私の周人さま(3)
今日はこの後、久々のデートという事もあって普段着で来ていた周人が黒い小さめのリュックを片手にショールームにやってきたのは由衣と菅生がフロアを去ったちょうど三十分後であった。デバッグを終え、データを転送している間に帰り支度を整えた周人は片づけもそこそこにすぐさま降りてきたのだ。ちょうど展示されている『ジェネシック』と『フェニックス』のすぐ前にいた由衣と菅生の元へと急いでやって来た周人は笑顔を見せて迎えてくれた由衣に嬉しそうな顔をしてみせた。そんな2人の様子を微笑ましく見ていた菅生はその雰囲気を壊さぬようここで別れる事にした。
「じゃぁ、私はこれで。吾妻さん、さっきの話はこちらで責任をもって進めておきますので。木戸君、仕事仕事と彼女をないがしろにするのは厳禁だ!これは社長命令だからね!」
そのきついお言葉に反省の色を見せながら、はいと返事をした周人に満足そうな笑顔を見せた菅生は礼を言う由衣に会釈をするとそのままエレベーターホールへと向かうのだった。そんな菅生に深々と礼をした周人は隣にいる由衣をうながして駐車場へと向かう。前に住んでいた場所よりもさらに西、由衣の住むさくら谷よりも西にある桜野という場所にマンションを借りた周人はそこから車でこの池谷工場まで通っているのだ。通勤時間は二十分程度であり、電車やバスを利用しない分快適な時間を過ごせるのだ。この辺は田舎であり、他の企業の工場が所々にある程度なためか道路もよく空いていた。自分が勤務しているビルから少し南にある大きな駐車場にはポツリポツリとしか車は置かれていない。だが、平日ともなればここは色とりどりの車で埋め尽くされてしまうのだ。出口近くの場所に止められている白い車に近づいた2人は、そのすぐ近くに止まっている赤い車が動き出すのを目に留めた。それこそ、先ほどショールームに展示されていた『フェニックス』と呼ばれたマシンであった。フェニックスは太陽の光をまばゆいばかりに反射させながら2人のすぐ脇に一旦停車してみせた。
「よぉ、今お帰りか?」
開かれたウィンドウからこちらを見ている遠藤にそう声をかけた周人に対し、遠藤は睨むような視線を送っていた。そのことからも、ついさっき菅生が言っていた『ライバル関係』にあるという言葉を思い出した由衣はちょっと気まずいその雰囲気に少し戸惑ってしまった。
「あぁ、帰るところだ」
やはり冷たい口調で素っ気ない返事を返す遠藤に、由衣は漠然とした嫌悪感を抱いていた。
「じゃぁな、お疲れさん」
周人はそんな睨みなど全く気にならないのか、そう軽い口調で挨拶をした。相変わらず周人を睨んでいた遠藤は由衣へと視線を向け、薄い笑顔を浮かべて軽く頭を下げると低いエンジン音をうならせて出口へと走り去っていった。
「アンロック」
周人のその言葉を聞きながら工場の門を出て見えなくなったフェニックスのエンジン音を耳にしている由衣は小さなため息をついてしまった。今の遠藤の笑顔がどことなく不気味に思えてしまったからである。車のドアが開く音で我に返った由衣はすぐに助手席に乗り込む。
「社長と何を話してたんだ?」
別れ際に由衣に言った菅生の言葉が気になっていた周人はキーを差し込んでその上にある赤いボタンを押しながらそう質問を投げかけた。その瞬間エンジンがかかり、フェニックスと似た低いエンジン音が車体を通して体に伝わってきていた。ダブルワンとはまた違ったそのエンジン音、ゆったりしたシート、さらに複雑になった目の前にある様々な機器を見ながら由衣は車のモニターになる話をして聞かせようとした。だがそこで自分が免許を取った事をまだ告げていなかった事を思い出し、バッグから財布を取り出すとそこからカードのような物を取り出して周人に差し出した。眉をひそめながらもそれを手にした周人の顔が見る見る驚きに変わり、やがてそれは嬉しそうな笑顔に変わっていった。
「取れたんだ!しかも昨日じゃないか!何でもっと早く言ってくれないんだよ!」
「誰かさんが忙しそうだったから・・・・じゃなくて実際会って見せてびっくりさせたかったの」
一度嫌味っぽくそう言いながらもにこやかに、照れたようにそう言う由衣。
