素直さの価値(1)
その日は朝から真っ白で巨大な入道雲が天高く立ち上ぼり、その暑さもまた格別だった。現在の時刻は8時45分。この時間にしてすでに照りつける太陽はじりじりと肌を焼くほどであった。9時にさくら西塾前集合となっているために合宿に向けた生徒の送迎のバスはすでに出発している。さくら校の生徒たちは米澤と八塚の運転するその支部専用の2台のワンボックスカーが迎えに行っており、既に全員を収容してこちら西校へと向かっているということだった。結局、最終的に1人の欠席者も出すことなく合宿はスタートする事になった。それぞれ荷物をつめた恵と新城、そして貴史は談笑しながらまぶしく暑い日差しを避けるように日陰で生徒たちの到着を待っていた。そうして5分後、バスが西校の生徒たちを乗せて到着した。道端に停められたバスの扉が開くと中から数人の生徒たちが降りてきた。そのまま鍵のかかっていない職員室のトイレに行く生徒や、恵たちのそばに近寄ってくる生徒たちもいて様々だ。そして由衣もまたバスから降りてきた。そのままこのバスで合宿所へ向けて出発するためにさくら校の生徒たちが到着するまで乗っている方がいいのだが、由衣は周囲を見渡し、キョロキョロと誰かを捜すような仕草をしてみせた。その由衣の後から続いて降りてきたのは新城ファンクラブを結成している友達でなく、小学校からの親友で優等生の小川美佐だった。長めの髪をポニーテールにしている美佐は誰かを捜しているらしい由衣を見て怪訝な顔をして見せた。彼女が目当てとしているはずの新城はすでにすぐそこにいるのだ。はっきり言って探すまでもない。だが新城には全く目もくれずに由衣はため息をつくと駅へと続いている道の先を見据える様にし、そのまま誰かを待つようにしている。美佐はそんな由衣を見て不思議に思ったが、そのまま本来の目的であるトイレに向かった。やがて由衣が見ている方角から2台のワンボックスカーが砂煙を上げながら近づいて来るのが目に入ってきた。米澤と八塚がさくら校から生徒たちを乗せてやってきたのだ。2台の車はゆっくり速度を落としながらバスの前に並んで停車すると、後部座席のドアをスライドさせた途端に中から生徒たちが飛び出してきた。基本的に2つの塾間で生徒たちの交流はない。地域が離れている事もあって学区も違い、学校も違うためだ。とりあえず生徒の、特に男子生徒同士の喧嘩は御法度の上に各校の男女で部屋を4つ設けているため、そうそう争いも起こらないだろうと予測されていた。過去何度かもめて喧嘩になった事もあったのだが、その際に康男の雷が炸裂した事は今や伝説となっており、普段から康男の厳しさ、怖さを知っている生徒たちは喧嘩は決してしないという誓いを立てているほどだった。とにかくこれで参加者全員が揃ったわけだが、トイレを済ませていない生徒のためにまだ出発はしない。現在の時刻はちょうど9時になろうとしているところだ。康男は米澤と八塚に送迎の礼を言うとその場で雑談を始めた。由衣はワンボックスから全員が出てきたのを確認し、ため息をついた。見送りに来ると言っていたという康男の言葉から、周人には電話ではなく直接お礼を言うことにしていたのだ。一昨日は気が動転していた上に恐怖から来るショックのせいで震える事しか出来なかった為、まともにお礼を言えていなかったからだ。だが今ここに肝心の周人の姿はなかった。ため息混じりに肩を落とす由衣の姿を何気なしに目に留めた新城が一瞬不思議そうな顔をしてから近づいて来た。そんな新城に気付いた由衣は顔を上げて小さく笑うといつも通りの軽口を叩いた。
「天気良すぎですよね?私の柔肌、焼け過ぎちゃうかも~」
