優しさの値段(6)
合宿まであと2日となり、本来今日は周人が授業を勤める日であったが急遽康男に変更された。合宿に向けての調整もあったせいで、周人はいつもより遅れて塾に行くことにした。当然ながら休みという事になるのだが、合宿前ということもあって何かとバタバタする塾を手伝う事になっているのだ。もちろん通常のアルバイト代とは別に特別料金も入るため、出るにこしたことはない。周人の自宅は桜町から少し外れた桜花町という場所にあるワンルームマンションである。実家は桜町から2つ隣のN県にあり、専門学校に通うために親元を離れて1人暮らしをしているのだった。そこから歩いて塾のあるさくら校までは10分足らず、さくら西校まではバイクで30分ほどかかる位置にあるのだが、マンションからは駅も近く、結構開けていて大きめのショッピングモールや商店街もあった。そこから西へ延びる道をひたすら走るとさくら谷駅の交差点へと出てくるのだ。その交差点で信号待ちをしている周人の胸ポケットで携帯が震えている。もうこの携帯を買ってからすでに1年は経つので今ではすっかり旧型である。現に周人のガラケーはスマホを使う由衣には時代遅れだとバカにされている。その携帯を取り出し、少しバイクを脇に寄せてヘルメットを脱ぐとすぐさまそれを左耳に当てた。電話の相手は康男であり、周人は周囲の車の音や電車の走行音に邪魔されながらも聞き取りにくい言葉を拾い上げていく。内容は由衣が学校の事情で遅れて来る、今さくら谷駅近くの公園の前にいるから拾って来て欲しいというものだった。ちょうど公園は目の前である周人は少し悩みながらもそれを承諾した。その悩みというか問題は彼女が自分のバイクの後に乗るかどうかである。今日は新城がいないものの、合宿へ向けての連絡事項もあるので行くのは行くだろうが、同じバイクに2人乗りをしてくれるかどうかは疑問であった。電話を切って懐にしまうと再度ヘルメットをかぶり、公園の入り口へ向けてバイクを走らせた。だが入り口付近に由衣の姿はおろか人の姿すらない。一旦バイクを入り口横に止めて時計を見た。時刻は19時20分である。15分にここで待ち合わせだという康男の言葉からしてすでにここにいなくてはならないのだ。まさか近づく自分を見て隠れたのではと思い、公園の中に足を踏み入れる。白に青い文字で何やら英語が書かれたTシャツを直しながら公園を見渡すが、やはり姿はない。ハイキングコースと銘打たれた道の脇に木が林立し、夏の夜ということもあってまだかなり明るいものの、高い木が多い公園内は薄暗く、どこか不気味であった。見渡す限り誰もいない雑木林のようなその並木を見やる周人は何故か胸騒ぎのようなものを感じた。何かが自分の頭の中で警鐘を打ち鳴らしている。こういう気持ちになったのは3年ぶりであり、その時はこれが的中したがために今でもトラウマとなって心に残る傷を負っている周人は周囲の気配を読むようにそっと目を閉じた。あんな思いは二度とごめんだ、そういう焦りもあるが心を落ち着かせる。これで何が分かるかわからないが、それでも神経を周囲へと集中させた。と、右側の林の中で何がざわめいている気配をかすかに感じる。本能的に何かを感じ取った周人はそこへ向けて走った。イヤな予感は大きくなる一方だ。一定の距離まで近づくとわざと音をさせないように近づいて再び気配を探る。すると奥から押し殺した男の声とうめき声のような物、落ち葉を踏みしめるような音が聞こえてきた。周人はゆっくりそこへ近づくと、そこに展開されている光景に目を見開くのだった。
*
由衣が公園に着いた時は19時10分ちょうどであった。そこから携帯で塾に電話し、5分後に人を寄越すという事で電話を切っていた。康男には今日遅れる事は以前からあらかじめ連絡済みであり、康男としては無難な八塚を寄越すつもりだったのだが、さくら校を出発した所で事故渋滞に巻き込まれてしまい、急遽遅れてくる周人に連絡を取ることになったのだった。最悪授業を遅らせて自分が行くことを覚悟していた康男の考えなど露も知らず、時計を見ながら公園入り口の石垣に腰を下ろした由衣の目の前をやかましい音をたてながら2台の原付きバイクが蛇行運転をして走行している。その白い原付きバイクのうち、1台は2人乗りである。3人は皆ヘルメットをかぶっておらず、茶色い髪をしていた。どちらかといえば金髪に近いその髪には黒髪も混ざり、虎の縞模様のようになっている者もいる。1人で乗っているバンダナをしたほとんど金髪の男が由衣に目を留めてバイクを強引にそちらに向けた。知った顔なのだろう、由衣は軽く手を挙げて腰を上げた。だぶだぶのズボンを履き、シワシワのTシャツを着た眉毛も無いように見えるほど細い、いかつい身なりだがこれでも同級生なのだった。
