曇りのち、晴れ(3)
自宅に戻った雄二は作戦の第一段階が成功したことに笑いを隠せないでいた。あの康男の表情からしておそらく由衣とのディナーをセッティングしてくれると睨んだのだ。あとはうまく考えを巡らせて由衣をものにする計画を練るだけである。とにかく今は朗報を期待して待つしかなかった雄二だが、高校時代の修学旅行の写真を開き、さらにそのアルバムの横に並べてある小さなアルバムを手に取った。そこには由衣の写真で全て埋め尽くされており、文化祭や体育祭などで無理矢理撮ったツーショット写真まである。隠れて撮ったものや、クラスメートの女子から買い取ったものも含めてこれらの写真を手に入れていたのだ。自分では満足のいくこの由衣の自作写真集以外にも、モデルのバイトを始めて雑誌に載りだした由衣のグラビアの切り抜きも持っている雄二だったが、やはり康男が持っているあのドレスアップした由衣の写真がどうしても欲しかった。これだけ集めた由衣の写真だが、あれに勝る表情や可愛さを持っている写真は他にはないのだ。文化祭で噂された例の先輩との写真でも、あそこまでの表情は出ていなかった。自分と写れば必ず嫌な顔をする由衣だけに、どうしてもあの写真を手に入れたいという欲望が心を埋めていく。あの写真の表情を思い出しただけで雄二の興奮は最高潮へと達するのだった。
「うまくいけば、写真じゃなくって本物が手に入るわけだ・・・」
嫌われている今ではそれも夢であったが、そのディナーから紳士的に接し、自分がいかに由衣を大切に思っているかという誠意を見せていけば由衣はモノに出来ると信じて疑わない雄二はいやな笑みを浮かべるとベッドに突っ伏して悶えるのだった。
「ハァ~!?」
恵の張り上げる大声が職員室に響き渡った。クーラーの稼働音以外は音もなかったこの室内には康男と恵以外に人はいない。手にアゴを乗せてじぃっと康男を見つめる、というより睨むような視線を向けながら、恵は苦々しい顔をしていた。昨日の雄二とのやりとりを話して聞かせ、なおかつセッティングを心がけようかと思っているとうち明けた康男へのその返事がさっきの恵の声である。明らかに反対といったその声に、康男は苦々しい笑みを浮かべるしかなかった。
「でも、彼の言うことも正しいんじゃないかな?いつまでも木戸君の影を追いかけるのは・・・・どうかと思うし」
絞り出すようにそう言う康男に対して大きくため息をついた恵は小さく頭を振ってから再度康男を睨み付けた。
「確かにそうかもしれませんけど、それって昔の木戸クンの恵里さんに対する想いとごっちゃにしてませんか?アレは確かになんとかすべきことでしたよ・・・でも、今回は違うでしょう?」
そう諭すように言われた康男は確かに思い当たる節があって顔を下に向ける。恵の言う通り3年前の周人の『恵里』への決して叶わない想いと、今の由衣の周人への想いをどこかごちゃ混ぜにしていたかもしれないと思ったのだ。
「吾妻さんは会おうと思えば、そりゃぁ苦労するでしょうけど木戸クンには会えるんですよ。だって外国に行ってるだけで生きてるんですもん」
そこで一息ついた恵をチラッと見やる康男はまるで母親に怒られている子供の様な目をしていた。
「彼女が恋を出来ないのは、今でも木戸クンを好きだからですよね?だって嫌いで別れたわけじゃないんですから・・・でも、かつての木戸クンと同じな所は1つだけ、それは自分から恋に対する新しい1歩を踏み出さないといけないって事なんです」
「だからそのきっかけを・・・・」
「もう既に好きでもないと断って・・・しかも態度見ればわかるじゃないですか?あの子は柴田のバカを好いていないし、好きにはならない!それに2人きりにさせたら最後、あの子・・・3度目の正直で・・・今度こそ襲われますよ」
もはや3年前よりも遙かにパワーアップしたきつい口調にたじたじになる康男はグゥの音も出ずにただ恵を上目遣いにチラチラ見る以外になかった。まるで立場が反対のように腕組みして椅子にふんぞりかえらんばかりにもたれる恵はそっぽを向いてしまった。
「木戸クンも、きっと今でも吾妻さんを好きだと思いますよ」
そっぽを向いたまま、さっきとはうって変わって静かな口調でそう言う恵は遠くに視線を向けている。
「だからって2人が再会して、うまくいくかどうかはわかりません・・・でも、あの子には前を向いた状態できちんと誰かを好きになって欲しい」
