今と昔の幻影-Shuto Side-(1)
毎朝のラッシュも、こう毎日であれば自然と慣れてくるものである。車であれば渋滞、電車であれば混雑など、今の日本の社会においてそれはごく普通で当たり前の事であった。街の中心部へ向かう幹線道路は普段の約2倍近い時間がかかり、地道に詳しい者が迂回路として使用している細い道すら皆が利用しようとして混雑し、迂回路としての意味を全く成さなくなっている程である。逆に町はずれにある田舎、以前は山であった土地を切り開いて作られた工業地帯に行く幹線道路や迂回路、国道といった道ははっきり言って空いていると言えよう。だが、それは車のみが有効な話だ。ここの工業地帯には4つの企業の工場が密集した形で存在している。だが、密集といっても都会のそれとはわけが違う。工場から工場までは距離が随分と空いており、いわば1つの工場からずっと離れた場所に別の企業ロゴの入った建屋がかろうじて見えているといった感じだった。その密集された工場群に行く為の交通手段はマイカーやバイク、バス、そして電車である。もちろん徒歩や自転車もそれに含まれるのだが、小高い丘にある工業地帯へ行くには住宅地や駅から緩やかながらも長い坂を延々と登らなくてはならない。最寄りの駅からバスならば10分程度な道程を歩く者も確かにいるのだが、実際バスは2系統あり、それぞれが10分に1度の割合で出発しているためラッシュ時間をずらせばそこそこ快適な通勤時間となっていた。残業で帰りが遅くなる人は徒歩で駅まで歩く事があるのだが、わざわざ朝から徒歩で通勤する者はいないはずであった。
「おはようございます、今日も早いね」
車が1台通れる幅の黒い鉄で出来た門の横には人が横に並んで4人通れる程度の隙間が開けられている他は、この工場の周囲を2メートル以上ある壁によって全て囲んであり、外界と完全に遮ってある。そしてその門の内部右側には小さな警備事務所が設置され、数台の警備カメラから送られてくる映像を映し出すモニターがその狭い事務所の机の上を占領していた。
「おはようございます。でも早いのは小倉さんの方でしょ?ご苦労さんです」
真っ白い半袖のYシャツに黒みがかった暗いグレーのネクタイ姿の男はそう言うと、肩からかけていた鞄を体を揺するようにして担ぎ直した。そんな男に向かって警備主任の小倉はにこやかな笑みをたたえつつ白い手袋をはめ直した。
「なんで車、やめたのさ」
小倉は門をくぐる男にそう言葉を投げた。ここにやって来てから約1年、ずっとマイカー通勤をしていたこの男がそれを止め、駅から坂道を上がる徒歩での通勤を始めたのは今から3ヶ月ほど前の事である。
「健康の為、しばらく歩くことにしてたんですけど・・・・結構気持ち良くってもうやみつきですよ」
駅からここまで、上り坂のせいもあって歩きであれば軽く四十分はかかってしまう。それでもこの男はそれを毎朝三十分足らずで登ってきていた。
「私も見習わなければイカンなぁ~」
自身の運動不足を思いながらそう言う小倉に、男は笑顔を浮かべて右手を軽く挙げるとそのまま工場内にある一番大きな建屋に向かうのだった。この工場は国内自動車メーカーにおいて十年続けて売り上げトップを誇る大企業カムイモータースの桜町池谷工場である。その広い敷地内には滑走路のような広い道路を軸に、これも軽く二車線分はあろうと思われる道が網の目のように走っていた。そしてその道沿いに広い間隔を開けて大小さまざまな建屋がいくつも存在している。一番広い道路沿いには等間隔に桜の木が植えられており、春にはピンクの花が道沿いを彩って風情をかもしだすようになっていた。社内で花見大会も催されるその桜並木には、今は青々とした葉が風に揺られてきらめいていた。また、所々には芝生が植えられており、ベンチもあって社員たちの憩いの場となっている場所もいくつか設けられていた。その中でも一番大きな4階建ての建屋、ビルといった方が適切なその入り口に入っていくのは先程の男であった。そんな男に向かって建物の脇から現れたのは、いやに胸の大きさが目立つ白いシャツの若い女性であった。
「おはようございます、木戸さん!」