半袖Tシャツの裾をさらにめくってアピールするその言葉を聞いてもどこかいつもと様子が違う由衣にしっくりこない。何となしに違和感を覚える新城だったが、そのまま話をしていくうちにいつもの調子になっていく由衣に安心していった。やがて康男が点呼を取り終わり、全員にバスに乗るようにうながした。結局周人が現れずに肩を落とす暗い表情の由衣を見た新城は、全く事情が分からないためにあれこれ話しかけて元気づけようとしたのだが彼女はどこか上の空のようだった。
「そんな感じで合宿行っても楽しくないだろ?」
そう言われて顔を上げた由衣はどこか作ったような笑顔を浮かべた。その笑顔に何かを感じた新城だったが、何も言えずにただ同じように作った笑みを返すしかなかった。そしてもはやあきらめかけた由衣がバスに乗ろうと身をひるがえしたた瞬間、目の前に長袖の白いTシャツを着た周人がそこに立っているのを見て驚きの悲鳴を上げた。
「遅くなっちまった・・・いやぁ~、思ってたより道が混んでたもんでな」
そういつも通りの軽口を叩く周人は新城に視線を向けていた。かすかな笑みを浮かべて立つ周人の姿を見た由衣は始めこそポカーンとしていたが、何故か自然と涙がこみ上げてくるのを感じていた。自分でもそれが何故だかはわからない。だが胸の奥で何かが押し上がって来るような、そんな感覚に見舞われていた。
「しっかり教えてこいよ、先生!」
「ああ。お前もこっちを頼んだからな」
そう言うと新城はにこやかに片手を振りながらバスに乗り込んだ。あとは由衣を残すだけになったが、由衣はただ立ちつくすのみで頭の中で考えていたお礼の言葉すら出てこずにただじっと俯きながら涙を堪える事しか出来なかった。ギュッと皮膚の色が変わるほど拳を強く握りしめ、ジッとその涙を堪えて体を硬直させているのだ。
「さっさと行って来い・・・んでイヤな事を忘れるぐらい楽しんでこい。新城も一緒だし、出来るだろ?」
そう言うと、怪我をし、医者からは指すら動かすなと言われている右手を由衣の頭の上にポンと乗せた。一昨日、怪我をしながらも自分を助けてくれた時の事を思い出させるその笑顔を見た由衣は、頬を伝う一筋の涙を拭おうともせずに頭の上に置かれた周人の手のぬくもりを感じていた。ジーンと胸が熱くなり、溢れてくる感情を抑えることは出来ない。
「先生、怪我は?」
そう言われて周人は由衣の頭から右手を離すと、また新たな涙の滴を流す由衣の顔の前にそれを持っていき、力強く拳を握ってみせた。
「心配ない、大丈夫だ」
12針縫い、動かすことすら禁止だと言われていた腕を上げる周人の右腕は長袖のTシャツでその傷は隠されている。だがたとえ強がっていると言われようとも笑顔でそう言われれば由衣の心はいくらか和らいだ。
「ほら、早く行っておいで。みんな怪訝な顔して見てるぞ?」
周人はそう言うとバスを見た。たしかに何人かの生徒がバス特有の青みがかった窓から2人を見ている。そこには恵の姿も確認でき、周人は右腕を下ろして左手を挙げて振った。
「正直、まだ振ったりすると痛いんだ」
そう由衣にだけ聞こえるように言うと片眉を上げて微笑を浮かべた。実際は振ると痛いどころではない。少し動かすだけで激痛が走るのだ。だが、周人は怪我をした時同様、それを全く表情にも動きにも出さずに変わらぬ微笑を浮かべていた。そんな周人の心遣いに感謝しながらも、由衣は手で涙を拭ってからバスに向かって走り出した。
「行って来ます!」
乗り込みながらそう元気良く言うと、由衣は周人に手を振ってからバスの中へと姿を消した。前方のドアが閉じられ、いつも通り2度ほどクラクションを鳴らしたバスはゆっくりと前に進んでいく。真ん中やや前辺りの廊下側に座った由衣の横の席には美佐が座っていた。今いる位置からでは見送る周人たちの姿は見えない。しかし由衣は満足していた。だが席について一息ついた時に肝心な事を忘れていることに気が付いた。そんな自分に対して苦笑する由衣を見やる美佐の表情はどこか心配そうであった。前を向いているその横顔には泣いたと思われる痕跡がかすかながらに残っている。
