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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十二章
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真夏の嵐-Yui Side-(3)

朝、目を覚ました恵は自分の背後でパソコンに向かっている人物に朝の挨拶をして驚いた。そこには光二がいたはずなのに、今は康男が座っているのだ。あわてて時計を見れば時刻は午前8時10分、起きるにはちょうど良い時間であり、また、机に突っ伏したままとはいえここ最近ではよく眠った方だった。掛けられていた毛布を床に落としながら思わず立ち上がった恵は状況を把握出来ずにきょろきょろするのが精一杯であった。


「三宅君は学校があるからってつい三十分ほど前に帰ったよ。すまいないなぁ・・・君たちには本当に迷惑をかけてしまっている。本当に申し訳ない」


座ったままとはいえ、膝に手をついて深く頭を下げる康男を寝起きの顔で見ることしかできない恵は床に落とした毛布を拾い上げ、抱くようにするのがやっとだった。


「これ、塾長が?」

「いや、三宅君だよ。俺が来た時にはもう君は夢の中、だったからね」


言いながらパソコンの電源を落とし、ついでに隣にあるプリンターの電源も切る。


「朝飯食べにおいで。顔も洗わにゃ美人が台無しだ」


返事もなくただギュッと毛布を抱きしめるだけの恵に苦笑を漏らしながら立ち上がる康男は何も言わずにジッと恵を見つめるのみだった。何気なく顔を机の方に巡らせた恵はきちんと電源の落とされた自分のパソコン画面を見て小さな悲鳴を上げた。


「データ・・・保存してない!」

「これの事、かい?」


数百枚はあろうかという紙の束を持ち上げる康男は似合わないウインクをしてみせる。その紙の束と机の上とを交互に見やった恵は安堵の表情を浮かべながらため息をついた。


「俺が来てしばらくしたら全部印刷してくれたよ。君のパソコンからデータを引っ張ってきたみたいだね」


もはや言葉を失うどころではない。ここ最近の疲れからか不覚にも眠ってしまった自分の代わりに全てをしてくれた光二に、感謝以上の感情がこみ上げてくるのを感じた。


「来週月曜日、礼を言えばいい。なんなら電話するかい?」


その言葉にびっくりした顔でブンブンと大きな動作で首を振った恵に意味ありげな笑顔を浮かべた康男はプリントアウトされた書類の束を机の上で揃えるとポケットからこの塾全ての扉の鍵が揃えてあるキーケースを取り出した。恵は丁寧に毛布を畳むとそっと自分の机の上に置く。


「三宅君ってさ、木戸君みたいだな・・・・」


その言葉にわずかに頭を動かしてうなずいた恵はここ最近光二に周人の姿を重ねている自分を改めて認識させられた。


「さ、行こうか?」

「はい」


素直に返事をした恵の顔は晴れ晴れとしたものであり、寝起きとはいえその顔に恵の美人さを感じた康男は年甲斐もなく少々照れたような顔をして先に恵を外へ出るようにうながすのだった。


月曜日と金曜日の夜は中学二年生と三年生の授業となっている。もう少し詳しく言えば月曜日に関しては中二は英語で光二が、中三は数学で新人の横山忍が担当をしていた。そして金曜日の中二は数学で光二が、中三は英語で由衣が担当をする。光二は一週間のうち4日、忍と由衣は3日をシフトで組んでいた。特に由衣は残りの日数のうち1日は雑誌モデルのバイトを入れており、これでなかなか多忙な日々を送っている。そして今日は月曜日、夕方5時からの小学生の授業を行っている2階の教室以外の職員室には恵がいるのみで、まだ光二も忍も来ていなかった。小学生の授業を見ている岩井亜矢子はぽっちゃりした体格ながら愛嬌のある顔で子供たちに人気があった。なにより、保母さんを目指しているという事もあって小学生たちにはよく懐かれている。職員室で1人夏合宿の手配をしていた恵は少し体に怠さを感じつつもどこかそわそわした気持ちを隠しきれないでいた。今日は夕方ぐらいから何度も何度も時計ばかりを見ている気がする。そして今、いつも通りであれば光二がやって来る時間となりつつあった。どういった顔でお礼を言っていいかはわからないが、とにかく素直な気持ちで自然にお礼を言う事だけを考えているうち、ふと何気なく昔こうして同じような気持ちで周人を待っていた事を思い出して自分に対して小さく笑ってしまった。


