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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十二章
71/127

真夏の嵐-Yui Side-(2)

由衣が戸締まりをして階段の踊り場に出た時には既にバスがアイドリング状態で停車していた。元々塾長である康男が送迎バスを運転していたのだが、東塾にかかりっきりになっている今ではすでに大型免許を取得している康男の甥っ子で西塾をメインに雑務を担当している新垣貴史が行っていた。基本的に貴史は東塾の生徒たちを塾が所有しているワゴン車で送迎していたのだが、何かあった時の為にと2年前に康男が西塾の専属ドライバーに任命していたのだった。それ以来、西塾に来た際には康男も交代で運転をしており、康男が東塾にかかりっきりになっている今では立派な西塾専属のバスの運転手となっていたのだった。乗り込んでいない生徒はわずかとなったのを見下ろしながら階段を下りかけた由衣は、その降り口付近に立っている光二を見つけてやや早足で階段を駆け下りた。周囲を見た限り純一郎の姿はなく、もう既にバスに乗り込んだようである。


「佐藤と、何かあったの?」


降りるなりそう聞かれた由衣はやや表情を曇らせてどう説明したものかと思案したのだが、心を読める光二の前でそれは無意味だと気付いて正直に話をすることにした。


「期末テストで全教科80点以上ならデート、出来なかったらもう私にちょっかいをかけないという約束をしてたの」


その言葉にあきれたような、渋い顔をしてみせた光二は階段に腰を下ろすと刺すような視線をバスへと向けた。


「あいつならやりかねないよ・・・それにデートしたら諦めるって事でもないんですよね?」

「え、あ、うん・・・」

「こりゃ、ちょっとやっかいかも・・・ですね」


動き始めたバスをジッと睨むようにしながらそう言う光二の言葉に由衣は胸の中の不安をどんどん大きくしていった。確かにデートしたらそれでもう終わりという約束ではなかった。そこまで深く考えなかった自分をバカだと思いながらも、今は純一郎がオール80点以上を取らない事を祈るしかない。だがそれは塾の先生としては祈るべき事ではないのだが、これまでの執拗な彼のアタックにうんざりしていた由衣にとってはそうも言っていられない。バスが角を曲がって大通りへと出ていくのを見送った2人はただ沈黙が流れる時間を共有しているのみであった。そんな時、不意に職員室となっている1階の扉、階段を下りてすぐ脇にあるその白いドアがおもむろに開いて2人の視線を集める事となった。そこから顔を出したのは1人残っていた恵であり、階段に座る光二と手すりにもたれかかる由衣とを交互に見渡すと小さな微笑を浮かべてみせた。そんな恵は2人が首を傾げるのを見て、1つ咳払いをする。


「昔の木戸クンとあんたを思い出させるなぁって思っただけよ」


そう言われてもピンとこない光二と違い、自分の足下に座っている光二と恵とを交互に見やった由衣は恵同様小さな淡い微笑を浮かべて見せた。ちょうど周人に心惹かれ始めた頃、こうしてここで他愛もない会話をよくしていた事を思い出す。タバコの煙を揺らす周人、悪態をつく自分。どんなに自分が嫌味を言っても全く反論もせずに全てを受け止めてくれた周人の優しさに気付いた頃を思い出した由衣は十五歳だった自分がいかに子供であったかを思い出していた。


「どういう事です?」


訳が分からないといった光二の言葉に顔を見合わせた恵と由衣はさっきとは違った笑みを浮かべるといまだ眉をひそめる光二に向かってニンマリと笑った。


「周人はよくそこに座ってそうしていたの。タバコ吸いながらね。で、私がここで同じようなカッコで悪態をついてたの」

「へぇ~・・・・その頃でしたっけ?木戸さんを好きになったっていうのは」

「そう。ものっすごく大嫌いだった周人を気にし始めた頃、だね」


5年前の自分を鮮明に思い出しながらそう言う由衣の言葉を聞いて同じように懐かしむ恵はいまだに首を傾げる光二を見て小さな優しい笑みを浮かべてみせる。


「似てるわね・・・あの頃に」


聞こえるか聞こえないかの声でそうつぶやいた恵は遠くを見るような目をしていたのだが当初の目的を思い出してあわてて光二に声をかけた。


「三宅君、悪いんだけど打ち込み手伝ってくれる?由衣はもういいから帰ってもらっていいよ」


そう言い残し、恵は部屋の中へと戻っていった。由衣と光二は顔を見合わせて笑い合った後、恵の後を追うように職員室の中へと入っていったのだった。


「あんたは・・・バカ?」


純一郎との約束の件を聞いた恵の第一声がこれである。疲れた顔をさらに疲れさせてそう言った恵の言葉を文字通り受け取った由衣はしょぼくれた様子ながらも今更どうしようもないといった感じの態度を見せた。


