私の周人さま(9)
午後7時前になってようやく自分の机の前に座ることができた周人は大きなため息をつくと身を投げ出すようにして椅子にもたれかかった。午前中の説明会を終えたあと、午後からはマシンの最終調整を兼ねた演習に付き合わされていた周人はほとんど出番もなくただ椅子に座ってぼけーっとモニターを監視していただけであったのだ。もはやオフィスにいるのは数人だけとなっており、今日はいつもに比べて残業する者も少ないようであった。疲れた体を押しながら引き出しの中から鞄を取り出し、財布を入れる。そして充電器に差し込んだままであった携帯電話のランプが充電完了を知らせる緑に変わっているのを確認した周人はその携帯を手に取ると折り畳まれたそれを開いてみせた。そこでようやく電源を切ったままであった事に気付いた周人は電源ボタンを長押しして携帯を起動させた。そこにはピースサインをした由衣の写真を壁紙にした画面があるのみで未読メールも着信履歴も残っていなかったが、今日会うつもりにしていた周人は意を決して由衣のメモリー番号を表示させて通話ボタンを押した。プップップという音の後、呼び出し音が響く。緊張からか、やや息苦しさを覚えながらもその音を聞く周人はまたも出てくれないのではないかという思いに駆られていたのだが、意外にも早く電話は繋がった。
「もしもし、由衣?」
『もしもし、周人?よかったぁ・・・大変なの!アリスが黒人にさらわれたの!お願い助けて!』
今にも泣きそうな悲鳴にも似たその叫びに、周人は驚きを隠せない。由衣にとってみれば繋がらなかった電話に絶望していたところだったので、逆にかかってきたのは幸運に他ならない。
「落ち着け!今どこだ、というか、まず落ち着いてその状況を説明しろ」
周人のその落ち着いた声に影響されてか、言われたとおり落ち着きながらさっき見たことをそのまま話して聞かせた。周人は電話をしながら鞄を担ぎ、タイムカードを押すと階段を猛スピードで駆け下りた。そのままダッシュをして駐車場に止めてあるジェネシックに乗り込むと、すぐさま由衣たちがいる桜ノ宮へと向かうのだった。
警察が駐車違反の取り締まりをしている国道と南側の幹線道路を避けた周人は桜ノ宮の北側を走るもう1つの幹線道路で待つよう由衣に指示をした。普通なら1時間近くかかる道程をわずか40分足らずで走ってきたジェネシックは待ち合わせ場所である中世の城をイメージした特徴的なシティホテルの前にいる由衣と光二を目に留めてそこに車を止めた。すぐさま後部座席に光二が乗り込み、シートを戻して助手席に乗り込んだ由衣は泣きそうな顔をしながら周人の腕にしがみつくようにして見せた。そんな由衣の頭にそっと手をやった周人は優しい口調で落ち着くように言うと、後部座席に座っている光二の方を振り仰いだ。
「君は?」
「僕は三宅光二といいます。さくら西塾でバイトしています。さっそくですみませんが北へ・・・・御旅山へ向かってください。彼らはそこへ向かいました」
はっきりした口調でそう言う光二にちょっと驚いた顔を見せた由衣だったが、今はそれどころではない。光二が五感にすぐれ、さらに人の心を読める力を持った『変異種』であることをかいつまんで説明し、彼のサポートでアリスの行方を追うことを提案した。光二によれば、1キロ四方の範囲内であれば意識を集中させることによって特定の人物の思念波を感じることが出来るという。アリスを誘拐した黒人たちの思念は北へ、御旅山へ向かうというものだったと説明し、今では御旅山付近で緊張感をもっていると告げた光二は額に汗をかきながらその思念を感じているのだった。
「彼は信用できるの!お願い、私を信じて言うとおりに御旅山へ向かって!」
ジッと光二を見つめたまま何かを考えている周人に向かってそう言った由衣の目は真剣であった。周人はそんな由衣と光二を交互に見た後、ギアを入れて車を走らせた。
