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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十章
56/127

曇りのち、晴れ(5)

夏日が続く7月はこの日、今年最高の暑さを記録するほどの猛暑となった。2階3階へと続く鉄の階段は太陽の直撃を受けてほとんど焼けた鉄板となり、この上で目玉焼きが出来そうな程に熱くなっていた。アスファルトも太陽の熱で靴底を溶かしてしまいそうなほどである。その照りつける太陽を隠す雲も無く、目一杯に広がった夏の空はこの暑さとは無縁のすがすがしさを持っていた。蝉がやかましい程にわめき鳴く声がより一層の暑さをかもし出す中、東塾から教材を運んでくるという康男の連絡を受けた恵はクーラーの利いた部屋でうんざりした表情を浮かべた。この涼しさを堪能してしまった今、灼熱の外に出るなど自殺行為に他ならない。土曜日の件もあって家にいても落ち着かない由衣もまた暇つぶしに塾へと来ていた。午前中から来て恵と共に昼食を取りながら月曜日にした話で再度話題に花を咲かせ、自分を気遣っていてくれた事にあらためて礼を言った。かつては教師と生徒、そして恋敵であった2人は、今や親友のような関係へと発展していた。チラリと赤い腕時計を見た由衣は大きなため息をついて机の上に突っ伏した。時刻は午後2時、康男が到着を予定している時間である。


「きっともうすぐドアが開きますよ・・・」

「こういう時って時間にルーズな男がいいかも・・・柴田以外で」


苦笑しつつもうなだれる2人はこの涼しい天国のような部屋から出たくはなかったが、無情にも予想通り勢いよくドアが開いた。姿を現した八塚に重苦しく挨拶をすると、もはや老婆のごとく重い腰を上げる美女たちは明らかに嫌そうな顔をして外へと出た。そこは予想を遙かに上回る灼熱地獄であり、わずか数秒でねっとりとした汗が噴き出し、流れていく。汗を首からさげたタオルで拭きながらワンボックスの後ろを開いて何やら数の確認をしている康男の遙か後方から見慣れた赤い車がやってくるのが見える。嫌な予感よりも早く露骨に嫌な顔をして見せる由衣の横では、同じような表情を浮かべた恵が大きなため息をついた。


「来なくていいヤツが来た・・・」

「また暑苦しくなる・・・」


砂煙を上げて勢いよく止まった車から出てきた雄二は眉間にしわを寄せてズカズカと由衣に向かってきた。そっぽを向く由衣の横で自分を睨みながら腕組みをする恵に一瞥をくれた雄二は、掴みかからんばかりに由衣を怒鳴りつけた。


「お前一体どういうつもりだよ!あぁ?あの『トド』に犯されるところだったじゃねぇか!汚ねぇ真似しやがって!」

「あれ?誰も私が介抱してやるとは言わなかったけどぉ・・・」

「ふざけんじゃねぇよ!」


もはや胸ぐらを掴みかからんばかりに迫る雄二から由衣をかばうように立ちはだかる恵に怒りが収まらない雄二は殺気に満ちた目で睨み付けた。


「邪魔すんじゃねぇよ・・・」


静かにそう言って恵を激しく突き飛ばす。土煙を上げながら地面を転がる恵を見た康男が憤怒の形相で雄二の左腕を締め上げた。


「お前はクビだ。とっとと失せろ!」

「うるせぇ!お前もふざけやがってぇ!」


腕をねじられながらも康男の膝を蹴った雄二はそのまま康男の腹に拳をめり込ませた。中学の頃はよくケンカをして暴れていた雄二だったが、そのパンチに悲鳴を上げたのは康男ではなく、殴った当の本人であった。まるで鉄板を叩いたような感触に拳が痛みを告げたのだ。その右手を押さえる雄二の胸元を掴んだ康男は、瞬きするほどの一瞬で雄二を地面に強烈に投げつけた。柔道でいう背負い投げである。まともに背中から落とされた雄二は受け身も取れずに内蔵を口から飛び出しそうになりながら、息も出来ずに苦しそうに地面を転がった。