かつて同じ人を好きになり、方や自分はフラれ、方や由衣は両想いになれた。それゆえにつらい想いをして別れた由衣の心を察すると恵の胸は痛むのだ。これならばいっそのこと周人は彼女をフッてあげた上に外国に行った方がまだましだったとも思う。だが、周人の由衣への気持ちが抑えきれなかったこともよく理解できる。3年間亡き恋人を想い続けた周人がようやくその人を吹っ切って由衣を好きになれたのだ。そして由衣は由衣で懸命に前に向かって行こうとしているのだ。
「私は柴田を信用していません。少なくとも木戸クンを好きになった事でそれなりに男性の優しさが本物かどうかの見分けはつきます。それは吾妻さんも同じでしょう」
きっぱりとそう言った恵はまっすぐに康男の顔を見やった。
「わかった・・・・だが、とりあえず・・・・吾妻さんには柴田君からこういう話があったと正直に言う。その後どうするかは、彼女の自由だ」
そう言うと、康男は恵に小さく頭を下げた。恵は悲しげな表情を一瞬見せた後、小さな笑みを浮かべるのだった。
学校から帰ってきた由衣は蒸し風呂の様な部屋で下着だけとなり、ベッドの上に寝転がった。年頃の女性とは思えぬあられもない姿だったが、誰も自分の部屋ともなればこうもなろう。クーラーが動く音がするのだが、暑くなりすぎたこの部屋がそうそう冷えるわけではない。流れる汗を拭きながら身を起こした由衣は机の上に飾られている3つの写真立てに目をやった。そして、あの雪の中で想いを確かめ合った時の事を思い出す。思い出の中の周人はいつも笑顔を見せており、最後にかわした抱擁の感触と温もり、そして触れあった唇の感触を鮮明に思い出すのだった。3年経った今でもあの時恋した気持ちを超えるほどの人物には出会っていない。周人に匹敵するほどの人物に出会っていないのもあったのだが、今でも周人を好きなことがその大きな要因となっている。
「私の中で、先生が恵里さんになっちゃってるね?」
写真の中の周人に微笑みかけてそう言うと、由衣は儚く、そして悲しげな笑顔を浮かべるのだった。
「先生・・・今どこで何してるの?」
写真の中で笑う周人は何も答えてはくれない。
「私、元気だよ」
由衣はそう小さく笑って言う。だがそれも一瞬の事で、言葉とはうって変わって暗い顔をし、小さなため息をつくと目を閉じるのだった。
朝から曇りがちの天気は激しい雨足をともなって夕立となってしまった。まだ午後3時だというのに既に空はおろか周囲も真っ暗となり、時折その闇を引き裂くかのように轟き光る雷が走り抜けていく。静寂をうち破る雨音に重なる稲妻の音が由衣の体をすくませた。職員室に入った瞬間から降り出したこの夕立は今をもってなお止む気配を全く見せていない。恵は貴史を連れて『さくら東塾』と新たな名前を受けたもう1つの支部へ行っており、今この西支部には窓を少し開けて空を仰ぐ康男と由衣の2人しかいなかった。
「えらい雨足だなぁ~」
雨が飛び込んできそうな窓を閉めて肩をすくませた康男は苦笑気味にそう言うと自分の席に座る。時折光る稲妻にビクビクしていた由衣は渋い笑顔を見せるのが精一杯だった。
「あのさ、ちょっと話、いいかな?」
康男は少し離れている由衣にそう問うと腕組みをしてやや困った顔をしてみせた。そう言われた由衣は椅子ごとそっちを向くと、何の話だろうと小首を傾げてみせた。
「実は・・・・・」
そう前置きしてから、康男は先日雄二に言われた事を包み隠さずに話を始めるのだった。由衣は何も言わずにただジッとその話を聞いていた。一通りの話を聞き終えた由衣は小さなため息にも似た吐息を漏らすと、困ったような顔をして康男を見やった。
「はっきり言わせてもらいますね?」
「あぁ、そうしてくれ」
「私は柴田を好いていません・・・・向こうがどう言おうが、何をしようが、絶対に心が動かされる事は無いです・・・」
しっかりと目を見てそう言いきった由衣を見る康男はただうなずくしかなかった。
「でも、会って、あいつがそれで納得するなら、私は・・・・」