「十分驚いたって!おめでとう!やったなぁ!」
予想以上のリアクションとも言うべき両手離しで喜ぶ周人を見てさらに照れた笑みを浮かべる由衣は嬉しそうな顔をする周人に満足していた。このリアクションを見ればここまで押し掛けた甲斐もあったと言える。
「よぉし、じゃぁ記念だ!今日は由衣の運転で行こうか?」
「え?」
免許証を返した周人のその言葉に驚いた由衣は笑顔を一転、引きつった表情へと変化させた。由衣が取った免許はオートマチック車限定であり、このジェネシックはギアを操作している事からマニュアル車であることはわかっていた。
「でも私、オートマ専門だから・・・・」
あわてて断る由衣に意味ありげな顔をしてみせる周人はギアの横に並ぶいくつかのボタンの内、数個を軽やかに押してみせた。
「知らないな?こいつはセミオートに切り替えが可能なんだぜ」
そう言うと由衣に助手席から出るようにうながし、自分もまた助手席側へと向かった。断固として拒否していた由衣だったが、周人の根気に負けてしまい怖々と運転席のシートに身を埋めるようにしてみせた。周人の体に合わせていたシートはもちろん由衣には合わず調整しようとした矢先、再び周人が何やらボタンを操作すると勝手にシートが動き出し、由衣が運転しやすい態勢へと変化してしまった。驚く由衣はさっき菅生が言っていた車もこんな風なのかなと考えを巡らせた。
「ギアをこうやるとドライブ、こうやるとニュートラル、んで今の位置がパーキングだ。後はオートマと同じでクラッチは使わない」
シートベルトを着用する周人からギアの位置の指導を受けた由衣は緊張した顔をしながらも1つ1つ丁寧にうなずいた。言われるままにクラッチを踏まず、ギアを1つ入れてみる。そしてサイドブレーキを下げ、踏みしめていたブレーキをゆっくり離すとアクセルへと移動させた。
「行ってみよう!」
周人のそのかけ声に合わせてゆっくりとアクセルを踏み込んだ。車はそれにあわせてゆっくりと前に進んでいく。まずは道順に門へと向かうのだ。
「限界が来たらすぐに変わってやるから、心配しないで思い切って行こうな」
その優しい口調にいくらか落ち着きを取り戻した由衣は小さくうなずくと、緊張した面もちのまま車を走らせるのだった。
今日2人が向かったのは桜町の一番北に位置する桜北町と呼ばれる新興住宅街だった。2年前に出来たこの住宅街は山を切り開いてできており、さらにその中心地には大きなマーケットが出来ていた。アウトレットモールやシアターモール、さらにはアミューズメントモールまである桜町に出来た新たなるスポットとして注目を浴びているのだ。以前からここに行きたいという由衣のリクエストに応えた周人はここで映画を見たあと、買い物やゲームをして楽しむことを決めていた。今はちょうど昼過ぎであり、由衣の運転する車はこの住宅地が出来た際に整備された新しい、それでいて空いている道路を軽快に飛ばしていた。やはりジェネシックは目立つのか行き交う車や通行人の注目を集めたのだが、運転するだけで精一杯の由衣にとってはそんな事などまったく気付かない。速度も標識に準じた程度しか出ておらず、それでも初心者としては上出来な運転であった。やがてショッピングモールへと到着し、何度も切り返して出来た車庫入れも綺麗であった由衣は周人に褒められて笑顔を見せるのだった。道中はほとんど口もきけずに運転に集中していた由衣は少々疲れてしまったが、昼食を取る頃には興奮した感じで周人に運転した心境を話して聞かせていた。周人も嬉しそうにその話を聞き、これからは運転しやすい場所ではなるべく交代するようにと考えていた。その後2人は久々のデートを満喫した。映画を見てショッピングを楽しみ、さらにはゲームで対決をした。やはりというか、相変わらずゲームに弱い周人は由衣に完敗し、久々のプリクラも撮った。十分に2週間ぶりのデートを楽しんだ2人はその後少ししゃれたレストランで食事をし、周人の運転で帰路へと着くことになった。夜道は初心者には危険な為と、あまり緊張させて疲れさせてはいけないとの判断だった。