「ホント、進歩ないっていうかなんなんだか・・・」


そうつぶやきを漏らした瞬間、何の前触れもなくドアが開く。予期せぬその音に体を硬直させてしまい、自然にお礼を言うといった事すら頭から吹き飛んでしまった。ただ動悸だけを早めていく自分に戸惑いを隠せないでドギマギするしかない。


「どーもぉ!今日もやってきました!」


およそ光二には似つかわしくない軽い口調に、恵はガックリと崩れるように机に突っ伏した。


「あれ?なんスか、そのリアクションは?」


靴を脱ぐためにやや前屈みになりながらそう言う男はパタパタとスリッパの音を大きく響かせながらいまだに顔を上げない恵の斜め後ろの席、教材やらプリントやらが雑然となってごちゃごちゃした机の上に小さなリュックをドカッと置くと、自慢の長髪を掻き上げながら大きな動作で足を組み、くるりと椅子ごと体を回転させて恵の方へ向いた。


「そんなに照れる事ないじゃないですか!いくら僕が超絶美形だからって・・・」


まるで自分に酔いしれているような台詞を吐きながら目を閉じ、ふわぁっと前髪を掻き上げた。恵はこれみよがしに大きなため息をつくとガバッと身を起こし、ゆっくりと首を回転させて鋭い視線を男に向けた。


「あれ?怒ってます?」

「べつにぃ!」


明らかに怒った口調ながら怒っていないと言う恵に対し、大きな動作で肩をすくめてみせた男はやれやれといった風なため息をつくとまたも緩やかに前髪を掻き上げた。その動作もさることながら口調もしぐさも全てがカンに障る恵は怒りという感情が体全体を満たしていくのを感じながらゆっくりと立ち上がる。そんな恵を不思議そうに見上げる男に対して恵の怒りが炸裂しようとした矢先、なんと男は素早く立ち上がるとそっと恵を抱き寄せ、するりと腰に手を回したのだ。あまりに突然の事で目を丸くしながら全身を固める恵は怒りもどこへやら気が動転してしまって思考もうまく働かない。


「そうか・・・昨日あの子とデートしてたのを見て怒っているんだね?違うよ、あれはただのデート、本命はキミさ」


目を細め、ニヒルな笑みを浮かべてそう言う男はジッと恵の目を見つめたままさらに体を引き寄せる。恵は上半身をややのけぞるようにしながらゆっくりと目を閉じた。それを見た男はさらに薄く微笑むと、自分も目を閉じてゆっくりと恵の顔に自分の顔を覆い被せるように近づけていった。そして唇と唇の距離があと数センチにまで迫った刹那、男は目を飛び出さんばかりにひんむくと、椅子をなぎ倒しながら豪快に尻餅をついた。その後すぐに男はアゴを押さえて悶絶し、その前にはそびえ立つように右腕を天井に拳を突き出す格好でたたずむ恵が目を閉じたまま大きく息を吐いている姿があった。


「このウルトラバカ!」


腰に手を当ててそう叫んだ瞬間、目の前が真っ暗になる。あわてて椅子の背もたれを掴むともはや勘を頼りに何とか椅子に座ることが出来た。ここ最近、立ちくらみの回数が多くなっている上に、少し怒鳴った程度でこれである。自分の中にある疲れの度合いが増している事をあらためて認識した恵は期末テストが終わるまでは何とか気力で体をもたせようと決意を固めた。


「こんちは~・・・・あれ?」


玄関に入ってきた光二は挨拶をした後、場の空気を読みとったのか違和感を口にした。恵は顔を伏せてジッとしており、そして机に手をかけながらアゴを押さえている男が顔をしかめていれば異変にも気付くのはあたりまえだが。


「どうしたの?横山君」


そう問われてアゴを押さえながらなんでもないという仕草を取った男、横山忍は自分の席に座ると身を縮めるようにしてアゴをさすり続けている。そんな忍を見て首を傾げた光二は自分の席である恵の廊下側隣に座ると肘を付き、額に手を乗せて目を閉じている恵をそっと見やった。