そう言いかけた由衣の頭の中で、周人過ごしたあの『最後の夜』の事が思い出される。ドレスアップした自分を見つめてポカーンとしていた周人の顔、いつもよりも照れた顔をして自分を見つめる瞳、そして、そんな周人を心底好きだと実感した自分。あの日の思い出は一緒に遊びに出かけた日々よりも何より鮮明に記憶の中に残っているのだ。ややうつむき加減だった由衣が上げた顔を見た康男の表情が見る見る驚きに変わった。由衣の瞳からは大粒の涙が一筋流れていたのだ。自分でも気付いていなかったのか、由衣は濡れた自分の頬に触れると、それをそっと指ですくい取るようにしてからそれをまじまじ見つめた。
「すまない・・・オレは、なんてバカなんだろう・・・」
膝の上で強く両手の拳を握りしめてそう言う康男は、つらそうな顔をして立ち上がると由衣に向かって再度謝りながら深々と頭を下げた。ポロポロとこぼれ落ちる涙を拭おうともせずに、ただ呆然と康男を見つめる由衣は困った顔をするのみである。
「私、何で泣いてるんだろう?変ですね・・・」
涙を流しながら笑顔を見せる由衣に、康男はただ苦い顔をする以外にない。同じシチュエーションでセッティングし、そこに現れるのは彼女が好いてもいない、最も嫌いな男。それは周人と過ごした最後の想い出を汚すことに他ならないのだ。何より、前を向こうとしている由衣の気持ちに水をさすようなものなのだ。そういう想いがあるからこそ、頭では雄二と会うことを承諾しながらも心がそれを拒み、それが涙となって訴えているのだ。やがて激しい夕立が止んだ頃、涙もおさまった由衣は窓を開けて雲間から差す真っ赤な夕焼けを眺めていた。すでに康男は部屋にはいない。夕立が止む頃に一旦自宅へと戻っており、今ここには由衣しかいないのだ。
「こんな調子で、誰かを好きにはなれそうもないよ・・・」
黒い雲を引き裂いて徐々に姿を現す赤い夕日を眺めながら、心の中にいる想い人にそうつぶやく由衣は小さな微笑を浮かべていた。ぼんやりと綺麗な夕日に見入っていた由衣は職員室に入ってきた弥生の挨拶にそっちを向いた。自分の席に向かう弥生を気遣った由衣は窓とカーテンを閉めるとクーラーの設定温度を少しばかり下げた。しばらく窓を開けていたせいで部屋の温度は高くなっていたのだ。
「すごい夕立でしたね」
笑いながら席に座る由衣をやや避けるようにする弥生の仕草に眉をひそめる。
「どうかした?」
そっとそうたずねる由衣の方を一瞬チラッと見やった弥生は大きなため息をついてみせた。その様子に小首を傾げる由衣をまたチラッと見た弥生はある決意を胸に立ち上がって由衣の方を向いた。今日はこの2人だけで授業を行うため、しばらくは誰もやってこないのだ。
「吾妻さんって、柴田君の事、本当は好きって事ないよね?」
大きな体をもじもじひねらせながらそうたずねる弥生の言葉と態度から、彼女が雄二を好いていることを見抜いた由衣は真剣な目を弥生に向けた。
「ない!前にも言ったけど、アイツは1度フッてるから・・・・好きじゃないよ」
「今でも、『しゅーと』って人が好きなの?」
きっぱりと雄二の事を否定した由衣は、その質問にもはっきりと首を縦に振った。
「その人は、間違っていた自分を今の自分に戻してくれた人、そして、本当に心から好きになった人・・・・たった1度キスしただけだったけど、あの時抱きしめられた感触とそのキスだけは・・・絶対忘れることはないから」
笑顔でそう言う由衣の言葉をまっすぐに受け取る弥生もまた真剣な気持ちで今の言葉にうなずいた。
「いつかはもう1度そういう経験をしたいと思うけど、それの相手は柴田じゃないよ、絶対にね」
「私はね・・・・彼が好きなの・・・・」
消え入りそうな声でそう言う弥生の言葉に、由衣は優しい笑みを浮かべていた。自分が嫌いな人でも、他人からすれば好意を寄せるに値するだろう。由衣は弥生のその恋心を否定することなく真っ正面から受け止めたのだ。
「そうなんだ・・・じゃぁ頑張らないと」
「でも、彼は・・・・」
「う~ん・・・・・・参ったね、これは」
雄二は由衣を好きで、それこそストーカーに近い状態でしつこく追いかけ回している。そんな雄二を見るのもつらい弥生だったが、だからといって由衣を恨むことはできない。由衣は何度アタックされてもその都度きっぱりと断っているのだ。問題があるのはむしろ雄二の方であったのだが、そんな雄二を嫌いになれないほど好きになってしまった自分にも腹が立つ。いつからかはわからないのだが雄二を意識してしまい、弥生は避けられているのを承知で好きな気持ちを抱いてしまったのだ。
「でも私、こんなに太ってるし・・・・ブサイクだし・・・」