白いYシャツの男、木戸周人に気付いて少し駆け寄るようにして近づく彼女の胸は清潔感溢れる白いシャツに押さえ込まれてなるものかと暴れているように見えた。普通の男であればどうしてもその胸に目が行くところだが、この周人はにこやかな表情で女性の顔だけを見ていた。そういう周人だからこそ、この女性も最大のコンプレックスとなっているその胸を弾ませても平気な顔をしていられたのだった。今日は梅雨の中休みというべき晴れた天気のせいか、8時を少し回った時間だというのに額に汗が浮かび始めていた。
「おはよう、毎朝早いね」
目の前で自動ドアが開く中、周人は笑顔を消すことなく横に並んだその女性にそう挨拶をした。ここの工場は朝8時45分から始まり、12時15分から13時までがお昼休み、そして17時までが就業時間となっていた。工場に入る人の波は8時20分頃からがピークとなる為、8時過ぎでは人はほとんどいないに等しい状態となっている。
「木戸さんも。車で来ればもう少し遅くてもいいんじゃないんですか?」
建屋に入った2人を出迎えてくれたのはショールームのような空間に置かれた15台の車である。この工場で作られた作品の数々が展示されたこのショールームはお客用のものとして飾ってあるのだが、社員たちにしてみても自分たちの作った物がこうして展示されていれば勤務意欲も増すというものだ。
「前はそうしてたんだけどさ、やっぱ運動不足気味だから」
「でも、よく歩く気になりますね、あの坂を」
「そう言う早坂さんもね」
ショールーム脇にあるエレベーターホールへ向かう途中、何人かの若い男性社員がすれ違う際に自分の横で並んで歩く早坂聖子の胸に目をやっているのに気付いた周人は、壁際を歩く彼女のやや斜め前を行くようにして視線を逸らす事ができる位置にそっと移動した。
「私は家が近いですから、自転車で十分ですもん」
「そうだけどさ、毎朝みんなより早く来なきゃいけないでしょ?」
「そうですね・・・でも今のお仕事楽しいですから」
そう話しているとタイミング良く誰も乗っていないエレベーターが下りてくる。少し早足でそれに乗った周人は2階と4階のボタンを押して行き先を指定した。聖子は2階の女子更衣室へ、周人は4階のオフィスフロアへ向かうためだ。ほんのわずかな時間とはいえ、密室に男女が2人。そのせいかどうかはわからないが聖子の頬はさっきよりも少々赤く見えた。だがすぐにエレベーターは2階に到着し、聖子は周人に笑顔の挨拶を残してそこから降りる。周人は閉まる扉の向こうにいる聖子に片手を挙げてその挨拶に応えると動き始めたエレベーターの壁に身を預けるようにもたれかかった。
「どこぞの新人もあれぐらいの可愛げがあればね・・・はぁ~」
一人ため息混じりにそう言うと、4階に到着したエレベーターの扉をくぐって自分たちのオフィスがある方に向かって歩き出す周人の表情はさっきとうって変わって冴えないものになっているのだった。
周人の席があるフロアの一角には机が横に3つ並び、さらにそこに向かい合わせるように3つ並んだ合計6つの机から島ができていた。周人の席はその中でも一番窓際の奥に位置している。この島は広いオフィスの南端に位置しており、周人の横と後ろは窓になって少し離れた隣の建屋が見渡せるようになっていた。そしてその向かい側、他の席と背中合わせになっている席には同期であり、4月まではハード開発部門のホープだった遠藤修治が座る席になっている。その遠藤に対して周人はソフト開発部門のホープとされており、周囲からは同期という事もあってか遠藤とは何かとライバルといった関係に見られていたが、実際それを意識しているのは遠藤だけだった。しかしそんな2人が辞令によって同じ新部門グループに編入されたのがこの4月の事である。元々レーシングカーのハードとソフトを開発するのが主な仕事だった2人に、今度は市販車の新型機種開発の仕事が舞い込んだのだ。カムイのF1及びル・マン24時間耐久レース用レーシングカーの完成度は高く、あとはソフトとマシン自体のマイナーチェンジ、すなわちエンジンの仕様変更や細かいプログラムの設定変更等で十分戦力として能力を発揮できると上層部が考え、開発スタッフを削減したのが発端といえる。