優しさの値段(5)
さくら塾西校のアルバイト講師2人が同時に辞めると言いだし、康男は途方に暮れていた。たしかに良い大学に入っている2人だったが、人に物を教えるということは不向きなようであり、あまり子供たちからも支持されていなかった。だがいざ抜けるとなると今のシフトを大幅に変えねばならない上に人員の補充も計らねばならない。現在さくら校には周人を入れて4人、西校には康男を入れて6人の講師がいる。だがこれでどちらも4人ずつとなってしまう事になった。生徒数はさくら校に対して西校はその3倍の数がいる。とても4人では回しきれない上に中学生を教えることが出来る人間も限られている。新城と恵が週2回の水曜、金曜であり中学生と小学生の高学年を受け持っている。康男もまた中学一年生と小学生中学年を見て、残る1人、石野達郎が小学生の低学年を見ているのだ。康男は悩みに悩んだ末、周人に相談を持ちかけた。周人は週2回、水曜日と土曜日を受け持っていた。主に中学生の数学を見ている。なんとかあと週2回増やし、西校へ来て欲しいと無理を承知で頼み込み、そして周人はそれを快諾してくれた。これでさくら校に月曜と土曜日、西校に水曜日と金曜日となったわけだ。康男は何度も何度も礼を言い、周人は笑顔でがんばりますとだけ答えた。康男にとっては入塾してきた中学生の頃から変わらないその笑顔がまぶしい。一時期、その笑顔が消え失せていたことも知っているだけに余計だ。そして西校へ挨拶に来たのが6月の終わりだった。生徒にはすでに連絡を入れており、今日からシフト編成を変更しての授業となるのだ。今日は金曜日ということで恵と新城が職員室にいた。臨時の席を恵の後に設けられていたためにそこへ向かうと2人に挨拶をした周人は新城と向き合い、2人とは同い年とあってバイトでは先輩に当たる周人だったが、タメ口で行こうということになって握手をかわした。そして次に恵を見やった。この時、恵はあの時電車で自分をガードをするようにしていた周人に再会したのだ。だが自分の事など全く覚えていないといった風な周人に合わせて、あえて『はじめまして』と挨拶を交わしたのだ。それから2週間、周人の言動から自分の事を全く覚えていないと悟った恵はそのことを胸の内にしまいこんだのだ。だが、周人と話をする度にそのことがどうしても頭をよぎってしまい、聞きたくなってしまう。だが当の本人が覚えていないため、変な誤解を受けたくないためと自分に言い聞かせ、忘れるようにしたのだった。そんな矢先、恵は周人の優しさに触れることになるのだった。
*
昼間学校でもいろいろあり、忙しいせいもあってイライラしながら恵はテキストを流用した問題を作っていた。手書きで抜粋したメモのような物をパソコンで打ち込んでいく作業だ。後の席では周人が鼻歌まじりに軽快にキーを叩く音が聞こえる。だがはっきり言ってパソコンに慣れておらず、この打ち込みが苦手な恵は不器用な手さばきと重なってさらにイライラしてしまった。今日使おうと準備していた問題集だがあと30分で授業が開始であり、このペースでは絶対に授業に間に合わないからだ。他の授業の予習もしなくてはならないために余計に焦る恵は後ろの周人が軽々しくキーを叩く音にイライラを爆発させ、ついに大きな音をさせて席を立つと机の上を手の平で思いっきり叩きつけた。
「うるっさいのよ!カチャカチャカチャカチャとぉ!私への当てつけ?もっと静かに打ちなさいよ!」
一気にそうまくし立てた恵は鼻息も荒く周人を睨み付けた。周人は目を見開き、パチクリさせて恵の顔を見上げるしかなかった。
「すんません・・・・・・・気を付けます」
そう謝った周人は軽く頭を下げてパソコンを閉じると外へと出ていった。結局恵は打ち込みを半分近く残した状態で授業にのぞまなくてはならなくなり、深呼吸をし、怒りを持ち込まないように自分に言い聞かせながら階段を上がっていくのだった。ほとぼりが冷めるまでと外でたばこを吸っていた周人を睨み付けるようにすると、一気に階段を駆け上がった。だがやはりプリントの存在は大きく、今日の範囲を終えた時点でまだあと後30分は時間が余ってしまった。どうしたものかと思案に暮れている恵の空気を察したのか、さっきまで緊張していた教室の空気が徐々に和らいでいく。そんな時、ドアをノックする音が響き、生徒たちもシーンと静まりかえった。恵はなんだろうと小首を傾げてみせたが、仕方なくドアの方へと向かった。用事があるなら備え付けの内線を兼ねた白電話を使えば済む話である。ゆっくりと開けたドアの向こうに立っていたのは周人の姿だった。