「信じるよ」
前を向いたままそう言う周人をミラー越しに見た光二は小さな笑みを浮かべると目を閉じ、黒人たちの思念を察知することに専念した。今までこうやって意図的に自らの力を使ったことはない。そういった事が出来ないとも思っていた。だが、目の前で展開された非日常的な状況が彼の中にあった『変異種』としての能力を開花させたのだ。元々内気で気弱だった光二の性格的なものもその目覚めに歯止めをかけていたのだが、何とかしたいという心からの思いが能力を開放し、さらには自分しかアリスの居場所を突き止めることができないといった意志の現れが内気な性格をも解放していたのだ。そんな彼の真剣な目を見た周人は光二を信じた。何より、愛しい由衣の言葉を信じた周人は狭い山道を猛スピードで駆け抜けた。すっかり暗くなっているため、外灯も住宅もない真っ暗に等しいこの山道をジェネシックはまさに闇を切り裂くかのように駆け抜けた。時折現れる対向車は走り屋が好んで乗るスポーツカーをさらに改造していると思われる奇抜なものだったが、無改造でもそれなりに奇抜なジェネシックはこの山を攻めに来た者としか認識されないだろう。車内では誰も言葉を発しない無言の状態となっていたのだが、山の中腹に差し掛かった辺りで光二が車を止めるように指示を出した。
「道はこの先で二手に分かれています・・・・本線ではない横道に入ってしばらくいけば古い山荘があります・・・・そこに・・・人が3、4人かな?・・・・感じるのは、助けを求める念、お金の事を考える念がいくつか・・・あと・・・何だ?黒い・・・黒い思念だ・・・しかも・・・気持ち悪いぐらい黒い・・・」
ゆっくりとそう言う光二は何かを探るようにギュッと目を閉じ、額から汗を流してそれらの思念を感じ取っていた。周人は言われた分岐点まで車を進めると細い、草もぼうぼうの横道の手前で一旦車を止めた。車1台が通れるほどのその道は雑草の生い茂った砂利道である。
「山荘までの距離はわかるか?」
「約・・・六百メートルかな?」
一旦目を開いた光二は息を切らし、疲れた表情をしていたがはっきりとそう答えた。そんな光二を見た由衣はそっとハンカチを差し出し、光二は弱々しいながらも笑顔でそれを受け取って小さく頭を下げた。
「車で行けばライトでバレるな・・・ここで待ってろ、オレが行って来る」
その間に考えを巡らせた周人はエンジンを切ると2人にそう告げた。来ていた上着を脱いでネクタイを取り、Yシャツの袖をめくり上げた。
「無茶ですよ・・・相手は黒人、しかも体も大きいし・・・ここは警察を呼んだ方が・・・」
「時間がないし、なにより今なら相手も油断してる・・・・それより気になるのがボディガードだ。軍人らしいが、何やってんだか・・・」
一番気になっていた事を口にした周人は山荘があるはずの道の奥を覗き込むようにしてみせた。菅生が言っていたアリスのボディガードはアメリカ海軍の大佐だというはずだった。そしてアリスが初めて周人の家にやって来た時にしていた気配を殺しながら様子をうかがえるほどの実力の持ち主ならばすでにこの誘拐を知っており、何らかの動きを見せてもいいはずなのだ。だが、そんな気配はない。もしかすれば既に先回りして事件を解決しているかもしれないと思ったのだが、さっきの光二の言葉からしてそれはないと断言できる。
「私も行く!」
「ダメだ・・・ここで待ってろ」
「行くの!」
強い口調でそう言い、ジッと周人を見つめる由衣。それを見やる周人の目も鋭かった。車内の空気が張りつめていく中、光二はどうしていいかわからずに2人を交互に見ることしかできなかった。しばらく睨み合うようにしていたのだが、やがて周人はため息をつき、視線を落とした。
「わかった・・・ただし、オレから離れない事。それと彼の言うことをよく聞くこと、それが条件だからな」