「どうしたんです?つらいんですか?」


そう言われてもふるふると弱々しく首を横に振る恵に、これは何かあったなとまず忍の思考を読む。


『こりゃ相当怒ってるなぁ・・・まぁでも、彼女もすぐに機嫌を直してくれるさ。ああ、美形な俺って罪だなぁ・・・』

「ダメだこりゃ」


全く意味のない思考にさらに混乱してしまうだけだ。そんなつぶやきを聞いてか、恵は一瞬チラッと光二を見たのだがまたすぐに目を閉じた。そんな恵の視線を感じた光二は仕方なく恵の思考から事の次第を読みとろうとしたのだが、以前同様まるで声が聞こえてこない。どんなに意識を集中しても、全くである。


「おかしいなぁ・・・」


また独り言を言う光二に怪訝な顔をしながら片眉を上げた恵は顔を上げ、目の前に開かれたノートパソコンへと手を伸ばした。何度やっても恵の思考が読めない光二は再度忍の思考を読んでみるが、忍に対してはあっさり心を読みとれる。とはいっても相変わらずその内容は意味不明なのだが。ともかく、恵の思考だけが読めない事実に戸惑いながらも仕方無しに授業の準備を始める光二は、自分をチラチラ見ている恵には気付いていなかった。


「こ、この間は・・・ありがと。ゴメンね」


パソコンの画面を見たまま手を止めてそう言う恵の方を向いた光二は一瞬何の事かと考えたが、先週末の夜の事だとすぐに理解して笑顔を返した。


「別にお礼なんて・・・これからもいくらでも手伝いますよ」


寝てしまった自分に代わって全ての仕事を片づけてくれた上に毛布までかけてくれた事に対する感謝の言葉だったのだが、光二には手伝いをしてくれた事に関する礼だと取られた事に少々がっかりしながら、恵はそれ以上何も言わずに1つうなずいてキーボードを叩き始めた。


「さぁて、今日は可愛い子揃いだから気合いを入れないとなぁ」


そう言うと机の引き出しから鏡を取りだし、入念に髪型のチェックに入る忍。さすがにあきれながらも文句を言わずにはいられない恵はさっきのように立ちくらみをしない程度に大声を張り上げた。


