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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十一章
62/127

私の周人さま(5)

講義すら耳に入っていない様子の由衣を横目に見ながら、真琴はどう声をかけたものかと思案していた。手にアゴをついてぼんやりしている由衣はそんな真琴の視線に気付いていないのか、ずっと教壇やや上の壁をぼーっと見つめているのだ。やはり昨日の紫織が原因で彼氏ともめたのかと思った真琴は思いきって話を切り出すことにし、午後からの講義を無視して由衣を外へと誘い出した。2人はバスで電車の駅まで移動すると、よく行くケーキが美味しい喫茶店へと入った。元々ケーキの販売のみを行っていたこの店は幾度かの改装の際に敷地を広げ、中に2階建ての喫茶店を設置したのだ。白い壁に統一された清潔感溢れる店内には外国製のガラスコップなどがケースの中に飾られており、その他にも小さな手の平ほどの壺のような形をした砂糖入れやミルク入れに施されたかわいい絵柄なども女子高生から若いOLにまで幅広く人気を博していた。それにコーヒーカップを置くソーサーは貝殻の形をしており、すべてがおしゃれにまとまっているのだ。何より、テラスもあるこの店はスイスの山小屋をイメージした赤い急な角度の屋根や丸太づくりの外観も駅前では人目に付き、雑誌に取り上げられるほど有名であった。2人は運良くすぐに席に案内された。前回来た時などはあまりの人の多さに入店をあきらめたほどであったのだ。2階の窓際に案内された2人は窓の方に向かって設置されたカウンターの椅子に腰掛けると、高架になった駅を眺められるその景色を楽しみながらウインナーコーヒーのケーキセットを注文した。真琴は大好きな苺をたくさんあしらったものをチョイスし、由衣はシンプルなショートケーキを注文した。学校にいるときより幾分か明るくなっていたため、ちょうどいい具合に話しやすくなったと感じた真琴はすかさずこのチャンスを生かして話を始めた。


「ねぇ、やっぱ昨日、何かあったの?」


いきなりそう切り出された由衣は一瞬とぼけようかと思ったのだが、モヤモヤした気持ちを真琴に話す事によって晴らせるかもしれないと考え、正直に昨日あった出来事を話して聞かせた。紫織からの電話やアリスの来訪まで、なるべく事細かに状況を説明し、さらに自分が感じたり今思っている事を話して聞かせた。注文した物が出されても由衣は話を続け、真琴は黙ってその話を聞き入った。


「とにかく、彼は悪くはないんだ。でも・・・やっぱ納得できないっていうか・・・」


その言葉に真琴はうなずいた。今の話を聞く限り確かに周人は悪くはないし、そのアリスとかいうアメリカ人に問題がある。


「まぁ、この3ヶ月、ろくに会えなかった。んで、どこかモヤモヤしてた所へ馬鹿なお嬢様が2人割り込んできた。キレたあんたは正常だよ」


真琴はそう言うとコーヒーに砂糖を入れた。由衣はため息をつくと再度駅の方に視線をやった。


「でも彼には悪いことしたなぁって思ってるんだ」

「そうかな?」


真琴はケーキを丁寧にフォークでつつきながらあっけらかんとそう言いきった。由衣はその返事に真琴を見やったが、ケーキを口に運ぶ真琴は言葉同様あっけらかんとした表情をしている。


「だってさ、アメリカで何があったか知らないけど、その女にビシッとしてたらこうはならなかったわけでしょ?」

「まぁ、そうかもしれないけど・・・」

「もしかしたらその女の言うことが真実かもしれないじゃん?」

「それはない!」


きっぱりと否定した由衣に意地悪っぽい笑みを浮かべた真琴はその表情を見てどこか安心したような表情を浮かべた。由衣は怒ったような表情をしたまま真琴を見ている。そんな由衣を無視してケーキを頬張る真琴は一口コーヒーを飲んで間を開けると、再度ケーキをつつきながら言葉を発した。