「だって・・・もしかすればもうウザくなくなるかもって思ったんだもん」

「でも、彼は必死で勉強しますよ。いくら吾妻さんに彼氏がいようが関係ないというのは彼の今までの言動でわかっていますからね」


プリンターの横に置かれたパソコンの画面から目を外す事無く、あまり感情のこもっていない声でそう言う光二の言葉にもうなずいた由衣は目一杯大きなため息をつくしかなかった。実際言い寄ってくる純一郎に自分には彼氏がいるからと何度言ってもその効果はまるでなかったのだ。


「自信家だしね、アイツは」


ふぅとため息をついて椅子にもたれかかった恵は肩のコリをほぐすように首をぐるりと回転させた。空手の小学生部門において全国優勝する実力を持ち、さらには容姿も端麗で密かなファンクラブまである。それに腕っぷしの強さで実質的な番長ともいえる存在でもあり、塾でも同級生からはカリスマ的存在にまでなっている。確かに物事をはっきり言う彼の態度は見ていてすがすがしい部分もある。だが、その自分の信念を貫く姿勢は素晴らしいのだが、押してばかりで引かない性格もしているのだ。


「それだけじゃないですよ・・・彼には、彼の心の中には、今見せているものとは違う部分があります」


キーボードを叩く手を止め、鋭い目つきで画面を見ながらそう言う光二の口調は普段では決してありえないほど冷たく、そして確信に満ちたものであった。恵にしてみればどうしてそうまではっきり言いきれるのか不思議に感じたのだが、彼の能力を知る由衣にしてみれば素直にそのまま受け止められる忠告のように聞こえた。


「とにかく、塾としては困るけど、彼が80点以上でないことを祈るしかないわね」


恵はそっけなくそう言い放つとため息をつきながらパソコンに向き直った。


「でも、彼や江川さんを見てると昔の誰かさんを思い出しちゃうのよねぇ」


口元を緩めながらそう言う恵を帰り支度をしていた由衣が見る。その言葉にようやく画面から恵の方へと顔を向けた光二は片眉を動かして疑問の表情を浮かべて見せた。


「私ぃ、あそこまでひどくなかったと思いますけど・・・」


明らかに心外だと言わんばかりの憮然とした顔つきをする由衣に恵はニヤリとした顔をしてみせた。ますますよくわからない光二は恵が言った言葉をもう1度頭の中で反復した。


「って事は、昔の吾妻さんも『ああ』だったって事、ですか?」

「まぁ、ようするに同じ部類だったのよねぇ・・・当時いた2枚目講師、新城クンって講師がいたんだけど、その彼に恋した由衣はもうすっごい猛アタック。んで、新城クンの代わりに授業を受け持つ事になった木戸クンにこれでもかってぐらい嫌味のオンパレード・・・側から見ててムカつくほどにね」

「そ、そこまでひどくはなかったぁ!」

「あららぁん・・・そうかしらぁん?」


細めた横目でそう言われた由衣は思わず口ごもってしまった。否定はしてみたものの、確かに言われた通りだったことは自分が一番よくわかっている。


「それがなんでまた・・・・」


そんな2人が今、何故付き合っているのか不思議な光二の言葉に、恵は由衣を見たまま言葉を続けた。


「何を言われてもさらりとかわし、全く相手にしなかった木戸クンが暴漢からこの子を助けてあげた。そこでこの子はようやく木戸クンの優しさに気付いたの。で、結局彼の心の中にあった傷を癒す事ができたのもこの子だったのよ」