うつむき、肩を落とす弥生を見る由衣の表情もまた曇る。このまま素直に告白しても、雄二は素っ気なく断って終わりである。
「だから・・・1度だけデートできれば、それでいいんだぁ」
小さな笑顔でそう言う弥生は少し頬を赤らめてそう言った。そんな弥生を可愛らしいと思いつつ、なんとかしてあげたいと思う由衣はあることをひらめいて笑みを浮かべた。そのまま弥生に待っていてと言葉を残し、由衣はあわてた様子で職員室を出てどこかへ出かけて行くのだった。残された弥生はただ呆然と由衣が去っていった後に閉まるドアをぼんやりと眺める以外になかった。
金曜日、またまた意気揚々とやってきた雄二はあの後、康男がどういった答えを出すのかを楽しみにしていた。とりあえずまだ由衣の原付きバイクが見あたらないことからフンと鼻息を漏らす雄二はいやらしい笑みを浮かべて職員室のドアをくぐった。中には珍しく恵の姿はなく、康男が慣れないパソコンを前に悪戦苦闘している後ろ姿が見えるばかりである。
「ちわッス!」
「おぉ」
康男は一瞬振り返っただけで、またすぐにパソコンの画面に目を戻した。鞄を置いてドカッと椅子に座る雄二はどこかそわそわした様子でチラチラと康男の背中を見やった。
「あー、そうそう、例の話、明日の土曜日になったけど、いいかい?」
さすがにその雄二の落ち着きのない様子に気付いた康男がそう切り出した。待ってましたとばかりに勢いよく立ち上がった雄二は手をこするようにしながら満面の笑みを浮かべて康男の元へと歩み寄った。
「いいですいいです!さすが塾長!いやぁ~頼りになります!」
「まぁな・・・・時間は7時から、演出で多少遅れるとしても5分ぐらいにしておけよ?普段より良い格好でお願いする」
そう言いながら簡単な地図が書かれた紙を差し出した。それを受け取った雄二は何度もその紙を眺めると、なんとも言えない不気味な笑みを浮かべてみせた。雄二はこの日、上手く由衣を酔わせ、出来るならばベッドを共にしたいと考えていたのだ。既成事実を作ってしまえばしめたものである。しかも子供でもできた日には即結婚という言葉すら頭をよぎる。安易な想像を巡らせて興奮した雄二の頭の中では潤んだ瞳で自分を見つめる全裸の由衣の姿が浮かんでいた。鼻歌交じりに席につく雄二の背中でドアが開く音が聞こえてくる。
「こんばんわー!」
由衣である。
「よ!」
雄二はご機嫌でそう言うと、ツンとすました顔で自分を無視して歩く由衣を見ながらその裸体を想像し、少し腰を引き気味にした。はやる気持ちはその下半身が既に表現してしまっている。それをこらえながら、明日の楽しみにとっておくのだった。
その日は朝から綺麗に車を洗い、着ていく服を吟味していた。指定されたレストランはそうドレスアップしなくてもよい普通の場所だったが、今日で由衣をものにしようと企む雄二はわざわざきっちりとした格好を選んだ。最初は時間をかけてじっくりと由衣の心を開こうと考えたのだが、今はそれすらもどかしくなっていたのだ。出来るならば今すぐそういった関係になりたい雄二は髪型もしっかりセットし、いつもと違った雰囲気を表現したその髪を手櫛で何度も整えながら鏡でチェックすると、以前に買っておいた甘い香りのするコロンをつけた。通販で『これを使えば意中の相手もメロメロになるフェロモン混入!』といううたい文句が載っていた物である。何度も鏡の前で服装と髪型をチェックした雄二は車で出発するのを午後6時と決めていた。現在は5時40分、気持ちははやり、そわそわと落ち着かない。今回はそういった場所ではないためにあの写真で見た様なドレス姿は期待できないが、メイクされた美しい姿を想像し、ベッドの上で1人悶えた。やがて時間が迫り、今日何十回としている服装と髪型のチェックを済ませると、買っておいたプレゼントの包みを手に駐車場へと向かう。大学生活を送るためにと1人暮らしを希望した雄二だったが、通っている大学が家から近いために却下されていた。その為に自宅に連れ込むことが不可能な雄二は今日行くレストランの近くにあるホテルも既にチェック済みである。エンジンをかけて気に入っているその重低音の響きを全身で感じる。親からお金を借りてまで買ったこの車の助手席に誰かを乗せて走った事はまだない。その第1号は由衣だと決めていたのだ。エンジンが暖まったのを確認し、ギアを入れ、駐車場から車を出す雄二はにやけた顔を絶やすことなく、目的地を目指して軽快に車を走らせていくのだった。
