘を付いた状態でアゴを手に乗せながらジッと値踏みするかのように周人を見つめている。そんな視線に耐えきれなくなった周人はわざとらしい咳払いを1つしてからエベレスト山を映し出すスクリーンセーバーをかき消すと何やら表のような物が表示されているパソコン画面へと向き直った。それでもまだ突き刺さるような視線を感じている。周人はいろんな事を頭に巡らせながら理紗の意図を読みとろうとするが、全く理解できないままであった。


「木戸さん」


不意に名前を呼ばれた周人はさすがに無視することは出来ず、なるべく平静を装った顔を理紗の方へと向けた。


「なに?」

「来週ぐらいで空いている日があれば定時後でもいいから付き合ってほしいんですけど」

「え?オレ?」

「・・・私は木戸さんと話してるんですけど?他に誰もいないしぃ」


意外な申し出に戸惑う周人の返事を一喝した理紗は睨むように目を細めた。全くもって今日の理紗を理解不能な周人はどうしたものかと思案したが、むげに断る事もできないなと考えながらまずその目的を聞くことにした。


「なんで?」

「今月末は遠藤さんの誕生日なんです。驚かせたいんですけど、何を買えばいいかわからないんですよ。だから木戸さんはさりげなくそれをリサーチしてそれが売ってそうな場所へ私を連れてって下さい」

「はぁ・・・・」


理由は納得した周人だが、自分でさりげなく聞いてそれが売っている場所を調べ、自ら買いに行けばいいんじゃないかと思いながらもとりあえずそう歯切れの悪い返事を返した。だがその返事が気に入らなかった理紗は片眉を上げ、ますます目を細めて周人を睨み付けた。


「それはイエスなの?ノーなの?」


強い口調にたじたじになりつつ、行かせていただきますと返事をした周人に納得したのか、理紗は周人から視線を外すとパソコンへと向き直った。そんな理紗をチラッと横目で見ながら、昔強引に由衣に誘われて遊園地へ行った事を思い出した周人は戸惑いの表情を浮かべて見せた。しかし丸1日一緒というわけではない為、買い物を済ませればそれで終わりなのだ。とにかく今日にでも遠藤に欲しい物を聞いてみようと思う周人は遠藤の答えを予想して険しい表情を浮かべてみせるのだった。


「まさか・・・・由衣が欲しいとか言わねぇだろうな、アイツは」


つぶやく周人は席を立つと机の上に置いてあったタバコとライターを手に取った。


「では、さっそくリサーチしてきまぁす」

「しっかり頼みますよ!」


緩い口調の周人に対し、理紗の口調はかなり厳しかった。そしてその表情もまた厳しいものに変化させた理紗は昨日から感じている周人へのイライラした気持ちに拍車をかけるある物を見たせいか、怒ったような顔をしながら大きくため息をついた。脳裏に焼き付いて離れない今見た物体はさらにイライラを増幅させていく。


「もう!腹が立つ!」


ぶつけようのない苛立ちを声に出した理紗はその原因が周人が手に持っていたジッポのライターだとわかっていながらどうしてこうまで苛つくのか自分でも理解できていなかった。明らかに彼女から贈ってもらったとわかるピンクのハートが施されたシルバーのジッポライター、それがどうにも頭に残って仕方がない。


「なにさ・・・調子乗っちゃってさ」


ボヤキが多くなっていく理紗は気分転換にと机の引き出しに入れておいたレモンの飴を取り出すと放り込むようにして口の中に入れた。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がるのを感じながら頭の中を占拠しているライターの映像をかき消そうとする理紗は、自分が少し寂しげな顔をしている事に気付いていなかった。

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