「でも付き合ったのってちょうど1年前でしょ?」

「ま、いろいろあったのよ・・・それにこの子は本当に変わった。優しい、本当に優しいいい子にね」


まるで母親のようにそう言う恵の言葉に照れた顔でそっぽを向いた由衣は机の上に置かれた鞄をひったくるように拾い上げると、そそくさと玄関に向かった。


「お疲れさまっ!」


靴に履き替えてから2人を振り返り、大声でそう言うとべーっと舌を出してみせる。そのまま飛び出すように出ていった由衣を見送った2人は顔を見合わせて小さく笑い合うのだった。


午後十時を少し回った時間に貴史のバスが戻ってきたが、恵と光二を残して貴史はさっさと帰ってしまった。元々彼の仕事はバスの送迎がメインであるため、バスを車庫にしまった時点で職務は遂行された事になる。それに最近出来たイケイケ風の彼女にお熱の彼にとってみれば正直言って今は仕事どころではない。軽く挨拶をした後に出ていった貴史がいなくなり、しんと静まりかえった職員室ではただキーボードを叩く音だけが響き、2人の間に会話はなかった。だが、その静寂を破ったのは光二だった。


「コーヒーでも入れましょうか?」


椅子ごと恵の方に体を向けながらそう言う光二に画面を見たままうなずく恵は首を横に傾けて肩のコリをほぐす仕草をとってみせた。台所の明かりを灯し、最近購入されたコーヒーメーカーを流し台の下の棚から取り出した光二は慣れた手つきでそれらをセットしていく。康男がインスタントコーヒーでは何だからと近所で評判のお店から上質のコーヒー豆と一緒に買ってきたそれは手間がかかる分、美味しいコーヒーを提供してくれていた。やがて豆の良い香りが部屋を満たす頃、光二がコップを持って恵の横に立った。


「ありがとう。これ飲んだらもう帰ってもらっていいよ」


良い香りを漂わせるコップを受け取りながらそう言う恵は笑顔であったが、光二にはその笑顔の奥にある疲れた表情を見抜いていた。元々彼の『変異種』としての能力は鋭い五感に端を発していた。視覚、触覚、聴覚、味覚、嗅覚を意図的に鋭くさせ、見た目などではわからない細かい部分まで見抜く力に秀でていた。その能力を発揮していくうちに、やがて人の思考を読めるレベルにまで発達していったのだ。だが、五感を鋭くさせる事は出来ても相手の思考を読む事に関してはうまくコントロール出来なかった彼は無意識的に飛び込んでくる他人の思考に随分悩まされ、聞きたくない心の裏側までを勝手に読みとったりもして徐々に内気な性格になっていったのだ。他人と深く関わらなければ心を読んでしまっても深く考えることが、傷つく事がないからだ。だが、昨年のアリス誘拐事件をきっかけにその力は飛躍的に開花し、また積極的にコントロールを計ることで今では自分の意志で他人の心を読めるまでに発達していたのだった。もちろん、普段においてその力を使うことはほとんどないのだが、授業において生徒がどのような考えを持っているかを読むことによってそれを生かし、今では先生として個人的な悩みをうち明けられるまでに信頼を勝ち得ていたのだった。そんな彼にとって恵の笑顔の奥に隠された疲労を見破る事など造作もないことなのだ。


「いえ、今日は週末ですし、徹夜してでも手伝いますよ」

「・・・悪いから、いいよ」

「そんな疲れた顔をして言われても、説得力ないですよ」


すぐ後ろの席にあるプリンターから自分が印刷した分を取って恵に手渡すと、恵の肩に両手を乗せた。一瞬ビクッと体を強ばらせた恵だったが、絶妙な力加減で肩を揉む光二の手の温もりを感じて徐々にその力を抜いていった。


「ほら、カッチカチじゃないですか・・・たまには僕にやらせて休めばいいんですよ」


ゆっくり丁寧に肩を揉みほぐすその光二の言葉に、恵は感謝の気持ちを込めた表情を浮かべてみせたのだが、後ろから肩もみをしている光二にはそれが見えない。普通ならこうして他人、それも男性に触れられる事に抵抗を感じる恵であったが、光二の手から感じられる温もりと、そして優しさのせいか何の嫌悪感を抱くことなくされるがままの状態にあった。その優しさ溢れる手つきに、恵は体の力を抜いて光二の動きに身をゆだねたのだ。