そこでごく少数の精鋭スタッフを集め、新型市販車の設計を行うべく、新たなグループを発足させたのだ。車のデザインは本社のスタッフが行い、それにともなった車体バランスや、電気系統のソフトウェア開発を周人たちが行う事となったのだ。しかも、今まで開発されたスポーツカータイプを元に、高級感を求めながらごく一般家庭に好かれるような車を開発しなければならないため、レーシングマシン開発に携わった者をそこに配属させたために遠藤までもが同じグループとなってしまったのだった。
「おはよう」
まるで感情のこもっていない声でそう言うのはその遠藤である。濃い青の半袖のYシャツに赤紫のネクタイを締めた遠藤はもはやトレードマークと言うべきツンツンに逆立たせた短い髪をガチガチに固め、薄いブルーのフレームをした幅の狭いメガネを指で押し上げながら自分の席に着いた。
「おはようさん」
自分のノートパソコンの画面をぼんやり見ながらそう返事を返す周人はチラリと横目で自分の机の右端に置かれた時計に目をやった。時刻は8時15分、まばらながらオフィスに人がやってくる時間である。
「今日は天気がいいよなぁ」
画面から自分の横にある窓の外に見える青空に視線を移しながらそう言う周人に、遠藤は2、3度キーボードを叩く動作をしてから周人の真後ろの窓へと目をやった。だが、そうしたのはほんの一瞬の事で、今の言葉には何の反応も返さないまますぐにパソコン画面へと視線を戻してしまった。遠藤のその反応は計算済みだったのか、周人はただジッとその青空を眺め続けた。
「こういう日には、公園の芝生の上とかで、こう、ゴロ~ンってしたいよなぁ」
「すればいいじゃないか・・・・美人の彼女と」
肘をついたその手にアゴを乗せて窓の方へと向けていた顔を正面に向けて遠藤の方を見る周人の目は細められ、何か意味ありげな光を灯らせている。その目の意味するところが理解できない遠藤はパソコンから手を離すと1階の自動販売機で買っておいた冷たい缶コーヒーのフタを開けた。
「なんでさ、お前ってオレの彼女にいちいち『美人』を付けるわけ?」
「事実だろうが?」
「そうかもしれないけどさ、なぁんか言い方に微妙なニュアンスがあるような気がするんだよなぁ・・・おたくの場合」
細めた目のままジトーっと自分を見る周人からあからさまに視線を逸らす仕草を見せた遠藤は白々しい動きで缶コーヒーを口に持っていく。明らかにいつもと様子が違う遠藤にニヤリとしたどこかやらしい笑みを浮かべた周人はキーボードに手をやると画面の方へ視線を移してみせた。
「やっぱ惚れたか・・・」
「ばばばばばば・・・・馬鹿な事を!ひ、人の彼女に、ましてやお前の彼女なんかに・・・ほ、惚れるわけが、ないっ!だろうが・・・」
ギュッと拳を握りしめてそうどもりながら言う遠藤はメガネがずり落ちるのもそのままにやや大きめの声でそう返した。フロアの端にあり、まだ周囲に人影が少ない事もあって注目こそ浴びてはいないが、今の言葉から遠藤の心の内は誰にでも手に取るようにわかってしまう。
「わっかりやすいヤツ・・・」
物凄い勢いでコーヒーを飲み干す遠藤を見ずにそうつぶやく周人はため息をつきながらチラリと廊下側、今座っている位置の反対側である自分たちの島の端の方に視線を向けた。
「何が惚れてるんですかぁ?」
やや間延びした声の主はその廊下側の席の向こうにある2台向かい合わせで並んでいるコピー機の方からやってくると、そのまま遠藤の隣の席へとやって来た。黒い短めのスカートに白い半袖シャツを着、左腕にはシルバーのブレスレット、それに指には自分で作ったのかビーズで出来た大きめの指輪がいくつもはめられていた。ひときわ目立つ金色に近い茶色の髪はウェーブがかって巻くように後ろへ流れており、ボリューム感が溢れていた。背もそこそこのその女性はお気に入りのブランド『ベーバリー』の鞄を綺麗に整理された上にそこらじゅうに置かれた人気キャラクターである黄色い熊のキャラクターグッズだらけの机の上に置いた。
「おはよう」
「・・・おはようございます」