「女に手をあげるヤツはクズだ!」


吐き捨てるようにそう言う康男は全身に走る痛みからか腹部を押さえるようにしてうずくまる雄二をむりやり立たせると、さらに腹部に拳をめりこませる。声にならない悲鳴を上げた雄二は胃液を口から垂らしながらゆっくりと膝から地面に倒れ込んだ。意識はまだあるようだが、もはや身体はいうことをきかない。それどころか呼吸すら満足にできないのである。Tシャツの胸元をひねり上げるようにして再度持ち上げた康男はかろうじて動かすことができる雄二の目を覗き込むようにしてみせた。


「今後吾妻さんに近づいたり、彼女に何かしたら、お前を殺すからな!」


骨の髄まで恐怖がしみこむような視線を受け、雄二はすくみ上がっていた。身体と頭に植え込まれた恐怖に、全身が小刻みに震えている。まるでゴミを捨てるかのように手を離した康男は、小さな悲鳴を上げて地面を転がる雄二を見下ろした。八塚の手を借りて起きあがった恵も、そして目の前に展開されていた凄まじい光景に唖然とする由衣も、ここまで怒りをあらわにした康男を見るのは始めてだったせいか呆然と立ちつくすしかなかった。まず第一に康男がここまで強いとは思っていなかったせいで驚きの方が大きいのだ。そんな視線を受けて我に返った康男は少しバツが悪そうに2人から背中を向けた。今の動きを見て周人とどっちが強いのかを考える由衣の耳に、耳慣れないエンジン音が聞こえてくる。蜃気楼のようにかすむ彼方からやって来るその白い車を見ている由衣たちに背中を向けていた康男の顔が見る見る笑顔に変わるのだが、それは後ろの3人には見えない。白い車はりりしい眉毛のような形をしたライトに大きく出ているリアウィング、そしてシャープさを追求した車体はレースをするような車の形状をしている。その白で統一された車が雄二が乗ってきた赤い車の後ろにつけられた瞬間、由衣の胸はひときわ大きく高鳴った。重低音のエンジンをストップさせたその車のドアは横に開くと思われたが何と縦に開いていく。ノブのある方が天を目指して上へとせりあがっていくそのドアを見やる恵の鼓動もまた高鳴っていった。胸の前でギュッと拳を握った由衣ははやる気持ちを押さえつつ、中から出てくる人物を待った。そしてその中から白いズボンに紺色のポロシャツを着て薄いブルーのサングラスをした青年が姿を現した時、由衣の鼓動はさらに激しさを増し、もはや胸が痛いほどに大きく動きを強めていった。耳にかかるか、かからないかの長さの髪、そして前髪はサングラスのちょうど上縁にかかっている。その髪の色もやや茶色が多めの黒である。肌は日焼けしているせいか浅黒く、それでいて健康的な色をしていた。由衣の中にいる忘れられない想い人とは少し異なる風貌だが、持っている雰囲気は一致していた。やがて数歩進んだその青年の後ろで、上がっていたドアが静かに元の位置に下がっていった。青年は4人に目をやりながら口元に微笑を浮かべている。やがてサングラスの奥の目線は由衣のみに向けられた。その微笑は少し変化をし、なんともいえない淡いものになる。由衣の中にいる忘れることがない、この世で一番大切で大好きな人の微笑とそれは同じであった。そして青年はゆっくりとサングラスを取ると、顔を上げてはっきりとわかる笑みを浮かべて見せた。由衣は知らず知らずのうちに両手で口を覆うと、ただ目を見開いてその顔に見入るばかりである。


「お久しぶりです、塾長。お元気そうですね?」


そう言い、軽く頭を下げる。忘れたくても忘れられなかったその声色を耳にしたとき、由衣は溢れ出そうな涙を必死に堪えるのが精一杯であった。


「君もな・・・」


そう言い、健康的に焼けた肌を見せる周人の肩を力強く叩いた康男の顔には満面の笑みが浮かんでおり、周人は照れた笑いを見せながらうなずいた。その周人はただ呆然と立ちつくす由衣の方を見やる。自分を見つめるその3年前と変わらぬ視線を受けながら、胸の鼓動が激しく高鳴る由衣は会いたくて仕方がなかった愛しい人の顔を見るのが精一杯であり、どうしていいかがわからない。そんな由衣をチラッと見やった恵は小さな微笑みを浮かべて見せた。


「しっかし暑いわねぇ~・・・・こんな所につっ立っていたら肌が荒れるし、死んじゃうわぁ・・・・私、中に入るから、あとよろしくぅ~」


雄二に突き飛ばされた恵には怪我がなかったようであり、わざとらしくそう言うとキョロキョロしている八塚を無理矢理連れて職員室へと向かった。さすがに八塚も事情を察してそうですねと恵に続く。