「なんだかんだで、信じてるじゃん」


その言葉に目を丸くする由衣は少々頬を赤らめながらも照れを隠すかのように自分のケーキを頬張った。そんな由衣を見てくすりと笑う真琴は頑張れと声をかけると残りのケーキを綺麗に平らげたのだった。顔の火照りを冷ますため真琴の方を向かずに頑張ると返事を返した由衣は励ましをくれた真琴に感謝し、友達で良かったと心底嬉しくなるのだった。


一番最後に自分が指揮をとる部署、周人たちがいるフロアに案内した大神は周人が席を空けている事を願っていた。アメリカにいた頃、父親に連れられて工場見学に来たアリスは道に迷ってしまい、途方に暮れていたところで周人に出会ったのだ。当時アメリカに来て2年経つ周人は日常会話をこなせる程度の英語力も身につけ、遠征でよく行っていたドイツやイタリアの言葉も多少なりとも話せるようになっていた。迷子になったアリスは混乱し、早口でまくしたてたせいか良く言葉を聞き取れなかった周人だったが、丁寧な口調と物腰で落ち着かせて父親のいる建屋まで案内した後、大神に連絡を取って問題を解決したのだ。同年代の男性や父親の知人の息子などには全く興味が無かったアリスは男は皆金を目的に近づき、優しくしてくれるものだと思っていた。だからか、身分を知らぬ自分にこうまで優しく接してくれた周人を好きになり、暇さえあれば工場に姿を見せていたのだった。ロサンゼルス郊外にあるその工場とアリスの豪邸は距離にして少々離れていたのだが、わざわざアリス専用の従者に車を出させて工場まで通っていたのだ。周人は仕事の合間を見てアリスの相手もしていたが、ある日突然の告白を受け、困惑しながらも丁寧にそれを断った。周人の心には別れを告げた由衣の存在があり、2年経った今でもその人が好きなのだとアリスに言って聞かせたのだ。だがそんなことなどお構いなしのアリスは結局周人が日本へ帰るその日まで積極的にアプローチを続けたのだった。最後には父親に頼み込んで周人の帰国を止めさせようとしたのだがもちろんそれは却下され、仕方なく今回の極秘来日を決意した次第だったのだ。とにかく、今回の来日で周人から由衣を引き剥がし、自分が彼女になろうと考えたアリスは心理的に由衣を追いつめる作戦を思いついたのだ。ストレートに周人に迫っても無駄なことは承知済みである。ならば恋人の由衣をどうにかすればいい。毎日押し掛け、自分が周人と距離を縮めながら由衣との距離を開けさせる作戦を思いついたアリスは菅生にコンタクトを取ってまず工場の人間に自分の存在をアピールする事にしたのだ。だが、そんな事は菅生や大神にはすっかり見抜かれているとも知らないアリスは意気揚々と周人のいるオフィスに足を踏み入れた。


「シュートの席はどこ?」


幼い頃から日本語とドイツ語を習っているアリスは流暢な日本語でそう質問をした。大神は周人の席を指さしたが、そこには周人はいなかった。どうやら席を外しているようであり、大神は顔には出さずに内心ほくそ笑んだ。


「あそこですが、あいにく席を外しているようです」


その言葉に納得できないのか、キョロキョロと周囲を見渡すアリスだったが、どこにも周人の姿は見あたらなかった。明らかに落胆したような、すねたような表情を浮かべたアリスは大神の説明も上の空であり、渋々そのフロアを後にしたのだった。そしてエレベーターホールに戻った2人は下へ降りるエレベーターを待つ。2機あるエレベーターは共に上へと向かっていた。そして向かって右側のエレベーターが止まり、静かに扉が左右へと開かれる。中から姿を現したのは短い髪を逆立てたレンズ幅の狭い眼鏡をかけた遠藤であった。遠藤は大神に軽く頭を下げると横に立っているアリスへと目をやった。