「何?」
怪訝な顔をしながらも小さな声でそう問う恵の口調はどこか怒気が含まれていた。だがそんな恵を意に介さず、周人はプリントの束を手渡した。
「あー、これ、頼まれていたヤツです。遅れてしまってすみません」
何だとばかりに生徒たちも注目しているのを知ってか周人はいつもの調子でそう言うと、じゃぁ、と言い残してドアを閉めた。白いドアがガチャリと閉まり、呆然とする恵を残して立ち去った周人が階段を下りていく音だけが聞こえていた。何事かとざわつく教室に我に返った恵は咳払いをして教壇に戻ると、今預かったプリントを見やった。自分が打ち込んだ部分も綺麗にまとめられ、まるで学校のテストのような鮮やかさで出来上がったプリントはまだ暖かかった。今出来たところなのだろう、コピーしてすぐに持ってきてくれたことがすぐにわかった。恵は自分の分を残してあわててそれを配り、声を発する。
「先週と今やったところのおさらいテストです。制限時間は20分。これで今日はおしまいです。答え合わせは来週よ」
配られた生徒たちはプリントに集中し始めた。さっきまでの緩んだ空気はもう無くなっている。恵は入り口脇に立てかけられているパイプ椅子を展開して腰掛けるとマジマジとそのプリントに目を通した。緻密に並べられた英語や日本語に1つの間違いすらない。自分が書いた下書き通りにそのプリントは仕上がっていた。小学生の授業時間が90分であることから、今は残り30分、つまり約1時間でこれを作り上げ、尚かつ誤字脱字をチェックしているという事になる。恵は胸が重くなるのを感じた。八つ当たりして怒鳴り散らしたにも関わらず、頼まれもしないのにこれをきちんと仕上げてくれたのだ。しかも恩に着せる風でもなく生徒たちの目があることを考慮して自分が頼まれていたかのように持ってきてくれたのだ。自分がいかに小さい人間であるかと、情けない人間であるかと感じ、思わず涙ぐんでしまった。それは周人に対する感謝の表れでもあった。そっと取り出したハンカチで汗を拭う仕草をしながら、潤んだ瞳を軽く押さえた。幸い生徒たちはテストに集中していて誰も気づいていないようだった。そうして小学生の授業を終えた恵はあわてて職員室に戻っていった。そこには次の中学生の授業の準備をしている新城がいるのみで周人の姿はなかった。
「あれ?木戸クンは?」
「木戸ならもう教室に行ったよ。上で塾長と話してる。あいつ大慌てでパソコン叩いて印刷して、すっ飛んでいったよ」
席に戻りながらその言葉を聞いた恵は何気なしに周人の机の上を見やった。そこには康男が書いたであろうプリントの束が置かれていた。どうやらさっきはこれを打ち込んでいたらしい。その一番上には『今日の5時半まで』と書かれた付箋紙が張り付けられている。時間は既に5時半を回っている。小学生の授業は4時から5時半なのだ。
「いつ?いつ行ったの?」
「ついさっきだな・・・・塾長を待たしてプリントアウトしてたからなぁ・・・」
時計を見ながらそう言う新城の横を通って恵は回収したさっきのテスト用紙を机の上に置くと疲れた感じで椅子に腰掛けた。その様子から何かを感じた新城が声をかけるが、恵からは気のない返事が返ってくるばかりだった。結局その日は周人と会うことなく帰宅した為にお礼の言葉を言えずに終わってしまった恵は別の日に礼を言ったが、素っ気なく、別にいいのに、と返されて終わったのだった。だがこの日から周人を意識するようになり、とうとう今では好意を抱くようになってしまったのだ。
*
「電車でねぇ・・・覚えてないなぁ」
ぶっきらぼうにそう言うと、席に戻る。デジタル時計はもう21:47を表示していた。窓を閉め、しっかりと鍵をかける。そしてカーテンをしてから恵も席に戻った。
「ありがとう、あの時、守ってくれて」