その言葉に由衣は力強くうなずき、逆に光二は驚いた顔をしてみせた。そんな光二を見た周人は小さな笑みを浮かべる。
「君の能力で由衣を守ってやってくれ・・・オレ1人じゃ守り切れるかわからないし、アリスの救出もある。相手の動きを察知して身を隠すぐらいは出来ると思ってるから、頼んだぜ」
真剣に瞳を見つめながらそう言った周人に、由衣を守るという使命感に湧く光二は力強くうなずいた。
道を照らす光が近づけば相手に警戒されてしまうため、3人は暗闇の中を手探りの状態で慎重に前へと進んでいった。道の脇には姿を覆い隠すような木が茂っていたのだが、車1台が通れるほどの道幅であるためにその木に沿うようにして山荘を目指した。少し進んだだけでその山荘は確認できたのだが、明かりも人気もないように見える。だが光二はそこから少なくとも4つの思念を感じると言い、間違いなく人がいることを周人に告げた。やがて道は開け、ボロボロになった山荘が暗闇の中に浮かび上がるようにして姿を現した。砂利道となっている山荘入り口前には、アリスをさらったときに見た黒い4WDが不気味に止まっている。だが、やはり人気はない。光二が意識を集中し、人の居場所を探るために目を閉じた。頭の中に聞こえてくるのは3つの声。1つ目は金の受け渡し方法を考えるもの、2つ目は誰かに連絡を取るためか電話番号らしきものを覚えているもの、そして最後は恐怖に駆られる言葉にならない感情だった。それこそがアリスの意識であり、山荘の2階から聞こえてくると言う。山荘の1階部分からアリスを連れ去った黒人2人の声が聞こえてくると告げた光二がさらに意識を集中すると山荘の外、今自分たちがいる場所から山荘を挟んでちょうど対角線上にどす黒い、意識すら読みとれないほどの暗い闇のような意識を感じると言う。それはその思念を感じた瞬間から嫌な汗が背中を伝うほどである。周人は2人にここで待つように告げると、身をかがめたまま山荘へと一気に駆け抜けた。2階建ての山荘の窓はそのほとんどが割られてしまっている。木で出来た壁には暴走族や走り屋たちがしたのか、色とりどりのペンキで落書きがされていた。長らく放置されていたのがわかるほどのひどい傷みようだったが、まだしっかりとしているのを確認した周人はガラスが完全になくなっている窓からそっと中の様子をうかがった。どうやらそこは小さな洋室となっており、廊下へ続くドアは壊されているのか完全になくなっていた。そこから奥は壁があって見えなくなっているのだが、今いる位置から考えてその廊下は右側へと続いているようだった。周人は窓の下を見やり、砕けたガラスが落ちているのを確認した後、軽やかな動きで窓枠に乗るとそのまま音を殺してガラスの落ちている部分を避けて内部に降り立った。山荘の中に消えた周人を見た由衣は知らず知らずのうちに両手を合わせ、まるで神に祈りを捧げるようなポーズを取っていた。光二は額の汗を拭うと再び神経を研ぎ澄ませ、5つの思念波を慎重に感じ取っていた。今まで長時間、しかも多人数の心を読むことなどなかった光二にとってそれはかなり神経をすり減らすものだったが、今は自分が由衣を守らねばならないといった使命感が彼の気力を奮い立たせていた。相変わらず1階から2つの思念を感じ、2階のアリスもそのままである。そして外にいるもう1人も全く動く気配を見せない。さらに進入した周人は相手をうかがいつつ2階のアリスへも気をやっているのが手に取るようにわかった。それに周人はかなり冷静であり、救出に関しても何の心配もしていないように感じられた。その周人は潜入した洋室からそっと顔を出して廊下の奥に目をやった。真っ暗でよく見えなかったが、目が暗闇に慣れてきたせいもあって多少は夜目が利く。足下に障害物が無いかを確かめながら慎重に前へと進む周人は足音を出さぬよう細心の注意を払ってゆっくりと前進を続けた。