表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十二章
70/127

真夏の嵐-Yui Side-(1)

この第十二章は次の第十三章と同じ時間軸になっています。

第十二章は由衣側の視点、由衣サイドの話です。

朝の天気予報は見事に的中し、今日はいつものどんよりとした梅雨空ではなく、もうすぐそこまで来ている夏のすがすがしい青空が広がっていた。昨日までは止むことを知らずに降り続けた雨も今日はその疲れが出たのか一休みというほどの快晴である。梅雨明け間近と言っていた気象予報士の言葉もまんざら嘘ではないなと思いつつ原付バイクを飛ばす吾妻由衣は夕方になってようやく少し涼しくなってきた朱に染まる夕焼け空を見上げるようにしてみせた。頭だけを保護する濃緑色のヘルメットが嫌に重く感じるのは今の気分が優れないせいだとして気分転換に見上げたその綺麗な夕焼け空をもってしてもやはりその憂鬱な気分が晴れることはなかった。紫がかった雲に映える朱に染まった空も、どこか暗く感じてしまうほどだ。信号待ちしている間に漏らしたため息の数は既に軽く片手では数え切れないほどの回数に達している。自分がアルバイト講師として教鞭を振るっているさくら西塾まではここからあと少しの距離である。だがその距離が近づくにつれてため息の回数も多くなり、夕暮れ同様ますます暗い憂鬱な気分となっていくことを自覚していく由衣はそんな気分にさせる原因が今向かっている塾にある事とわかっていながらもどうすることも出来ない事実を心の中で嘆いた。少し前までは楽しくて仕方がなかった塾でのバイトがここ最近、特に今日を含めたある曜日に限ってはひどく苦痛なのである。ほぼ真上に位置する信号が青に変わるのを確認した由衣はひときわ大きなため息をついてからアクセルをふかし、気分に反して塾へ向かって勢いよくバイクを発進させるのだった。駅前の交差点から続く大通りを3分ほど進んだ所にある角を右折して五十メートルも進めば鉄筋3階建てのさくら西塾に到着である。つい1年ほど前からこの辺りも新たに数軒の家が建ち始め、長年生徒たちが駐輪場代わりに使用してきた空き地も今ではアスファルトで整備された月極の駐車場へと変貌を遂げてしまっている。3ヶ月ほど前に由衣の彼氏であり、かつてこのさくら西塾で教師のバイトをしていた木戸周人がここへ来た際にはその周囲のあまりの変わりように言葉を失った程であった。元々田畑しかなかったこのさくら谷周辺も十年ほど前から開発が進み始めてようやく住宅地として開けてきたのだが、小学生の頃からこののどかな風景で慣れ親しんできた由衣にとってはどこか寂しさを感じさせるこの変わりように無意識ながらため息が漏れてしまった。新たに駐輪場として使用されている塾の裏手の非常階段横に原付バイクを止めた由衣はヘルメットを脱いでシートの中にしまうと、前髪と、耳の後ろあたりで小さく作られた2つの三つ編みを軽く整えるようにしてから玄関口へと向かった。肩に若干かかる程度しかないその可愛らしい三つ編みを揺らしながら玄関の扉を開いた由衣は入ってすぐ脇にある下駄箱から自分専用のピンク色したキャラクター入りのスリッパに履き替え、パタパタと音を立てながら一番奥にある自分の席に向かっていった。


「よっ!」


右手壁側にあるくぼんだ空間に設置されている小さな台所から顔を覗かせたのはショートカットの美女であった。どうやらコーヒーを入れていたようで、職員室として使用されている1階の空気を上質のコーヒー豆の香りが支配し始めている。通路になっているその台所の前を通りながら由衣はこんにちはと挨拶して片手を挙げた。その手をパチンと合わせた女性は笑顔のまま一旦台所に顔を引っ込めると、そこの電気を消してからコーヒーを入れた紙コップを片手に由衣の右隣の席に腰掛けた。机の上には黒いノートパソコンが置かれ、その周囲には小学一年生から中学三年生までの問題集が山積みの状態で置かれており、それは右隣の机にまでその勢力を伸ばしつつあった。机は窓際にある由衣の席から通路側まで4つ並べられてあり、それが玄関前まで全部で3列用意されていた。つまりは十二個の机があるのだが、そのうち玄関側の4つは完全に空きとなっている。真ん中の列のこれまた真ん中の2つにはプリンターが2つそれぞれの机の上に置かれてあり、その横には2台のデスクトップ、いわゆるタワータイプのパソコンがそびえ立っていた。そのプリンターの窓側の席には可愛らしいペン立てが置かれて綺麗に整理され、女性が使用していると一目でわかる状態となっている机がある。そして対照的に通路側にある机には雑然と物が置かれており、もはや机本来の地肌が全く見えない状態となって使用者の性格がはっきりとわかる男性の席となっている。