「オレも喉が乾いたなぁ・・・お茶の支度しておくから、君たちは後から来てくれ、じゃあ」


そうやや大きめの声でわざとらしく言うと、苦々しい表情を浮かべる周人に意味ありげな微笑みを見せ、倒れている雄二を担ぎ上げて職員室へと消えていった。なぜ男がこのクソ暑い中、地面に1人で倒れていたかはわからない周人は呆気に取られたようにしていたのだが、職員室のドアが閉じられるのを見てから困ったような顔をして2メートルほど離れた場所にたたずむ由衣に向き直った。


「久しぶり、だな」


まるで3年という年月を感じさせない相変わらずの口調に由衣は嬉しさを感じつつ、小さくうなずいた。

「昨日、夜中近くにこっちに着いてね。で、夜中でも起きていそうな塾長に電話したんだ。そしたら君がここでバイトしてるって聞いたもんでな。元気そうで嬉しいよ」


自分がよく知っているその口調で話をする周人に、次第に由衣の心も落ち着きを取り戻していった。痛いほど高鳴っていた鼓動も幾分かやわらいでいる。


「うん。先生もね」


はにかみながらそう言う由衣の『先生』という言葉に懐かしさと照れを感じた周人は薄く笑みを浮かべた。その笑みは落ち着きつつあった由衣の鼓動を再び大きくしていく。


「でも、まずはおかえり、かな?」

「そうだな・・・ただいま」


そう言い合い、照れた笑いを浮かべる2人にしばしの沈黙が流れた。


「髪、切ったんだ?」


2人が同時にお互いの髪を見てそう言う。全く同時に同じ言葉を発した2人は再び小さく笑い合うと、見つめ合った。


「君は美人だから、何でもよく似合うよ」

「先生も・・・前よりもかっこいいよ」


そう言う由衣の耳に光るイルカのピアスを見て、周人の口元に淡い微笑が浮かんだ。それを見る由衣は頬を赤らめ、もはや限界とばかりに鼓動が高鳴るのを感じる。照りつける日差しも暑さも全く気にならない不思議な感覚を、2人共が感じていた。太陽によってくっきりと地面に映し出されている自分たちの影以外、周りには何もないような感じさえするのだ。


「来月から日本の、すぐ隣町の工場に配属になってね。今回はとりあえず一時帰国なんだけど。というか、1年のうちで日本にはいつも2、3日しかいなかったから、しかも帰ってきても忙しいし・・・・」


周人は簡単に近況を報告すると、少し大人びた由衣に微笑みかけた。3年前よりもぐっと大人びた由衣は、可愛いらしさも残しながらより美人になっていた。それは周人の想像を遙かに上回るほどである。


「高校生活はどうだった?」

「楽しんだよ、もちろん。でも、私、好きな人はできなかった・・・」


ややうつむき加減でそう言う由衣に、周人は片眉を上げた。


「なぁんかね・・・私、結構一途みたいなんだぁ。3年前に好きになった人がそうだったせいか、私もその人みたいになっちゃってるのよねぇ~」


その口調は間違いなく由衣のものであり、周人は以前と変わらぬ由衣に嬉しそうな笑みを見せた。


「そりゃぁ奇遇だな・・・オレもなかなか女々しいみたいで、3年前に好きになった人を今でも忘れられないでいるんだ」


2人はそう言うと、お互い顔を見合わせて小さく笑い合った。


「それでも前向きに頑張っていたんだけど・・・先生みたいな人、先生ほど好きになれた人はいなかった・・・やっぱり私は先生が好きなんだって・・・そうもっと強く感じただけ」