廊下の脇にはいくつかの部屋があり、その全てのドアは壊れて斜めになっていた。その廊下の突き当たりまで行った周人が見たものは、螺旋を描く大きな階段があるホールであり、そのホールの奥にはリビングらしい空間が見て取れた。階段の正面に玄関があって、その階段の裏にはキッチンらしいテーブルが確認できる。リビングから奥にかけて廊下が1つあり、おそらく奥には同じように洋室があると思えた。リビングに向けてジッと目と耳をこらすと、人の話し声が聞こえてくる。暗闇に黒く動く影は不気味だったが、ソファらしき物に腰掛けながらもかなり頭が突出していることからその人物たちが大柄である事が見て取れる。それこそ実行犯である黒人2人だと判断した周人は、外にいるもう1人の人物に気付かれぬよう2人を倒す手段を考えた。多少の物音をさせても、すぐさまアリスを救出できれば問題ない。そう考えた周人は身をかがめたままゆっくりとリビングに近づいていく。ソファに座る男たちは皆周人に背を向ける格好なため、慎重に近づけば大丈夫だろうと判断した周人は音を殺してリビングとホールを仕切る壁に背中をつけた。そして大きく深呼吸したのち、鋭い目つきをさせて一気にリビングに躍り出た。軽やかにジャンプしてまず1人目の後頭部に強烈な膝蹴りを喰らわす周人に対し、もはや何が起こったのかすらわからないまま脳しんとうを起こして崩れ落ちるようにソファへと倒れ込む仲間の黒人を見ながら何事かと振り返ろうとしているもう1人の黒人目がけ、そのまま空中で身体を半回転させて後回し蹴りを放ち、こめかみにかかとをめり込ませる。ソファの後ろへと静かに着地を決めた周人はすぐさまソファの背もたれを掴むとその上で逆立ちをし、こめかみを押さえて苦しんでいる黒人の腹に向かって倒れ込むようにしながら勢いをつけた膝をめり込ませた。呻くようにして突っ伏す黒人たちを見ながら、周人は2人が完全に気を失った事を確認し、すぐさま2階向かって階段を駆け上がって行くのだった。
恐怖を感じたと思ったその瞬間、2人の意識は全く感じられなくなっていた。音を出さずに相手を倒す事だけを考えていた周人の思念が残り、今ではアリスの安否を気遣いながら2階へと向かっていることがわかる。このことから、あっさりと2人の黒人が倒された事を知った光二は大きな音を出して唾を飲み込むと、震えるようにしながらゆっくりと息を吐きだした。
「もう2人、倒したみたいです・・・今2階へ向かってます」
やや興奮したようにそう状況を説明した光二の言葉に安堵感を表情に出して喜ぶ由衣は汗一杯になって握りしめていた手の力を緩めた。まだ外にいる人物は中の異変に気付いていないのか、全く動く気配は見せていない。目深にかぶったデニムの帽子から見える瞳は落ち着いており、緩やかな風が少し見えている前髪と後ろ髪をさわさわと揺らしていった。つけているコロンの香りらしい甘く、それでいて清潔感を与える香りが緊張したままの光二の鼻をくすぐった。やはり周人を心配しているのか、緊張で表情はまだ硬い。
「もう1人が気付かなければいいんだけど・・・」
そうつぶやくように言う由衣にうなずき返した光二は静かに目を閉じると残った3人に意識を集中させていくのだった。
山荘のちょうどど真ん中に位置している階段を上るとそこから1階同様左右に廊下が続いており、いくつかの部屋があることがわかった。だがアリスがどこにいるのかがわからない周人は光二からだいたいの場所を聞いておけばよかったと後悔しながら、まず左側にある廊下を屈みながらゆっくりと慎重に進んでいった。結局奥まで行ったのだがこっち側のどの部屋にもアリスの姿はなく、舌打ちしながら元来た道を戻っていく。再度階段の前に来た周人は一旦下を覗き込むようにして異常がないかを確認した後、今度は右側の廊下をゆっくりと進んでいった。