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くもりのち、はれ  作者: 夏みかん
第十章
52/127

曇りのち、晴れ(1)

じめじめした、気持ちも沈む季節である梅雨が今となってはもう懐かしい思いとなる。容赦なく照りつけてくる日差しはもはや殺人的であり、今年は猛暑と言われる言葉を7月に入ってすぐ耳にするようになっていた。まだ海開きすら出来ていないこの桜町でうだるようなこの暑さはもはや限界を超えていた。ここさくら西塾の職員室内でもすでにクーラーは全開で稼働中である。ちらりとカレンダーを見やるショートカットの髪型をした女性はうちわをパタパタしながら、今がまだ7月10日であることにうんざりしていた。この調子ならば早々と涼しい秋が来そうな感じがしているのだが、天気予報によればこの暑さは9月下旬まで続くらしい。時刻は午後3時。日差しは強く、暑さも最高潮の時間帯である。黒いノートパソコンの画面に表示された英語の単語をぼけーっと見ながら、もはや惰性で印刷を指示するようにマウスをクリックした。このパソコンからケーブルで直に繋がれている真横に置かれたプリンターが稼働を始め、単調な動きで印刷を開始していくのを見たそのショートカットの女性は今仕事をしている自分の席から一番クーラーの当たる誰の物でもない空いている座席に移動した。その空いた席についた女性はクーラーの涼しい風を顔に受けながら目を閉じ、その茶色くて短めの髪を掻き上げて満足そうな顔をして見せる。小さな玉を耳にくっつけたような赤いピアスをいじる事がここに勤め始めてからの癖になってしまっていた。ふと何気なしに見る理路整然と綺麗に片づけられた自分の机と同じように綺麗に整理されたその隣の席とは対照的に、目の前の席には乱雑にプリントや教材がただ雑然と積み上げられていた。この惨状を直すよう何度注意しても無駄なため、さすがにバカらしくなってもう何も言わないようにしている。そんな曇った表情をした女性が振り返ったのは真後ろに位置する玄関のドアが開き、冷えていた空気が一気に逃げるのを感じたためである。


「こんにちはー!」


額の汗を拭きながらも元気良くそう挨拶した活発そうな雰囲気を持つ美少女は靴を脱ぐ前にすぐにドアを閉じた。そのまま備え付けの自分専用のスリッパへと履き替えると、先に部屋にいたショートカットの女性のすぐ横の席、綺麗に片づけられているその席に座った。そのまま背もたれに身を預け、顔を天井へと向ける。


「もぉ~・・・無茶苦茶暑いですねぇ・・・これって異常だよ・・・・あー、その点、ここは天国だねぇ~・・・涼しいぃ~」


今ここには女性だけしかいないせいか、Tシャツのお腹辺りをつまんでパタパタとする。その動きのせいでジーパンとの間にあるおへそがチラチラしているのを見たショートカットの女性は苦笑すると、アゴを手に乗せた。


「柴田クンが見たら鼻血ものね・・・」


気怠そうにそう言うと、クーラーから流れてくる風に目を閉じて受け止める。


「顔を合わせない日ぐらいその名前、出さないでくれますぅ?」


心底嫌がっている感じでそう漏らす活発そうな美少女の顔が見る見る曇っていった。そんな美少女を横目に薄く笑ったショートカットの女性はすぐに目を閉じてまたもクーラーから来る風を堪能した。


「でも向こうはあなたを好きで好きで仕方がないって感じよねぇ・・・ストーカーになる前にさっさと付き合っちゃえばぁ?」


その無責任とも取れる発言に苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべて『ベー』っと舌を出した美少女は椅子に身体を預けるようにしてみせた。


「私、理想高いから・・・・それにアイツは大っ嫌いだし!」


しかめっ面でそう言った後、こちらも目を閉じてひんやりしてきた部屋の空気を心地よさそうに感じている。


「木戸クンが理想じゃ・・・・この先も絶対彼氏はできないわね・・・」

「それはお互い様だと思うなぁ・・・だから恵さんも彼氏がいないわけだし・・・」


そう言われたショートカットの女性、青山恵は口元に意味ありげな笑みを浮かべてみせたが、目はそのまま閉じた状態でそれ以上の反応は返さなかった。


「まぁねぇ~・・・でもそれって由衣も一緒じゃん」

「ま、そうですねぇ」


肩まである髪をかき上げながらそう言う吾妻由衣も、恵同様意味ありげな笑みを浮かべてそう答えた。


「彼が外国に行ってもう3年も経つのに・・・・木戸クン並みの人っていまだに出会わないもんなぁ~」

「一度あの人を好きになっちゃうと・・・あの優しさに触れちゃうと、もうダメですね。他の男じゃ満足できない」


2人は呆けたようにそう言い合うと、どちらともなくクスッとした笑い声を発した。


「なんか・・・婆くさいね、私たちって」

「そうですね」


笑いながらそう言って身を起こした由衣は背伸びをして気怠さを吹き飛ばすようにすると給湯室に向かう。去年の夏に購入した小さな冷蔵庫からよく冷えた麦茶のペットボトルを取り出すと、2つ紙コップを用意してそれを注いだ。恵は相変わらずぼけーっとクーラーの風に当たっている。髪がその冷気に触れて小さくなびいているのが見て取れた。