「あ、こちらクロスフォード社のご令嬢、アリス・クロスフォードさんだ。こちらは遠藤です。ハードウェア部門の者です」


そう紹介された遠藤は軽い笑みを浮かべて会釈をしてみせた。アリスはさも興味なさそうに小さく頭を下げたのみですぐにエレベーターへと向き直った。最上階である4階に止まったエレベーターは遠藤を紹介している際に下へと降りてしまった。再度下へのボタンを押し、もう1機のエレベーターが3階から上昇を始めたのを見たアリスはつまらなさそうに視線を落とした。そんなアリスの様子をどこか怪訝な目で見ていた遠藤はすぐにその場から立ち去ろうと2人に背を向けたその時、アリスの奇声にも似た声にあわててそちらを振り返る。そこではアリスが今エレベーターから降り立った周人に抱きついており、大神が困ったような顔してその様子を見ている姿が確認できた。


「シュート!もお~、どこに行ってたの?」

「お前・・・なんで、ここに?」


英語のアリスに日本語の周人だったが、会話は成立しているようで、


「会いに来たの!見学兼ねて」


と英語で言葉を続けるアリス。遠藤はアリスに困惑する周人を見ながら先日会った由衣の事を思い出していた。そして意味ありげな笑みを周人に向けるとその場を立ち去っていった。周人はそんな遠藤の表情に気付いていたが今はそれどころではない。引き剥がすようにアリスとの距離を開けると大神に救いを求める目線を送ったが、無情にもサッと逸らされてしまった。


ショールーム脇のリフレッシュルームへと向かった大神とアリス、そして周人はテーブルの上に置かれたジュースとコーヒーを手にしながらこの工場の事についての話をしていた。アメリカの工場に比べれば規模は小さめだが、国内ではそれなりに大きいここはアリスにとっても新鮮だった。もちろん見学という名目で潜入したため、こういった話題も振らなくてはならなかったアリスだが、こうやって周人と話ができれば何でもよかったのだ。そうこうしている内に定時まであと30分と迫った時に大神が呼び出され、休憩室にはアリスと周人のみが残されてしまった。


「今日はすぐに帰れるの?」

「ん?ん~・・・まぁな」


嫌な予感を覚えつつそう返事をした周人だったが、昨日の事もあって今日は由衣と話をしたいと思っていたのだ。だが今日は水曜日、塾のバイトがある由衣と会うには早くても午後9時以降になってしまう。まだ未成年な由衣を気遣っていつも必ず10時までには家に帰すようにしていた周人にとって、今日会うことは難しいと考えていた。


「ユイとデートかしら?」


どこか意地悪な笑みを浮かべつつそう言うアリスに苦い顔を返す周人は何も答えずにコーヒーを飲み干した。その事からも昨日あれから何かしらのトラブルがあったと悟ったアリスは内心ほくそ笑みながら目を細めて周人を見やった。


「お前、いつまで日本にいる気なんだ?」


肘をついて疲れたようにそう言う周人を気にもせず、アリスは終始笑顔を絶やさない。


「ビザは半年先まであるし、ま、周人が私の彼氏になるまでかな」


いけしゃあしゃあとそう言い放つアリスにげんなりした周人はもはや返す言葉も失って大きなため息をつくしかなかった。


「オレはユイ以外に興味はない。さっさと帰るんだな」


冷たい目をしてそう言う周人に少し表情を堅くしたアリスは唇を尖らせてすねた顔をするしかなかった。もちろんだからといって、はいそうですかと引き下がるアリスではない。こうして周人にあしらわれるのは計算済みであり、本来の目的は別にあるのだ。今日はまずその第一歩にしかすぎない。そのまま会話もなく定時を告げるチャイムが鳴り響いた。それと同時に用事を済ませた大神が戻ってきたため、周人はアリスに別れを告げてオフィスへと戻っていった。