廊下の突き当たりには窓が見える。そっち側の外には残った1人がいるはずであり、周人はなるべく音を立てないように1歩1歩慎重に1つ1つの部屋を確認していった。そして一番奥の部屋を覗き込んだ周人は、ボロボロのベッドの上に寝かされたアリスの後ろ姿を確認してホッと胸を撫で下ろした。そのまま身を屈めて部屋の内部に進入し、アリスが興奮して暴れないようにベッドの足下に移動した。動く何かを目の端に留めたアリスはビクッと体をすくませながらも、後ろ手に縛られた手のせいで満足に動けずに恐怖に満ちた目で自分の足下に目をやった。それを見たアリスは違った意味での驚きに目を見開いた。そこには人差し指を口に当てた周人の笑顔があったのだ。もはや足も縛られて自由の利かない身体などおかまいなしに悶えるように向きを変えたアリスは大粒の涙をボロポロと流して布を巻かれた口から言葉にならないうめき声を上げた。静かにするよう耳元でたしなめながら素早く手足のロープをほどく。自由になった手で口に当てられていた布を引き剥がすと、震える体を押して周人に抱きつき、泣きじゃくった。
「泣くんじゃない・・・それより出るぞ」
そう告げた周人にうなずいたアリスは周人に先導されながらもゆっくりと廊下を進み、静かに細心の注意を払って階段を下りた。周人はすぐに入ってきた部屋には向かわずに両目を閉じ、何かの気配を探るかのような仕草を取りながらしばらく動きを止めた。だがそれもほんの数十秒ほどの事であり、すぐに廊下を進んで外から入ってきた窓にガラスがないあの洋室に飛び込むと落ちているガラスを踏まないように注意しながらアリスを窓枠に立たせ、外へと連れ出すことに成功した。後は外にいる最後の1人に見つからないように由衣と光二の待つ場所まで駆け抜けるだけであった。
窓枠から姿を現した夜目にも鮮やかな金色の髪を確認した由衣たちは声を出さずに歓喜に満ちた笑顔を見せた。次いで姿を現す周人。由衣の安堵の表情を横目で見やる光二の表情も幾分か和らいだその瞬間、どす黒い気配が一気に膨れあがっていくのを感じたのは光二だけでなく周人も同じであった。
「ヤバイ!見つかった!」
さらに身を屈める光二のその言葉に同じようにする由衣は目をこらし、4WD車の止まっている正面玄関のさらに奥へと視線を集中させた。暗闇に覆われたその空間には何もなかったのだが、砂利を踏みしめる音が徐々に近づいてくるのがはっきりとわかった。もはや息をすることすらままならないほど緊張が増していく中、全員の神経は近づいてくる足音の人物へと注がれていた。
「どうやらバレたようだ・・・・お前はあそこへ走れ。ここはオレがくい止める」
「で、でも・・・」
「いいから走れ!バレてるなら姿が見えても一緒だ」
チラチラとアリスを見ながらも迫り来る敵に気を配る周人の顔には明らかに緊張が見て取れた。アリスは意を決し、山荘の影から飛び出して道の方へと駆けだした。周人がそれを確認し、自分も飛び出そうとしたその矢先、近づいてきた人物が意外な言葉を発したのだ。
「アリス!無事だったんだな・・・」
その言葉に、山荘と道とのちょうど中間地点で立ち止まったアリスは声のした方を振り返った。その暗闇から姿を現したのは黒いタンクトップに黒の皮パンツを履いた短い金髪の大男、ゾルディアックであった。ニヤけた顔をしながら両手を広げて近づくゾルディアックに対して肩の力を抜いて安堵の表情を見せたアリスは腰に手をやると睨むようにしてみせた。これまた黒い革製のブーツを鳴らしながらアリスに近づくゾルディアックだったが、山荘の影から姿を現した周人に目をやり、口元に笑みをたたえたまま鋭く睨むような視線を送った。周人もまた睨むような目つきをし、全身から殺気にも似た気をゆっくりと放出していった。
「大佐・・・・来るのが遅いよ!」