「今日はアイツらの日だね」


机に両肘を付き、熱いコーヒーが注がれた紙コップを包み込むようにしているショートカットの女性、青山恵は横目で由衣を見ながらそう言った。


「まぁね・・・できるなら休みたい・・・」

「昔の木戸クンと同じ事になるなんて、似た者夫婦でいいじゃない」


机に突っ伏して暗い声を出す由衣とは対照的にどこか嬉しそうにそう言う恵は入れ立てでまだまだ熱いコーヒーをそっとすするように口にした。晴れたとはいえ、夏が近い上にまだ梅雨なので室内では空調が除湿をするために一生懸命動いている。確かに外よりは涼しいとはいえ、7月10日まで経費削減の為高い温度での除湿が義務づけられており、はっきり言って由衣にはここが快適とは言いづらかった。だから基本的にホットコーヒーしか用意できない塾の施設は使用せず、いつもすぐ近くにある自動販売機で冷たい飲み物を買ってきているほどなのだ。小さな冷蔵庫もあるのだが、買ってきたばかりでよく冷えた缶ジュースをその場で飲むためにここ最近ではほとんど使われていないのだった。だがこの暑い中、恵は熱いコーヒーを額に汗をかきながら飲んでいるのだ。


「今更ながら周人の気持ちがよくわかるよ・・・よくめげずに毎回来てたなぁってね・・・申し訳ない気持ちでいっぱい」


机にアゴを乗せてそう言う由衣はひときわ大きなため息をつくと目を閉じて眉間にしわを寄せながら曇った表情を浮かべて見せた。


「ま、彼同様めげずに頑張る事ね」


そう言いながら少し咳込む恵はそれを落ち着かせようと再度コーヒーを飲む。ここ最近体調が優れないのか、小さな咳をよくする恵に対して顔を上げた由衣は少し心配そうな目を向けた。ここ最近、恵はかなり忙しい毎日を送っていた。というのも、2つ支部を持つこのさくら塾のうち、桜町やや東に位置するもう1つのさくら東塾の経営が今一つの状態にあったからだ。元々東塾は本部となっているここ西塾に比べて生徒数も半分以下であり、さらに持ちビルである西塾とは違ってとある小さなビルの一室を借りているのだ。当初こそテナント料や教材費を払ってなお利益が上がっていたのだが、ここ最近は生徒数も獲得出来ず、常に赤字の状態となってしまっていた。その上、アルバイトの教師と中学二年生の生徒が衝突してしまい、それが元で4人の生徒が辞めてしまった事もそれに大きく響いていた。元々東塾には年季の入ったアルバイトに信用して任せていたのだが、それも悪い方向へと働いてしまった結果、もはや修復が難しいほどに経営自体が傾いてしまっているのだった。その為、塾長である大山康男は高校大学時代からの先輩であり、今でもよき理解者でもある米澤信と共に東塾の建て直しに全力を注ぎ、西塾を専属マネージャーである恵に任せっきりとしていたのだ。このせいか、恵の負担は格段にアップしてしまい、小中学生両方の授業及び管理の他に5人のアルバイトたちの教育、指導、そしてバイト料の計算、さらには西塾そのものの経営すらこなさなくてはいけない多忙な日々を送る事となってしまっていたのだった。一週間のうち半分を塾で生活し、家に帰るのはいつも真夜中過ぎである。いくら正社員とはいえ恵の両親も娘の事を思って心配したが、恵は仕事を優先して家に帰ることが少なくなっていることも仕方無しといった感じで働きづめでいたのだ。由衣はそんな恵の事情を知る数少ない人間であった為、出来うる限りのフォローはしているのだがやはり恵でしかわからない部分が多い為に実際あまり役には立っていなかった。


「恵さん・・・薬、咳止めとか飲んでる?それにご飯もちゃんと食べてるの?」


ここ最近あまり顔色も良くない事を気にしていた由衣だが、恵は平気の一点張りの答えしか返さないでいた。実際食事といえばインスタント食品が多い上に、食事そのものを抜くことも多い恵ははっきり言って体調があまり優れていない事は自覚していた。だがそれは疲れから来るものであり、少し体がだるい程度にしか思っていなかったのだ。