「よぉ、何やってんの?」
ガムをクチャクチャと噛みながらバンダナの少年はそう言ってけたたましいエンジン音を止めてマシンを降りた。2人乗りの原付きバイクの後ろに乗っていた縞模様の髪の少年もその横に並び、残った1人はマシンに乗ったままくつろいでいる。皆一様にドクロのピアスに怪しげな形状のネックレスをしていた。夏休みなど、長期休暇中はこういったスタイルを取っている連中だ。
「塾行くんだけど、迎えを待ってんの」
素っ気なくそう言うと目線を逸らす。由衣はさっき座っていた場所に腰掛けると何気なしに足を組んだ。短めのスカートから伸びるしなやかな素足を少年たちがチラチラ見ているのをお構いなしに。
「例のイケメンがいるってか?そいつが迎えに来んの?俺らが送ってってやろーか?」
道端に何度も唾を吐き出しながらそう言うバンダナの男はバイクに乗っている男を振り仰いだ。男はエンジンを止めるとそこから降りて2人の横に立つ。まるで由衣を取り囲むかのようにする3人に何かイヤなものを感じた由衣は立ち上がるとスカートの埃を払う仕草をして見せた。
「いいよ、もうすぐ来るからさ」
その仕草のままそう言うと、由衣は置いていた鞄を手に取った。
「なぁ、お前だから言ってんだよ?そのイケメンが好きなわけ?」
「そうね、あんたは好きでもないけど、その人は好きね・・・悪いけど」
そう目も合わせずに言ったことが失敗だった。不意に2人に脇を抱えられるとバンダナの男は動揺する由衣の腹部にパンチを入れた。その衝撃は内蔵を伝い、息も吸うことも吐くこともままならずにむせかえる由衣をそのまま強引に担いで公園の奥へと運ぶと、人気のない並木林に放り投げた。土の上には落ち葉があるとはいえ、背中からまともに落とされた由衣はさっきのダメージも回復していない上から気を失いそうなほどの激痛を感じてもんどりうった。ますます息もつまり、苦しさを倍増させる。
「バイクをどっかにやってこい・・・迎えが来ても気付かずに帰るようにな」
バンダナの男が縞模様の男にそう言うと、由衣の口にそのトレードマークとおぼしきバンダナを押し込んだ。ますます息苦しくなり、意識が朦朧とする由衣に馬乗りになったバンダナの男は由衣の腕を万歳のようにさせるともう1人の男にその腕を捕まえさせた。少しながら意識がはっきりしてきた由衣の眼前に男の顔が迫る。
「お前何様?って感じだったんだよね・・・・学校でもさ、男バカにしてよ!お前に泣かされた男の代わりに俺らが復讐してやるよ!」
ピンクのTシャツをづり上げる男はあらわになった薄いピンクの下着を見て興奮した声を上げた。
「やっぱデケェな・・・」
そう言うと押さえ込んでいる男と顔を見合わせてケラケラと下品に笑った。2人は興奮しきった感じでもはや目は血走っている。由衣の目から自然と涙が流れていた。恐怖が全身を伝い、思うように動かせない体をもどかしく思いながらもどうすることもできないのだ。こうなることなど想像もしたことがなかったからだ。身なりはどう見ても高校生のチンピラといった風貌のこの男たちと1度遊んだ事はある。その時はクラスの同級生とのボウリング大会で大人数だった事もあるが、このバンダナの男は執拗に由衣の傍に陣取り、何度も口説いてきたのだ。由衣は適当にあしらってその場をごまかし、それでも結局3品ほど買わせているのだった。それがこんな事になろうとは。大好きな新城にすら見せたことのない胸をこんな男どもに蹂躙され、汚されると思うと自然に涙が溢れてきたのだ。もちろんかなりの恐怖もあった。絶望で目の前が真っ暗になりながら、迎えに来た人が助けに来てくれる事を祈るしかない。
