真夏の嵐-Yui Side-(7)
「あれ?お風呂だったの?」
まるで自分を捜していたかの口調に、由衣は小さくうなずいて見せた。大浴場を出てロビーにやってきた由衣はおそらくジュースでも買いに来たのだろう光二と出会い、今の会話となったのだ。やはり表情が暗い由衣を気遣ってか、光二はロビーに置かれている2組のソファのうち、大きい方のソファに座るよう由衣をうながした。バスタオルと着替えを入れた巾着袋をテーブルの上に置きながら、由衣は指定されたソファに静かに腰掛けた。
「大丈夫、ですか?」
由衣の向かい側に腰掛けながら光二はどこか遠慮がちにそうたずねた。肝試しで見た光景からして純一郎が由衣に何かをしようとした、又は既に何かをしたのは明白である。由衣はその言葉にうなずくと小さな笑顔を作ってみせた。光二には能力を使わずともその笑顔が物凄く儚く、そして壊れてしまいそうなほど薄いものだということがはっきり見て取れた。
「あのペアになった時点で、気にはなっていたんですが・・・すみません」
別に光二が悪いわけではない。確かに純一郎が何かをしてくる危険性がありながら自分に注意が足りなかった由衣が悪いのだ。それにはっきり言ってキスだけで済んだのは不幸中の幸いかもしれない。
「謝ることないよ・・・逆にお礼言わなきゃね。ありがとう。あのタイミングで来てくれなかったら、ヤバかったカモね」
さっきとは違う笑顔を見せてそう言う由衣に、光二は目を伏せるようにして由衣から視線を外した。
「でも・・・・デートはやっぱり、マズイんじゃないかなぁ」
「そうね・・・行かない事にした」
「それがいいですよ」
2人は視線を合わせることなく会話をしていた。何故そうしたかはお互いわかってはいなかったのだが、どことなくぎこちない空気がそうさせてしまったのだ。
「まぁ、私に油断が、隙がありすぎたの。周人がいつも助けてくれてるから、それが当たり前って癖になってたのかもね」
ようやく顔を上げた由衣は苦笑気味にそう言うと口元だけに笑みを浮かべた。光二もまた顔を上げ、やや真剣な面もちでジッと今の言葉に聞き入った。
「だけど、塾長の言う通りだったから正直驚いた」
自分を見つめたまま不意にそう言われた光二は由衣の顔に浮かんだ微笑を見て思わず頬を赤らめてしまった。可愛さと綺麗さが重なったようなその笑顔は間違いなく男を虜にすることは間違いない。自然に出たそういう笑みこそ、真の美しさを表現していると思える光二は心の動揺を抑えながら今言った由衣の言葉の意味を聞いてみた。
「塾長は何を?」
そう言うのが精一杯の光二は咳払いをしてから、由衣を直視できずにテーブルの一角を凝視するしかなかった。
「周人がいない分、三宅君が助けてくれるって」
だがその言葉を聞いて顔を上げた光二の表情は驚きに満ちあふれたものとなっており、由衣はそんな光二の表情を見てさっきとは違う笑みを浮かべるのだった。
「最初はそんな事ないだろうって思ってたんだけどね・・・実際助けてくれるし」
苦笑じみてはいたものの、それは光二をバカにしたものではない。予言通りの登場に対するものである。
「でも助けたうちには入らないですよ・・・」
「ううん・・・助けてもらったって、そう思ってる」
由衣は立ち上がりながらそう言うと、とびっきりの笑顔を見せた。光二はこの由衣の笑顔を守れたことを誇りに思い、いつかは自分の大切な人がどんな危機に瀕していても必ず助けられるだけの強さ、肉体的精神的なものを含めての強さを身につけたいとあらためて決意を固めたのだった。
「じゃぁね、もう行くよ。おやすみなさい」
笑顔とシャンプーのほのかないい香りを残して由衣はロビーから去っていった。光二はそんな由衣の後ろ姿を見つめた後、見掛けに反して柔らかいソファに身を埋めながら先日聞いた『昔の由衣』についての恵の言葉を思い返していた。
「彼女が昔はイヤな子だったなんて・・・想像もできないや・・・」
誰もいないロビーで1人そうつぶやいた光二は当初の目的を果たすべく勢いよく立ち上がると玄関の自動ドア横にあるジュースの自動販売機へと歩き始めた。
『好きよ・・・』
不意に流れ込んできた思考に、光二は立ち止まり、周囲を見渡す。自分の力をコントロール出来るようになったとはいえ、意識が開放的になっている場合は垂れ流されてくる他人の思考をブロックする事は出来ない。今もその現象から来たものであり、近くに強い思念を発する者がいる事を表していた。