「まぁね。最近は三宅クンがコンビニ弁当買ってきてくれるから助かってるけどね」


コーヒーを口元に持っていきながらだった為に良く聞き取れなかった由衣だが、ここ最近は同じアルバイト仲間の三宅光二が何かと恵の手助けをしてくれていることは知っていた為、その名前が出た事で少し安心した気持ちになれた。それに光二が人間の持つ五感全てに優れ、さらには他人の心を読めるといった遺伝子的変異体質、通称『変異種』である事も知っている由衣にとって彼の存在はこういった事態においてはかなり心強いものとなっていた。何かあればその能力によってすぐさま恵の異変をキャッチできるからである。光二はここ半年余りでかなりの人気講師となっており、少しでも恵の負担を和らげようとほとんど毎日、決められたバイトの日以外でも顔を出しているのだった。それこそ、平日に大学の講義がない時などは朝から来ているぐらいである。もちろん契約時間外なのでお金はつかないのだが、お礼と言うべき心ばかりの寸志をもらっているといった状態であった。今日も時間通りならばそろそろやって来る時刻である。


「三宅君といえばさぁ、最近すごく頼りになったよね」


ギシッという音を響かせながら椅子にもたれかかる由衣の言葉に、恵は小さな笑顔を浮かべながらうなずいて見せた。去年の夏に入った当初は気が弱くて頼りなく、生徒に対して大声も出せないでいた光二であったが、秋が深まる頃には見事な変身を遂げており、今ではこの塾にとって欠かせない存在と言えるまでに成長していたのだ。恵にとってみれば何故突然こうまで変わったのかはわからなかったのだが、由衣はその原因が何であるかを何となくだが理解していた。その変化が起こったのが去年、アメリカからやって来た大富豪の娘の誘拐事件以降すぐだったからだ。それに今年に入ってからは自らを鍛えるためにと合気柔術の道場に通っているとも話していた光二から、その誘拐事件で見せた周人の強さもその原因の一端を担っていると推測出来たからだ。実際彼の体つきは見た目においても随分たくましくなっており、それが精神的な自信に繋がったとも考えられた。何かと忙しい自分を気遣ってさりげなくフォローしてくれている事も知っている恵はここ最近の光二に深く感謝すると共に、たくましくなった彼をどこかまぶしい目で見るようになっていた。


「こんばんは」


噂をすれば何とやら、その光二がやって来た。紺色のTシャツからのぞいている腕は以前とは見違えるほど筋肉が張ってきており、たくましさを感じずにはいられない程となっていた。顔つきもおどおどしていた頃とは別人となり、短めの髪型がマッチしていてなかなかのイケメンになっていた。地がいい顔をしていたせいもあって、恵はここ最近の光二に男性としての魅力を感じ始めていた。その照れからか、恵は一瞬目を合わせて軽く挨拶を交わしたのみですぐに目の前のパソコンに視線をやってしまった。そんな恵の態度に少し戸惑いつつもその恵の隣である自分の席に着き、机の上に小さな鞄を置いてため息をついた。


「あれれ、お疲れ?」


今のため息を聞きつけて机の引き出しから今日担当の中学三年生用の教材を出しながら光二に顔だけを向けてそう言う由衣につられてか、恵も何気なしに光二の方に顔を向けた。


「あ、いえ、ちょっと・・・」


頭を掻きながらも笑顔でそう返した光二だが、その表情とは裏腹に言葉は濁っていた。


「なんだなんだぁ~・・・・も・し・や、女性関係の悩みですかぁ?」


その歯切れの悪い反応に目を細めてやらしい笑みを浮かべる由衣は思いっきりおばさんくさい言い方で光二にそう言葉を投げた。さすがにその言い方には恵も苦笑するしかなかったのだが、今の由衣の一言によってどこかぎこちのなかった態度を自然な物に変化させているという事には気付いていなかった。


「違いますよ。ちょっと体を動かしてきたもんで」


光二はさわやかな笑顔を見せながらそう言うと鞄を引き出しにしまい、由衣と同じく授業の準備を始めた。光二の今の返事に何故かホッとしている自分に首を傾げながらも、恵はパソコンの画面上に表示されている各学年毎の個人データの修正に取りかかった。