17時半で定時となるこの工場では基本的に水曜日は残業しないようにとの決めごとがあった。もちろん、納期や仕事の負荷などによって変化してくるのだがこの日は大半が定時であがるようになっていた。今までは毎日が残業で休日もなかった周人だったが、ここへきてようやく仕事が落ち着き、社長の命令もあって今日は大人しく帰る事にしていた。出来ることならこのまま由衣がバイトを終える時間を待って塾に行こうかと考えたのだが、昨日の一件以来メールも電話も音信不通となっているため、周人はどこか不安な気持ちで今日1日を過ごしていたせいか少々弱気になっていて迷いが生じていた。自分を冷静に保つために帰っていった由衣の背中が妙に脳裏に焼き付いていて心に重たい物を残している今、周人はその重荷を一刻も早く取り除きたいのだ。やはり意を決して由衣に会う覚悟を決めた周人は駐車場へとやや早足で向かう。一番奥に止めてあるジェネシックが見えてきたと同時に、2台の間隔を置いてフェニックスの姿も確認できる。遠藤が置いたであろうそのフェニックスは、今朝周人が来た時にはまだ置かれていなかったのだ。それどころかかなり空いているにもかかわらずわざわざ周人の車のそばに止めてあるようだった。鼻でため息をついた周人が鞄の中で鳴り響く携帯の音に気付いてあわてて電話を取り出し、その相手の名前を見てさらにあわてふためく。液晶のカラーディスプレイに表示されているその名前は『由衣』だったのだ。そして電話を繋げたその瞬間、背後から何者かに抱きつかれ、声を発することもできずに前につんのめってしまった。


『もしもし?』


電話の向こうで由衣がそう言っているが、首に腕を回しておぶさるようにしているその人物の方を見やる事で精一杯の周人は由衣に返事を返せない。


「シュート!一緒に帰ろ!」

「ア、アリス?」


何とか振り返った周人の首に腕を絡めて放さないアリスはいたずらっぽい笑顔で周人を見つめている。仕方なくそのままの態勢でとにかく電話に出た周人だったが、体を合わせるように擦り寄るアリスの邪魔もあって満足に電話を耳元に持っていけない。自慢の大きな胸をこすりつけるようにして迫るアリスをうっとおしいと思う周人は力任せに腕を振りほどき、あわてて電話を耳に当てた。


「も、もしもし」


だが電話の向こうでは沈黙が流れている。既に心臓が痛いほど動き、胸の中も重苦しい物で一杯になっていくのを感じる周人は冷や汗をかきながら再度『もしもし』と声をかけた。


『バカ周人!』


その言葉の直後、ブチッという音を残して電話は切れてしまった。ガックリとうなだれる周人はなおもまとわりつくアリスを睨み付けると、さっさと車に向かった。歩きながら由衣に電話をするが、着信拒否をされているのか出ることはなかった。大きなため息をつきながら携帯電話を握りつぶさんと力を込める周人は後ろからノコノコ着いてくるアリスの気配を感じながらも完全に無視を決め込んだ。


「アンロック!」


明らかに怒りを含んだ声でそう告げる周人の背後から、低い男の声で同じ言葉が発せられるのが聞こえてくる。


「アンロック、フェニックス」

『了解、解除します』


ロックの解除を告げた男の声とは対照的に、機械的な女性の声でそう響いた音声に続いてガコンという音が鳴ってドアロックが解除された。周人はチラッと横目でそっちを見やると、そこに立っていた遠藤が車に乗り込む姿が見て取れた。周人はジェネシックのドアを開くと同じようにさっさと乗り込む。すぐにドアを閉じた周人は助手席の横に立って中を覗いているアリスに気付いたが、ドアロックを解除することはなかった。そのまま疲れたような、怒ったような表情のままアリスを気遣ってゆっくりと車を進めた。さすがに観念したのか車から少し下がったアリスは腕組みをして去っていく車の後ろ姿を忌々しそうに見送っていた。だが、由衣に対する効果はあったと確信するアリスは周人に嫌われてしまった事など頭にないのか、意味ありげな笑みを浮かべてみせる。そんなアリスをジッと見ていた遠藤は一旦車から降りるとエンジンをかけたままでアリスのそばに近寄っていった。