すねたような顔をしながらゾルディアックに向かって1歩踏み出した瞬間、道路の脇から飛び出した人物が悲鳴にも似た声を張り上げた。
「行っちゃダメだ!そいつが黒幕だ!」
光二のその叫びに後ろを振り返った瞬間、恐るべきスピードでアリスに迫るゾルディアックは右腕を伸ばしてアリスを捕らえようとした。だがその伸ばした腕目がけて走り来た周人が放った下から蹴り上げる足を避けるために腕を引いたゾルディアックは宙返りをしながら後方に飛んで間合いをあけた。すかさずアリスの前に立った周人はゾルディアックを睨み付け、全身から殺気を放って構えを取った。
「走れ、アリス!」
周人の叫びにアリスは駆け出し、隠れていた由衣も飛び出してアリスを迎えた。光二は大きく肩で息をしながらアリスに近づくと、相変わらずニヤニヤ笑うゾルディアックを見ながら説明を始めた。
「あいつが今回、君を誘拐した犯人の黒幕なんだ・・・お金が目当てで・・・信じて欲しい、あいつの心の中には悪魔が棲んでいるんだ」
アリスはゾルディアックを振り返り、対峙している周人の背中を見た。2人は3メートルほどの距離を置いてたたずんでおり、周人からは殺気が漂っている。とっさに言われるままこっちに来てしまったのだが、ゾルディアックが自分の誘拐を画策した理由が見あたらない。日本にいるアリスに危害があれば責任を取らねばならないのはボディガードたるゾルディアックなのだ。それこそ、彼に誘拐されたとわかれば上司であるキース将軍が地の果てまでも追いかけて来るだろう。それに祖父であるジェイムズも黙っていないのはわかりきっている。
「アリス、こいつらが何を言っているか知らんがこっちへ来い。お前を助けに来たんだ」
その言葉にアリスの心は揺れた。由衣と一緒にいる日本人の言うことが正しいのか、自分をガードするために一緒に来たゾルディアックを信じるか激しく葛藤しているのだ。
「あいつは最初から君を誘拐するつもりだったんだ。こっちに仲間を呼び寄せ、隙を見て君をさらう。そして身代金を要求し、君自身を人買いに売りさばく気なんだ!」
「何故?何故そんな事をする必要があるの?彼が一緒にいることはおじいさまや彼の上司も知っているのに?」
早口の日本語でそうまくし立てるアリスは興奮からか顔を赤らめて大声を張り上げた。由衣はその様子を黙って見ているだけである。
「そこまではわからない・・・けど、彼の心の中には黒い物があるんだ。見えない壁のような物が・・・時々、一瞬だけその思考が読めるから、だから・・・」
「そんな話・・・・信じられない!」
アリスはかぶりを振って激しく否定をした。だが現実にはどうしていいかわからないのだ。息も荒く、顔も紅潮させたまま前方にいる周人とゾルディアックを見つめるしかない。
「オレを信じるか、このおっさんを信じるか、どっちかだ」
迷いに満ちた目を、その言葉を発した周人に向けた。背中を向けたままでいる周人のその言葉はさらにアリスを混乱させるだけだった。
「オレは光二を信じた・・・・お前は、どうする?」
アリスは胸の前でギュッと両手で拳を作ると何度も周人の背中とずっと笑みを絶やさないゾルディアックの顔を見やった。知らず知らずのうちに汗が全身を伝い落ちていくのを感じる。長くて短い時間が過ぎた時、アリスはゆっくりと前を向いたまま1歩1歩後ろへと下がっていった。そして光二がいる道路の入り口付近まで下がったアリスを見たゾルディアックはずっと消すことのなかった笑みをかき消すと、逆に喉を鳴らして小さく、邪悪な感じで笑った。
「ククッ・・・大人しく言う事を聞いてりゃぁよかったのに・・・こんなバカそうな日本人を信じるとはねぇ」
「お前はオレたちがここへ来たとき、すでにこの山荘の外にいた。なのに助けることもせずにただじっとしていただけだ・・・オレたちの存在に気付いていたにもかかわらずな。おかしいとは思っていたんだ。ボディガードなのに全く姿を見せなかったことがな」