「万一だけど、ま、子供できたら産んでくれな?」
そう言って大笑いする目の前の男を睨むことも出来ずにギュッと目をつぶり全身に力を込める。自由になっている両足をばたつかせたが何の効果もない。もはやどうすることも出来ない絶望感に襲われた瞬間、男の発した意外な声に恐る恐る目を開いた。
「何?何、あんた?向こう行ってくんない?」
男が向けている視線の方へ顔を向けた由衣が目にしたものは怒りを灯らせた目をした周人の姿であった。
*
目の前に展開されている光景に自分の目を疑った周人だったが、徐々にわき上がる怒りに静かに身を震わせた。押さえ込まれている由衣に、泥にまみれた全裸で横たわるショートカットの少女の姿がそこにダブった。全身の血が沸騰するのを感じる。左頬の傷がズキンと疼き、そしてその疼きが周人を冷静にしていった。自分を見上げるバンダナの男は由衣の体に馬乗りになり、Tシャツをめくり上げて下着の上からだが胸の上に手を置いている。まだ大事には至っていないだろうが由衣の精神的なダメージを考えるとあまり時間はない。
「おい!」
バンダナの男は由衣の両腕を押さえている男にアゴで『やれ』と命じた。一瞬だけ緩んだ両手が自由になったのも束の間、すかさずバンダナの男が再び両腕を押さえ込み、その顔を由衣の顔に近づけて舌なめずりをしてみせる。立ち上がった男はズボンの後ろのポケットから缶切りのような物を取り出すと、手のひらでそれを器用に回転させるようにしてみせた。すると缶切りの柄な物は2つに分かれてまた1つになるのだが、さっきまでと違うのはそれが柄になり、そこからナイフの刃が出てきているという事だ。バタフライナイフを展開したその男はやや前屈みになりながらそのナイフをちらつかせた。
「最近のガキはすぐこれだ・・・まぁいいさ、刺されるのと同じ痛さを思い知らせてやるよ」
周人は普段にはない口調でそう言うとそのまま構えも取らずに男に近づいていった。由衣はあまりに無防備な周人に、さっきまでとは違う恐怖感が体を走るのを感じていた。少年はそれを見ても全くひるむことなくナイフを刺すような仕草を2、3度してみせる。どうやら人を刺すという事に何の抵抗も無いらしい。それをあらためて認識した周人は腹部を狙って突き出されたナイフを半身になって避けるとその手首を掴んだ。そのまま空いた手で相手の肘関節に首刀を叩きつけて肘を曲げさせると、そのまま『てこ』を応用して掴んでいる手首を相手の肩口に向けて持ったままのナイフを突き刺した。腕を無造作に折り曲げられた男はそのままの反動で自らの肩に自分でナイフを突き刺したのだ。そこからさらに周人は突き刺さったナイフの柄の先に手刀を喰らわせてより深くナイフの刃を肉にめり込ませる。あまりの激痛に絶叫を上げる男だったが、その絶叫も物凄い速さの蹴りが顔面に炸裂した為にギャッという小さな悲鳴に変化させ、鼻血を吹き出しながら背中から倒れ込んだ。その際に頭を打ったのか、白目を剥いて動かなくなった男の横っ面を軽く踏みしめながら、涙を伝う由衣の頬を舐めながら胸にやった手を揉むように動かしていた少年の髪を掴んで引っ張り上げた。思わずのけぞる男はいつの間にか取り出したナイフを振りかざし、腕を掴んでいる周人の手をふりほどくと素早く由衣の背後へと回り込み、起き上がりかけた由衣を羽交い絞めにして鼻先へとナイフを向けた。
「こいつの顔に傷がつくぜ・・・・どうするよ?」
睨みながらそう言う男は舌なめずりをして周人を見やった。だが周人は涼しい顔のまま恐ろしい事を言ってのけた。
「いいさ・・・好きにしな。どうせやるのはお前でオレには関係ない。命が助かればそれでいいんだよ。それにオレはその子に相当嫌われてるからな・・・・全然平気だ」
さらりとそう言ってのけた周人に驚いたのは由衣も同じだった。ためらわずに近づく周人にどうすることもできずにナイフを突き出すしかないバンダナの男だったが、それを軽々かわされて逆に手首を取られ、周人の方に引き寄せられながら肘関節の下に膝を置かれてしまった。そのまま首に肘打ちを喰らい、さらに右肩を押さえられる。同時に膝を持ち上げながら手首を強引に下げられてしまい、腕の関節の骨が折れるボキッという鈍い音を立てて肘があり得ない方向に曲がっていた。喉と腕をやられ、もがくようにする男の顔にさっき同様目にも留まらぬスピードの蹴りを喰らわす。鼻血を流しながらやはり気を失って倒れ込む男はそのままもう動かなかった。