「合気柔術だっけ?」

「そうです。まぁ、まだ始めて半年程度じゃ基礎の繰り返しですけどね」

「なんでまたそういうのを始めたの?」


画面を見てキーボードを叩きながらそう問いかける恵の方に顔を向けた光二は頭を掻きながら少々困った顔をしてみせた。半年ほど前から通い始めた自宅近くにある合気柔術の道場ではまだ基礎たる動作、そして基礎体力づくり程度の事しかさせてもらっていない。もちろん、合気道と柔術をミックスさせたこの流派ならではの基礎体力作りなのだが、それでもこれまで全く運動と言える事をしてこなかった光二にとって目に見えての身体の変化はやっていて楽しいと言えるものだった。だが道場に通っていることが発覚したのがつい最近のことであり、それは道場での練習が長引いた為に塾のバイトに遅れそうになった事が原因であった。それに暑くなって薄着になった際に、その体つきの良さに塾長である康男が気付いた事も一役買っていた。


「別にいいじゃないですか、そんなの」


怒った口調ではない、明らかに困ったという言い方で苦笑いする光二は数冊まとめた教材を2、3度トントンと机の上で叩いて整えると由衣の方を向いた。


「まぁ自分を変えたかったから、って事で」


照れからか少しばかり顔を赤くしながらそう言う光二だが、自分の持つ特殊能力である心を読む力で2人の胸の内をそっと探ってみる。やはり2人とも知りたいと気持ちが大きいようだ。1人苦笑する光二を疑わしく思う恵と、心を読んだなと悟った由衣の思念に根負けしたのか、一つ咳払いをしてから光二は口を開いた。


「まぁアレですよ、いつか大切な人が出来たときにその人を守りたいと思ったから。だから少しぐらいは強くなりたいなぁって事で始めたんです」


照れくさそうにそう言いながらも笑顔を見せた光二をさらにまぶしく感じた恵は何故か胸の鼓動を早くしながらパソコンの画面に向き直った。そんな恵とは対照的に由衣は笑顔である。なぜなら彼がそういう考えを持った原因が何であるかを知っているからだ。


「って事はぁ、原因は去年の『アレ』かぁ」


由衣はそう光二に言葉を投げると心底嬉しそうな顔をしてみせた。逆に恵は何のことかわからずに画面を向いたまま眉をひそめてみせる。


「まぁ、はっきり言ってそうです。できたら木戸さんぐらい強くなりたいけど、それは無理だからとりあえず好きな人を守れるだけの力があればいいかなぁって」


光二は目一杯椅子にもたれかかるようにしながら去年見た周人の強さを思い出していた。誘拐されたアメリカの令嬢アリスを救うため、光二の能力を使って拉致されている山荘に乗り込み、犯人であるアリスのボディガードを務める軍人を倒して見事に救出してのけた周人の強さ。たしかに肉体的な強さも凄まじいものであったが、何より光二が憧れたのはその心の強さである。絶体絶命のピンチにあってなお自信をみなぎらせた周人はその実力をもって真犯人たる軍人を叩きのめしたのだ。そしてその時の由衣の心の強さ、何があっても周人は負けないと信じ続け、さらにどんなピンチに陥ってもその心を決して曲げなかった事も知っている光二にとって周人と由衣の信頼関係こそ理想と感じるようになり、まず自分の身体と心を鍛える事から始めようと合気柔術の道場に通い始めたのだった。


「私は実際戦ってるトコは知らないから何とも言えないけど・・・確かに強いのは知ってるよ。でもどれだけ強いのか想像もできないわ。普段の彼から想像しようとすると・・・もうダメね」


一旦キーボードから手を離し、傍らに置いてある紙コップを取った恵はやや椅子に沈み込むようにしながらそう言った。普段の周人からは無敵の強さを誇る事など想像もできない。ケンカなど全く無縁というような弱々しい雰囲気すら漂わせているほどだ。


「由衣はともかく、あんたも去年その目で見てるんでしょ?私、ケンカが終わった後しか知らないもんなぁ」


その言葉に由衣と光二は顔を見合わせた。はっきり言って実際それを見てみない事にはあの強さは言葉では伝えきれない。それに本性を現した、伝説の『魔獣』と化した周人から放たれる殺気、恐怖といったものは特にである。確かに恵にも想像は出来る。暴走族をしている元彼氏によってさらわれてしまった妹を救うために単身乗り込み、わずか三十分たらずで二十人からなるごろつき共を文字通り手足が立たなくなるまで叩きのめした惨状は見ている。だが、実際どうやって彼らを倒したかはわからないのだ。由衣の話や康男の話から想像を絶する強さは聞かされていても、文字通りそれを想像することはできない。それに普段の周人からはそういう部分を見いだせない、そして感じられないのだ。