「そんな事はいいからちゃんとしっかり授業こなしてよ!テスト前なんだから」


その声に光二が身をすくませ、言われた本人である忍は全く意に介さず、はいはいと言うのみで髪の毛1本に至るまで綺麗に整えていった。


「今の俺ならあのスーパーアイドル赤瀬未来でも惚れるね。ああぁ、罪な俺・・・・・」


そう言うと鏡の中の自分に微笑む忍は何度も顔の角度を何度も変えながら笑顔の練習をするのだった。


「宇宙規模のアホね」


もはや返す言葉も失った恵の一言に、光二は苦笑を押し殺して教材のチェックに入るのだった。


確かに顔立ちは整っている。だが、美形という点では今一番後ろの列に座っている佐藤純一郎の方がずっと上である。目も大きく、鼻もすらっとしており、そんじょそこらにいる売り出し中のアイドルよりもいい顔をしている純一郎と違い、横山忍はどちらかといえば俳優といった2枚目である。ようするに可愛い系が純一郎、渋い系が忍と言ったほうがわかりやすいか。ともかく、忍も女子生徒たちから人気が高い。だが、自分を美形と知りながらそれを鼻に掛けないで天使の笑顔を武器にする純一郎とは違い、忍ははっきり言ってナルシストである。好きな物は何かという問いに対し、はっきりと『自分』と答える事が出来るほどに彼は自分が大好きなのだ。ホワイトボードに文字を書き、振り向きざまに髪を掻き上げて質問を投げる。その際は顔を少々斜めに構え、流し目をする事を忘れない。男子生徒はいちいち目に付くその仕草に失笑、またはイラつき、女子生徒はそんな忍に頬を赤らめる者と冷たい視線を送る者の2通りいるのだった。そして、常に最前列に陣取って忍の授業を受けている江川紀子ははっきり言って前者に当たる。週に2回の授業において、教壇のすぐ前の席は、月曜日は紀子、金曜日は純一郎の席と決められており、決して他の者が座ることはなかった。今日もまた紀子は授業内容そっちのけで熱い視線を忍に送り続けている。そしてそんな視線にまんざらでもない忍は事あるごとに紀子へと流し目を忘れない。しかし、いつもならいちいち動きがうるさい忍にくってかかる純一郎がいやに大人しく真面目に勉強している姿が不気味でならないのは何もクラスメートだけではなかった。それは毎度言われ続けている忍が一番不思議に感じていることであった。もっとも、由衣が紀子にあれこれ嫌味やら悪態をつくのを無視できずに怒るところを、この忍はそれすら自分に嫉妬しているからだとプラスに考える人間である。ここ最近の西塾の図式は由衣対紀子、忍対純一郎、そして由衣にアタックの純一郎に忍にアタックの紀子といったものが成り立っていた。そしてもう1つ、紀子&純一郎対光二である。紀子にとってナンバーワン教師といえば忍であるのだが、クラスメートの中には2枚目だがナルシストの忍に抵抗があり、優しくて顔も2枚目半といった光二の方に惹かれている子も多いのだ。それに比べるべき対象となる男性講師はこの2人しかおらず、自動的に派閥も2つに分かれてしまうため忍に心底惚れ込んでいる紀子にしてみれば光二は邪魔者以外に他ならない。今風ながら茶髪のセミロングに整った顔立ちをしている紀子はどちらかといえば美少女の部類に入る。陸上部に所属し、健康的に日焼けしている肌もまた彼女の活発的な明るさを強調してその美人の度合いを高めているといってもいいだろう。自分でも可愛い方だという認識がある紀子は実際によくもてる。だが、この塾にはそんな自分を遙かに上回る美女が2人いたのだ。それが由衣と恵である。整った顔立ちという点では恵の方が上である。落ち着いた大人の女性という雰囲気に、化粧気のない美人顔からして男子生徒たちも注目している存在である。しかも彼氏がいないという情報を康男から聞いていれば何人かの生徒は告白をしていたりしていた。そしてその恵を上回る美女であり、人気もその上を行くのが今の紀子の最大の敵、吾妻由衣である。はっきり物を言う性格でありながら優しさを見せ、さらには雑誌のモデルもしている由衣ははっきりいってそんじょそこらのアイドルよりもはるかに可愛い容姿をしている。電車に乗っていても、道を歩いていてもいつも男性の視線を感じずにはいられない由衣だがその美人さを鼻に掛けることなく決してそれを自慢にしたり男性に媚びたりはしていなかった。何より由衣には彼氏がいる。どうせたいしたことはない彼氏だろうと思っている紀子だが、自分が思いを寄せている忍が由衣を口説いている姿を見てからは嫉妬心が爆発、彼氏がいながら私の大切な人に言い寄られて嬉しそうにしていると思いこんでいるのだ。実際由衣にしてみれば忍に寄ってこられてこれほどうっとおしい事はない。だが、紀子はそんな由衣が邪魔であり、恵もまた邪魔者以外の何者でもないのだ。だから授業の度に嫌な態度を取ったりしていて敵対心をあらわにしているのだった。そしてそんな紀子の態度がかつて新城に恋していた時の由衣に似ていると恵は言っていたのだ。それに紀子が光二に悪態をつくのもかつて由衣が周人にしていた事と同じである。だが、自分に敵対心を丸出しにして、はっきりいって由衣にとっても頭の痛い存在の紀子がかつての自分と同じだとは思いたくない。そんな紀子はこの日の授業だけは永遠に続いて欲しいと願っており、終わりを告げる午後9時のアラームをわずらわしく思っていた。


「よし、ほんじゃ終わり」


やはり顔を傾けながら口元に笑みを浮かべてそう言う忍だが、有名大学に通っているだけあって授業内容はわかりやく丁寧で評判もよかった。これでナルシストでなければかなりの人気講師になっていたのは間違いない。忍のその合図を皮切りに皆さっさと片づけを済ませて教室から出ていく。だが半分近くの生徒たちはまだ教室に残って談笑をしていた。2階の中学二年生が階段を下りている時間をずらさなければかなり混雑するからだ。早々と出ていった生徒たちは彼らよりも早く出ようとした者たちである。もちろん紀子はホワイトボードを消している忍の横に立ってあれこれ話をしていた。純一郎はいつもなら友達とマンガを一緒に読むのだが、今日はいつもと違い熱心に英単語を覚えている。