「寝てりゃぁ痛くもないだろ?まぁ、あとで救急車呼んでやるからな、もう2度と刃物を振り回すんじゃねぇぞ、危ないからな」
何が危なかったのかよくわからないが、周人はそう吐き捨てるように倒れている2人に言葉を投げると、聞こえていないかと苦笑して見せた。そして呆然としている由衣の傍にしゃがみ込むと上半身を起こし、ずり上がったTシャツをそっと直してやった。この時、周人の手が由衣の体には全く触れていなかった事に彼女自身が気づいたのはこの後随分経ってからだった。怯えた目をした由衣を見つめる周人は冷たくなって動かない少女の幻を再度重ねる。言いしれない痛みが心を締め付けるものの、無事な姿の由衣を見て安堵している自分を自覚した。
「すまなかったな、ああ言わないと逆に危なかったから・・・怪我はないか?」
さっきまでとは違う、いつもの口調でそう言って身を起こさせようと手を差し出した刹那、すぐ真横の木の陰から金と黒の縞模様をした頭髪の男がナイフを振りかざしながら飛び出してきた。一瞬そっちへ視線を走らせた由衣の手を払いのける事を優先した周人は、全裸で横たわる少女の幻を由衣に重ねた自分を呪った。一瞬動きが遅れたせいで右腕に鋭い痛みが走るのを感じたが、そのまま血が滴る腕でナイフを突きだした相手の手の甲に手刀を浴びせた。痛みに耐えきれずにナイフを落とした男はもう片方の手にも持たれていたナイフを突き出す。だがそのナイフは空を切り裂くのみであった。周人は頭を地面の方にしながら低い体勢で相手のこめかみに後回し蹴りを喰らわせた。それだけでも意識を奪う凄まじいダメージなのだが、そこからさらに身体を回転させ、もう片方の足でも蹴りを放ち、顔面を蹴りつけたのだ。空中で身体を1回転させながら左右の蹴りを炸裂させ、着地させることなく交互に放った周人は身を伏せるようにして態勢を整えた。だが蹴りを頭部に2発も喰らった相手は既に倒れ込んでおり、ピクリとも動かなかった。
「こいつで最後か?」
誰ともなしに呟いたのだが、由衣は震えながらも頷いてそれを知らせた。その視線は周人の右腕に注がれている。手の甲側の手首から肘までの部分、その中心付近を5センチほど裂かれているらしく、そこから真紅の血が止めどなく溢れ出ている。その様子からも傷がかなり深いことがうかがい知れた。いまだ恐怖から体を震わせている由衣は差し出された左手に視線を巡らせた。その出血量からして相当の痛みがあるだろう、しかし周人の顔は優しく、笑顔を見せながら手を差し出せと腕を振るった。恐る恐る手を重ねる由衣の目は再び地面に血を滴らせる右腕に注がれた。
「心配ない、見た目が派手なだけだから」
そう言うと由衣を引っ張り起こした。左腕にしがみつくようにして身を震わせる由衣を気遣いながら公園の入り口まで来た周人は今の右腕の状態ではバイクは運転できないと思い、考えを巡らせる。だが由衣が右腕を凝視している事が気になり、自分の腕を見た。肘から下は赤く染まり、まるで締め付けの悪い水道のように規則正しくポタポタと血が滴っている。痛みは全身を痺れさすほどであったが、決してそれを顔には出さなかった。周人は由衣に優しく腕を放して待つよう言い、素早くTシャツを脱いで傷口に巻き付けた。白地が瞬時に赤く染まる。今度はジーパンからベルトを引き抜くと、二の腕にきつく縛り付けるようにくくりつけた。滴り落ちる血のせいでジーパンもすでに右側は赤くなっている。周人はそのまま携帯を取り出すと傷めている右手でさくら西塾へと電話をかけた。由衣は無意識ながらも再び周人の左腕にしがみつくと、体を震わせ続けている。周人は傷で痛む右手で電話を持ち、誰かが出てくれるのを待つ。ズキンズキンと腕が痺れるようにうずくのが分かったが、神経がやられていない証拠だと自分に言い聞かせた。痛む腕は震えているので血で滑らせて携帯を落とさないよう気を付けた。