「木戸も冷たいですね」


有名大学を出ているせいかはわからないが、流暢な英語でそう言う遠藤はジェネシックが走り去って出ていった正門の方を見ていた。アリスは腕組みしたまま値踏みするかのごとく足下から見上げるように遠藤を見やる。濃紺のスーツに濃い赤色したネクタイをし、昼間にかけていた眼鏡をしていない遠藤はこれぞエリートといわんばかりのスタイルと表情をしている。周人とは対照的な堅い雰囲気を持つこの遠藤に片眉を上げて怪訝な顔をしてみせたアリスはそうねとだけつぶやくと元来た道を戻っていこうとした。


「よろしければ送っていきましょうか?」


無表情のまま、どこか機械的にそう言う遠藤を振り返ったアリスは明らかに怪しむ表情をしながらもその足を止めた。しばらく無言で向き合っていた2人だったが、アリスは小さな笑みを見せて遠藤に近づいていった。


「シュートの車を追跡できるのなら、送って頂きたいわね」


まるで出来ないような口調でそう言うアリスに不適な笑みを浮かべる遠藤は助手席の方へと移動してそのドアを開いて見せた。


「なら話は早い、お乗り下さい」


自信満々の笑みを浮かべ、鋭い目つきでそう言い放った遠藤は丁寧な物腰でアリスに対して乗るようにうながした。アリスはその表情や雰囲気からそれができると判断し、ツカツカと遠藤のいる方に歩むとさっさと車に乗り込んだ。遠藤は丁寧にドアを閉めると早足で運転席へと向かう。人が長時間運転する際に楽な姿勢を保てるように設計されているシートに身を沈めると、車内正面中央、普通の車同様カーナビが設置されている画面を点けると下にある小さなボタンを操作して立体的な地図を表示させて見せた。かなりリアルに表現されたその地図に感嘆の吐息を漏らしたアリスを見やりながら、遠藤はその下にはめ込まれていた小さなキーボードを取り外した。


「この車は木戸の車の兄弟マシンでして、GPSで特殊信号をキャッチできるようになっているのです。いわば簡単な盗難防止用ナビゲーションシステムですね」


軽快に、まるでピアノを弾くかのように、しかも間違えることなく小さなキーを素早く押していく遠藤は画面上に動く赤い丸印を点滅させた。それを確認してから元あった場所にキーボードをはめ込むと、シートベルトをして車体と同じ色をした赤いハンドルを握りしめた。アリスがベルトを着用したのを確認した遠藤は独特の低いエンジン音を響かせながらゆっくり門へと車を走らせていく。


「赤い点が木戸のジェネシックです。追尾します」

「頼むわ」


周人といる時にはなかった大人の口調でそう言うアリスに遠藤は無表情でうなずいた。アリスのコロンが車の芳香剤に勝るのか、ハーブの香りではない甘い匂いが妙に遠藤の鼻をくすぐるのだった。


周人がさくら西塾の駐輪場となっている空き地の脇に車を止めたのが午後6時30分過ぎであった。今日は7時から授業を行う由衣はおそらく準備中で職員室の中であろう。さっきの電話のせいでおそらく会っても満足に話もできないとはわかっていたが、話をしなければ何も解決しない。やや重い足取りながら車を降りた周人はまっすぐに職員室へと向かった。かつてここでバイトしていた頃を思い出し、何か懐かしい思いが胸を駆けめぐるがそれはすぐにかき消えてしまった。どんよりした重い心で職員室のドアを開こうとしたその時、2階からドアが開く音がしたためそっちを振り仰ぐ。そこに立っていたのは由衣であり、周人を見るや一瞬驚いたような顔をしてみせたがすぐにしかめっ面となり、そっぽを向いたまま鉄製の階段をゆっくりと下りてきた。