計画では、由衣は自分がやって来る事を知らないのだ。塾長である康男の頼みで『ある男性』と会ってくれと話を持ちかけられているのみである。そうして逃げられない状況に追い込み、それでもおそらく帰ろうとするだろう由衣を今夜だけと引き留めるのだ。そして口当たりが良く、それでいてすでにチェックを入れてあるアルコール度数が高めのワインをオーダーするのだ。無い貯金を総動員して、今日は十万円を準備している雄二はその後の展開を想像してニヤリと笑った。おそらく酔ってフラつく由衣は自分へとしがみついてくる。それを支え、休憩を兼ねてホテルに誘う。そこで優しく介抱しながらお互いの愛を確かめ合うというシナリオである。素人が誰でも考えつきそうな浅はかな計画を想像してレストランの駐車場に止めた愛車の中で悶える雄二はあわてて我に返り、時間をチェックする。7時を少し回っている時計を見た雄二はそろそろだと車から降りた。窓に映る自分の姿をチェックして髪型を整える。悶えていたせいで若干の乱れがあったものの、それはすぐに修正できた。とどめとばかりに口臭を消す薬を口に吹きかけ、颯爽と入り口に向かう。そんな雄二に向かってウェイターが礼をし、いらっしゃいませと告げた。雄二は予約名を告げ、由衣が来ているかどうかを確かめることにした。
「連れの方はもう来ているのかね?」
どこかのお金持ちのボンボンのような口調と安っぽい芝居がかった仕草にウェイターは眉をひそめたが、何やら予約のリストらしき紙をチェックしてみせる。
「大山様・・・・あ、もうお着きですね。ご案内します」
「頼む」
そう落ち着いて言う口調とは裏腹に心臓の音は激しさを増していく。ウェイターに先導されて自分が向かうテーブルの向こうに由衣の後ろ姿らしきものが確認できる。知らず知らずのうちにほくそ笑む雄二をそのテーブルへと案内したウェイターが空いている方の椅子を引いた。そこに腰掛けると、目の前に座っている女性に目を合わせる。
「やぁ、こんばんは!」
「どーも」
にこやかな雄二とは対照的に、予想通りふてくされたような態度の由衣は全く驚く様子を見せずに素っ気なくそう答えた。今日の由衣は白いノースリーブのシャツに黒い綿のパンツを履いている。それなりに化粧を施し、薄いピンクのルージュも鮮やかであった。ただ、いつもしてあるイルカのピアスではなく、白い小さな真珠のピアスが着けられていた。
「あれ?意外と驚かないんだね?」
「こんなくっだらないこと考えるのはアンタみたいなバカしかいないからね」
窓際の席であるために、外を流れる車や多くの人が見える。それを眺めながらバカという言葉だけをいやに強調しながら素っ気なくそう言い放つ由衣に苦い笑いを浮かべるしかない雄二はとりあえず予定通り由衣が来た事に一安心した。とりあえず役者は揃い、いよいよメインの計画を次へと進めるために飲み物をオーダーしようと差し出されたメニューを広げる。
「飲み物はオレが決めていいかなぁ?」
「出来たら私が決めたいんだけど・・・」
さっきまでとはうって変わった甘い声で、しかも上目遣いにそう言われてはメロメロになってしまう。雄二は綿密な計画もどこへやら、嬉しそうにメニューを差し出してしまった。それを見ながら由衣は自分と雄二の分とを別々にオーダーする。そのオーダーに我に返った雄二にさらなる笑みを返してくる由衣に、もはや計画はどこへやら、こうやって向かい合って食事が出来ることに有頂天になってしまった。
「で、今日はなんでわざわざ呼び出したわけ?」
来た時とはまるで違うやんわりしたその雰囲気と口調に雄二はますます心臓が高鳴るのを感じていた。やはり間近で見る由衣は可愛い。この笑顔をいつも自分だけのそばに置いておきたいという願望が強くにじみ出てくるのを感じるが、それを顔に出さないように必死に自分を落ち着かせた。
「こうでもしないと、一緒に飯も食ってくれないからなぁ」
「そりゃそうだよ、誰があんたなんかと好き好んで・・・」
そう言う由衣に苦い顔をして見せた雄二は飲み物を運んできたウェイターにコース料理をオーダーする。由衣にはシャンペン、雄二には赤ワインが用意された。
「私、ワインよりこっちが好きだから」
「同じ物でよかったのに・・・」
「いいからいいから、じゃぁ乾杯!」