「心配ない、すぐ助けを呼ぶからな」
今まで見たことのない穏やかな表情と優しい口調に、由衣は自然と頷いていた。あれほど嫌悪していた存在にしがみついていることは重々分かっているのだが、こうしていないと恐怖で心と体が壊れてしまいそうなのだ。だが、不思議なことに由衣は恐怖の中にも周人と一緒にいることに安堵感も感じていた。この人ならば大丈夫と心のどこかで思っている自分がいることをすんなりと受け入れる事が出来た。
「あ、木戸です。問題が発生してしまって・・・・はい、吾妻さんがちょっと変なのに襲われていまして、怪我はありませんが凄くショックを受けています。すぐ来ていただけますか?」
その後、周人は何度かやりとりした後、電話を切った。だらりと力無く下ろされた手に持たれた携帯は元々シルバーカラーであったが、今は赤くなってしまっている。そのまま右手に携帯を持ってだらりと下げたため、ますます携帯は血まみれで下手をすればもう使い物にならなくなってしまうだろう。縛ったおかげで出血は収まってきてはいるものの、相変わらず滴は垂れており、少なからずまだ続いている事が分かる。だが、痛む気配すら見せない周人は震えながらその右手を見やる由衣優しく声をかけた。
「もうすぐ迎えが来るからな。すまなかったなぁ、こんな目に遭わせてしまって・・・ちょっと遅れちまったから・・・」
これは周人のせいではない。偶然もあったのだが、自分が蒔いた種でもある。だが周人は詫びた。あれほど忌み嫌い、憎らしい言動をしたにもかかわらず、彼は1度たりとも声を張り上げた事はない。注意をうながした事はあったが、それは授業中であった為だ。
「・・・なさい・・・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
知らず知らずのうちに涙が溢れてきた。まるでうわごとのように、かすれる声でそう何度も何度も謝る由衣に、周人はもういいよと優しく声をかけてあげるのだった。
*
電話から5分ほどで駆けつけた康男は周人の右腕を見て動揺を隠せなかった。だが周人は由衣が無事だということと彼女に怪我はないと告げ、自分の傷の事には一切触れずにすぐに由衣を車に乗せた。康男は周人のバイクを公園入り口の端に止め、付き添うようにしながら周人を乗車させる。その後携帯電話で妻に電話をかけて状況を知らせた。周人はワンボックスの後部にある荷台から、片手ながら器用にゴミ袋を取り出した。いつもこの車で運搬作業を行っているためにどこに何が置いてあるのかは把握している。助手席の由衣はルームミラーでチラチラと周人の動作を見やっていたが、実際は何をやっているかは分からない。周人はゴミ袋の中に右腕に突っ込むとベルトで締めた二の腕を少しゆるめた。血が流れる感覚がさらなる痛みを引き起こす。本来なら声を上げてもおかしくない傷だったが、表情にすら出さずにもう1度締め直した。
「大丈夫か?」
ミラー越しに心配そうな康男の視線を見ながら周人は平気ですと笑顔を見せた。康男はそんな周人を見て感謝の心でいっぱいになった。詳細はまだ聞いてはいないが武術をたしなむ、しかも相当の腕を持つ周人でなければ由衣を救えたかどうかはわからないと思えた。その上これだけの傷を負ってもそれを表に出さず、由衣に心配をかけさせないといった配慮が出来る人間も周人ぐらいなものだろう。車はすぐに塾の前に停まった。たまたま来ていた米澤に授業の代わりを頼んできたが、来客だと嘘をついて来ているのでしばらくいなくても他の生徒に怪しまれる事はないだろう。表で待っていた康男の妻である好恵は由衣を抱きしめると優しく頭を撫でた。由衣は大粒の涙を流しながらその胸に顔を埋める。康男はこのまま周人を病院へ運ぶため、運転席に戻った。周人は窓を開けて顔を覗かせると好恵に心配ないですからと笑顔で声をかけた。その声を聞いた由衣は泣いている顔を上げ、周人を振り仰いだ。涙でぐしゃぐしゃの顔を見ながら、周人は笑顔のまま左手を挙げてその視線に応えると、そのまま病院へ向けて出発していった。
「さぁ、来なさい」