「どうしたんだよ」


そんな純一郎に違和感を覚えた友達がそう言うが、純一郎は目も向けずにひたすら英単語を頭に叩き込み続けた。


「今度ばかりはマジなんだ」


簡単にそう答えたのみで後は一切口を開かない。そんな純一郎に肩をすくめた友達は時計を見てから鞄を手に取り、一瞬純一郎を見やったがそのままゆっくりと教室を出ていってしまった。その後ろ姿を横目に見た純一郎は持っていた単語表を鞄にしまうとゆっくりと立ち上がって玄関へと向かった。


「今日はイヤに熱心だったじゃないか」


靴に履き替えている純一郎の背後からそう声をかけた忍はどこか馬鹿にしたような笑みを浮かべながらその左腕に抱きつくようにしている紀子をさらに引き寄せるようにしてみせた。そんな忍を振り返ることなく靴を履いて立ち上がった純一郎は一言も発せずに玄関から外へ出ていってしまった。


「先生、無視されちゃったね」

「ま、嫉妬だな」


紀子の言葉に小さく笑みを浮かべた忍は先に紀子に靴を履かせた。


「ちゃんとテスト勉強してるのかい?」

「いい成績期待して欲しいんだけど」

「してるさ」


靴を履いてドアの前に立った紀子を見てから忍も靴に履き替えた。もはや教室に残っているのは忍たち2人しかしない。それを確認した忍は電気を消すとドアの前に立つ紀子に外に出るよううながしたのだが、紀子は逆に鍵をかけてしまった。だが、忍は全く動せずにジッと紀子を見つめるのみであった。外からの明かりがかろうじて漏れる暗闇の中、2人はおもむろに抱きしめあうとむさぼるように唇を重ね合うのだった。


ゆっくりと進むバスに気をつけるよう生徒に注意をうながしながら、光二は熱心に単語表を見ている純一郎に目をやった。やはり今回ばかりは真剣であり、オール80点以上を取ろうという決意が全身からにじみ出ているのがはっきりとわかる。光二は肩でため息をつきながら言いしれない不安に襲われる気持ちを否定し、停車したバスに乗るよう声を張り上げた。我先にと飛び乗る者、いまだに談笑して全く動かない者など様々な生徒たちを見ながら頭上のドアが開く音にそちらを向く。3階から姿を現した忍と紀子からどこか違和感を覚えるのは光二の持つ能力のせいかもしれない。そんな彼らに心を読むではなく、雰囲気を読みとろうとした矢先、すぐ目の前の職員室のドアが開き、そこから恵が顔を出した。


「あのさ・・・悪いけど、今日も頼んじゃって、いいかな?」


すまなさそうな言い方と表情をする恵に笑顔を返した光二はいいですよと快い返事を返した。そしてすぐに忍と紀子の姿を追うが既に紀子は階段を駆け下りてバスに乗り込もうとしており、忍は自分の傍に立ってバスに向かって手を振っている。


「随分遅くに降りて来たけど、何かあったの?」


すでに違和感はかき消えているため、心を読むことなく率直にそうたずねた光二は彼の仕草1つからも目を離さないよう集中した。


「テスト問題に関する質問ですよ」


バスに目をやったまま髪を掻き上げる忍を見る限りは全く普段通りである。言葉、視線、表情からも何も違和感はなかった。


「彼女はいつも熱心ですしね。そういえば今日、佐藤はいやに真面目だったなぁ」


大げさとも言える仕草、右手でアゴに触れながら思い出したようにそう言う忍は発車するバスの真後ろに立って大きく手を振った。


「ホント・・・困ったね、これは」


目を細めて腕組みする光二はそうつぶやきを漏らしてから小さくバスに向かって手を振った。どうやら純一郎のやる気は100%であり、このまま行けば由衣との約束は守られるだろう。いかに由衣とはいえ、2人きりで1日を無事に過ごせるかは疑問に思えてならない。普段から純一郎の心の奥にある黒い部分が見えている光二にとって今一番の不安はそれに他ならないのだった。


顔を引っ込める直前に見た光二と忍の後ろ姿に、恵はかつてよく見ていた光景をそこに重ねていた。親友のようであり、ライバルのようであった5年前に見たその背中。周人と新城。今、月日を経て周人は光二に、新城は忍に姿を変えてそこに存在していた。それに、かつての由衣も紀子に姿を変えて今の塾には存在している。