「痴漢扱いされるのが怖かっただけだよ」
「でもいいの、ありがとう」
周人の優しさを知っている恵は笑みを浮かべながらお礼を言った。随分遅れてしまったが、あの時の気持ちを上回る感謝の気持ちを伝えることができた事が満足感を与える。そして恋愛感情も上昇していくのを感じた。ますます好きだと実感できる。そんな感情が表れているせいか、自分を見やる恵の顔は優しく、そして美しかった。一瞬動悸が高鳴る周人は立ち上がるとドアの方へと向かった。
「礼を言うのはこっちだ・・・・ありがとう、おかげで立ち直れそうだ」
満面の笑みを浮かべて振り返った周人を見た恵は抑えきれないほどの想いを胸に笑顔を返した。この笑顔を独り占めしたい、ずっと傍で見ていたいという気持ちに駆られた。今なら告白できそうな気がした。だが無情にも今の甘い空気は突然開かれた玄関のドアによって打ち消されてしまった。そこから顔を出した康男は2人を見るや、どうした?降りないのか?、と声をかけた。今降りますと玄関に向かっていた周人が出ていく。その後ろ姿を見つつ頬を膨らませ、睨むように康男を見ながら上履きから靴に履き替える恵は無言ながら怒りを含んだオーラのようなものをかもしだしていた。
「あちゃー・・・もしかしてオレ、マズったかな?」
「最悪です・・・・・」
後頭部をぼりぼり掻きながら顔を引きつらせる康男の横をすり抜ける恵はそうキツイ口調で言い残し、周人の背中を追うのだった。
*
夏の到来を告げる蝉の声がこだまし、より一層の暑さを強調する。周りに自然が多いせいか聞こえてくる蝉の鳴き声の種類も豊富であり、したたり落ちる汗の量を増やすかのようにその命の燃える限り鳴き続ける蝉の声は大きかった。どの学校も今は夏休みである。さくら塾では7月の終わりに中学三年生のみが一泊二日の学力強化合宿に出かけることになっており、すでにさくら、さくら西共に全ての三年生が合宿に参加を申し込んでいた。基本的に勉強の時間も多いが、息抜きとしてプールで遊んだりも出来るカリキュラムを組んでおり、ここから車で二時間ほどの山中にある保養所を貸し切って毎年行っているのである。その手配や確認、問題づくりの手伝いを行っているのは周人、八塚、貴史の3人であった。周人はパソコンへの打ち込み、八塚は教材の運搬、貴史は保養所とのやりとりをそれぞれ任されていた。建物の中はクーラーが利いており、快適であったものの、一歩外へ出れば容赦なく照りつける日差しにヘタをすれば命すら奪われそうになるほどの暑さが待ちかまえていた。その灼熱地獄からこの天国へと入ってきたのは2人、この塾の経理を補助している米澤信と恵であった。今日、米澤が来ることは聞かされていたのだが、恵が来ることは聞いていなかった3人は驚いたが、貴史は顔をほころばせ、擦り寄るように恵に近寄っていった。やれやれといった表情をする八塚を見やった米澤は苦笑を漏らしながら周人と八塚に冷たいジュースを差し出した。米澤は塾長である康男の高校、大学時代の先輩であり親友で、自ら小さな印刷会社を経営しており、この塾の経理の一旦も担っていた。もちろん教材の印刷等もまかなっており、コピー機の支給なども米澤の会社が受け持っているのだ。まさに持ちつ持たれつの関係である。たまに臨時教師もしている米澤は合宿の為に塾を空ける康男に代わって塾全般を見ることになっていた。その為、打ち合わせに何度か足を運んでいるのだ。
「ご苦労さん、どうだい?」
「順調です。あと2往復もすれば教材を運び終えます」
ジュースの栓を空けながら八塚はそう報告し、ちらりと恵と会話をしている貴史を見やった。美人の恵に一目惚れしている貴史が会話できるチャンスは意外と少ない。基本的に送迎の運転手であるために、その送迎を行っている以外の時間は恵は授業であり、貴史の勤務時間は7時までと決められているのだ。これは貴史の両親と康男との契約であり、貴史はそれに従うしかなかった。
「こっちも順調~・・・・・」
手も離せないといった感じで打ち込みながらそう答える周人に苦笑しながらも、ジュースの栓を空けてやる米澤は貴史に捕まっている恵を呼んだ。そして空いている適当な席に座らせると『カリキュラム仮版』と書かれた紙を机の上に置き、合宿についての打ち合わせを行った。
