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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十一章
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私の周人さま(6)

翌日、いつもの時間に門をくぐった周人はいつもの場所に車を止めた。工場の駐車場にはこれといった指定はなく、あるのは来客用と職員用とを分けている立て札がある程度であった。場所が田舎なだけにマイカー通勤している者も多いこの工場では職員用であればどこに止めても自由なのだったが、皆大抵決まった位置に止める傾向があった。そして周人もまたその1人なのだ。エンジンを切ってドアを開くと、2台の間隔を開けて赤い車が止まるのが目に飛び込んできが、周人は小さなため息をつきながらさっさとオフィスのある建物へと向かった。なるべくその車の持ち主と朝一発目から顔を合わせたくない周人はやや早足で建物に入ったのだが、エレベーターホールは人で溢れていた。このままでは一番会いたくない人物に会うはめになると確信した周人は始業時間まであと二十分はあるのを確認した後、ショールーム脇のリフレッシュルームでモーニングコーヒーを飲むことにした。自動販売機で缶コーヒーを買い、既に数人いるその休憩室の片隅に腰を下ろすと上着からタバコとライターを取り出した。そこから1本取り出してくわえた後、コーヒーの栓を開ける。そしていくつかの細かい傷が見えているピンク色したハートの細工が施されたジッポライターでタバコに火をつけた。チンという小気味の良い金属音を鳴らしてフタをし、ライターの火を消した周人は肺一杯に煙を吸い込むと目を閉じて満足そうな顔をして見せた。口から手にタバコを移動させ、ゆっくりと煙を吐き出す。至福の時を満喫しながらコーヒーを口に運ぶ周人だったが、その時間はもろくも崩れ去っていった。


「おはよう。朝からふぬけた顔をするじゃないか」


ピクッと片眉を吊り上げて片目を開ける周人を無視して自動販売機でお茶を買うのは遠藤であった。わざわざ彼を避けるためにここに寄ったのだが、それがあだになってしまうとは。結局朝のさわやかな気分を害された周人は至福の吐息をため息に変えてタバコをふかせた。そんな周人をちらりと見やった遠藤は無造作に置かれている周人には似合わないハートマークのジッポライターに目を留め、そのまま周人の対面に腰を下ろす。白い丸テーブルに向き合う2人だが、目線はてんでバラバラである。あえて目線を合わせないといった方がいいか、とにかく対面しながらも目を合わせなかった周人だが、遠藤が切り出した話題に表情を固めて彼を見た。


「昨日はアリス嬢にホテルまで送っていくと言ったらお前をつけろと言われたんだ」

「ま、フェニックスを見た時にだいたいわかったけど・・・お嬢様の気まぐれにゃついていけないってな感じだな」


まるで睨み合うかのような2人はその後しばらく黙ったまま座っていた。だが、周人がタバコをふかし、遠藤がお茶を口にすることによって沈黙は破られた。


「お前の彼女、あれから怒ってなかったのか?」


周人はアルミ製の灰皿にタバコをもみ消すと、残っていた缶コーヒーを一気にあおった。


「まぁな。前に1度アリスとやりあってるし、金持ちのわがままだってのはわかってくれてるから」


そう言いながら立ち上がるとゴミ箱に缶を捨て、鞄を持ってリフレッシュルームを後にする。遠藤もお茶を飲み干して缶を捨てるとその後に続いた。終始無言のままホールでエレベーターを待つ2人だったが、遠藤はチラチラと周人の様子をうかがうようにしていた。それを目の端で捉えながらもあえて無視をした周人はやってきたエレベーターに乗り込む。結局大きめのエレベーターに2人だけが乗り込むことになったため、周人はさっき休憩を取ったことを心底後悔していた。


「なんだよ・・・」


扉の方を向いたまま相変わらず自分をチラチラ見やる遠藤にそう言ってのけた周人は4階に着いたことを告げる音に反応して頭上の表示に目をやった。すぐに扉が開き、2人はエレベーターを降りる。ここからは左右に分かれる2人。周人は左、遠藤は右へ。