「乾杯!」
チンという音を鳴らし、グラスが触れあった。口当たりの良い味が喉を通っていくのを感じながら、雄二はこの思いも寄らぬ予定変更をどう修正すべきか頭の中で次の策を巡らす。
「あ!このワインなかなかいける・・・・一回飲んでみるか?」
「いい、ワインは苦手だから」
「一口だけでも・・・」
「いらない!」
しつこく勧めたせいでまたもきつい口調で素っ気ない態度に戻ってしまった由衣にまずいと感じたのか、美味しいのにと小さくつぶやきを漏らしてそれを一気に飲み干した。その様子を見ていた由衣は満足そうに微笑む。その笑顔にまたもメロメロになってしまった雄二は前菜を運んできたウェイターが注いでくれたそのワインを再度口にした。そして優雅なディナーの時間は雄二のトークで占領されていく。酔ってきたせいか、いつもよりよくしゃべる雄二の言葉を、由衣はめずらしく丁寧に聞いていた。そんな由衣の態度に気を良くした雄二は徐々に酒の量も増えていき、ついにはトイレに向かう足もややおぼつかない程に酔ってきていた。そして食後のコーヒーを飲む頃にはすでに顔は真っ赤になってしまっていた。
「酔いすぎたみたいね?」
出された紅茶に砂糖とミルクを入れ、雄二の前に置かれたコーヒーに砂糖とミルクを入れてやる。そんな由衣の手を握りしめた雄二は酔って焦点の定まらない目をしながらも由衣を見つめた。何故かいつもと違って由衣もその手をはらいのける事をせず、そのままの状態で雄二を見つめていた。
「オレは、真剣にお前が好きなんだ」
「わかってるわよ・・・」
「付き合ってくれ!」
「少し・・・・考えさせて・・・」
最後だけ目を逸らし、含みを持たせた口調でそう言ったが、それまではお互いに見つめ合ったままだった。これに手応えを感じた雄二のテンションは一気に上がったのだが、会計を済ませてガレージに向かうその足取りはもはやフラフラである。こんな状態で車の運転などできるはずもなく、由衣に支えられてボンネットに両手をついてうなだれる雄二。計画と全く正反対に自分が逆に酔いつぶれてしまっている事にもはや絶望感が心に浮かんでくる。どこでどう間違ったのかすらもわからないほど酔ってしまった雄二だが、その矢先、自分の耳に信じられない言葉が聞こえてきた。
「どっかで休んだ方が・・・いいね?」
はにかんだような笑みを浮かべる由衣の顔はどこか赤い。酔いのせいではなさそうなその表情に、雄二の心臓は服の上からでも鼓動を打っていることがわかるほど激しくなっていった。
「そうだな、ちょっと運転もできないし、歩けない・・・・シャワーも浴びたいし・・・」
全ての予定が狂っていった雄二だったが、ここへきて大逆転である。勢いに任せて好き勝手言った雄二に向かい、由衣は小さな微笑みを浮かべていた。フラフラしながらも、由衣に連れられてホテルが数件建ち並ぶ路地に差し掛かる。夢ではないかと、休憩と言いながらどこかに捨てられるのではないかと思っていた雄二にとってこれは本物だと興奮が増した。
「場所ってどこでもいいよね?」
「ああ」
この時、全くといっていいほど感情のこもっていない由衣の口調の変化にも全く気付かなかった雄二は頭の中ですでに由衣と抱き合っていた。
「じゃぁ、ここで・・・」
まるで高級マンションのような造りになっているその建物は茶色い煉瓦のような壁でできていた。カーテンが全て閉じられた窓の上にはきらめくネオンでホテルの名前が明滅している。自力で立つのも難しい雄二は、勢いに任せて由衣にもたれかかろうとした。もはや2人を縛る物は何もないのだ。
「もうダメだ・・・早く横になりたい・・・」
「仕方ない、じゃぁ、介抱をお願いしますね」
その言葉にもたれかかるのをなんとか踏ん張った雄二の体がフワリと宙に浮いた。わけがわからず、後ろから左腕を持ち上げるようにして支えられている事に気付いた雄二は虚ろな目でそっちを向いた。
「はい?」
「私に任せて!しっかりと介抱してあげるわ・・・」
にこやかにそう言うその女性は普段から細い目をより一層細めて笑顔を見せた。酔いから来る幻覚かと頭を振ってそっちを見るが、やはりそこに立って自分を支えているのは間違いなくあの弥生である。腕を掴む感触も夢では無いことを物語っていた。
「じゃぁ南さん、あと、介抱よろしくお願いしま~す」
由衣は両手を後ろに回すとにこやかな顔でそう告げた。