「でも・・・やっぱ今でも好きなんでしょ?木戸クンの事」


目の前にコップを置く由衣に、ようやく目を開いた恵がそっちを見ながらそう問いかけた。


「フラれたわけでも、嫌いで別れたわけでもないですからね・・・そりゃぁまだ好きですよ」

「そりゃそうよねぇ~・・・・だったら、私の方がまだ彼氏ができる可能性があるなぁ・・・」

「え~・・それはどうでしょ」


そう言って笑い合う2人は冷えた麦茶を飲みながらかつて想いを寄せていた周人の事を思い出すのだった。


この春に高校を卒業した由衣は、今は華の女子大生である。このさくら西塾からさらに西に行った所にある工業地帯の手前の緑豊かな土地、そこにあるひときわ綺麗で目立つ大きな白い建物、桜山大学に通っているのだ。由衣の家から最寄りの駅であるさくら谷駅から電車で言えばわずか7駅ほど西に行った場所にあるのだ。高校卒業の際に久しぶりに訪れたここさくら西塾で康男と再会した由衣はその康男の勧誘を受けて講師としてここでアルバイトをする事となった。昨年大学卒業と同時にこの塾で働き始めた恵もそれに賛同し、週2回の授業、中学一年生と二年生の数学を担当している。またそれとは別に、高校二年生の時に桜ノ宮でスカウトされて始めたファッション雑誌のモデルのアルバイトも週に一度入れており、それなりに充実した多忙な日々を送っているのだった。モデルといっても、もちろん水着などではなく流行の服を着た上で、多くても2、3ページ掲載される程度だったが、女性誌にも関わらず何故か男性ファンも多かった。そのままグラビアのアイドルを目指そうという芸能関係の事務所の勧誘を断固として断り続けている由衣は決して表舞台に立とうとはしなかった。由衣にとって、それは所詮アルバイトなのである。一時期は同じ高校へと進学した幼なじみの小川美佐も同じようにモデルのバイトをしていたのだが、彼氏ができてからは辞めてしまっており、今では少し遠い場所にある大学に通っている。そういう事もあって、卒業後は彼氏との時間を大切にする美佐とはほとんど会うことはなくなっていた。その替わりに高校生活でできた友達とはしょっちゅう連絡を取り合って遊びに出かけていた。周人が言ったように高校でできたかけがえのない親友たちに由衣は何度もつらい気持ちを救われていた。もちろん逆に救ってあげた事もある。とにかく、一生付き合っていけるような親友を多数得た事はこの上のない財産であった。結局高校の3年間で彼氏はおろか恋愛すらできなかったのだが、ただ一度だけ、それに似た感情を持った事はあった。だが、その感情は恋愛感情ではなかったのだ。由衣にとっても、恵にとっても、木戸周人という男性が自分の理想であり、その理想を叶えてくれる人物には3年経つ今でもまだ出会ってはいない。アメリカを拠点に世界各地を飛び回っている周人とは年賀状や、簡単な暑中見舞い等のやりとりしかしておらず、電話もメールも一切ない。今もどこで何をしているかは全くわからないのだった。会いたいという気持ちはもう由衣の中ではかなり薄れてきている。だが、由衣にとっても恵にとっても、木戸周人という人物に勝る男性を求めている事は否定できない。特に由衣にとっては相思相愛でありながら泣く泣く別れたせいもあってか、3年経つ今でもまだ周人が好きなのだった。時折、生徒を見送った後に塾の階段へと目をやってはそこに座ってタバコをふかせていた周人を思い出す。それ以外においても周人の事を忘れた事はただの1日としてないほどに、今でも彼に対する気持ちは冷めていなかった。