「う~ん・・・・関係なく見てるこっちも寒気がするくらいですね。はっきり言って人間じゃないって感じの強さです。格闘技のトーナメントとかに出たら即優勝みたいな」

「・・・・だから、それがわかんないのよ・・・・」


そう言われては表情を曇らすしか出来ない光二はどう説明したものかと頭を悩ませた。


「でもさ、弱くなったって言ってたよ」


突然の由衣の言葉に恵も光二も今の談義を忘れてそっちを向いた。


「そりゃぁいくらなんでもサラリーマンしてれば弱くもなるわよ」


さすがにその恵の言葉に納得したのか、光二も小さいながら相づちを打つ。


「違うの、私を初めて助けてくれた時、この塾にバイトに来てた5年前からもう弱くなってたって・・・で、今はそこからさらに弱くなったって、この間、なんかの時に言ってたよ」


一瞬言っている意味がわからず頭に『ハテナ』を浮かべる恵に対し、光二の表情は驚きを表すものに変化した。今の言葉をそのまま解釈すれば、去年自分が見た周人は『かなり弱くなった周人』ということになる。つまりは、自分は弱くなった周人を目標にしている事になり、いつかは周人と互角に戦えるほどになりたいという自分の願いを大きく変更せざるを得なくなってくるのだ。


「あれで・・・弱くなった?」


目では追えない程のスピードで蹴りを放ち、圧倒的強さをもって百戦錬磨の軍人を倒したあの周人が弱いとは到底思えない。とすれば、彼が自ら強かったと言う時期は一体どれほどのものなのか、さっきの恵と同じで全く想像できない光二は少なからず動揺してしまった。


「何だったっけ・・・え~と、『心の強さは取り戻したけど、技や身体のキレは全然だ』って言ってたっけな」


周人の言葉を思い出しながらそう言う由衣だが、塾のすぐ目の前で止まったバスのエンジン音を聞いてあからさまに嫌な顔をしてみせた。大きくため息をつき、うなだれるように教材を手にする。そんな由衣を見て苦笑する恵をよそに、光二はいまだにうつむき加減で物思いにふけるようにしながら腕組みをしたまま動かないでいた。


「やっほ~!ユイ!今日も元気かい?」


勢いよくドアを開けて飛び込んできたのは黒いTシャツにジーンズ、かなり派手目のネックレスをした少年であった。長めの髪を軽くウェーブさせた顔つきははっきり言って美男子で、すらっとした鼻も高く、どこか日本人離れした容姿をしている。


「あんたの顔見たら元気もなくなった・・・」


思いっきり素っ気なくそう答えると、顔すら見ずにシッシッと追い払うような仕草をその少年にしながら重い足取りで玄関へと向かった。そのやりとりを聞いていた光二もまたため息をつくとさっさと由衣を追い越して玄関に立った。そんな光二の後ろ姿を見送りながら小さな笑みをこぼした恵はすぐにパソコンの画面に視線を戻したのだが、その画面が一瞬二重に見えてあわててかぶりを振った。ここのところ疲れが溜まっているのは自分でもわかっているのだが、今は無理をしてでも夏休みの合宿の手配やらお金の算出、さらには期末試験に向けての対策などもあって休んでなどはいられないのだ。どこか疲れたような恵の後ろ姿を一度振り返ってから、玄関から動こうとしない少年を押しのけるようにして光二は外に出た。


「ウゼェなぁ」


押された少年はさっきまで見せていた天使のような笑顔をかき消すと下から睨み付けるように光二をねめつけた。その目はあきらかに挑発していると言っていいだろう。


「悪かったな・・・さっさと教室に向かえ、邪魔だ」


光二はそう言い放つと少年の目の前に立った。少年は睨み付ける事を止めると数歩後に下がり、すぐ傍でジュースを飲んでいた男子からひったくるようにその缶を取り、了解も得ずにそれを一気に飲み干すと空になった缶を勢いよく回転させながら空中高く、自分の真上に投げて見せた。