ややきつめの匂いを漂わせるコロンの香りを振りまきながら席に着くその若い女性は周人の挨拶に素っ気ない口調で返事を返すと、隣でパソコンを見つめている遠藤に向かって周人には見せなかった実ににこやかな朝の挨拶をした。
「おはようございます!いい天気ですよねぇ、暑いですけど」
「おはよう・・・そうだね、いい天気だね」
相手の口調と相反する素っ気ない言い方でそう返す遠藤は一切視線すら合わせようとしない。だがそんな事は気にしないのか、はたまたいつもの事なのかはわからないが女性はそれを全く気にした様子などなく遠藤の向こう側にある青空へと目をやり、どこかうっとりしたような表情を浮かべた。
「こんな日は公園の芝生の上でのんびりゴロンってしたいですよねぇ~」
どこかで聞いたような台詞のせいか、遠藤はここでようやく女性の方に顔を向けた。その顔に浮かぶ無表情さなど気にならないのか、女性は熱い視線を遠藤にぶつけるように見つめ続けた。
「こいつもさっき同じ事を言ってたぞ。気が合うようだから仕事サボって行ってくれば?」
言いながら目の前に座る周人を親指を立てて指さすと、女性は一瞬だけ周人を見てから露骨に嫌な顔をしてみせた。
「なんで木戸さんなんかと!私は遠藤さんと行きたいなぁ~」
『なんか』と言われながらも何の反応も見せない周人に何故か遠藤がイラっときてしまったが、そこは顔に出さずに心の中だけでくい止めておく。遠藤は小さくため息をつきながらさっとパソコン画面へと顔を戻してしまった。
「なら頑張って仕事しよう」
感情のこもっていない低い声でそう言い、会話を断ち切ろうとした遠藤だったがどうやらこの女性にはそれが全く通用しないようだ。
「ところでぇ、さっき、誰に惚れてるって言ってたんですかぁ?」
さすがにその言葉を聞いて無反応ではいられない遠藤は片眉をピクッと動かし、さらにキーボードを叩こうとした手を止めてしまった。その動きと表情をチラッと見やりながら、周人は遠藤に見えないようにモニターに隠れながらニタっとした笑みを浮かべて後の会話に耳をそばだてた。
「・・・・誰でも、いいじゃないか」
「え?もしかして・・・・私?ねぇ?そうなんですか?」
勝手解釈なのだが心底嬉しそうにそう言う女性の表情は満面の笑みである。その笑顔を見た周人の顔が一瞬憂いに満ちたものに変化したのだが、それには誰も気付かないでいた。
「・・・・違うって。別に誰にも惚れてないよ!」
ムキになったようなややキツイ口調に、言い終わってから『しまった』という表情を浮かべた遠藤はゆっくりとした動きで隣に座る女性の様子をうかがうようにする。
「照れ隠しか・・・」
自分にいいように解釈をしたのか、女性はそう言うと鼻歌まじりに自分のパソコンの電源を入れた。ヘコむのではないかと心配して損した気分の遠藤は深々とため息をつくと軽快な指さばきでキーボードを叩き、何かを打ち込んでいった。周人は再び肘をついた手にアゴを乗せると、斜め前に座るその女性の顔を少し遠い目で見ながら頭の中に浮かぶある少女の顔をそこに重ねた。忘れようにも忘れられない人、淡い想いとつらい思い出。何があろうと必ず守ると言いながら結局守れなかった人、亡き恋人、磯崎恵里の面影を残すその女性を見る周人は先程見たとびっきりの笑顔に重ねた麦わら帽子をかぶったその恵里の姿に少し悲しい顔をしてみせた。だが、それもまばたきするほどの時間でしかなく、今現在愛する女性、今度こそ必ず守り抜くと誓った大事な彼女、吾妻由衣のそれに即座に変化させて淡い微笑を浮かべるのだった。絶対に消すことのできない心の中にある恵里への想いと幻影を、それごと受け止めてくれた由衣の笑顔は今の周人の中でかなり大きなウェイトを占めている。確かに今でも恵里への想い、守れなかったという後悔を抱いている周人だが、もうそれはつらい想いではなくなっていた。溢れんばかりの愛情で自分を包んでくれる5つも年下の女性を今度こそ守り抜くといった決意に変化していたのだ。だからこそ、今年入社した新人女性であり、斜め前に座るこの女性、宮崎理紗の顔にその恵里の面影を見いだしても心が揺れ動くといった事はなかったのだ。確かに初めて会った時は少なからず驚かされた。十七歳の若さでこの世を去った彼女がそのまま生き続けて二十二歳になっていたならばおそらくこうなっていただろうと思えるその顔に周人は戸惑いを感じたものだ。だが、だからといってどうということはない。理紗は理紗であり、恵里ではないのだ。代わりを求めた自分はもういない。それに、今では恵里よりも大事で愛しい女性がいるのだ。