「ありがとう・・・」


そう言うのが精一杯だった。手から伝わるその優しさに思わず涙が出そうになってしまった。そう言えば疲れたと思った時にいつも手伝ってくれた、気を遣ってくれていたのは光二であった事を思い出し、そんな彼の優しさを改めて認識してしまった。


「佐藤クンと江川さんが由衣なら・・・三宅クンは木戸クンに似てるね」


首筋を揉まれて心地よい恵だが、やはりこんな風にそこを触られても嫌な気分にはならなかった。この約1年で光二という人物がどういう人であるかを知っているというのもあるのだが、何より自分自身が光二を信頼している証拠だと思えた。そしてそう言われた光二もまた、周人に似ていると言われて悪い気分にはならなかった。自分が合気柔術を始めたのも、元はといえば周人に憧れたからだ。昨年の事件の際に見せた周人の強さ、何より自分の大切な人を守りたいというその強い心に惹かれたのだ。目標として憧れる周人に似ていると言われて悪い気などしない。


「木戸さん、いい人ですよね」

「働きだして、3年もアメリカに行ってたのにホント変わんないよ・・・昔のまんま」


揉みほぐされていく肩と首が気持ちいいのか、目を閉じてそう言う恵の脳裏にはバイト仲間として働いていた頃の周人を鮮明に思い出していた。


「でも、吾妻さんが佐藤や江川さんみたいだったって・・・ちょっと信じられないですよ」

「新城先生新城先生って付きまとって、その新城クンに相手にされずに木戸クンをバカにして・・・周りがハラ立つぐらいの言われようでも軽く受け流してたその木戸クンが変えたのよ。正確には元に戻したって感じらしいけどね」


言い始めに漏らした小さな笑みから、光二は恵の周人に対する想いを感じ取ってしまった。


「その彼が選んだのは由衣。でもフラれた私が言うのもなんだけど、最終的には由衣には頑張れって気持ちを持ってた。まぁ、実際羨ましいと思ったのが一番だけどね」


光二は何も言えずに手だけを動かした。もしかして、恵にとってみれば由衣と周人の仲むつまじい姿を見ていることはつらいのではないかと思えてしまった光二は何も言えなくなってしまったのだ。痛いほどにじみ出てくる周人への想いは、思い出の中の恋心なのか、それとも今現在の心なのか。何故かそれが気になりながらも光二は黙ってマッサージを続けた。


「でもあの2人はお似合いよね」

「そうですね」


それに関しては素直にそう思う光二の返事に、恵は小さな微笑をこぼした。


「ありがとう、もういいわ・・・気持ちよかったし、楽になった」


後ろに立つ光二を振り返りながらとびっきりの笑顔を見せた恵に対し、一瞬ドキッとしながら光二はその手を肩から離した。元々美人顔の恵だが、ここ最近の忙しさからか疲労の濃い顔がそれを台無しにしていたのだ。それでも素直な笑顔は元々美人である恵の顔立ちを強調し、光二は少し顔を赤くしながら席へと戻った。結局その後、帰っていいと言う恵の言葉に反して手伝いを続けた光二は、十一時過ぎに近くのコンビニへと弁当を買いに行き2人で遅い夕食を食べたのだった。