「フン!」


クルクルと高速で回転する缶は銘柄すらわからず、地色である赤におそらく文字の色であろう白い色が線状になって模様を描いている。そしてその缶が自分の目の高さに来た瞬間、少年はその缶めがけて蹴りを放った。普通に考えれば目の前に立つ光二を直撃、もしくは自分を取り巻いている他の塾生に当たってしまうだろう。だが、その缶はさらに回転を増して少し高く舞い上がったのみである。弧を描きながらまた目の前に落下してきた缶を今度は反対側の足で同じように蹴り上げる。しかもその回転は止まることをしない。少年は素早く回転している缶の下部分をかすめるように蹴りつけることでさらなる回転をさせながら再度宙に上げているのだ。常人を超えた動体視力と凄まじいまでの蹴りの速さ、そして正確さがなければ不可能な事を余裕の表情でやってのけるこの少年を見やる光二の目はどこか冷たかった。落ちてくる缶を左右交互の蹴りで数回宙に舞わせた少年は最後にそのまま落下させた缶が地面に当たる瞬間に踏みつぶして小さな笑みを光二に向けた。普通に考えれば物凄い芸当だが、光二は何の反応も示さない。同じ学年のみならず、下級生の女子の熱い視線と感嘆の賞賛を受ける少年は鉄で出来た2階3階へと続く階段をさっさと上がっていく由衣の姿を目に留めてあわててそっち向かって駆けだした。


「凄いよなぁ~・・・・空手のジュニアチャンピオンだもんなぁ」


憧れるようなまなざしとため息をともなって教室に向かう男子たちを後目に、光二は談笑している生徒をせかしながらつぶれた缶を持ち上げた。


「確かに凄いけど、木戸さんにはほど遠いな・・・」


全員が2階と3階へ上がったのを確認した光二はそのつぶれた缶を無造作に頭上に放り投げた。そしてそのぺしゃんこになった缶が自分の目の前にやってきた瞬間、右足を素早く上げてそれを蹴り飛ばした。道場では上段、中段、下段の蹴りの型だけは習っている。基礎に忠実な綺麗なフォームで蹴り出された缶は小さな鈍い音を響かせながら砂利道を転がった。


「どうやったら両足同時に蹴りが出せるんだろ・・・」


今の蹴りを放った瞬間、もう片方である左足を上げようとした時には既に缶は遠くへ飛んでいたのだった。周人が見せた手品のような左右同時の蹴りなど、まさに神技以外の何物でもない。自分が遠くにやった缶を拾い上げてまじまじとそれを見てから近くにある自販機の横にあるゴミ箱にそれを投げ入れると、光二はやや駆け足気味に自分が担当する中学二年生たちが待っている2階の教室に向かって駆け上がるのだった。


その天使の笑顔の裏にある悪魔の素顔を知っているのは光二のみなのかもしれない。教壇のすぐ目の前の席に陣取った先程蹴り技のパフォーマンスを見せた少年の名は佐藤純一郎という。この4月に新しく入ってきたその美少年は魅力的な笑顔と整った顔立ちですぐに女子生徒たちの人気を鷲掴みにした。ただでさえモデルかアイドルかという顔立ちに加え、小学校時代からたしなむ空手の腕前は全日本ジュニア部門で優勝を飾るほどなのだ。運動神経も抜群であり、学校でもその人気は高い。腕っぷしで、いわゆる不良共をなぎ倒し、実力で学校ナンバーワンの座を勝ち取った純一郎に従う男子生徒も多い上に人当たりがいい彼は友達も多かった。だが、やや好戦的な性格もあってか、何かとトラブルも絶えない存在でもある純一郎は両親の薦めで渋々このさくら西塾へとやってきたのだった。やる気無くやってきた彼は受験が終わるまでは大人しくしようと康男にも愛想を振りまき、好印象を与えることに成功した。さらに、紹介された恵や、時を同じくして新たに入ってきたバイト講師である横山忍にもそれは成功したのだが、相手の心を読める光二には通用しなかった。光二は純一郎の心の奥底にあるドス黒い部分を見抜き、純一郎をマークするようになっていたのだ。そしてそれを感じ取った純一郎は何かと光二と衝突していき、さっきのような行動に出ることもしばしばあるのだった。