「でも、周人の仕事してる姿見れて、正直嬉しかったなぁ」
不意にそうつぶやくように言う言葉に、チラッと横目に由衣を見やった周人はとぼけた表情のまま車を走らせていた。
「でもさ、よく来たよなぁ・・・」
「ホントはあそこで社長さんに会わなかったら帰るとこだったんだ」
そう切り返し、朝の状況を簡単に報告した。門までは行ったのだが結局は会わずに帰ろうとしたこと。そこで運良く出会った社長との事や、車のモニターを頼まれたこと、さらには遠藤の事までを話したのだ。
「でもあの遠藤って人・・・・なんかヤな感じがした」
前を見据えながらあの時の状況を思い出していた由衣は、どこか冷たい目をしていた遠藤の事をそう報告した。笑顔を向けられながらも、どこかそれに嫌悪感を抱いていたのだ。憮然としたその口調に少々苦笑した周人だったが、日本に戻ってから何度も衝突している遠藤とは仲が良いとは言い難かった。アメリカでは気の知れた日本人4人だけのチームを組み、アメリカ人の現地スタッフとも仲良くのびのびとやっていた周人にとって、どこか雑然とした池谷工場のオフィスは少々息苦しい上に何かと周人にいちゃもんをつけてくる遠藤の存在はどちらかといえば邪魔であったのだ。
「オレもだ。どうも苦手っつーか・・・ヤな感じだ」
そう答えた周人は赤信号で車を停車させた。由衣の方を見やった周人は小さな笑みを浮かべて見せ、そんな周人を見た由衣は何がおかしいのかと不思議そうな表情をしてみせる。
「いや、さすがはオレの彼女、嫌いなタイプも一緒だなぁって思っただけだ」
その言葉に微笑む由衣は青に変わった信号を無言で指さした。それを見て車を発進させた周人はこの間から気になっていた事を口にした。
「ごめんな。何か、仕事優先でほったらかしにして・・・・」
せっかく付き合い始めたのものの満足に会うことすらできていない事をずっと気にしていた周人はその素直な気持ちを口にしたのだ。これまで文句1つ言わなかった由衣にすまない気持ちを持っていた周人はこれからは由衣を優先しようと考えていた。
「まぁ、それは気にしてないからいいよ・・・・そのかわり何か高い物買ってもらうから」
由衣はあっけらかんとした顔を周人に向けながらそう答えた。
「そうだな・・・クリスマスは奮発するよ」
「やったぁ!」
ガッツポーズを取る由衣を笑顔で見やる周人。その後由衣の家に着くまで2人は会話を弾ませて楽しい時間を過ごしたのだった。
午後十時ちょっと前に由衣の家の前に着いた車の中では、別れを惜しむ恋人たちのキスが交わされていた。近所の家の誰に見られているかわからないため、軽く唇が触れ合う程度だったが、2人にとっては至福の瞬間であった。由衣は笑顔のまま運転席側に回り込み、窓を開けている周人の方を見つめた。
「今日の分、明後日に代休取るからさ、また遊びに行こうな」
思わぬその言葉に由衣は驚きながらも満面の笑みを浮かべて見せた。今まで寂しかった分を取り戻してくれる周人の優しさに感謝しつつ、ドアの枠に置かれた手にそっと自分の手を重ねてみせた。
「うん。じゃぁ気をつけてね」
「あぁ、また明日電話するからさ」
お互いに手を振りながら別れを告げた2人は方や車を走らせ、方やそれを見送った後に家の中へと入っていくのだった。由衣も周人も、満足そうな笑顔を浮かべながら。
「お疲れさまぁ」
更衣室で着替えていた由衣はさっきまで自分が着ていた撮影用の衣服を丁寧な手つきで壁に掛けていった。今日は雑誌の撮影があり、その撮影もついさっき終えたばかりだったのだ。更衣室といってもやや広めの部屋をあてがわれており、女性スタッフが2人ほどいる空間となっていた。テーブルや椅子もあって、ここでメイクが出来るようにもなっているのだ。由衣はさっさと着替えを済ませ、衣装を担当している二十七歳の女性スタッフにそれを手渡すと鏡の前に腰掛けて用意してくれていたウーロン茶を口にした。
「また来てたみたいよ、例の社長さん。あなたにCMを依頼したいって」
その女性スタッフはやや苦笑気味にそう言うと、目を閉じてガックリうなだれる由衣を見て深々とため息をついて見せた。