「昔の木戸クン、今思うと凄いなぁって感じる」


弁当を全て平らげた恵はお茶をすすりながらそう言った。すでに弁当を食べ終えてくつろいだ姿勢でいた光二もその言葉に椅子に座り直して恵の方を見やった。


「彼、西と東を掛け持ち、さらにこうして1人で徹夜やらなんやら・・・その上学校に行って体も鍛えていた、はっきり言ってスーパーマンか・・・・変人ね」


褒めているのかけなしているのかよくわからない言葉で締めつつもそう言う恵はここ最近自分でも周人たちとバイトをしていたあの頃をよく思い出すようになっていると感じていた。周人がアメリカに旅立ち、自分がここに就職してからこんなに昔を懐かしむ事など無かったのだ。感傷的になる秋の季節までほど遠いにも関わらずどこかセンチメンタルな気分になっている自分に首を傾げる事もしばしばである。だが、その原因がなんであるか、今、わかったような気がした。その原因である人物の方をチラッと見た恵は少々高鳴る鼓動を押さえつつ有名なキャラクターが浮かんでいるスクリーンセーバーが映し出されているパソコン画面の方を向いた。だが、一瞬とはいえ今の視線を逃さなかった光二はわざとそっぽを向いた恵の真意が知りたくてその心を覗いてみようとした。普段ならこういう事でいちいち力など使わない、ましてやこういう行為がいかにいけないことであるかも重々承知しているのだが、今は何故か好奇心の方が勝ってしまったのだ。精神を集中させ、恵の体の奥に意識を集中させる。だが、いつもなら聞こえてくるはずの心の内が全く聞こえてこない。無音。つまり恵は今、何も考えていないことになる。


「な、なによ?」


心の声が聞こえない事などありえないとばかりにジッと恵を見つめていた光二の視線に気付いた恵はようやく落ち着いてきていた胸の鼓動をまた早めながらそうたずねた。


「え?あ、いや・・・・・・ははは・・・」


乾いた笑いで誤魔化したことが余計に恵の不信感をあおる結果となる。明らかに不信感を全開にした表情を浮かべる恵からも、やはり心の声は聞こえてこない。


「だから、なに?」


不信感と不快感を全開にしたその口調は厳しく、さすがの光二も表情を強ばらせてしまう。


「いや、その・・・なんでさっきチラッと見てきたのかなぁって思いまして」


引きつった顔をしながらも素直にそう答えた光二に、恵はさっきの自分を思いだして何故か頬を赤らめた。見られていないと思っていたせいもあって、今度は自分がしどろもどろになる番である。だが光二は小さな笑みを浮かべ、何も言わずに弁当が入っていた袋に空になった弁当の入れ物を入れてそのまま恵の机の上にあった物も片づけていった。礼を言う間もなくすぐに台所へと向かった光二の背中に、ある人物の背中を重ねてしまう。光二はゴミ箱に袋を入れながら背中に刺さる視線を感じていた。今度こそはと思い、手を洗いながら意識を恵に集中した。だが、やはり何も聞こえてこない。こうまで視線を感じるのであれば間違いなく何かしらの思念は出ているはずなのに何も聞こえてこないのはおかしい。1人首を傾げる光二を見て同じように首を傾げる恵はお茶を飲み干すとパソコン画面に向かうのだった。


相変わらず会話もなく過ぎ去る時間は早く、光二が壁に掛けられた大きな時計に目をやると時刻は既に午前3時である。ようやく中学全三学年分のテスト前教材が出来上がり、あとは夏休み期間にある塾恒例の合宿での問題集作成に入ればいいだけとなった。実際、期末テストの対策さえ出来れば、あとは過去の入試問題から抜粋していけばいいので楽なのだ。順調にプリンターから排出される用紙を確認した光二は何気なしに後ろに座る恵を見て驚いた。パソコンの画面には黒をバックに恵が大好きなキャラクターたちが浮遊しており、恵はキーボードの脇で突っ伏すようにして倒れていたのだ。さすがにあわてた光二は立ち上がって恵の傍に行ったのだが、心配していた表情はやがて笑顔に変わっていた。小さな寝息を立てて眠る恵の顔にかかる髪をそっとどけてやった光二はパソコンのモニターの電源を落とし、通路に設けてある小さな簡易ベッドから毛布を取るとそっと恵の肩にかけてあげた。本当ならこのベッドまで運んであげたかったのだが、起こしてしまってはかわいそうな上に、起きても恵の性格上ベッドに行こうとしないであろう事を予測したのだ。自身のパソコン画面の電源も落とした光二は部屋の明かりを切ると玄関から音を立てないようにそっと外に出る。梅雨の合間にしては見事な星空を仰ぎながら一つ背伸びをしてみせた。明け方も近いこの夜中であっても不思議と眠くない光二は少々体を動かし、座りっぱなしでなまった体をほぐすべく軽い体操を始めた。蒸し暑さもまだましなこの夜、一旦塾全体を見渡すように振り返った光二はそこからやや離れた場所に移動すると拳に力を入れて腰の横に持っていき、左足をやや踏み出して構えをとった。ゆっくりと息を吐きながら前方に自分と似た背丈の人影を思い浮かべ、その頭部に向かって素早く右足を蹴り出した。それも素人がする蹴りではなく、しっかりと上体にひねりを加え、腕の力をも利用しての蹴りである。次にそのままイメージした人影の腹部に蹴りを放ち、続けざまに足を蹴る。そしてまた頭部から腹部への蹴りを繰り返し、徐々にそのスピードを上げていった。やはりスピードを上げれば体も崩れていき、最初の蹴りとは形も崩れてきてしまう。一旦動きを止めた光二は大きく深呼吸をしながら合気柔術の師範の言葉を思い出していた。