「はい、じゃぁ今日も元気に始めましょう!」


教壇の前に立った由衣は時間通りに授業を開始すべく教材であるプリントを数枚配り終え、そこに座る全員を見渡した。ただし、決してすぐ目の前に座る純一郎に目を合わせようとはせずに、である。後方で体を斜めに向けながら気怠そうに、そして明らかに反抗的であるとわかる目で自分を見ている1人の女子生徒をチラッと見た由衣は誰にも気付かれないように心の中でため息をつくと普段通りの授業を始めるのだった。正直言ってこの中学三年生の授業だけは毎回憂鬱であり、できれば受け持ちたくないと思っているのである。この中三の授業の日ばかりは朝から気が重く、何度か仮病を使って休もうとしたこともあった。だが、自分が休めばただでさえ忙しい恵にさらなる負担をかけてしまうと考え、こうして毎回自分のペースを保ち、常に目の前に座ってキラキラと輝かせた瞳と天使の笑顔を見せる純一郎と、一番後ろの席で聞いているのか聞いていないのかわからない反抗的な態度で授業を受けている女子生徒の江川紀子の嫌味を受け流しているのだった。


「じゃぁ・・・この問いの答えは、江川さん?」


席の順番から全員に答えさせる事を習慣にしている由衣はその反逆者たる紀子にも答えをうながした。


「わっかりませぇん・・・ってゆうかぁ、私に振らないでくれますぅ?」


およそ中学生に似つかわしくないスカイブルーのマニキュアを塗ってある指をマジマジ見つめながらそう言う紀子に、さすがの由衣も怒りのゲージが徐々に高まっていく。


「お前、何だよその態度は!ユイが聞いてるんだから真面目に答えろよ!」


おもむろに立ち上がった純一郎がそう一喝するも、紀子は涼しい顔でそっぽを向く。もはやこのクラスの名物となったこのやりとりにうんざりしている生徒も多く、何人かは康男に苦情を申し入れた事まであるこの2人の衝突にさすがの由衣もキレてしまった。


「いいからさっさと答えればいいの!やる気ないならもう来るな!佐藤もいっちいちうるさいっ!2人とも今度同じ事したら即追放するから!」


バァンと大きく教壇を叩きつけ、思いっきり怒鳴った事はこれが初めてである。さすがに紀子も驚いたのか目を見開いて由衣を見ていたがすぐにふてくされたような顔をしながら由衣を睨み付けた。


「ゴメン、ユイ・・・・」


立ち上がっていた純一郎もすごすごと席に着くと唇の先をやや尖らせ、泣きそうな表情をしてみせた。だが、そこに光二がいたならば、その表情の裏側にある計算高さを見抜いていたに違いない。さすがにそこまでは読みとれない由衣はその表情を見てそれ以上何も言えずにただ謝るしかなかった。


「ゴメンみんな・・・・続けます」


水を打ったように静まりかえった教室に小さめの声が響き、すぐに授業は再開された。その後、紀子は反抗的な言動ながら質問には答え、純一郎もまた大人しく授業を受けたのだった。


いつもとは違う緊張感を残したまま2時間の授業は終了した。皆授業中のトラブルからか言葉少なげに教室を出ていき、もめるきっかけとなった紀子もまた一切由衣と目を合わせることなくさっさと教室を後にして外へと飛び出していった。由衣はそんな彼らを振り返る事無く、黙々とホワイトボードに書かれた今日の授業の内容をやや力を込めながら消していった。それら全てを消し終わる頃には教室はシーンと静まりかえり、人の気配も感じなくなっていた。綺麗に元の白さを取り戻したホワイトボードをジッと見つめながら小さなため息をついた由衣は教材を片づけようと振り返った瞬間、すぐ目の前に立っている純一郎の姿を目に留めて思わず小さな悲鳴を上げてしまった。全く人の気配も感じなかった事もあり、激しく動く心臓の音が純一郎にまで聞こえてしまうのではないかというぐらい驚いている由衣は目を見開いたまま薄いピンクのルージュが引かれた唇をふるふる震わせながら純一郎を凝視する以外に動けないでいた。


「そんなに驚く事ないじゃん。さっきの事、謝りたくってわざわざ残ったのにさ」


小さな笑みを浮かべながら大きなリアクションを交えてそうあっけらかんと言う純一郎に、さすがの由衣もどこか寒気を感じてしまった。


「だ、だからって気配を消すことないでしょう?」


ようやく落ち着きを取り戻しつつある自分を保とうとそう言うが、純一郎は笑みを消すことなくジッと由衣を見つめたまま今まで自分が勉強していた机の上に座るとリラックスした態度を取るのだった。