「羨ましいと思っただけだ・・・・美人で広い心を持っている彼女を持ったお前がな」


そう言い残すと遠藤は薄い笑みを浮かべて自分のオフィスへと向かった。表情を曇らせて去りゆく遠藤の背中を見やる周人は小さなため息をついてから自分のオフィスのドアをくぐるのだった。


その日は恐れていたアリスの来社もなく、平穏無事に定時を迎えることができた。仕事もそう忙しくなく残業もないため、チャイムと同時に帰り支度を始めた周人はそそくさとタイムカードを押して駐車場へと向かった。ここでも幸いなことに遠藤に会うこともなく、周人はさっさと車を出して会社を後にした。幹線道路で若干ながら帰宅ラッシュの渋滞に巻き込まれたが、6時過ぎにはマンションの駐車場へとたどり着いた周人は鼻歌まじりに車を降りるとキーケースをくるくる指で回転させながらマンションの入り口へと入っていった。9階建てのマンションの7階にある自分の部屋へと向かうエレベーターの中でも鼻歌を歌う周人は表情も緩んでいる。そして7階で降り、そこから左右に分かれる廊下の右側へと向かう。L字型になった廊下を進んでやや真ん中辺りの部屋、710号室が周人の部屋となっていた。一旦ドアノブを回転させるが鍵がかかっている。まだ由衣が来ていないとキーケースからマンションの鍵を取り出した周人はそれを鍵穴に差し込んだ。スペアキーとして由衣に合い鍵を渡しているため、もし先に着ていれば中に入っているはずのだ。由衣がいつ来るのかを想像しながら周人が鍵を回すその瞬間、隣の部屋のドアが勢いよく開いた。昨日までは空室だったその711号室に今日誰かが引っ越してきたのかと思い、鍵を引き抜いてそっちに視線を走らせた瞬間、周人の表情は驚きで凍り付いてしまった。


「おかえり、周人さま。早かったのね?」


どこか気取った笑顔でそう出迎えてくれた隣人は、あの紫織であった。もはや目が点の状態で何がなんだかわからない周人は呆然としたまま立ちつくすしかない。


「今日からここへ越してきましたの、よろしくお願いしますわね!」

「あ、いや・・・・トキワのお嬢様が1人暮らしってわけ?」

「いえ、いわばもう1つの私の部屋です。毎日7時過ぎには自宅へ帰りますし、休みの日はこちらにいますの」


呆れて物が言えないという言葉の意味を今更ながらに実感する周人は全身の力が抜け落ちていくのを感じていた。周人に会うためだけにわざわざ隣の部屋を借り、しかもそこは仮住まいとも言うべき別荘なのだ。家賃を払うことを考えればこれほど高い別室はありえない。もはや金持ちの考える事は理解不能の周人は脱力しきった会釈をしてさっさと家に入る事にした。ドアを開き、大きくため息をつこうとした周人は玄関先でありえない現象を目撃してまたも固まってしまった。


「おかえり~!早かったのね!」

「お前・・・・なんで?」


なんとそこに立っているのはアリスであり、ピンクのワンピースに身を包み、普段由衣がしているエプロンをしていた。まるで旦那さんを出迎える新妻のごとき仕草で出てきたアリスを見る周人はヘナヘナとその場にしゃがみこんでしまった。その様子を見た紫織が何事かと玄関を覗き込むとそこには見慣れない外人、しかも金髪の美少女がエプロン姿で立っているのだ。


「あら、吾妻さんがいながらご結婚されていたのね?しかも国際結婚ですの?ま、すぐに別れてもらいますけど」


余裕の表情でそう言う紫織に対し、明らかに不機嫌な顔をしてみせたアリスは腰に手をやるとアゴを上げて見下すような姿勢をとった。周人はお嬢様同士のたわごとに挟み撃ちにあいながらもなんとか気力を振り絞って立ち上がると、さっきまでとは正反対の苦悩に満ちた表情を浮かべて見せた。