由衣は笑顔でそう告げた。3年の時を経て、由衣は再度周人に告白をしたのだ。今度は冬の降りしきる雪の中ではなく、真夏の照りつける太陽の下で。


「・・・3年前、君はオレの心の中にある分厚い雲を吹き飛ばしてくれた。正確には、その雲ごと、やさしく包み込んでくれたんだ・・・」


その言葉に、由衣は黙ってうなずく。


「でもな、君と別れて、わかったんだ。結局オレの心の雲は晴れる事はなかったんだ・・・常に心の天気予報は曇り時々雨だった・・・晴れなんて日は、来なかった」


由衣はただ黙ってうなずくだけである。そしてまた周人も小さな笑みを絶やさない。


「知ってるか?オレって、ものすごく一途なんだぜ?」


その言葉に由衣は笑顔を浮かべて、そして再度うなずいた。


「知ってるよ。きっと他の誰よりもね!」


笑顔でそう言う言葉に、周人は照れた顔をしながらも由衣から目を離さなかった。由衣のこの笑顔こそ、3年間、彼が忙しい毎日にありながら決して忘れる事がなかった笑顔である。


「ジェットコースターが苦手な事も、物凄く強い事も、本当に優しい事も、恵里さんをすごく大切に思っている事も、ぜぇんぶ、知ってるよ」


その由衣の言葉に様々な想い出が頭の中をよぎる周人は照れた顔に照れた笑みを浮かべた。由衣はその顔を見て嬉しそうに笑うと、ジッと周人を見つめた。


「たしかに今でも恵里は大切だ。でもそれはもう『大切な思い出』ってやつになってる」

「・・・じゃぁ、格下げだね?」

「そうだな」


薄く笑う2人は一旦お互いに目線を外した。地面に落ちた黒い影もまたうつむくように動く。


「今は、オレの心の中は君でいっぱいだ」

「格上げ?」

「いや、この3年間、不動の位置だ。いつもトップだ」


何より嬉しいその言葉に、由衣の顔に満面の笑みが広がる。それを見やる周人の顔にもまた同じような満面の笑みが広がっていった。2人の心が温かいもので埋め尽くされていくのを感じる。この3年間、決して満たされなかった充実感が今、心を埋めていくのを感じていた。


「君が好きだ」

「私も、大好き!」


そう言い合い、2人は1歩ずつ前に出た。そして、またも同時に同じ言葉を同じタイミングで発する。


「これからもずっと!」


いまだに意識が朦朧としている為に簡易ベッドに寝かされた雄二を無視して、康男と恵、そして八塚は嬉しそうな顔をしていた。今、外でどういった会話がされているかはわからない。もちろん興味はそそられるが、3年という年月を経た今でも由衣は周人を好きであり、おそらく周人も由衣を好きでいたであろう事はさっきの顔から容易に想像がついた。


「塾長、木戸クンが来ること知ってたんですね?」


肘をついてアゴを乗せながら恵がいやらしい笑みを浮かべてそう言った。康男は頭を掻きながらもその言葉にうなずいてみせる。


「昨日の夜遅くに電話もらってね。来月からずっと日本の、こっちの工場に配属されたそうだ」

「じゃぁ、もう世界を飛び回ることはないって事ですか?」

「F1の時に時々借り出されるかもしれないとは言っていたけど、基本的にはこっちだとさ」


その康男の言葉に全員が笑顔になった。由衣は高校を卒業し、まだ未成年とはいえ大人になった。そして周人とはもうずっとそばにいられるのだ。いろいろなしがらみから好き同士で別れしまった2人を縛る物はもう何もないのだ。


「何か私も、恋したくなってきちゃった」


恵はそう言うと、遠くを見るような目をして少し笑うのだった。


「1つ、質問してもいい?」

「何でもどうぞ」


お互い触れあえる距離まで接近した由衣の言葉に、すました顔の周人が答える。


「今の心の天気は、何?」


その質問を受けた周人は一度晴れ渡った、済んだ夏の青空を見上げてから由衣の顔を見た。日本の夏を体感するのは2人が出会ったあの年以来3年ぶりだった。今、愛しい人の瞳に映る自分を嬉しく感じる。


「曇りのち、晴れ・・・・ってとこだな」


太陽が落とす黒い影が、お互い1歩ずつ歩み寄り、1つに重なり合うまでそう時間はかからなかった。2人はお互いの温もりを感じながら、心と心が結ばれる喜びを知った。3年前、雪の中で感じたあの温もりを忘れることはなかった。そして今感じているこの同じ温もりは、これからいつでも感じることが出来るのだ。夏を感じさせる風が抱きしめ合いながら唇を重ねる2人をそっと優しく包み込む中、地面に落ちる影は1つになったまましばらく動くことはなかった。やがてその重なった影が少し離れ、お互いに同じ方向に向かって新たなる1歩を踏み出すまで、そう時間はかからなかった。


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