『合気に蹴りなどない。投げて極める、極めながら投げて折るのが基本だ。だが、ここではあえて打撃も伝授する。身体のバランスを考えればちょうどいいからね』


だらりと力を抜いた状態から仮想相手の頭部に素早く蹴りを放つがバランスを崩してよろめいてしまう。ジッと地面を見つめながら自分が見たある人物の蹴りを思い出していた。目にも留まらぬ速さで繰り出されたその蹴りを理想としながら、そこに辿り着くには遙かに遠い。ましてや、両足で同時に目標を蹴ることなど夢にも等しかった。


「こんな僕でも、いつかはああなれるのだろうか・・・」

「なれるさ」


独り言に言葉を返してくる人物の声を背後に聞き、あわててそちらを振り返った。


「電気が点いていたもんでね・・・寄らせてもらった。遅くまでありがとう」


イメージトレーニング的な稽古に夢中になりすぎていたのか、背後まで来ていた人の気配に全く気付かなかった光二はそこに立っている人物が康男である事を確認してホッと胸を撫で下ろした。こんな夜中に背後から声をかけられれば誰でも驚くであろうが、別に意地悪をしようとしてそうしたわけではない康男は両手で謝るポーズをとってみせながらそう言った。


「なかなか様になっていたよ、君の蹴りもね」

「・・・・どうもです」


そう返すのが精一杯な光二は照れを隠すために夜空を見上げる仕草をとった。


「基本に忠実に、毎日毎日稽古すれば、いつかは木戸君のようになれるよ」

「そうでしょうか?」


先程のつぶやきで周人の名前を出したわけではないのだが、康男にはそれがわかっていたようだ。まるで康男も自分と同じ能力を持っているかのような錯覚に襲われながら、光二は照れた笑顔を返すのが精一杯であった。


「青山さんは?」

「寝てます。疲れがありありなんで、机に突っ伏して寝てるのをそのままにしてるだけですけど」

「そうか」


康男はそうとだけ答えると塾の階段に腰掛けた。光二はそんな康男の傍にたたずむと何を話すでもなくただジッとその場に立っているのみだった。だが、ある事を思い出し、康男に質問を投げかけた。


「木戸さんも、よくそこにこうして座っていたんですか?」


さっきの由衣と恵の会話を思い出しての質問だったが、答えを聞くまでもなく康男の表情からそれは十分に読みとれた。


「生徒を送るバスが出るまで、よくここに座ってタバコをふかせていたよ。懐かしいねぇ」


目を伏せ、当時を思い出しながらそう言う康男は恵同様ここに座る周人と話をしている由衣の姿を思い浮かべていた。


「そうだったんですか・・・」

「彼は不思議と人を魅了する。男女問わずにね。そんな彼を好きになり、フラれた今でも多少なりともそれを引きずっている女性もいる」


それが今、中で寝息を立てている恵を指すことは容易に想像できた。それぐらいは能力を使わずともわかる。


「でも、どうやら転機が訪れてきたようだ」


そう言うと立ち上がり、音を立てないようにそっと玄関から中に入っていってしまった。残された光二は今の言葉の真意を知りたくて心を読もうとしたのだが、ふとそういう自分が卑しい人間だと気付いて押し留まった。


「僕は、力の使い方を間違っている」


自分にそう言い聞かせ、それを認識させるようにつぶやいてから職員室に戻った光二は、プリントアウトした塾オリジナルの教材を康男にチェックしてもらいながらそのまま朝を迎えたのだった。

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