「何です?」
周人の視線に気付いた理紗が露骨に嫌な顔をしてみせた。周人はそんな理紗に謝るような仕草を取りながら、顔は恵里でありながら中身がかつての『誰か』を思い出させる事に苦笑しそうになったが、グッとこらえて言葉を発した。
「いや、ごめん。ちょっと考え事を、ね」
「やらしい!何考えてんだか・・・絶対セクハラだ!」
かなりきつめの言葉と態度でプイッとそっぽを向いた理紗に、今度は苦笑を見せた周人は何事もなかったかのようにパソコンに目をやり、表示されているデジタルの時計を見やった。
「外見は恵里で中身は昔の由衣・・・・・・なかなか面白いキャラじゃないか」
誰にも聞こえないようにそうかなり小さな声でつぶやいた周人は口の端を周囲にわからぬ様に吊り上げるのだった。
始業時間10分前ともなればたいがいの社員はすでに席についている。新聞を読む者、マンガを読む者、インターネットをしている者、そしてすでに仕事を始めている者など様々だが、あと10分で全ての席が埋まるわけではない。休暇で休みを取った者や出張の者、また半休取って午後から来る者やフレックスタイムを使って遅れて来る者などもいる。
「どうせなら来ないでくれ」
そう祈る気持ちでパソコンの画面に向かっているのは周人と遠藤であった。周人はインターネットでニュースを、そして遠藤はパソコン内のデータ整理をしながら理紗の言葉を話半分に聞いている状態でそう考えていた。だが、どうやらその期待は泡と消えたようで、目の前に座る周人ががっくり肩を落とすのを見た遠藤は画面を見据えたまま渋い顔をしてみせた。窓を背にしている周人からはフロア全体が見渡せるといっていいだろう。だからこそ、『来ないで欲しい』人物が来たのを見やった周人の反応を見た遠藤がそれを知ったのだ。
「おはよう」
全く元気のない低い声の主は女性である。小柄で背丈も子供程度かというべきものでありながら顔つきは三十代であることがはっきりわかる。ショートカットのパーマ頭にこれでもかと言うべきまつげパーマをマスカラで固めた目は異様な光を放っていた。財布と携帯だけしか入らない程度の小さな鞄を書類だらけの机の上に置くと、ドカッと椅子に座って大きなため息をついた。
「おはようございます」
3人がはきはきした声で返事をするのを、どこかうっとおしそうにしながら見やると、そのまま何も言わずにパソコンの電源を入れた。
「相変わらず、派手ね・・・」
横に座る理紗の手をチラッと見てそう低い声で言う春木香はパソコンの電源のスイッチを押すとおもむろにどこからかコンビニの袋を取り出してそこから菓子パンを引き抜き、机の上に置いた。そのまましばらくその菓子パンを食べる気配すら見せずにボーッとしていたかと思うと、今度は引き出しから小さな鏡を取り出して自分の化粧具合を確かめるようにしみじみと顔を眺め始めるのだった。結局そのままの状態で始業時間を迎えた香はわざわざ始業時間を告げるチャイムの音を聞いてから、ガサガサという音を響かせて菓子パンの袋を開け始める。そしてそのまま何を気にするでもなくパンを頬張ると飲み物もなしに一気に平らげてしまった。香に気付かれないようにそれを見ていた周人と遠藤は2人ほぼ同時にため息をつくと自分の仕事を始めるのだった。