今日のバイトもいつも通り夜からである。だが、由衣はこの塾が気に入っていた。かつて授業を受けていた時にはないほどに居心地の良さを感じているのだ。康男や貴史、それに恵といった昔から知っている気の知れたメンバーがいるせいもあるのだが、このアットホームな雰囲気が由衣の肌には合っていた。そのせいか、暇ともなればこうやって早くからやって来ては恵や康男と雑談をかわしているのだ。もちろんこの時間のアルバイト代は入ってこない。康男に用を頼まれればそこから作業時間が発生するのだが、暇つぶしで来ている分はもちろん計算には入らないのだ。もう1つのバイトである雑誌の撮影はそれはそれで楽しいのだが、やはりこういった温かい雰囲気は感じられない。嫌になればそっちのバイトはすぐにでも辞められるほどの気持ちで続けているにすぎないのだ。それはやはり、かつてアルバイト時代に新城や周人たちとこういった雰囲気の中で楽しく仕事をやってきた恵がそれを継承して、変わらずそういった雰囲気を作り出しているせいもある。恵は授業に関しては厳しいスタイルを変えていない。だが、ひとたび授業が終われば生徒たちと和気藹々と話をするスタイルも変えてはいなかったのだ。由衣は昔授業を受けていた新城や周人のスタイルを上手く取り入れ、面白おかしく、だがそれでいてピリッとした雰囲気を保ちながら授業を行っていた。十五歳の時から大人びて見えていたせいか、もうすぐ十九歳になる今でもその雰囲気は全く変わらない。幼い少女らしさが消え、より美人となり、今時の若い女性にあるむやみやたらの化粧を施さなくてもまるで芸能アイドルのような愛らしさを持っているのである。実質生徒の中にも由衣に恋している者が多く、今ではより美人に磨きをかけた恵ですらもかなわないのだ。だからといってその美貌を鼻にかけるわけでも、男性に媚びるわけでもない。それが由衣の人気の高さの一因にもなっているのだった。この今の姿こそ、かつて康男が望んで止まなかった由衣の姿であるのだ。周人と出会わなければ、彼の優しさに触れることがなければ決して成り得なかった姿が今、ここにあった。


「いやぁ~・・・・暑い暑い!」


うだるような暑さの中からやって来た康男は自宅から塾までのわずかな距離の間で既に汗だくであった。夏日になってから常に首からかけられたタオルで汗を拭き、クーラーの風を受ける恵の後ろに立って至福の時を迎えた何とも言えない顔をして目を閉じ、クーラーから流れる冷たい空気を全身で受け止めた。そんな康男を苦笑しながら見上げる由衣は自分の載っているファッション雑誌のページをめくった。雑誌自体はアルバイトをしているためにただで貰えるため、こういった空き時間には不自由しないのである。とりあえず涼しさを満喫した康男は恵の席の隣、由衣とは反対側の席に座った。


「とりあえず印刷しておきました」


十枚ほど印刷されたその英単語がびっしりと敷き詰められた紙を受け取った康男はその内容を1枚1枚確認していく。部屋のひんやりした空気に満足した顔をした恵は麦茶を全て飲み干すと、横にいる由衣が見ている雑誌を覗き込むようにしてみせた。女性モデルがポーズを取り、肌を露出したきわどい服を来ている写真が見て取れる。


「さすが青山さん・・・十分すぎるよ」


康男のその言葉に恵は雑誌から康男へと目線を向けた。その声に由衣もまた康男の方を見やった。


「じゃぁ、これで小テスト、やっちゃいますね?」

「ああ、そうしてくれ」


康男の了承を得た恵はそれをコピー機にかけに向かい、康男はそれを見送った後に雑誌を眺めている由衣を見やった。


「今年の流行はどんなだい?」


その言葉に顔を上げた由衣はぱらぱらとページをめくると自分がポーズを決めているグラビア部分を康男の方へと差し出した。ノースリーブのサマーセーターは白く、黒いパンツで身を固めた由衣が挑発的な目をしながらポーズを決めている。


「ほぉ・・・」


それが衣装に向けられたものか、はたまた由衣自体に向けられた吐息かはわからないが、康男は感嘆の声をあげた。美人で顔立ちもはっきりしている由衣のその挑発的な視線は見ている男性にとっては実際にされてみたいという願望が生まれるほどである。プロのメイクが施されているとはいえ、由衣自身が持つ綺麗さ、可愛さも十分に見て取ることができるほどだ。


「君は本当に美人だ」

「これはちゃんとメイクしてますからねぇ・・・」


素っ気なく、まるで興味がなさげにそう言う由衣はあくびを噛み殺した。その表情に苦笑を漏らす康男はあの由衣と周人の『最後の夜』に撮られたレストランでの写真を思い浮かべていた。あのレストランのオーナーとは幼なじみであり、自分宛に送られてきた写真を見た康男は何とも言えない吐息を漏らしたのだった。ドレスアップした由衣を実際にレストランまで送って行ったのは康男だが、周人の横ではにかむように微笑む由衣はその美しさを際だたせていたのだ。好きな人を横にしたその表情は、どんな雑誌に載っているアイドルすらもかなわないほどに綺麗だったのだ。結局、両想いになりながらも周人とは別れてしまった由衣が、今でも心の中で周人を好きでいることは知っている。それはかつて周人が死んだ恋人である『恵里』を想い続けていた事によく似ていた。康男は由衣を眺めたまま苦笑すると立ち上がって自分の席へと着くのだった。そんな康男の苦笑の意味がわからない由衣は怪訝な顔をしてみせたが、またすぐに雑誌へと目を向ける。コピー機から戻ってきた恵は自分の席につくと再度パソコンへと向き直るのだった。


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