「だからかな・・・こんな気持ちになるなんてさ」


席に着き、大きなため息の後に漏らしたその言葉は重く自分にのしかかって来るのだった。


毎日遅くまで残業をしている周人に対して夜の十時を回った頃にいつもメールを飛ばすのが日課になっていた。ここ最近は特に忙しいらしく、すぐには返事も返ってこない事が多い。たまに早く帰ることが出来た場合はそのメールを受けてすぐに電話をくれるのだが、今日は昨日同様なかなか返事が返ってこないために由衣は先にお風呂に入ることにした。金曜日に純一郎と交わされた約束の事はまだ話してはおらず、結果がはっきりしてから話そうと思っている由衣は部屋の電気を消すと1階に向かって階段を下りていった。今日は月曜日なのだが、すでに試験休みに突入、さらには来週から一足早い夏休みとなっている由衣にとって時間というものはあまり意味を成さない。それでも規則正しく遅くとも十時までにはお風呂に入る習慣をつけている由衣にとって水、木、金曜日の塾のバイトで遅くなる事以外で今日のように十時を回ってからお風呂に向かうこと自体が珍しかった。大抵土曜日にあるモデルのバイトはお昼から夕方にかけてなので問題はない。明かりが灯っているリビングからはニュースを告げるアナウンサーの声が聞こえてきている。夏本番直前の蒸し暑い今、どこの扉も開いているリビングに進入した由衣はソファに腰掛けてテレビを見ている父秀雄の視線を感じながら風呂場へと向かうのだった。


「由衣」


だが不意に秀雄に呼び止められた由衣はさほど気にすることなく振り返る。


「何?」

「木戸君とは、うまくやってるのか?」


いきなり何を言い出すのやらと思いつつ、頭を無造作にボリボリ掻いた由衣は何も言わずにただうなずいた。


「最近休日も出歩いてないみたいだから、ちょっと気になって、な」


由衣が何も言っていないにも関わらず、秀雄はテレビに視線を戻してからそう言葉を発した。周人が吾妻家へやってきた事があるのはこれまでにわずかに2回だけである。だがその2回で周人を気に入ってしまった秀雄はここ最近デートをしているように見えない2人の仲を密かに心配していたのだ。


「先週末まで出張でドイツに行ってたからね。一応今週末にお土産もってくるそうだよ」

「飯食いにか?」

「違う。私を迎えにきた時に」

「そうか・・・」


何故か残念そうにそう言う秀雄にため息を漏らした由衣はそこで会話を切るべくさっさと風呂場へと向かっていった。台所手前のドアの向こうが洗面所になっており、その奥が風呂場となっている。その入り口たるドアに手をかけようとした時、先にドアノブが回転して中から母親の実那子が姿を現した。


「あら、今日はメールなし?」

「うん・・・相変わらず忙しいみたいね」


素っ気なくそう言うと、2人は入れ替わるよう今にいる場所を変えた。


「今度いつ来るの?」


先程の秀雄といい、この実那子といい、娘以上に娘の彼氏を気に入っている事は喜ばしいのだが、この実那子に至っては周人を娘の彼氏としてではなく、1人の女性としてファンになっていたのだ。さっきよりも大きなため息をついた由衣はさっき秀雄にしたものと同じ返事を返すとTシャツを脱ぎ始めた。


「週末、迎えに来る時にドイツ土産を持って来るって」


その言葉を聞いた実那子は台所に向かおうとした足を止めて由衣を振り返ると、顔一面に嬉しそうな表情を浮かべていた。


「そうなの?じゃぁ、朝九時か、十時すぎってトコね・・・ウフフ~」


まるで自分がデートにでも行くようなその言葉に、上半身をブラ1枚の姿であきれ果てる由衣はもはや言葉も失った状態でダメだこりゃとばかりに弱々しく首を横に振った。確かに自分の彼氏が両親に嫌われるよりは好かれた方がいい。その点秀雄は周人が一流会社で社長にも認められている社員であるという社会的立場と、常に礼儀正しく自分をしっかり持っている男としての部分を認めて気に入っていると言える。だが、この実那子に関して言えばただファンである以上にまるで周人に恋しているとしか思えないのだ。由衣は実那子の不気味な笑い声をかき消すべく勢いよくドアを閉じると、ジーンズの短パンを脱いで叩きつけるように洗濯機に放り込むのだった。

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