「あ、その・・・ちょっと話、いいかな?」


ばつが悪そうにした態度が余計に気にくわない由衣はねめつけるように階段の上から見下ろすと、フンと鼻息を鳴らした。


「今日、見学とか言ってアリスがやって来たんだ・・・・それで帰る間際に・・・」


話をしている周人の脇をすり抜ける由衣は階段を下りきって職員室のドアの前に立った。


「それぐらいわかってる・・・・気分は良くないけどね」


周人に背中を向けたまま素っ気なくそう言い放つ由衣に、周人の気持ちはいくらか和らいだ。だが、相変わらずの重苦しい空気は消えることはなく、周人の心の重さも取れてはいない。


「すまなかった・・・・こうなることを予測するべきだったと思う」

「もっと反省しなさい」


素直に謝った周人に対して気持ちが落ち着いたのか、そう言う由衣の口調は穏やかであった。くるりと身体を回して周人の方を向いた由衣は唇を尖らせてすねたような表情をしているものの雰囲気は柔らかい。周人は再度ゴメンと謝ると頭を下げた。そんな様子を見た由衣は小さく微笑みを浮かべると1歩周人に近づいた。だが、その由衣の表情が徐々に曇っていくのを不思議そうに見やる周人は、由衣を気にしながらもゆっくりと彼女が見つめる背後を振り向いた。周人の車のすぐ横につけられた見覚えのある赤い車、それはまぎれもなく遠藤の所有するフェニックスに間違いはない。市販車にはないその独特の形状は周人のマシンであるジェネシックによく似ており、隣合って並ぶ今、それらは色違いのマシンにしか見えないほどである。縦に開いていく助手席のドアから金髪を掻き上げる仕草をしてアリスが姿を現す。次いで運転席からはスーツ姿の遠藤が降り立った。アリスは喜色満面で周人のそばに歩み寄り、それを睨み付ける由衣とは対照的な表情をしていた。周人もまた疲れたような表情をしてあからさまに大きなため息をつきながら腕組みをした。


「ハァ~イ!」

「はぁいじゃねぇよ・・・・」


日本語でそうつぶやくが、それが理解できるアリスは不満そうな顔をして見せた。


「ちょっと、あんたいい加減にしなさいよ!」


腕組みしてアリスを睨む由衣を、これまた腰に手をやってふんぞりかえらんばかりの態度で睨み返すアリス。間に挟まれた周人は困った顔をする以外になかった。


「いい加減にするのはあんたよ!さっさと別れなさい!周人もそれを望んでるわ!」


図々しくもそう言い放つアリスに全身から怒りのオーラをみなぎらせる由衣だったが、その怒りが爆発する前に周人がアリスを睨み付けた。


「オレはそんなもの望んじゃいない・・・いい加減にしろよ」


怒気を含んだ口調と殺気にも似た気を全身から発しながらそう低い声で言う周人にアリスは背中が冷たくなるのを感じていたが、プライドからか決してそれを表には出さなかった。


「わかったわ・・・・」


意外とあっさりそう言うと、もう1度由衣を睨み付ける。由衣が勝ち誇った顔をしてクスッと笑うのを見たアリスは冷たい目で睨み付けると、サッときびすを返して遠藤の待つ車の方へと向かっていった。その遠藤を睨むようにした視線を向けた周人だったが、遠藤は肩をすくめる仕草を取るとすぐに車に乗り込んでしまった。アリスがシートに座るのを確認した遠藤はハンドルのそばにあるボタンを操作して2つのドアを同時に閉めると塾の前を通過して大通りへと消えていった。