「実質あと1週間で合宿なんだが、青山さんは英語と国語をお願いします」
カリキュラムと、教えるべき簡単な内容を記したプリント見やりながら頷く恵は疑問点などを米澤にぶつけ、米澤はその答えを返すといったやりとりを小1時間ばかり続けていた。今の時刻は午後4時。今日は小学生の授業がある恵はそのままバイトに突入し、入れ替わるように今度は新城と康男が入ってきた。搬入資材の確認を終えた八塚が康男に対して何やら軽い打ち合わせを行った後、貴史を連れてさくら校に最後の運搬をするべく車で出ていった。相変わらずパソコンに向き合う周人の後に腰掛けた康男と新城は米澤と3人でさっき恵にしたのと同様の打ち合わせを行った。今日はこの後、中学三年生の授業がある新城の為に早めに来てもらい、打ち合わせを行う事になっていたのだ。都合上、新城は今日を最後に合宿までは塾には来ないからだ。さっきの恵の時とは違いかなり詳しく打ち合わせを行う3人は時間も忘れて熱中し、周人にそれを指摘されてあわてる一面を見せていた。というのも、合宿に参加する講師は恵と新城、そして康男であり、雑用として貴史も入れた4人だけとなっているのだ。基本的に数学と英語がメインだが、学力強化としてその他の教科も補わなくてはならない。とはいえ、他の生徒の授業もあるために周人などは塾に残り、米澤にいたっては康男に代わって塾自体を管理しなくてはならないのだ。その為に打ち合わせは綿密に行う必要がある。周人が全ての打ち込み作業を終えたのは19時を回っていた。大きく背伸びをし、一服しに外へと出る。すでに全ての運搬を終えた八塚たちは残務処理として空いている教室に運んだ教材の最終確認を行っていた。今日はこの後みんなで晩ご飯を食べに行くことになっているのだ。それでも送迎時間を入れてあと3時間はゆうにある。小腹が空いたと感じながらもポケットからたばこを取り出すと、使い捨てライターの火を点けて煙をふかせた。やはり夏の暑さは夜になっても変わらず、自然と汗が噴き出してくる。いつものように階段に腰を下ろしながらまだ明るめの雲の無い空を見上げた。月がそこにある。周人は薄く微笑み、優しい目で月を見上げていた。やはり日が落ちるのが遅く、西の空は薄青いながらもはっきりと白く薄い雲が確認できる。携帯の灰皿に灰を落としそのまま空を眺めていると、2階のドアが開いて恵があわてた風に降りてきた。たばこを口にくわえながら道を空けるように階段から離れると、恵は頭を下げて職員室へと入っていき、ものの数秒でまたあわただしく階段を駆け上がっていった。どうやら忘れ物をしたらしい。夕方から打ち合わせに授業にと立て続けにあったのだ、無理もない。苦笑しながらたばこをもみ消すと職員室に戻った周人は冷えたコーヒーを入れて一息つき、自身の学校のテストの為の勉強を始めるのだった。
*
外がざわめき始めたのに気が付いた周人は何気なしに時計を見やった。21:01と表示されているデジタル時計に、自分がいかに集中していたかを実感する。ひときわ大きく背伸びをし、再度一服の為に外に出ると、ドアの横で壁にもたれるようにしながら新城がすでにたばこをふかせていた。開かれたドアから流れてくる部屋の中の冷気に幸せそうな顔をする新城に対して苦笑しながらドアを閉める周人はその暑さにげんなりした表情を浮かべた。
「暑いなぁ・・・・今でこれじゃ、8月はイヤになる」
煙を吐き出しながらそう言う新城の前で周人もたばこに火を点けた。バスの準備はまだ出来ておらず、生徒たちは各グループに分かれて談笑したり、追いかけっこをしたりして遊んでいる。それらを眺めながら無言でたばこを吸っている2人の傍では恵が女子生徒たちと笑い声をあげながらあれこれ話をしていた。その脇をすり抜けるようにして歩み寄ってきたのは吾妻由衣だ。由衣は周人など眼中にないといった感じで新城の前に立つととびきりの笑顔を見せた。周人はそんな2人に背を向けるようにして知らん顔をするとたばこの煙を輪にして宙を漂わせた。
「先生、合宿一緒なんだって?楽しみにしてるからねー」
「あぁ、だが、勉強メインだからな?」