「うん、任して!」
こちらもにこやかにそう言うと、片手を挙げてみせた。
「じゃぁね・・・ごちそうさまぁ~」
そう言いながらわざわざ雄二の顔を覗き込むようにしてひらひらと両手を振ると、由衣は路地を出て雑踏の中へと消えていった。もはや追うことも出来ずにふらつく体を何とか立たせるのがやっとの雄二は、ふわりと身体が浮くのを感じた。巨体からくる力のせいか、弥生に背負われたその状態でホテルの玄関をくぐる。
「ち、ちょっと待て!何でオレがお前なんかと!」
暴れようとするが、逆に頭がフラフラしてしまい、その大きな背中にしがみついた。
「こういう強引なのが好きなんでしょ?」
「な、なにぃ?」
そう言う雄二を無視してスタスタとホテルの中を進む弥生は、雄二は強引な行動に弱く、その想いを遂げたいのなら彼の好み通り強引に行くしかないとアドバイスされた由衣と康男の言葉を思い出していた。先日由衣は職員室を出ていった後に康男を連れて戻ってきた後、今回の計画を話したのだ。おそらくこのチャンスを生かして自分を物にしようと企むことを見抜いていた由衣は逆に雄二を酔わせる計画を思いついたのだ。高校生活の中で雄二の性格は掴んでいる由衣にとって、必ず何かしら理由をつけてホテルに誘い込むという計画をしっかりと見抜いていたのだった。そんなことはないだろうと思っていた康男だが、とりあえず言葉巧みに雄二を酔わせ、そのまま休憩を誘って雄二をそそのかしてホテルまで誘う由衣の計画には了承した。もし誘いに乗ってこなければ、ここで偶然を装って弥生と合流し、由衣は途中で帰る事になっていたのだ。だが、やはりいやらしい顔をしてのこのこついてきた雄二に弥生の登場となったのだった。こういった強引な事に弱い弥生を奮い立たせたこの計画は功を奏した。もっとも、密室で誰にも邪魔されずに告白ができればいい弥生にとっては、その後どうしようという考えはない。ともかく事は由衣の計画通りに進んだのだ。自分はアルコール度数の低いシャンペンを、そして雄二には口当たりが良くアルコール度数が高いワインをオーダーしていたのだ。まさに雄二の計画を由衣が実行したという事になる。元々料理だけを楽しむことにしていた由衣は昔の自分、周人に助けられて好きになる以前の自分を思い出しながら雄二の相手をしていたのだ。男に貢がせるだけの自分を演じていた由衣にとって今日の事など全く気にする必要はない。ましてや心が痛む事もなかった。だが、夜の人混みをかき分けて駅へと向かう由衣の心が悲鳴をあげている。その悲鳴の原因は自分が一番よくわかっている。今日の事で周人のことを、周人への想いをより鮮明に思い出してしまったからだ。両想いになりながら別れてしまったあの夜のことを思い出して、由衣の心は泣いていた。暗い表情でとぼとぼ歩く由衣は何度か人にぶつかりながらも重い足取りで駅へと向かう。明るく瞬くネオンや、大きな声で会話する女性たち、車の音、それすらどこか遠くで聞いている由衣の頭の中にあるのはただ周人への強い想いだけであった。願っても叶わないその想いを、良い方向へと向けていたはずだった。だが、会えるかどうかもわからない相手を想う気持ちを蘇らせてしまったのは自分のせいである。今日、雄二と食事するためにここに来なければこうはならなかっただろう。雄二の話を聞きながら、由衣の心はあの『最後の夜』へと飛んでいたのである。あの時の周人との会話、表情、想いなどを記憶の中で蘇らせてしまった時、由衣の中で周人を好きなあの激しい気持ちが3年の時を超えて蘇ったのだ。
「会いたいよぉ・・・・」
歩きながらそう小さく消え入りそうな声でつぶやく由衣は、今にも泣きそうな顔をしながら駅へと向かうしかなかった。そんな由衣はおもいっきり正面から人とぶつかってしまい、驚きながらも顔を上げて謝ろうとした。だがその人物は小さな笑みを浮かべてジッと由衣を見下ろすだけである。
「なぁんだ・・・先生か・・・」
「ぼけーっとしてたけど・・・大丈夫かい?」
ぶつかった相手である康男は優しい口調でそうたずねた。由衣は大きなため息をついてうなずくと、康男を見あげるようにしてみせた。
「君がこの時間に1人で帰っているということは・・・計画通りだったってことだな?」
「スケベ心に溺れて、今頃天国じゃないですか?」