「ムカツク女・・・」


吐き捨てるようにそう言う由衣を見て苦笑する周人はどこか疲れたような表情をしていた。そんな周人を見て小さな微笑みを浮かべる由衣はそっと周人の手を握った。


「ビシッと言ってくれたから、嬉しかった」

「そりゃぁまぁ・・・当たり前でしょ」


手を握り返しながらそう言う周人の言葉に笑顔を見せた由衣は昨日からのわだかまりが胸から消えていくような気がしていた。


「明日、よかったら晩飯作りに来てほしい。絶対定時で帰るからさ」

「仕方ないなぁ・・・」


そう言いながらもどこか嬉しそうな由衣を見て、周人は淡い笑みを浮かべて見せた。3年前から何度見てもこの微笑の前に顔を赤くしてしまう由衣は今回もまた顔を赤らめた。


「わかった、明日行くね」

「ありがとう」


お互い今回のアリスの件で心の距離がさらに縮まったような気がしていたせいか、もはや抱き合うほどに距離が近くなっていた。


「お熱いのは結構なんだけど、神聖な塾でキスとかはしないでよね」


ドアの横にある格子の付いた窓枠に手をついてジッと2人の様子をうかがっていた恵のその言葉にあわてふためいた2人は凄まじい速さで距離を開けるとお互いに背中を向け合って暗くなってきた空を見上げる仕草を取った。目を細めてジッと2人の姿を見やる恵はあからさまにため息をつくとピシャリと窓を閉めるのだった。


「忙しいみたいだけど、可愛い彼女ほったらかしにしちゃダメでしょう?」


インスタントコーヒーを机の上に置きながらそう言う恵に頭を下げるしかない周人は懐かしい職員室の空気に心が落ち着くのを感じていた。空き机に座るよう言われて座ったその席はかつて周人がバイトをしていた頃に座っていた席である。懐かしさの中、そっと机を撫でるようにしている周人に微笑みを浮かべた恵は別の人が使用しているその目の前の席に腰掛けた。時間は午後7時となっており、由衣は授業を行うべく2階へと上がっている。


「それには反省して、こまめに会うようにしたからさ」


周人は少々困った顔をしてコーヒーをすする。同じようにコップを口に当てた恵はいたずらっ子のような顔をしてテーブルに肘を付いてアゴを乗せた。


「あの子、何も言わないけどやっぱり寂しいのよ」

「わかってる・・・その上さっきのようなもめ事だ。いつ怒りが爆発してもおかしくないからね」

「多分、その件に関しては心配ないと思うよ。さっきの台詞、かっこよかったしさ」

「そう?ならいいんだけどね」


自信なさげにそうつぶやく周人に苦笑を漏らした恵は頭を掻く周人をジッと見つめていた。かつて好きだった、そしてフラれた相手を前にドキドキした感覚はもう無い。あるのはただ、今度恋をするにしてもこういう人を好きになりたいと願う気持ちだけである。この2人がどれだけお互いを好きでいるかはよく知っているつもりの恵にとって横恋慕をするほど野暮ではないのだ。


「羨ましいよ」


素直に自分の心の内を吐き出した恵はコーヒーをすすった。周人はその言葉の意味する所がイマイチ理解できずに小首を傾げたが、恵は何も答えることはなかった。


その日はバイクで塾に来ていたせいもあって、由衣は周人に先に帰るようにと告げていた。もちろんまだ心のどこかでモヤモヤした気持ちがあるのはわかっているのだが、それが周人に対するものではなく、アリスや紫織に対するものであることも理解していた。小テストをしている生徒たちを見ながらぼんやりとそんな事を考えていた由衣は小さなため息をつくと閉じられた窓へと視線を向けた。


「あれで懲りるやからじゃないしね」


小さく、誰にも聞こえないようにそうつぶやきを漏らしながら、憂鬱そうな表情を浮かべる由衣は窓の方から視線を外し、今度は白い床へと向けるのだった。

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