好恵は由衣を抱くようにしながら自宅へと向かう。とりあえずは落ち着かせなくてはならない。塾だと後々ややこしくなりそうなのですぐ近くの康男の自宅へと向かう手はずになっていたのだ。由衣は少しましになった震える体を押して好恵に抱かれたまま砂利道を康男の家に向かって進むのだった。
*
救急を兼ねた病院は塾から車で10分ほどの位置にあった。すでに時間は19時30分を少し回っている。患者の数はもう少なく、本日の受付も終えているために2人の患者を残すのみとなっていた。救急で診察を受けることになった周人には夜勤の為に今し方出勤してきたベテランの医師が治療に当たった。思っていたよりも傷は深いのだが、周人はそれを顔には出さなかった。康男は放置してきた周人のバイクを引き取りに病院を後にして一旦公園へと向かい、残された周人は傷の縫合に入る。傷は肘から手首のラインにやや斜めになって裂けていた。深くもあり、医師は慎重に針を進めていく。明らかに刃物の傷であったが、医師はとりあえず何も聞かないことにし、治療に専念した。そして小1時間ばかりで縫合を終え、ガーゼと包帯でしっかり固定された。指は多少動かすことは出来たが、それをすると痛みが伴うのでなるべく動かさないようにと注意を受けたほど重傷であった。やがて30分ほど前に戻ってきていた康男が診察室に呼ばれる。そして医師から説明を受けた。
「傷は思ったよりも深かったので、12針縫いました。抜糸する1週間後まではなるべく腕を動かさないように願います。出来れば指も。幸い神経に異常は見られませんでしたのでその辺は心配ないでしょう」
康男が持ってきた替えのTシャツを着て腕を吊された周人は医師に礼を言うと病院を後にした。しかしこの傷ではバイトはおろか私生活にも支障が出てしまう。利き腕を動かすなと言われても限界がある。だが周人は心配ないと言い張り、とにかく今日は家まで送ってもらう運びとなった。携帯で好恵に状況を報告した康男は、由衣は無事に家に送り届けたとの報告も受けた。本人のたっての希望で今日のことは内密にするようにし、調子を崩したので帰させたと両親に説明をしたという。携帯を切った康男は血まみれになった自分の携帯を見やる周人に近づくと、深々と頭を下げた。
「ありがとう。君でなければ取り返しのつかない事になっていた・・・何度感謝の言葉を並べても足りないくらいだ・・・・本当にありがとう」
そう何度も礼を言う康男を気遣い、頭を上げさせると、周人は自分がしたことは当然の事だと言った。
「誰でも同じ事をしたはずです。そしてこの傷は自分の不注意が招いた事です。あの時、もっと注意を払うべきだった・・・第一動揺して『気硬化』を忘れていた自分が悪いんです・・・まだまだ修行が足りない証拠ですかね」
苦笑混じりに周人はそう言うが、周人の武術家としての腕前を熟知している康男は何も言わずに前を向いたままだった。さっきバイクを取りに行った康男は倒れているはずの少年たちを探したが、結局、血の跡しか見つからなかったのだった。意識を取り戻した連中は既に引き上げていたのだろう。警察沙汰を恐れたのもあるのかもしれないと思い、康男はすぐさまそこを離れていた。だが、その時思ったのだが見通しの悪いあの場所で木陰から人が飛び出せば誰でも不意を突かれるのは当たり前である。柔道の有段者である自分でも果たして対応できたかどうかわからないと思える。
「かなりショックを受けていた彼女に対するケアも万全だった・・・新城君だったらああはいかなかっただろうと思うし・・・・」
傷の痛みすら全く顔に出さなかったどころか、常に由衣に気を配っていた周人を見た康男は心の底からそう感じていた。
「とにかく、もう終わったんです・・・・帰りましょう」
康男は最後にもう一度だけ礼を言うと周人を車に乗せて桜花町を目指すのだった。
「彼女、合宿は来ないかもしれないな・・・」
道中、康男が疲れた口調でそうつぶやくようにそう言う。周人は運転する康男の方を向き、すぐまた前を向いた。
「新城先生が来るから、ってな具合になってくれればいいんですけどね。でも、今日の件はご両親にも内緒なわけでしょ?来る可能性はありますよ」