「誰だ?」
場所は特定できないが自分の能力からして今いる位置から十メートル四方が限界である事を考慮し、比較的近くなのはわかっている。光二は意識を集中させてさっきの思念を探りにかかった。位置を特定できないために広範囲に意識を飛ばし、さっきの溢れんばかりの愛しさを込めた思考だけをふるいにかけてその人物を断定していく。
『抱きしめて・・・もっと・・・・強く・・・』
さっきよりも強い思考を感じた光二は大体の位置を特定できた。ある程度予想はしていたものの、はやり部屋や娯楽室の方ではない。ロビーの奥にあるお土産屋さんのさらに奥、勝手口付近から流れてくる思念に、光二は足音を押し殺してそっちへ向かった。
『好き』
流れてくる強烈な思念は女性、しかもかなり若いような印象を受ける。考えられるのは女子生徒なのだが、果たして真相はどうなのか、光二は廊下の壁際に立ち、恐る恐る息を押し殺して廊下の奥へ向かってそっと顔を半分だけを出してそこにいる人物を見て驚きの声を上げそうになった。背の高い男性とやや小さめの少女とおぼしき女性が絡まり合うように抱きしめ合い、激しく唇をむさぼりあっているではないか。明かりもない真っ暗な中で抱きしめ合う2人を、非常灯の赤い光が妖艶に照らし出している。光二は五感を鋭くさせる能力を発現させて食い入るようにその2人を断定にかかる。そしてその目でとらえた2人の正体に思わず声をあげそうになってしまった。
「ま、まさか・・・・・・」
声を出さずに心の中でそう驚愕の声を上げた光二は顔を戻して壁にもたれかかると、ヘナヘナとその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
「さぁ、もう部屋へ帰りなさい・・・約束通りこれでしっかり勉強するんだよ?」
廊下の奥から聞こえてくる声は忍のものである。光二がジュースを買いに出る前にトイレに行くと言って行って部屋を後にしたのは知っていた。
「あん!もう、意地悪・・・勉強するけど・・・・約束の旅行、忘れてなぁい?」
甘い声でそうささやくように言うのは紀子である。紀子が忍にお熱をあげていることは誰もが知っている事実である。だが、まさかここまでの関係に発展していたとはさすがの光二もただただ驚くしかない。
「忘れてないよ・・・その時はいっぱい愛してあげるから。さぁ、早く!」
「うん、わかった・・・」
その会話の後、しばらくの沈黙をおいてパタパタとスリッパの音をさせながら近づいてくる紀子の足音にマズイと感じた光二はとっさにお土産屋の中に滑り込むようにして床に伏せた。商品台の隙間から去りゆく紀子の姿を認めた光二はしばらくそのままの態勢で忍が出てくるのを待った。
「ふぅ。まぁいいさ、お楽しみは旅行があるし、ハニーは彼女だけじゃないからね」
廊下から現れた忍の表情は光二の位置からは見えない。だが、忍の思考からわかった事は紀子と親密な関係を続けながら何人かの生徒ともこういった関係を持っているという事だった。
「しかし、最近の中学生は発育がいい・・・・やっぱ若い中学生が一番!でも吾妻もいい感じなんだがなぁ」
ぶつくさつぶやくように口にしながら、忍はゆっくりとした足取りで教師の為の部屋へと戻っていった。光二は完全に足音が遠ざかったのを確認してから立ち上がると、やや呆然とした表情で去っていった方向を見つめるようにするのが精一杯であった。
「報告すべき事なんだろうけど・・・」
そうは言ってみたものの、恋愛に関しては自由だ。だが、このまま忍を野放しにすれば必ず後で問題が起きるのはわかりきっている。
「気を付けて様子を見るしか・・・・ないか・・・」
これ以上恵に負担はかけたくないという事から、自分が気を付けて様子を見ることにした光二は山積みとなった人間関係の問題に頭痛がしてくるのを感じていた。
「佐藤に江川・・・・そして横山か・・・・・・・」
本来であれば塾長である康男に即報告するところなのだが、今の塾の状態を痛いぐらいに理解している光二にとって、これ以上の問題提起で康男や恵に大きな負担をかけたくないのだ。
「木戸さんに相談してみるかな・・・」