「由衣ちゃん、大丈夫?」
恐る恐るそうたずねる美佐に笑顔を向けた由衣だったが、少し困った表情をしてみせた。
「大丈夫じゃないよぉ、肝心な事を言い忘れたんだもん・・・」
由衣は笑いながらそう言うと、そのまま美佐に笑顔を見せた。順調に幹線道路へ向けて運転を続ける康男の胸には今さっきバスに乗り込む際に由衣が周人に言った言葉、『行って来ます』というごく普通の言葉に言いしれない満足感が湧きつつあったが、これから始まる合宿の事や運転の事を考えてあらためて気を引き締めた。由衣はさっきまで話していた周人とのことを美佐からあれこれ問いつめられたが、この間ちょっと言い過ぎたから謝っていたとごまかした。
「でも実際、謝りそこねたんだけどね」
と小さく、誰に言うでもなくそうそっとつぶやくと窓の外に目をやった。結局胸がいっぱいになってしまい、お礼を言うことを忘れてしまったのだ。すがすがしい笑みを見せる由衣たちを乗せて、暑い暑い日差しの中、バスは快調に幹線道路を飛ばしていくのだった。
*
「先輩、長袖って暑くないんですか?」
右腕をズボンのポケットに突っ込んだ周人の出で立ちを見た八塚はそのやや太った体型からか、拭っても拭っても流れてくる汗を地面にまで垂らしながらそう言った。小柄で少々太った体型をしている八塚は常に持っているタオルで何度も汗を拭くのだが、すぐさままた流れ落ちてくる。隣にたたずむ周人も額にも汗が浮かんでいるものの、表情は涼しげであった。
「教室の中は寒いぐらいなんだよ、クーラーで。特に教壇の前は直撃だからね」
そう言うと苦笑してみせる。2人は白い入道雲が自分の存在を猛烈にアピールしている真夏の空を見上げてげんなりした表情をし、米澤がすでに入りかけている職員室の方へ歩き出した。さっき動かしたせいか右腕の痛みはひどくなっており、全く引く気配がなかったが、それはそれで満足はしていた。少し動かすだけで痛むこの腕が無ければあの時彼女を無傷で救えたかどうかはわからない。それに今日、彼女の笑顔を見ることもできなかっただろう。今日、無理してしまった為におそらく怪我は悪化してしまったであろう右腕に負担をかけないように職員室に戻った周人はクーラーの良く利いたその部屋に安堵の表情を浮かべるのだった。
*
美佐は少し雰囲気の変わった由衣に好感を得ていた。元々小学生の頃からの親友であり、中学に入ってからは別々のクラスになってはいたものの、通っているこの塾が同じな事もあって会う機会も多かった。だが中学二年生になった辺りから由衣は変わり始めた。学年でも1、2を争うかっこ良さをもつ男子から告白されたのをきっかけに、由衣は変わっていったのだ。その容姿のせいか言い寄る男子はかなりの数があり、由衣はクラスの仲間たちと遊びに出かけた際に冗談で以前から欲しかったアクセサリーを指さし、『アレ、欲しかったヤツだぁ、買って?』と言ったところ、何人かの男子が後日それを買ってきてくれたのだ。それ以来、欲しい物に不自由しなくなった由衣は『男は貢がせるものだ』と言わんばかりにわがまま放題をやっていた。出かけるたびに何かをねだり、かといって物を貰えばそれでもうその男子には素っ気ない態度を取っていたのだった。だが、新城の出現で由衣はそんな同級生を全て無碍にして彼を振り向かせることに終始した。見た目もかっこよく、所持している車も高級なスポーツカーとくれば文句のつけようがない。自分に釣り合う男性にようやく巡り会ったと思えたのだ。しかしながら新城にアタックはするものの、全く相手にはされない。容姿は美人で大人びていても、新城にしてみればたかが中学生なのだ。そんなせいもあってか、またも同級生を相手にわがままは言い続けた結果、この間の事件に繋がっていったのだ。