グループリーダーを務める島原丈はカムイの関西支社から3ヶ月だけという期限付きでやってきた男である。身の丈190センチもある長身に加え、学生時代はラグビーで鍛えていた身体はいまだに衰えてはおらず、三十七歳という年齢を感じさせない肉体美を誇っていた。短い髪もまた学生時代から変えないスタイルであり、会社においてもどの派閥にも属さないで己の信念を貫き通す男として関西支社でも有名であった。今回の新機種開発プロジェクトが発足する際に、車の中身、とりわけ電気系統の開発を進めるこの部門のリーダーにはF1などのマシンを数多く手がけ、一般車種にも詳しい周人たちの上司、大神健司が抜擢されるはずだったのだが、彼はF1マシン開発から離れる事が出来ないために同じ分野で活躍していた島原に白羽の矢が立ったのだった。それも開発期限の3ヶ月後、つまりはこのグループが存続しうる7月終わりまでという期間限定となったのだ。若手のホープである遠藤と周人を指名した大神の要望をそのまま受け入れ、短い期間ながら順調に開発を進めてきたその島原がこの日池谷工場の門をくぐったのは午後2時の事であった。午前中、本社での会議を終えた彼は本社近くのうどん屋で昼食を取った後、この池谷工場へと向かった為にこの時間になってしまったのだ。警備主任の小倉と軽い挨拶を交わした島原は自分たちの席がある建屋に向かうと自動ドアをくぐる。白い半袖Yシャツにワインレッドのネクタイを締めた島原に目を留め、玄関の正面にある受付譲の席から淡いピンク色した制服に身を包んだ聖子がにこやかに会釈をするのを見た島原は同じようなにこやかな笑みを浮かべつつその聖子の目の前に立った。
「これ、東京土産や。受付みんなの分あるから、食べてな」
明らかに関西弁だとわかる口調でそう言いながらいくつか持たれたビニール袋から1つをより分けて聖子に差し出した。
「わぁ!いつもありがとうございます!」
満面の笑みをたたえつつそれを受け取った聖子に向かい片手を軽く挙げてから、島原はエレベーターホールに向かって歩き始めるのだった。
「木戸君、例の資料は?」
肘をついてボーッとパソコンの画面上を動いている飛行機のスクリーンセーバーを見ながら高揚のない低い声でそうたずねた香の言葉に、周人は一旦間をおいてから返事を返す。
「あと1時間ほどで出来上がります」
「今一瞬間が空いたわよねぇ?その1時間は本当に信用できるの?」
「・・・・・信用してもらう為に、一旦考えての返答でしたが」
叩いていたキーボードの手を休めて香の方へと顔を向けた周人は全く感情のない口調、そして表情を見せる。
「ならいいわ。1時間きっかり仕上げてないと責任とってもらうから」
素っ気なくそう言い放つと今度は顔を横に向け、今コピーをしに行っている理紗の席を素通りして遠藤へと視線を放った。
「遠藤君、横浜の大石さんから連絡は?」
「え?いえ、もう返事を頂いて今データの修正をしてますが」
その返事に対し、明らかに不愉快な顔をした香は片眉を上げるとわざとらしく大きなため息をついてみせた。その態度を見た周人と遠藤は心の中で『始まるぞぉ』と思いながら、あえて表情には何も出さずに香の言葉を待った。
「あなたね、そういうことはまず上に報告してからでしょう?まったく、エリートぶっちゃって・・・」
最後の一言は余計だと感じながらも、遠藤はすみませんと平謝りをしてみせた。
「確かにここのリーダーは島原主任よ・・・でもその島原さんが留守の間は私がリーダーなの、わかってるでしょ?私に責任が降りかかってくるわけよ」
語尾を強めてそう言う香は明らかに行き過ぎだとわかる態度でそう言い放った。確かに、香の役職は主任である。だが、同じ主任でも島原の役職とでは意味合いが違う。彼は元々技師だった事もあり、いわば現場の主任なのだ。つまり、オフィスでの主任である香は完全に主任だが、現場主任である島原はオフィスで言えば課長に当たるのだ。
「はい、すみません」
もはや島原不在の際の香の態度の大きさ、横柄さはこの3ヶ月余りでよく理解している遠藤は平謝りをしたのみですぐに作業に戻ってしまった。そんな態度が許せない香はコピーしたプリントを持って戻ってきた理紗にその怒りの矛先を向けようとした刹那、その背後からやってくる島原の姿を認めて何故か丁寧な形で椅子に座り直すと昼からずっと起動していたスクリーンセーバーをかき消すようにマウスを動かした。
「すまんな、予定より遅なってしもたわ」
自分の席の真後ろに設置されている壁掛け時計を見ながらそう言うと、島原は回覧やらFAX、そして書類が多数置かれた机の上を軽く整理してから席に着いた。