たばこを消そうとしながら携帯の灰皿を探すが見つからない新城の脇から周人がそれを差し出す。今たばこを吸い始めた周人からそれを受け取り、たばこをもみ消すとそのままそれを周人に返した。
「わかってるぅ。でも、息抜きもしないとねぇ~」
小首を傾げながらまるで今にも抱きつきそうな感じでそう言う由衣を見下ろす新城は苦笑混じりにそうだな、と返事をした。
「結局、先生は誰々が行くの?」
「ん?え~と・・・塾長、オレ、青山先生、んで、新垣先生だ」
「そう、まぁ不満は無いとも言い難いけど、いいかな」
そう言いながらチラッと周人を見やる。周人は視線に気づきながらもあえて無視をした。
「まっ、優秀な先生ばっかりを選んでるって事ね」
「ここの先生はみんな優秀だよ」
少し気を悪くした感じの新城の口調だったが、由衣は全く気にかけない。
「少なくとも変なのが1人いるけど!」
強めの口調でそう言い返し、隣にいる周人を睨むようにして見やった。さすがにその言葉は聞き逃せなかったのか、周人は由衣を見た。だがその目は驚くほどに冷静であり、逆に新城が憮然とした態度で由衣を見ている。
「まぁ、変だというのは否定しないよ・・・」
素っ気なくそう言う周人に少々むかっ腹が立ったのか、由衣はさらにきつく周人を睨み付けるようにしてみせた。それでも周人は涼しい顔をしている。
「フンッ!じゃぁ、優秀ってのは認めてるわけ?厚かましヤツぅー」
吐き捨てるようなその言葉にカチンと来たのは言われた周人本人ではなく、新城の方だった。
「吾妻さん・・・それは言い過ぎだろう!」
きつめのその口調に我に返ったのか、由衣は新城に弁解を始めた。だが、新城のかもし出す雰囲気は張りつめており、由衣は胸が苦しくなりながらも懸命に弁解した。なんでこいつのために、とたまに周人を横目で見やる。さすがに周人はため息をついて由衣に向き直った。そして新城の肩を2度ほどポンポンと叩く。
「まぁいいさ。とりあえず優秀だとは思っちゃいないよ。新城先生や青山先生には遙かに劣るしね」
「容姿、それに車もね・・・」
「そうだな」
穏やかな口調でそう言うと、周人は小さな笑みを浮かべたまま職員室へと戻っていった。新城もバスが出てきたのを確認すると由衣の頭をコツンと軽く叩くようにしてからバスへ乗るように指示し、そのまま職員室へと戻っていった。その背中を見送る由衣の目は鋭く、さっきまでそこにいた周人に対する怒りが爆発しそうだった。あいつさえいなければいい雰囲気だったのにと言わんばかりである。そのふてくされた表情のままバスに乗り込む由衣を見た康男は何があったのかを予想して苦笑すると、全員が乗り込んだのを確かめてからバスを走らせるのだった。
*
憮然とした態度の新城は前を歩く周人を声を荒くして呼び止めた。さっきの事が引っかかっての事だと知っている周人は振り返るとまっすぐに新城の目を見据えた。
「お前・・・あれだけ言われて何とも思わないのか?プライドとか無いのか?」
1歩詰め寄る新城に対し、周人は微動だにせずその場にたたずんでいる。入ってきた恵や八塚たちはただならぬ2人の気配に戸惑うようにしてドアの前にたたずむしかなかった。
「ないよ。あの程度の事に腹立てるのもアホらしいからな。それに、いちいちあの子に張り合っていたら胃がおかしくなる」
そう言った瞬間、新城は一気に詰め寄ると周人の胸ぐらを掴み上げた。されるがまましている周人に怒りを込めた目を向ける新城をあわてて止めに入る恵だが、まったく動こうともせずそのままでいる新城は後から来た八塚と貴史に引き剥がされるようにしてようやく手を放した。
「お前みたいなのがいるから、あいつらぁ、つけあがるんだよ!」
2人に押さえ込まれながらも激しく激高する新城に対し、Tシャツを直す周人は少し睨むような視線を向けた。
「だったらはっきり言ってやれよ、お前に興味はないってな。ちやほやされていい気になってんのはテメーの方だろう?」