もはや誰に相談していいかわからない光二は恵や康男以外で塾に詳しく、適切なアドバイスをくれそうな人物といえば今でも康男が全幅の信頼をおき、なおかつ自分も一番頼れる存在である周人ぐらいしかいないと思ったのだ。幸い昨年の事件がきっかけで自宅と携帯の電話番号は聞いている為、とりあえず明日の夜にでも連絡をとってみようと思う光二はゆっくりとため息を漏らしながら部屋へと戻っていくのだった。
翌日は予定通り午前午後を通して密度の濃い授業を展開する事が出来、とりあえず合宿としての補習は午後三時をもって終了となった。ようやく地獄の補習から解放された生徒たちは各々帰り支度を整えると、三時半にロビーへと集合した。由衣は光二の傍に寄り添うようにしており、それを睨む純一郎の視線は怒りを含んで光二へと向けられた。また、昨夜からは想像できないような和やかな雰囲気で会話をしている紀子は忍を入れて友達たちと和気藹々とした感じで会話を弾ませている。やがてバスの準備も整った一同はお世話になった保養所の方々に別れを告げて一路さくら谷へ向けての帰路についたのだった。皆昨夜の夜更かしと今日の疲れからか、高速道路を走る頃にはほぼ全員が眠りに落ちている状態にあった。行き同様運転席の真後ろに座った由衣は流れ行く景色を目にしながら徐々に重くなってきた瞼を閉じて船を漕ぎ始める。そして走り始めて三十分もすれば、光二以外の全員が眠りに落ちている状態となっていた。
「あれ?起きてたのかい?」
席を離れ、運転席の真横の段になった部分に腰を降ろした光二は康男の言葉にうなずくと、チラリとその後ろで眠りに落ちている由衣を見やってから言葉を発した。
「ええ、昨夜よく眠れましたから」
「そうか」
意味もなくここへやって来たとは思えない康男であったが、本人が何も言わない限りそのままにしておくのが康男のやり方だ。
「あの・・・・塾内での恋愛って、自由なんですか?」
30秒ほどの沈黙をおいてからそう切り出した光二の言葉に、康男はまっすぐ前を向いたまま口の端をやや持ち上げて意味ありげな笑みを浮かべて見せた。
「ほほぉ、これはまた意外な・・・・で、それはどっちなんだい?」
「はい?」
思っていたものとは違う反応を見せた康男に、光二はきょとんとした表情で康男を見上げた。
「青山さんか、吾妻さんかって事さ」
「・・・・そういう意味じゃなくってですね、例えば教師と生徒っていう感じでです」
まさか以前は由衣を好いていましたとは言えない光二はそういった反応を少しも見せずに聞きたいことを正確に口にした。康男は表情から相手の思考を読むのがうまい。時たままるで自分と同じ能力を持っているのではないかと思わせるほどにそれは才能と呼べるほどの鋭さを持っているのだ。
「あー、そうか・・・生徒に恋をなぁ・・・・・まぁ基本的には自由さ。かつて吾妻さんがバイト講師に恋してた時も、木戸君を好きになり始めた時も自由だったし。学校じゃないからね、そこまで厳しくはしないさ。でも、度が過ぎれば、それはとがめるけど」
おそらく自分が生徒の誰かに想いを寄せていると勘違いされているんだろうと思いつつも、光二は今の言葉を正面から受け止めた。
「倫理的に、肉体関係などを除いて、という事ですね?」
その言葉にはさすがに面食らったのか、康男は今まで見せていたどこかやらしい笑みをかき消して真剣な面もちで光二を見やった。
「それはもちろんだ」
「ですね・・・」
その光二の言葉から光二自身の事を指しての質問でないのを悟った康男は今の表情を崩す事無く前を見て運転を続けた。
「吾妻さんと佐藤君、もしくは横山君と江川さんの事かい?」
やはり康男は鋭いと思いつつ、光二はそこははぐらかすことに決めた。
「いえ、昨日の肝試しで何となくそういう子もいるんじゃないかなぁって思っただけですよ」
「なるほど」
「ちなみに僕はそういうの、ないですから」
そう念を押すように言ってから光二は乗降口脇にある手すりに掴まるようにして立ち上がった。前から流れ行く景色は赤みを帯びてきて、まだ昼間のように明るいようでも今が夕方だと感じることが出来た。
「そうだな・・・まぁ一時は木戸君と恋のバトルに突入するんじゃないかって期待してたんだけど」
その言葉に、勢いよく康男の方を向いた光二の顔が赤いのは夕日のせいだけではないようだ。
「・・・・・・塾長って・・・・絶対隠れ変異種ですね」
「そうかもしれん」
自分の真剣な言葉を苦笑で返した康男に笑みを浮かべた光二は自分の座っていた席へと帰っていくのだった。