貢いでも友達以下にしか扱わなかった由衣に対する全ての男子の代表としての報復。最悪の事態は避けられたものの、由衣の心には大きな傷を残す結果となってしまった。美佐は変わってしまった由衣を学校で見ては心を痛めていた。小さな頃からずっと一緒だった由衣は可愛く、愛想も良かった為に誰からも好かれていた。一方美佐もまた美少女であった。年齢よりやや低めに見られがちの容姿ははっきりいって童顔であり、内気で大人しい性格であったためにそう目立ってはいないが隠れファンも多いのだ。長い黒髪にポニーテールをトレードマークにした美佐と、活発でどこか高くとまった由衣は正反対の性格ゆえにずっと仲良しの関係を続けて来られたのだ。徐々に自分から離れ、知っている部分が消えていく、自分が好いていた部分が消えていく由衣を、美佐は痛々しい思いで見ていることしか出来なかった。そんな由衣は今、かつて持っていた優しい雰囲気に包まれている。それは自分の容姿など鼻にかけず、少々高くとまりながらも素直であった時の自分を取り戻したかのようであった。その原因が周人にあると思った美佐はさっきの周人とのやりとりが気になっているのも手伝ってそれとなく由衣に聞いてみることにした。座席の前後を見渡すが、みなそれぞれグループに別れて話に夢中になっており、2人は取り残されたようになっている。チャンスは今しかないと思った美佐は意を決して話を切りだした。
「由衣ちゃん、さっき木戸先生と何話してたの?」
ぼんやり前を見ていた由衣はその質問を受けて何気なしに美佐を見やった。その表情は穏やかであり、明らかに雰囲気が違う。
「今までごめんなさいって・・・ちょっと反省したもんで」
素っ気なくそう言ったかと思うと淡い笑みを浮かべてから可愛い仕草を交えてピロッと舌を出してみせた。同性だがそんな表情をする由衣を可愛いと感じた美佐だったが、続けて頭に浮かんだ疑問を口にした。
「何かあったの?木戸先生と・・・」
心なしか美佐の声のトーンの低さが気になったが、由衣は別に、とだけ答えてから再び前を向いた。
「う~ん・・・ただ、あいつはあいつで実はいいやつだったんだなぁって思っただけ」
何故今になって由衣がそう思ったかはわからない。だが、その言葉に美佐は胸が締め付けられるような感覚におちいった。息苦しい感じになり、胸がますます苦しくなる。
「もしかして・・・・好きに、なっちゃったの?」
恐る恐るそう問いかける美佐に目を丸くする由衣は大げさに美佐の肩を叩くと大笑いをしてみせた。
「なんでそうなるわけぇ?違うって!も~、私の本命知ってるくせにぃ!」
由衣のその言葉を聞いた美佐は胸の苦しさが一気に吹き飛ぶのを感じ、文字通りほっと胸を撫で下ろした。前を向いたままの由衣を見れずに窓の方を向いた美佐は小さくよかったとつぶやいた。窓の外の景色は徐々に山が近づいているせいか、人工物よりも自然の方が多くなってきている。さっきから相変わらずの田舎道を見下ろす今は高速道路を軽快に飛ばしているのだ。由衣との会話を終えた美佐は窓枠に肘をつきながらご機嫌な様子で鼻歌を歌っていた。そんな美佐を後目に、何故か今度は由衣の表情が暗くなっていた。
「好きなわけ、ないじゃん」
小さくつぶやいたその言葉を、隣に座る美佐を含めた誰も聞いていなかった上に聞き取ることもできなかった。何気なく前の方で他の女子生徒と何やら楽しげにしながら話に花を咲かせている新城を見て、由衣は妙な事に気が付いた。今までならその女子たちを押しのけてでも横に陣取って話をしていたはずなのに、何故か今はそんな気持ちにならない。
「まぁ、合宿に行ったらチャンスはいくらでもあるもんねー」
自分にそう言い聞かせるようにつぶやくと、今の言葉にこっちを見ている美佐に対して笑顔を見せた。そのまま2人で他愛のない話に花を咲かせながら、由衣の頭の中では新城の存在が薄れていくのだった。