めずらしく声を荒くした周人に少し驚いた恵は身を固まらせるようにしてその場に立ちつくした。今の周人の言葉に少し感じるものがあったのか、睨みながらも新城は黙り込んでしまった。そして抑えている2人を無理矢理ふりほどくと、そのまま一言も発せずに自分の席に座った。周人は大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出す。まるで心を落ち着かせるような仕草をし、いまだ固まっている恵の肩に手を乗せた。恵は一瞬ビクッとしながら体を硬直させたが、周人の穏やかな顔を見て少し落ち着いたのか、安堵の表情を見せた。周人は声に出さずに、ごめんとだけ口を動かすと自分の席へ戻っていくのだった。
*
結局、本日の晩餐は普段と全く変わりない周人に対し、口数が極端に少ない新城は表情も固いままほとんど口を開かずにもくもくと目の前に置かれた焼き鳥を頬張っていた。そんな新城に気づきながらもあえて気づかない風にした康男は合宿の事に関しての話をし、その場はそれでお開きとなった。恵は米澤が送っていき、八塚と貴史はそのまま康男の家に泊まることになった。周人もそうすることにし、すぐ近くにある24時間営業の銭湯へと3人は向かった。残された新城は康男と塾に戻ると、酔い覚ましのコーヒーを入れるのだった。そこで新城は今日あった出来事を康男に話して聞かせた。その話を黙って聞いていた康男は腕組みしたまま一通りの話を聞き終えると、難しい顔をしてみせた。そして静かに口を開くのだった。
「たしかにあの子の物の考え方は今時で、オレから言わせればおかしいと思う。あの年でアレだと先が思いやられるよ。でもここは学校ではない、家庭でもない、塾なんだ・・・・範疇外だよ」
康男はそう言うと組んでいた腕をほどき、膝に肘を置いて指を組んだ。
「でも、何とかしたいとは思っている・・・そしてそれが出来る人間は木戸周人をおいて他にはいないとも思っている」
その意外な言葉に言葉を失う新城。一番毛嫌いしている人間がどうやって彼女を更生させられるというのだろうか。恵と同じ疑問を顔にありありと浮かべる新城を見やった康男は苦笑するとそのまま言葉を続けた。
「一番嫌いな人間だからこそ、そして彼だからこそそれが出来ると信じている」
康男はそう言うと黙り込む新城の肩に手をやった。
「君がするべきことは彼女から理想の君を追い出すこと。そして・・・・・何もしないこと」
「何もしないで無視する事が一番だとはわかっていますし、僕はあの子に興味がないですから」
新城は力強くそう言うと、まっすぐに康男を見つめた。その時、康男の顔が大きくほころんだのを見た新城は何故か直感的にイヤな予感が走る。
「興味があるのは身近にいるただ1人、だな?」
その一言に言葉を失う新城は明らかに動揺した様子でコーヒーをすすった。さらに意地悪い笑みを見せる康男を凝視できずに目を逸らす新城。
「とにかく、今回の事に関してはどっちの言い分も正しいよ、気にするな」
康男はそう言うとおもむろに立ち上がり、そしてまだ俯く新城の肩を軽く叩くと銭湯に行こうと促した。7つのお風呂が楽しめるそこは娯楽施設のような感覚で入浴することができる。小さいながらも露天風呂まである上に大きなサウナまで完備しているのだ。この時間は人もほとんどいないため、今頃は風呂場を駆けずり回って暴れているだろう3人を追うことにした新城は、自分を落ち着かせるように深呼吸をすると職員室を出て行くのだった。
*
銭湯へやってきた新城はさっきの気まずさもあって、あえて周人たちが暴れている場所とは違う湯船に浸かった。目を閉じてやや熱めのお湯を感じ、何もかもを忘れるようにしてその浮遊感を味わっていたその時、いきなり顔面に大量のお湯をかけられてしまい、あわてておぼれそうになった体をばたつかせながら立ち上がる。顔を流れるお湯を手で振り払いながら何が起こったかを確認した新城の目に飛び込んできたのは、腰にタオルを巻き、空になった洗面器を指でくるくる回しながらニタリと笑う周人の姿だった。いたずらなその笑みを見た新城はふつふつと沸き上がる怒りを感じながら、徐々にその感情をかき消して引きつった笑みへと変えた。その顔を見てあわてて逃げる周人を追いかける新城の顔に浮かぶのは仕返ししてやるという子供のような笑みであった。その後4人は貸し切り状態となっている銭湯内を駆けずり回り、実に2時間近くも入浴していたのだった。