「結婚してないって!というかお前・・・なんでうちに?」

「あんた、誰?私の周人に何する気?」

「あらあら、あなた日本語が話せるのね?でも勝手に部屋に上がり込むなんて図々しい」


周人の質問を無視して火花を散らす2人は勝手な言い分を主張しあい、もはやつけ入る隙のない空気を発し始めた。周人にしてみれば勝手に上がり込んだアリスも、隣の部屋を借りて居座る紫織も迷惑でしかない。お互い激しく罵り合う2人にうんざりした周人が一旦外へ出ようと振り返った瞬間、周人は帰宅してわずかな時間で3度目の硬直に陥ったのだった。


「ゆ・・・由衣・・・」

「お取り込み中・・・・だったみたいね?」


にこやかにそう言う由衣は表情は穏やかであった。だが、唯一笑っていない目に加えて全身から発するオーラはどす黒く、周人の背筋を寒くしていった。嫌な汗をかくのを感じながらどうしたものかと思案する周人を押しのけて由衣が玄関の前に仁王立ちした。


「あんたたち、何やってんのかしら?」


極めて冷静な口調でそう言う由衣だが、その全身から発するオーラはさっきよりも大きくなっている。だがそれすら受け流すお嬢様2人は目標を共通の敵である由衣へと変えて攻撃を開始し始めた。


「何って、今日からここへ住み込みよ」

「隣に越してきましたの」


平然とそう言い切る2人を凄まじい形相で睨んだ由衣は目を閉じて怒りに身を震わせた。自分ですらこの3ヶ月間満足に会えない寂しい想いをし、ようやくそれも解消されるという今になってこの2人という邪魔者が入ってきたのだ。会えなかったという鬱憤もあって、ついに由衣の怒りは頂点に達してしまった。


「出ていけ!さっさと出ていけぇ!」


玄関の外を指さしてそう怒鳴る由衣だったが、2人はその言葉を鼻であざ笑う。その態度が由衣の怒りをさらに煽ったが、それに恐怖しているのは周人のみだ。


「あなたが出て行きなさいよ」

「私は周人に来てくれって言われたの!」

「だからって私が出ていく必要はないわね」

「ある!」


さっきまで口論していたお嬢様コンビだったが、今は見事な連携プレーで由衣を攻撃していった。


「というか、マジで邪魔だから2人とも出ていってくれ」


事の成り行きを黙って見守っていただけの周人がここへ来てようやく言葉を発した。正確には口を挟めない状態であったのだが、そうも言っていられない。強めの口調ながら静かにそう言った周人を見ながらもそこから動こうとしない2人に、さらに周人は出ていくように強く言い放った。渋々ながら隣の部屋へと戻る紫織だったが、アリスは壁にもたれるようにして全く出ていく気配を見せなかった。さすがに頭に来たのか、周人はアリスの前に立つ。睨む周人を見上げるアリスはすました顔をしており、まるで悪びることもしない。


「いいわ、出ていく。でも、また来るわ。毎日ね」


部屋の奥へと消えたアリスは手荷物をまとめて自分を睨み続ける周人の脇をすり抜けるとそそくさと靴を履いて玄関先に立った。そのまま由衣を睨むようにすると鼻息も荒くエレベーターの方へと向かっていった。ようやく静かになったのを確認した周人はそっと音を殺すようにしてドアを閉める。ため息をつきながら由衣に中へ入るようにうながしたが、由衣は玄関から動こうとはしなかった。


「どうした?」

「もう・・・ヤダ」


つぶやくようにそう言う由衣は顔を伏せがちにしていた。電気の灯っていない薄暗い玄関にいるため、その表情もよく見えない。


「なんで?なんでこうなるの?私、ずっと我慢してきたのよ・・・・3ヶ月間、ろくに会えなくても、声を聞くだけで・・・我慢してた」


そう心の中の気持ちを口にした由衣の声は震えていて、涙声のようになっていた。周人は胸が締め付けられる思いでそこに立ちつくし、何も言えずにただ由衣の横顔を見ることしかできなかった。