「あ~・・・これはもう病気みたいなもんだよ。常日頃からそういう風にしてるのさ。まぁ空手の修行の一環だね」

「で、何の用?もうすぐバスが出るからさっさと降りて欲しいけどね」


わざときつい口調でそう言う由衣は教壇の上にある教科書と問題集を片づける作業に入った。


「前から言ってる通りデートして欲しいんだよねぇ」


謝ると言いながら全く違う台詞を吐く純一郎だが、これは由衣の予想範囲内であった。というのも、塾に入り、由衣を紹介されたその瞬間から一目で恋をしてしまった純一郎はことある毎に由衣をデートに誘ったり愛の言葉を恥ずかしげもなく投げかけたりしていたのだ。由衣が自分には彼氏がいるからとかわしても全く関係なく、ここ最近では週に2度顔を合わせるその毎回においてこういった事を言うようになっていた。これもまた、由衣が塾に来ることが憂鬱になる原因の1つであり、最大要因といってもいいほどであった。


「イヤよ。ほら、早く出なさいよ!」


教材を手にさっさと出て行こうとする由衣に対し、あからさまなため息をついた純一郎はやれやれといった風に両手を広げるとそのすらりとした背中から抱きつくようにしてみせた。さすがにこれはヤバイと感じた由衣が純一郎を振りほどこうとするも、相手は十五歳ながら男であり、ビクともしない。


「ちょっと、大声出すわよ!」


こうされても冷静な由衣に、純一郎は何故か大人しく体を離すと由衣の前に回り込み、ジッとその瞳を見つめた。顔立ちが整い、芸能人と言ってもおかしくない美形を生かした潤んだ目をしてみせればどんな女性もイチコロで落としてきた純一郎だったが、由衣にはそれが通用しない。どんなに口説いても決して自分に心すら開こうとしない事が純一郎の中にある由衣への想いをさらに加速させている要因でもあった。


「悪いけど、あんたに興味ないし、私にはちゃんとした彼氏がいるの」

「その彼氏よりオレの方がユイを大事にできるとしても?」

「無理ね」

「その根拠は?」

「あんたより私の彼氏の方が優しいし、何より・・・その人を誰よりも愛しているから」


はっきり目を見てそう言い放った由衣の言葉にそれ以上何も言えなくなってしまった純一郎はギュッと下唇を噛みしめてうつむいてみせた。実際由衣からその表情は見えなかったのだが、明らかに由衣の彼氏へ向けられた嫉妬を表現していたその顔つきは見た者に恐怖を与えかねないものとなっていた。そんな純一郎の横をすり抜けようとした由衣だったが、不意に左腕を掴まれてありありと不快感を表す表情を純一郎に向けたのだった。


「もう!いい加減にしてよね!」


さすがに感情をあらわにして怒りを見せた由衣だったが、それすら涼しくかわすような、どこか冷たい目を向ける純一郎に背筋が冷たくなるのを感じた。


「なら、これで最後にするよ・・・もし、来週からの期末テストで全ての教科で80点以上なら1日デートして欲しい。ダメだったならその場でスパーンと諦める。絶対約束する。何なら一筆書いてもいい」


まっすぐに由衣を射抜くような視線に純一郎の決意を感じ取ることは出来た。だが、果たして80点以上でなかった時、その約束が守られるかどうかはわからない。一筆書いたからといってこの少年がそれをあっさり受け入れるとも思えず、頭の中で必死に考えを巡らせた。こんな時自分にも他人の心を読むことが出来る能力があったならばと思いつつ、今ここに光二が現れてくれないかなとも願うような気持ちになっていた由衣は再度今の言葉に嘘がないかを確認することにした。


「今の言葉、本当に信じていいのね?」

「ああ、信じてほしい」


真剣な表情はまったく崩されてはいない。ジッと自分を見つめる視線も真剣そのものである。確かに頭の回転も早く、成績も良い純一郎だが理数系はともかくその他の科目には苦手とする物も多い。確か中間テストの時は国語と社会がそれぞれ50点台だった事を思い出した由衣はおそらく大丈夫であろうという気持ちが高まり返事を返した。


「わかったわ・・・全ての教科で80点以上ならデートする。ただし、キスやらなんやらは無し!手も繋がないからね!」


まるでデートすることが決まっているかのような自分の言葉にすら気付かずにそう言う由衣に天使の様な無垢な笑顔を見せた純一郎は飛び上がらんばかりに喜びを全身で表現した。


「絶対だぜ?絶対約束だからな!」


由衣を指さし、満面の笑みで教室を飛び出していく純一郎の背中を見送る由衣の胸に去来する物は先程の楽観的な感情ではなく、不安ばかりであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