「そばにいたさ!見えないように、つかず離れず気配を殺してなぁ。それがお嬢のリクエストだったしな」
「それは最初の夜だけだ・・・アリスがオレの会社に来たときはいなかった。塾へ来た時も、オレの家に上がり込んでいた時も・・・」
周人はゾルディアックから目を逸らすことをしなかった。張りつめた空気のせいか、ゾルディアックもまたその場から動こうとはしない。だがさっきまでと違うのはその顔から笑みが消えていることだけである。
「アイツは人の心が読める能力者だ・・・日本政府も彼の事を知っていて、スパイの役目を持っているんだ。もう観念しろ」
前を向いたまま後ろにいる光二の方を指さしてそう言う周人の言葉に、ゾルディアックは全身から周人のそれすら遙かに上回る鬼気というべき殺気を放出し始めた。そして今の周人の言葉を聞いたアリスもまたびっくりした顔をしながら勢いよく光二の方を振り返ったのだが、英語がわからない2人はそんなアリスを見て小首を傾げるしかなかった。
「なるほど、そういう事かよ。オレもおかしいとは思ってたんだ・・・何故ここがすぐにわかったのかってな。後を付けている車はなかったのに、だ」
指をパキパキ鳴らしながら目を細めてそう言うゾルディアックはチラッと後ろにいる光二の方へと視線を向けた。
「一つ聞いていいかな?」
再び周人へ視線を送ったゾルディアックは全く無防備な態勢のまま余裕の表情でそう言うと口の端を吊り上げて見せた。
「この国には中国マフィアすら怯える『化物』がいるって話だ。そいつに壊滅させられたいろんな国の闇組織も多数あるとか。闇で懸けられた懸賞金は一千万ドルを超えるというその『モンスター』、もしかしてお前の事か?」
今のゾルディアックの話を聞いていたアリスもその話を聞いたことがあった。アメリカでもいくつかの闇組織が日本で潰されているといった会話を以前、祖父のジェイムズがしていたのを盗み聞きしたのだ。たった1人で屈強な組織の連中を数知れず倒したというその人物が周人であるはずがない。アリスの知っている周人はどこにでもいる平凡で、それでいて優しさが飛び抜けたただの日本人なのだ。
「残念ながら違うよ」
「そうか・・・もしやと思っていたんだが、そりゃぁ全く残念だぁ!」
その言葉が言い終わるか言い終わらないかの刹那、凄まじい速さの『貫手』と呼ばれる指の隙間を閉じた状態で開かれた手の平を突き出す技を周人の喉目がけて繰り出してきた。電光のごとき動きで一気に間合いを詰めて放ったその技を、だが、周人はかわしていた。黒い革手袋は夜の闇に紛れて見切ることすらままならない。昼間ですらこれをかわされずに今まで何人もの相手を殺してきたいわば一撃必殺の技をあっさりとかわされてしまったのだ。しかも半身になった最小限の動きでかわした後、顔面目がけた回し蹴りを置き土産に残して。ゾルディアックも必要最小限の動きでその蹴りをかわすと再び間合いをあけて動きを止めた。周人もまた同じである。
「驚いたな・・・暗闇の中でこの『ヤリ』をかわしたやつは1人か2人しかいなかったというのに・・・こんなチンケな島国のガキに!」
必殺の一撃を避けられたのがよっぽど悔しかったのか、ゾルディアックは吐き捨てるようにそう言うと流れるような動きで両腕から繰り出すパンチに肘撃ち、そして両足からも回し蹴りから膝蹴りへと攻撃を変化させながら周人に襲いかかってきた。全てを避けきれない周人はダメージを受けないようにその攻撃を受け流していく。隙を見て反撃するものの、ゾルディアックはそれを見事に避けると隙を見せずにすぐさま反撃してきた。暗闇の中、全身黒ずくめのまさに目に見えない攻撃をさばく周人に対し、ゾルディアックは歓喜の表情を浮かべて休むことなく攻撃を繰り出してきた。そして両者、決定打もないまま一進一退の攻防は続いた。