「なんか、あの2人見てたら、我慢してたのがバカみたい・・・・後から来て、私を無視して2人の間に土足で上がり込んできて・・・・・」

「由衣・・・・」


名前を呼んであげることしかできない自分を情けないと思う周人が1歩を踏み出した時、由衣が顔を上げた。その頬を伝う涙は周人の胸をさらに激しく締め付け、気持ちも重く沈んでいった。


「我慢して我慢して、ようやく会えるようになったのに!私は・・・何?あなたの彼女よねぇ?違う?私は・・・・・・・・・こんな苦しい想いをするために周人を好きになったわけじゃない!」


怒鳴るようにそう言う由衣の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。今まで我慢していたものが、耐えてきたものがせきを切ったように溢れ出ていくのを感じながらそう言い放った由衣の言葉に、周人はどう返していいかわからずに苦しげな顔をして由衣を見つめるしかなかった。


「まだ始まったばっかで、私の中で彼女なんだって自覚がないからかもしれない。でも、不安なの!ずっと毎日不安なの!周人は優しいから・・・・誰からも好かれそうで、私より好きな人が出来るんじゃないかって・・・・いつも不安なの・・・」


周人が自分をどこまで好いてくれているかが、由衣にはわからなかった。仕事優先になっていたせいもあって、自分をどこまで大切に思ってくれているのかがわからずにずっと不安だった。それでもここまで我慢してこれたのは3年間ずっと周人を想い続けた自分に対する自信があったからだった。だが、そんな自信もアリスと紫織、2人の乱入によってもろくも崩れ去ってしまったのだ。特に自分がいなかった、会えなかった空白の時間を過ごしていたアリスに対する嫉妬は自分でも信じられないほど大きくなっていたのだ。だが周人が悪いわけではない。周人はきちんと2人に対し、自分が好きな人は由衣だとはっきり宣言していた。それでも由衣にとっての小さな不安をより大きなものにするには十分すぎたのだ。由衣は涙を流しながらも周人に背を向けた。そしてそのまま出ていこうとする由衣の腕をとっさに掴んだ周人にピクッと反応してみせたが、決して振り返る事はなかった。


「確かに、悪かったと思ってる。お前をほったらかしにしてたツケが今、回ってきてるって思ってる・・・だからってお前以外の人を好きになれるほど、オレは器用じゃない」

「それはわかってる・・・・でも、ダメ・・・・」


その『ダメ』という言葉が周人の中で重く、そして暗い影を落とす。鼓動が激しくなり、胸が痛む。


「今はダメだ・・・・」

「じゃ・・・じゃぁどうすればいい?どうすれば気が晴れるんだ?」


周人が想像する最悪の事態を回避すべく、ややうわずった声を上げたその言葉に、ゆっくりとした口調で由衣が返事を返した。


「あの2人をきっぱりと否定してもう現れないようにして・・・それまでは・・・会いたくない・・・・」


掴んでいる周人の手を振りほどくと、由衣は振り返って悲しげな表情を浮かべて見せた。


「私が・・・・わがままなの・・・忘れたの?」


そう言い残して由衣は玄関を飛び出していった。すぐに後を追う周人が由衣に追いついた時には、すでにエレベーターに乗り込んだ後だった。すぐさまボタンを押してドアを開いた周人がそれに乗り込もうとした瞬間だった。


「こないでっ!」


その由衣の叫びに、周人の足は踏み出すことをしなかった。静かに閉まる扉の向こうにいる由衣は悲しげな表情を崩すことはなかった。そのまま下へと降りていったエレベーターを追う事もできずに、ただそこにたたずむしかない周人は明るく光る上下ボタンのすぐ横に力一杯拳をめり込ませる。壁にも、拳にも異常は見られなかったが、そのやりきれない想いは痛いほど周人の胸を締め付けるのだった。

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