「私だったら飛びつくけどなぁ・・・CM出て、写真集出して、芸能界の仲間入りが出来るんだもんねぇ」
「いいの、私は!このモデルだけで・・・・・」
きつい口調と不機嫌そうな顔にスタッフは再度苦笑を漏らした。このバイトを始めて早3年近く、由衣は何度もとある芸能プロダクションの社長からCMの出演依頼と写真集を出版しようという話を持ちかけられていたのだ。だが、かたくなに拒否している由衣はただの1度もまともに話を聞かないでいたのだ。元々小遣い稼ぎのつもりで始めたバイトであり、芸能界にも興味はなかった。第一、今のこの生活が楽しい由衣にとって芸能活動で何かと縛られることを嫌ったのだ。何より周人がそばにいる今の由衣にとって、このモデルのバイトすらもわずらわしく感じているぐらいなのだ。午前中で授業を終え、昼食後すぐに始まった撮影が終わった今の時刻は午後2時半である。今日はもう帰るだけとなった由衣は帰り際に塾に寄って行こうと女性たちとの会話もそこそこに、撮影所を後にするのだった。
駅に止めてあった原付バイクを飛ばして塾に着いた由衣は職員室のドアノブに手を置いて体を固まらせていた。その表情も苦々しく、このまま中に入らずに帰ろうかと思ったほどこの中は緊迫した雰囲気となっているのだ。窓もドアも閉まっているにもかかわらず、恵の怒鳴り声が響き渡る。由衣はまたかと思いながらも意を決し、そっとドアを開いた。
「だからぁ、もっと大きな声で『はきはき』しないと生徒たちは誰もあなたの言うことを聞かないの!何度同じ事を言わせるわけっ?」
ヒステリックなその声はもう聞き慣れている由衣でもやはり緊張してしまう。ドアが開く音にそちらを睨み付けるような視線を送った恵はどこかすまなさそうに立っている由衣を見て渋い表情のまま軽く頭を下げて挨拶をしてみせた。由衣はドアのすぐ近くにある席に腰掛け、苦々しい笑顔でその挨拶に応えた。
「しっかりと今日の予習をしなさい!今日は私が後ろで見てるから、いいわね?」
さっき同様甲高い声で一気にまくし立てるようにそう言われた気の弱そうな男は小さくうなずくと、今にも泣きそうな顔を上げた。そしてそのまま椅子を回転させて机に向き直った男は由衣に背を向ける格好となった。
「まったく・・・で、あんたはどうしたの?」
怒鳴ったせいで喉が渇いたのか、自分の机の上に置いてあった小さなペットボトルのお茶を一口飲んで喉を潤した恵は機嫌悪そうな口調のままそうたずねた。まるで自分が怒られているような感覚に襲われながらも、由衣は恵から視線を外すことはなかった。
「昨日、ちゃんと押し掛けた・・・・・もう寂しい思いはさせないってはっきり言ってくれた」
由衣はやや声をひそめる感じでそう恵に報告すると、さっきまでの機嫌の悪さはどこへやら笑顔を見せて由衣の腕を引っ張り、恵は由衣を外へと連れ出した。そのまま空いている無人の2階へと向かった2人は誰もいない教室に入ると適当な席へと腰掛けるのだった。
「まさかマジで押し掛けるとは思わなかった。でもうまくいってよかったじゃん」
「うん・・・・これで気が楽になった。向こうの社長さんにも偶然会っちゃって、周人にいろいろ言ってくれたから。だから明日もまた会えるの」
恵はニヤけた顔をしながらもその言葉1つ1つに丁寧にうなずいていた。由衣は昨日スゴウ池谷工場であった事をかいつまんで話して聞かせた。恵は何も言わずに黙ってその話を聞き、時折嬉しそうな顔をしながらも口を挟むことはしなかった。
「何にせよ、よかったじゃない・・・・・」
由衣は自分が寂しい想いをしていたことは一切話さなかったが、恵は以前からそれを感じ取っていたため今回のこの話を聞いて心からよかったと思っていた。やはり職業柄か、そういった他人の見えない部分も見えるようになっていた恵は文句を1つも言わなかった由衣を心配していたのだ。不満を周囲にも周人にも漏らさずに溜め込んでいては、いつかはそれを爆発させてしまうからだ。
「そっちは万事解決ってわけね?」
「うん。明日午前中の授業が終わったら迎えに来てもらって、んでどこかへ行くつもり」