好恵からの報告を康男から聞いていた周人は少し考えてからそう切り返した。だが康男の考えは周人とは違っていた。もし、合宿に来るのが周人であればあるいは来たかも知れない。新城という存在の効果は、今は薄いだろうと。なにより周人という存在が事件から来るショックを和らげるのではないかと思ったが、それは決して口にはしなかった。やがて自分の住むマンションの前に着いた車を降りた周人は顔に水滴を感じて空を振り仰いだ。どんよりとした空には星はない。相変わらずの蒸し暑さがねっとりとからみついてくるが、降り出した雨で少しはましになりそうだ。今は月を見たい気持ちが強かったが仕方がない。
「気を付けて帰ってください、一応、明後日の出発には顔を出しますんで」
周人はそう言うと笑みを見せた。康男はまた明日電話するからと言い残し、最後にもう一度礼を言ってから車を走らせた。強まる雨足から身を守るために軒先のあるマンションの玄関から車を見送った周人は降りしきる雨を見上げてからマンションの中へと入っていくのだった。
*
ベッドの中で横になる由衣はタオルケットを身に巻き付けるようにしてうずくまっていた。目を閉じればバンダナを付けた同級生の男が迫ってくる。胸を触られた感触がはっきりと残っている為、言いしれない嫌悪感が体中を襲う。そして恐怖感が全身を駆け抜けていくのだ。お風呂も食事もそこそこにベッドに入ったが、まだ時間も早いせいもあって寝付けるわけもなく、目を閉じればあの時の光景と言葉が蘇ってくる。
『お前何様?って感じだったんだよね・・・・学校でもさ、男バカにしてよ!お前に泣かされた男の代わりに俺らが復讐してやるよ!』
ギュッと目をつぶり、実際聞こえてくるわけではない記憶の中の声に耳をふさいだ。そして助けられた時の事を思い出すようにする。助かったという安堵感が欲しい、その一心で駆けつけた周人の事を思い出そうとした。
「新城先生なら・・・よかったのに」
そうつぶやき、周人を新城に置き換える。だがそれは出来ずに周人の顔が頭に浮かんだ。そして流れる赤い血。止めどなく流れていた血を、傷を全く気にしなかった周人。顔にすら出さなかったが、あれほどの出血だ、痛くないわけはない。頭の中にはもうあの男たちの顔は浮かんでこない。代わりに真紅に染まった右腕を気にすることなく笑顔を見せる周人の顔が浮かび上がる。それだけでさっきとは違う涙が自然と溢れていた。
『お前何様?』
頭の中で繰り返されるその言葉。思い浮かぶのは数々のわがまま。男を金づるのように扱う事を楽しんでやっていた事が思い出される。いろんな男の顔が浮かび、その全てが自分に襲いかかって来る。何度か眠りにつくのだが、その度に同じような夢を見て飛び起きては枕を濡らした。たまらず由衣は周人のことを思い浮かべた。蹴りを放つ周人、自分にバカにされながらも素知らぬ顔をする周人、怒りをみなぎらせた周人、普段の授業を行う周人。そして優しく自分を見ている周人。由衣は知らないうちに眠っていた。それからはもう、怖い夢は見なかった。
*
翌日、由衣は康男に電話をした。周人の怪我の具合が気になったのと、話もできずに帰った事もある。まず自分はすでに落ち着いたことを話し、怪我もなかった事を報告した。ショックはまだ残っているものの、合宿には参加したいとも話した。そして康男からは周人の怪我の具合を聞かされた。
「彼から君には大したことはないと伝えてくれって言われたが、真実を話すことが君のためだと思うから正直に言う。腕の傷は深く、12針縫った。今は腕も指も動かせない状態だが、本人はケロっとしている。相当痛むだろうに・・・・」
由衣は黙る事しかできなかった。思い出されるのはおびただしい血を流しながらも優しい笑みを浮かべていてくれた周人の顔。だが流れ出る血の量は半端ではなかった。それもそのはず12針も縫っているのだ。
「今から、そっちへ行ってもいいですか?」