疲れたようにそう言う由衣の言葉に苦笑した康男はやはり自分の考えが甘かったと反省の色を浮かべた。そんな苦い顔をした康男に小さな笑みを浮かべた由衣はさっきまでの暗い雰囲気を引きづりながらも顔には出さないように努力した。
「送っていくから、車はそこで路駐してる・・・急いでくれないと駐禁取られちまうよ」
行き交う車の流れは週末とあってか混雑していてかなり悪い。週末のこの時間ともなればどの道路も混雑し、へたをすれば規制に警察が動き出す可能性もある。康男にそう言われてその言葉に甘えることにした由衣は康男と共に向かい側の道路脇に止めてあるワンボックスカーへと走った。幸い混雑のせいで車はみな動いておらず、危険なく横断できた。素早く車に乗り込んだ2人は混雑する車の列にうまく入り込み、渋滞の川の中へと入っていった。
「あの2人、どうしてるやら・・・・」
「さぁ・・・」
窓の方を向いた由衣は興味なさそうにそう返事をするだけであった。その暗い声を聞いてはさすが声をかけにくくなってしまった康男はなかなか動かない前の車を見ながら頭をシートの後ろから抱えるようにしてもたれかかった。
「青山さんに、えらく怒られたよ・・・」
その言葉に顔を康男の方に向けた由衣は苦々しく笑うその顔を見て小首を傾げた。
「今日のことをまず相談したんだけど・・・その時に今の君と、3年前の木戸君とをごちゃ混ぜにしているってね・・・」
その康男の言葉に由衣は目を伏せるようにして少しうつむいた。
「なんか似てますよねぇ・・・恵里さんを忘れられずに前に進めなかった先生と、先生を忘れられずに前に進めない私・・・」
小さな笑いは自分に対するものなのか、由衣はそうつぶやくと前の車が光らせているブレーキランプの赤い光を見つめた。その明かりを受けて赤く染まる由衣の顔を見ながら康男は話の続きを始めた。
「そう思って、君にも新しい1歩を踏み出してもらおうと、あの時したように君と柴田君を引き合わせようとした・・・でも、青山さんは反対したんだ。それは間違ってるってね」
「恵さんが?」
「そう・・・たとえ前に進むために必要なきっかけでも、好きでもない男とそこで会って何になるって。彼女に言われてオレもそう思った・・・・実際昨日も悩んだんだ・・・逆にこれが君の中の木戸君への強い想いを蘇らせてしまうんじゃないかってね」
そう言われた由衣は再度うつむくようにして何も言わずに膝の上で手を組んだ。垂れ下がった前髪のせいで表情は読みとれないが、暗い雰囲気は伝わってくる。
「実際、君は思い出してしまった・・・・」
由衣はその言葉にピクッと反応した。だが、決して顔を上げようとはしなかった。
「さっきの暗い顔、アレを見た時に、オレはなんてバカだったんだろうって思った。良かれと思ってしたことが、逆に君を苦しめているんだからね」
そう言う康男は周人とのデートをセッティングした次の日、ドレスを返しに来た由衣の事を思い出していた。丁寧に畳まれたピンクのドレスと赤いコートを入れた紙袋を差し出す由衣に向かってどうだったと聞く康男の質問に対して『おかげさまで両想いになれました。でも付き合うことにはならなかったから別れたって感じかなぁ』と泣きそうな顔ながら笑って明るくそう言ったのだ。その表情からそれ以上何も聞けなくなった康男は帰っていく由衣の背中を黙って見送ることしかできなかった。その時の胸の痛みと同じ痛みを、今感じているのだ。
「すまなかった・・・」
康男は、それしか言えない自分を呪った。なぜならば、横に座る由衣の頬には涙が流れていたからである。ぽろぽろこぼれ落ちる涙は膝の上で組まれた手の上に落ちて弾けていた。周人を想って泣く由衣は、たとえ何があろうとも、どんなに思い出に浸ろうとも、この3年間決して涙を見せなかったのだ。だがこの数日間で、既に由衣は2度も涙を流している。顔を覆うでもなく、涙を拭うこともなく、由衣は流れ落ちる涙をそのままに毅然と顔を上げた。
「会いたいですよ、もちろん・・・・・でも、もう向こうにはもう彼女が出来ているかもしれないし・・・だから前に向かって進もうって思っています。でも、今夜だけは・・・・泣いてもいいですよね?」
新たな涙が頬を伝う中、由衣は笑っていた。痛々しいほどに切ないその涙を、笑顔を、康男はどうすることも出来ずにただ見つめるしかなかった。
「すまん」
その一言をきっかけに、由衣は声を上げて泣いたのだった。