嬉しそうな顔をしている由衣を見る恵もまた嬉しそうである。だが、ふと何かを思い出したのか暗い表情と共に大きなため息をついてみせた。そしてその表情を出させた原因は由衣にもすぐにわかった。
「三宅君・・・・また、ですか?」
「そう・・・・あのバカは何度言ってもおろおろするから・・・だから生徒にナメられてるのよ・・・」
「それで・・・さっきのアレか」
さっき怒られていた三宅光二はつい2週間ほど前に入った新しいバイト講師である。だが、元々気が弱い性格からか教壇に立っても声が小さい上に自信がないのかしどろもどろな話し方になっているのだ。そのせいで生徒たちは言うことを聞かず、康男と恵の間で問題になっているほどであった。何度も恵に注意されながら一向に改善されないその授業内容に恵の雷は落ちっぱなしである。今度は由衣が恵の愚痴を聞き、なだめ役に回る。ひとしきりうっぷんを晴らすことができたのか、三十分もした頃には恵もややすっきりした表情に戻りつつあった。そして小1時間ほど話し込んだ2人が外に出た時、ちょうど階段の真下にいた康男が恵に目を留めて手を振っていた。
「すまんがちょっと話がある。吾妻さんは、暇つぶしかい?」
「はい」
「待っててくれるのなら夕飯どう?今日は今上でやってる小学生の授業で終わりだし」
その言葉に由衣は笑顔でOKした。康男は2度ほど由衣の肩を叩くと恵をともなって2階へと消えていった。まだ授業が終わるまで1時間ほどあるため、由衣は下の職員室で時間を潰すことにしたのだった。
職員室に戻った由衣は1人ポツンと座っている光二から多少なりとも離れている自分の席に座った。あの4年前にバイト講師で変異種だった大木雅史の起こした事件以来、ここで男性と2人きりになる事にはやはり抵抗があるというか、恐怖心を持っていたのだ。しかも今この塾には自分が絶対的な信頼をおいている周人がいない。たしかに塾長も強いのだがそれでも周人には及ばない。まだここへ来て2週間しか経っていないせいもあり、光二の事をよく知らない由衣にとってはまだまだ心の許せない人物であった。コーヒーを入れに行こうかと給湯室に目をやるが、そのためには光二のそばを通らねばならない。仕方なく鞄から今日撮影所でもらった雑誌を取りだした由衣は不意に席を立った光二の動きに思わず体をすくめてしまった。だが光二は由衣の方を見ることなく給湯室に向かうとコーヒーでも入れているのか、しばらくそこから出てこなかった。様子をうかがいつつ雑誌に目を通していた由衣は給湯室から姿を現し、自分を見ている光二に引きつった笑みを見せた。自分では精一杯の笑顔だったのだが、その笑顔もどこか怖い。
「あの・・・コーヒー入れておきましたんで、よかったら、どうぞ」
光二はか細い声でそう言うとそのまま自分の席には戻らずにトイレへと向かっていった。由衣はどうしたものかと迷ったのだが、ここでいらないというのも失礼であり、しかも自分は今、コーヒーを飲みたいと思っていたのだ。トイレに行っている隙にと早足で給湯室に向かった由衣は置かれていた白い湯気を上げるコーヒーをジッと見つめた。
「何か変なもの、入れてたりして・・・」
そう小さくつぶやき、今度はトイレの方へ顔を向ける。
「何か変なもの、仕掛けてたりして・・・」
再度小さくそうつぶやいた由衣はとりあえずそのコーヒーを手にとって自分の席に戻った。と同時に光二もトイレから出てきて自分の席へと向かった。その時、一瞬自分をチラッと見やった光二の顔を見た瞬間、何故かあの時の大木の顔を思い出し、体を硬直させながらギュッと目をつぶってしまった。
「ぼ、僕はそんなことしません!」
思わず口から出てしまったのか、光二はそう言った後にしまったという表情をして由衣に背を向けると椅子に腰掛けた。
「私、何も言ってないんだけど?」
ますます疑いの目を向ける由衣の視線を背中で受けながら、光二は自分の背中を流れる嫌な汗を感じていた。
「もしかして、あんた!」
由衣は思わず立ち上がり、身を守るようにしながら玄関へと後ずさりする。それを見た光二はあわてて立ち上がると両手と首をブンブン振って必死に否定した。
「ち、違います!僕はその大木って人とは・・・・ちが・・・」