暗いトーンでそう言う由衣から何かを感じた康男は駅の構内のコンビニで待つよう打ち合わせをし、由衣と会うことにした。由衣はTシャツの上から半袖のジャケットを身につけ、ジーパンに履き替える。当たり前の話だがやはり昨日の今日では恐怖は全く拭えていないのだ。康男は待ち合わせの時間にはすでにコンビニにいた。由衣を乗せたワンボックス車はすぐに塾に向けて走り出した。昨日自分と周人を乗せたワンボックスは空いている道を順調に走り、すぐに目的地に到着した。だが康男は塾の中にいる八塚や貴史たちの事を考え、塾ではなく自分の家に車を止めると、由衣を上がらせた。今はお昼前であり、明日の最終チェックを兼ねてその2人が塾に来ているのだ。他人には聞かれたくはないだろうとの康男の配慮で家に上がった由衣は居間に通された。日本建築の建物はこの田舎にはごく自然な様子でたたずみ、縁側と居間が一つになった昔ながらの風情を残したそこで由衣は正座をした。そうしなければならない雰囲気に包まれたのだ。やがてお茶を用意した康男は足を崩すように勧め、自分もあぐらを掻いた。長方形の木でできたテーブルに向かい合わせに座った2人を扇風機の風が心地よい風を運んできた。風通しが良い建物なのでクーラーは昼の2時過ぎまでは必要ないほどであった。黒めの木で統一された柱や縁側、畳の感触は洋室に慣れている由衣にとっては新鮮だった。
「電話で話した時は大丈夫かなって思ったけど、思っていたより元気そうだ」
「未遂で、終ったから」
やはりトーンは低いが、聞き取れない声ではなかった。康男は笑みを浮かべるとまっすぐに由衣を見た。とても15歳には見えない顔立ちに暗い陰が落ちている。またそれが哀愁を誘い、彼女が美人であることをあらためて認識させられた。
「君は少し、自分の可愛さに溺れていたんだ。そしてこの結果に結びついた。それだけはわかってほしい」
その言葉に黙って頷く由衣はゆっくりと顔を上げた。涙を溜めた目は潤んでおり、康男は彼女がそのことを十分理解していると判断できた。
「クラスの男子みんなが、同じ事考えているのかなって思うとすごく怖くなった・・・眠れなかった・・・でも先生が、木戸先生が・・・・」
そこまで言うと大粒の涙が頬を伝った。それを見た康男は置いてあったティッシュをそっと手渡す。
「僕はね、君がこの塾を卒業するまでに何とかそれに気づいて欲しいと思っていた。でも難しい問題だともわかっていたから、どうしようもなかったんだ。でも方法は1つしかないとも思っていたんだよ?」
差し出されたティッシュの箱から2、3枚取り出して涙を拭いた由衣はその言葉に再度顔を上げた。康男の表情は穏やかであり、口調も優しい。そしてその言葉が逆に由衣の心に重く響いた。
「君が嫌う人間こそが君の考え方を直してくれるんじゃないかってね。現に彼は優しかっただろう?あれほどの怪我を、痛みを、君どころか僕にも全く見せないほどに・・・」
由衣は黙って頷いた。その事に関しては決して真似など出来ない。他の誰にも無理である事は理解出来た。
「君は根が優しい子だっていうのは知ってるよ?だって小学校の頃から君を見て来たんだからね。ただ、ここ最近ちょっとハメを外しすぎてしまったんだよな?そして今、これをきっかけにそれを取り戻しつつある。あの状況で、彼は先生だから当然助けた。でも、それだけでは済まされない部分を君は見た。だからもう1度、自分自身を見つめ直してくれ。助けてもらって当然と思うのも、その人柄を見直すのも君の自由だけれども」
康男はそう告げると黙って由衣を見た。由衣は大粒の涙を流しながら俯いている。肩を上下させて泣いている由衣を見てどこか安心した康男はポケットから取り出したたばこに火をつけた。由衣は両手で顔を覆い、強く泣き出した。声を上げて泣いた。
「今はここに誰もいない。好きなだけ泣いてすっきりしなさい」
どこかで風鈴が風に吹かれて心地よい音を鳴らした。揺れながら舞い上がる煙を見ながら、康男は染みだらけの天井を見上げる。もうこの子は大丈夫だと教育者としての本能がそう告げている。不謹慎だとは思いながらも、心に多少の傷を残したが大事に至る前でよかったと思えた。泣きじゃくる由衣を優しい目で見守りながら、あらためて周人に対して感謝の気持ちでいっぱいになる康男は由衣が泣きやむまでの10分間を決して忘れまいと誓うのだった。
全10話中、第1話がこれで終了です。
次回からは第2話が始まります。
長丁場ですがお付き合いください。