「やれやれやで・・・さぁて、遠藤君、明日なんやけど、悪いけど本社の会議、お願いできひんかな?昼からなんやけど」
どうもこの関西弁がいまだになじめない遠藤だったが、その島原の言葉にははっきりした返事を返す。
「はい、大丈夫です」
「俺、明日は横浜で会議なんや・・・・悪いな」
「いえ」
「この後すぐに詳しく説明するからな」
「はい、お願いします」
さっき香に返事を返した時とはうっかわってきびきびした返事に、香はさっきからその返事を聞く度に画面を見ながらピクピクと眉毛を動かしていた。それを見ていた周人は画面を見る振りをしながらやや細めた目を正面の遠藤に向けるのだった。そしてその視線に気付いた遠藤は周人の瞳が一瞬香の方に移動したのを見て目を伏せ、何かしらの合図を周人に送った。
「よし、ほんじゃぁ始めよか・・・遠藤君、それと春木さん、来てもらえる?」
「はい」
普通に返事をする遠藤と嬉々として返事をする香、2人の声が重なる。遠藤は性格を表すように綺麗に整理された引き出しからやや分厚目のシステム手帳を取り出すと赤や黒、そして青といったボールペンをひっつかむようにして席を立つ。香はその辺にあった表面のみがコピー済みの用紙、いわゆる裏紙とボールペンを適当に持つと自分の席の右側にあるコピー機のさらに向こう側、会議用に設置されている長机の並べられた会議コーナーへと向かっていった。
「宮崎さんはこの打ち込み頼むわ、で、木戸君」
呼ばれた周人は印刷を指示するボタンを押してから島原の方へと体を向けた。
「7月終わりに横浜に行ってもらうかもしれへんから、一応心の準備しといてんか」
「はい、わかりました」
その返事を聞いて席を外そうとした矢先、島原は何かに思い当たったのか空き机を挟んで並んでいる周人の方へと歩み寄ってきた。そんな島原を不思議そうに見ていた理紗だが、先程言われた打ち込み作業の用紙へと視線をやり、すぐにキーボードを叩き始めた。
「さっきの出張な、最悪オプション付くかもしれへんけど、ええかな?」
「・・・オプションって、何です?」
耳元でささやきながら斜め前の理紗から逃れるように周人のパソコンの画面を覗き込む格好をしながらそう言う島原の意図が理解できない周人はやや声を潜めながらそう返した。
「どっちかの女性を付けるっちゅうこっちゃ」
その言葉に明らかに乗り気でない顔をして見せた周人は小さなため息をつくと頭を抱えるようにしてみせた。島原はそんな周人の反応を楽しむかのようにニタリと笑うと2度ほど左肩をポンポンと叩いてみせた。
「まぁいろんな意味で若い方がええんやろうけど、ホンマの『魔獣』にならへんようにな。泊まるホテルの部屋は当然別々やけど」
島原はそう言い残すとさっさと会議スペースの方へ向かってすっ飛んで行った。そんな島原の後ろ姿を疲れた表情で見送る周人はやれやれとばかりに頭を振ると何気なしに理紗の方を向いた際にばっちり目が合ってしまった。
「何の話だったんですか?」
露骨に嫌な顔をしながらもそうたずねてくる理紗に周人はどう説明しようかと頭をフル回転させるのだが、なかなかいい弁明は浮かんでこない。そんな周人のどこか不審な態度が理紗のカンに障ったのか、ジトッとした目つきで周人を睨んできた。
「やらしい感じぃ!」
フンと鼻を鳴らしてそう言うと打ち込み作業へと戻っていく。蔑まれながらもホッとした表情を見せた周人もまたパソコン画面に向き直るが、出張に伴う女性2人のうち、どっちが一緒でも疲れるだろうなと考えながらさっきの島原の言葉を頭の中で反復していた。
「本当の『魔獣』、ね・・・」
三十四歳で自分たち若手に対してだけかなり厳しい香、そして明らかに自分を嫌っている理紗を相手に『獣』と化せるほど周人には甲斐性など無い。それにただ一途に愛する人もいる周人にとって、他のどんな美人、アイドルだろうが女優だろうがそういった女性には興味がないのだ。今の島原の言葉のせいか、何故か仕事に専念出来なくなっていく周人は徐々に4月に行われたグループ発足の親睦会の事を思い出していくのだった。