「なんでそれを知ってるのよ!」
ますます墓穴を掘った光二は流れる汗を拭おうともせずに苦々しい表情を浮かべ、やがて力無く椅子にヘタリこむようにしてしまった。
「・・・そうです・・・・僕はあなたが思っている通り『変異種』って呼ばれる者です・・・・」
がっくりとうなだれながらそう弱々しくつぶやいた光二は組んだ手をギュッと強く握りしめた。さすがにその様子を見て敵意はないと感じた由衣はそれでも警戒を怠らずに固まらせた体のみを解きほぐした。
「僕は生まれつき五感が鋭くて、それ以外にも心の中の声も聞こえるし、1キロ先の物を見たり聞いたり感じたり出来る変人なんです。だけど、そのせいか身体能力は普通の人以下で・・・そんな人たちが『変異種』と呼ばれているのを聞いたのはつい最近のことで・・・」
泣いているのか、体を少し震わせながら弱々しくそう言う光二の声色もどこか震えているようであった。
「聞こえなくてもいい声まで聞こえてきてしまうんです。おかげで、怖くて怖くて・・・」
「じゃぁコーヒーを入れてくれたのは・・・・私の心の声を聞いたから?」
光二は弱々しくうなずいたのだが、決して顔を上げないでいた。由衣はゆっくりと息を吐き出すと、とりあえず一番近くの椅子に腰掛けた。
「勝手に聞こえてくる声は制御できなくて・・・でも信じてください、僕はあなたを襲うつもりもないです」
ようやく顔を上げた光二は泣いていた。だが、信じろと言われても信じられるわけもない。『変異種』と呼ばれる遺伝的に特殊な能力を持った人物から過去に襲われた経験がある以上、由衣にはどうしても警戒心が生まれてしまう。隙を見せた拍子に襲われる可能性も十分にあるのだ。
「もし、あたなを襲ったら、それこそあなたの彼氏さんに殺される」
その言葉を聞いた由衣は眉間にしわを寄せて怪訝な顔をしてみせる。何故光二が周人の事まで把握しているのかが不思議だった。自分がそんなに周人のことを考えていたのかと考えを巡らせる由衣の意識を感じ取った光二は、しっかりと由衣を見て静かに話を始めた。
「実は僕、青山さんと、あなたを見て、美人だからちょっと気になっちゃったんです。もちろん意識して心の中を探ろうとしたわじゃないんですけど、気になったら勝手に心の声が聞こえてきてしまって・・・そしたら、明るくしてるけど、暗いあなたが気になってしまって・・・・」
由衣はその言葉を聞いて苦々しい表情を浮かべて見せた。周人と会えない寂しさを押し殺し、普段と変わらぬ自分でいられたのだが、やはり心の中は不安や寂しさで一杯だったのだ。考える事と言えば周人の事ばかり。いろいろな思い出や、3年前の別れなどを何度も思い返していた自分がいた。そんな心の中を思いがけず覗いてしまった光二は由衣の想いから周人という人物像が手に取るように伝わってきていたのだ。
「すみません、勝手に人の心を覗いてしまって・・・でも、青山さんの心の中にもその人がいて・・・・」
そっと目を伏せるようにした光二は組んだ指をしきりに動かし、再度うつむいてしまった。由衣はそんな光二に目を向けると、意を決して光二の席まで歩き出した。自分のすぐ横まで来た由衣をゆっくり見上げた光二は泣きそうな顔をしたままであった。
「わかった。まぁ、とにかく信じるね。でも私に何かあればあなたの言うとおり私の彼は地の果てまでもあなたを追いかけていくからね!」
その言葉に、光二は力強くうなずいた。そこにはさっきまでの気の弱そうな光二の姿はない。そんな光二を見た由衣は小さく微笑むとそのまま自分の席へと歩き出した。そして心の中で、光二に聞こえるようにささやいてみせるのだった。
『あんまり変な事まで覗かないでね?』
「わ、わかってます・・・すみません・・・・」
はからずもその心を読んでしまった光二はあわててそう謝った。由衣はさらに笑みを浮かべると、そのまま何も言わずに自分の席に着いた。不思議なほどさっきまでの警戒心が薄れていく。それが何故だかわからなかったのだが、とりあえず今までよりも仲良くしていこうと考えながら雑誌を開き、入れてくれたコーヒーを口にするのだった。