バスがさくら西塾へと到着したのはようやく辺りが夜と昼の境目に来たぐらいに薄暗くなってきた午後6時ちょうどすぎであった。そこで東塾の生徒たちは迎えに来ていた八塚のワゴンへと乗り換え、自宅まで送られていくようになっていた。とりあえずここで降りる由衣と光二を残してバスはそのまま生徒たちを各々いつもの集合場所まで送っていく。ついでと言ってはなんなのだが、忍の家もとある生徒の家から近いためにこのまま一緒にバスに同乗していく。職員室から出てきた恵を含めた3人でバスとワゴンを見送りながら、由衣と光二は無事合宿をやり遂げた心地よい疲れに満足感を得ていた。大通りへと出ていくバスが角を曲がり、また、駅へ向かう狭い砂利道を行くワゴン車が砂煙に消えるのを見てから、光二と由衣は恵に戻ってきた挨拶をするのだった。
「ただいまです!」
「おかえり、無事でなにより」
夕闇のせいか、そう言う恵の顔色は悪いように見える。いや、夜目にあっても昼間の如く見ることができる光二にとって、明らかに恵の顔色は青く、疲労困憊といった状態にはっきりと見えていた。
「留守中、どうでした?」
「うん、異常ないよ」
恵は笑顔でそう言い、由衣もそれを素直に受け取ったのか笑顔を返した。だが1人険しい表情をした光二に気付いた恵は大きく光二の背中を叩くと、優しい笑みを浮かべてからピロッと舌を出した。少々つんのめりながらも苦笑を漏らす光二は、見た目より元気だと判断してややホッと胸を撫で下ろした。
「さぁ、残った仕事片づけたら、私も帰るかな」
後ろ手に少し飛び跳ねる感じで職員室へと戻った恵を見て、顔を見合わせながら苦笑する由衣と光二は、地面に置いていた各々の鞄を持ち上げると恵の後を追って職員室の方へと向かった。
「木戸さんは、今日は何時頃に帰ってくるんです?」
ちょっとしたお土産の入った袋を持ち上げた由衣にそう問いかける光二に、由衣は一瞬不思議そうな顔をして見せた。
「多分8時頃だったはずだけど・・・用なの?」
よいしょとばかりに鞄を担ぎ直すと、由衣はお土産袋を片手に光二の方を向いた。
「あ、いえ、ただ聞いただけです」
にっこり微笑む光二に対し、まだ不信感を持っている感じの由衣だったがとりあえず納得したようで職員室に向かって歩き始めた。
「なぁんか怪しいけど、まぁいいわ」
その言葉に苦笑いを浮かべつつ、光二は由衣の後に続いて歩く。それ以上何も言わない由衣にややホッとしながら、光二は夕暮れの空を見上げてから気付かれないように小さなため息をついた。とりあえず今日は何も考えずに眠りたいとぼんやりと考える。だが、それも束の間、先に職員室に入った由衣の悲鳴が夕暮れの赤く染まった空に響き渡り、光二を一気に現実へと引き戻した。
「どうしました?」
重たい鞄を放り出すように玄関に駆け込んだ光二が見た光景は、由衣に抱きかかえられるようにしてぐったりとなって横たわる恵の姿であった。眉間にしわを寄せ、苦悶の表情を浮かべる恵は額に脂汗を浮かべながら気を失っているようだった。身体は脱力してだらりとし、由衣が倒れこんだ恵を抱きかかえて必死に呼びかけている。
「恵さんっ!ねぇ、恵さんっ!しっかりしてよぉ!」
恵のすぐ脇に滑り込むようにして顔を覗き、そっと手の平をおでこに当てた光二は自分の手を伝わって感じる恵の体温の異常な熱さに表情を固まらせた。
「すごい熱だ・・・・青山さん!しっかり!」
由衣から恵の身体を奪い取るようにして抱きかかえると、何度も名前を呼んで意識の回復を計るが全く効果がない。
「吾妻さん、毛布を!青山さん!しっかりして!」
少し痙攣も起こしつつある恵の容態は悪くなる一方だ。光二は由衣から受け取った毛布を丁寧な手つきで身体に巻き付けてやるとお姫様抱っこをするように抱かえて立ち上がった。
「青山さん、頑張ってくれ!」
「恵さんっ!どうして・・・・」
そっと簡易ベッドに横たえられた恵は相変わらず苦しそうな表情と息づかいでギュッと目を閉じたままである。
「塾長の家から車を借りてきます。青山さんを看てて!」
光二はそう告げると猛ダッシュで塾を後にした。残された由衣はどうしていいかわからずに動揺しきった声でただ恵の名前を呼ぶことしかできなかった。暗い夕闇が徐々に近づく中、薄暗い空にただ由衣の悲鳴に似た声だけが虚しくこだましていくのだった。




