雪の中の告白(1)
そこは何もないただ真っ暗な空間だった。方向も時間の感覚さえわからないその空間の中にあってひときわ目立つものがあった。目の前にそびえ立つようにしている大男はスキンヘッドであること、鋭い目つきをし、鋼のような筋肉をもった肉体以外はかすんでよく見えない。対峙する自分がその大男と戦い始めてからすでに10分近くが経過しており、体もボロボロで疲労感も限界に来ていた。だが、自分は何が何でもこの男を倒さねばならない。肉体的疲労はピークでも、精神的な疲労は感じていなかった。重い体を気力で奮い立たせて一気に間合いを詰め、大きく踏み出した右足は地面を貫くほどの勢いで叩きつけられ、その勢いを利用して野球でいう投手のモーションのように右腕を後ろから回して前へと堅く握った拳を突き出した。ひねられた上半身から螺旋状に力が放出され、踏み出した右足から得られた力を込めた一撃が相手の腹部に炸裂した。ただ1人の例外を除いてどんな相手でも一撃の下に葬り去ってきたその技には絶対の自信があったのだが、男は腹筋を鋼の如く硬化させたのか、見事にそれを受け止めた。1トン近い衝撃を吸収する腹筋とはいかなるものか。渾身の力で放ったその技を平然と受けきり、壮絶な笑みを浮かべるその大男は間合いを開けようと飛び退く自分の左腕を掴むと肘を支点に一気にそれを極めて、折った。骨の折れる豪快な音と、全身を駆け抜ける痛み、そしてだらりと垂れ下がったその動かない左腕が死んだ事を物語る。もはやあばらも数本折られ、少し動くことですら全身から苦痛を感じるほどである。だが、起死回生を狙って放った奥義『天龍昇』も効果が無く、これによって7つある奥義の中で4つが通用しなかった自分にとってもはや残された手はただの1つもなかった。相手のダメージはほとんど無く、自分はもう満身創痍なのだ。それでもなお脇腹に蹴りを放ち、攻撃の手を休めない。しかし、大男は笑いを消すことなく全ての指を突き立てた巨大な手を自分の胸に目がけて突き出した。逃れる事のできない速度で放たれ、自分の胸から背中を貫通したその腕を不思議な物のように見やる。だが血も流れなければ痛みも感じない。目の前の男のあざ笑うような目だけが、自分の怒りと、そして絶望をあおるのだった。
ゆっくりと目を開いた周人は薄暗い中に見慣れた白い天井を見てホッと息を付いた。実際は息も荒く、心臓も痛いほど鼓動が激しかった。こういった夢は今までに何度か見たことがある。技を放った後に腕を折られたところまでは現実にあったことであった。だがそこから先は現実とはまるで正反対である。気怠そうに身を起こし、額の汗を手で拭う。時間は目覚まし時計が鳴るまであと3分ほどであり、そのまま目覚ましのスイッチを切ると寒さをこらえながら洗面所へと向かった。冷たい水で顔を洗うと身が引き締まり、目が完全に覚めるのを自覚する。少しついていた寝癖もそのまま簡単に直すといそいそといつものジャージに着替えてスポーツタオルを首からかけた。2月ともなれば朝の寒さは想像以上である。だが、もうこうやってトレーニングを始めて何年にもなるせいか、雨や雪、暑さや寒さには慣れている。いつも通りマンションの玄関先で軽い準備運動をした後、まだ明るさのカケラも見えない空を見ながら周人は毎日欠かさないランニングを始めるのだった。
やや息を切らせた周人は河原にあってまだ土が残る地面に座り込んでタオルで汗を拭いていた。真っ暗だった空は徐々に明るみを帯びていき、日の出が近い事を感じさせた。荒れていた息も落ち着きを取り戻していくにつれて今朝見た夢を鮮明に思い出す。あの奥義『天龍昇』すら通用しなかった『キング』の肉体を破壊する事は不可能だと思っていた。過去において『キング』以外で天龍昇を受け止めたのはミレニアムの総大将である千早茂樹だけであった。その時ですらある程度のダメージを与えられたのだが、『キング』には全くダメージにもならない攻撃にすぎなかった。だがそれでも自分は戦う事を止めるわけにはいかない。片腕を折られ、肋骨も折られたまさに満身創痍の状態でとっさに放った技が決まらなければ死んでいたのは間違いない。一瞬の隙を見せた『キング』と重なるように見えたのは小さな光の中の奇跡だった。死んだ恋人への自分の想いが、その恋人の周人への想いが、その奇跡を起こしたのかもしれない。そんな事をぼんやり考えながら、険しい顔の周人は立ち上がった。あの後『キング』は神威拳の影響で脳を損傷して発狂し、もはや廃人となっていた。とどめをさせば確実に殺すことができたのだ。しかも正気でない『キング』が反撃出来る状態ではないため、それは実に簡単なことであった。だが、自分には人は殺せなかった。生きて苦痛を与えさせる、築いた地位や権力すらもはや意味がない状態にある今を生かせる事で復讐を遂げたことになると自分に言い聞かし、周人は仲間と共にその場を去ったのだ。『キング』を殺したからといって、『恵里』が生き返る事わけではない。それに『恵里』が復讐を望んでいたかどうかもわからない。だが復讐はむなしさだけを残して終わりを告げたのだった。そんな事を思い出しながら周人は大きなため息をつくと、表情を変えずに自宅目指してランニングを開始した。
すべり止めとして受けた私立高校に合格した由衣は、いよいよ本命たる公立高校の受験目指してラストスパートをかけていた。受験日は3月15日であり合格発表は3月20日となっている。20日は午前中の発表で合格すれば、午後からは保護者同伴の説明会と制服等の必要物資の購入が待っている。さらにその後は卒業式が24日なため、受験も終わった3月終わりともなれば忙しい日々が続くのだ。それでも3月27日の休日を周人とのデートに当てるつもりの由衣はその旨を周人には伝えてあった。私立高校の受験日がバレンタインデーと重なっていたために、わざわざ郵送でチョコレートを送った由衣は中に手紙を入れておいたのだ。もちろん本命であったのだが、告白するような文章は一切書いていない。それは27日に発表すべき事なのだ。周人への告白が受験勉強の励みになったのか、由衣の成績は確実に伸びており、よほどの事がない限り落ちることはないと判断した康男は周人という『薬』の効果にあらためて感謝していた。そしていよいよ受験当日、3月15日がやってきた。自室の机の上に置いてある受験票を持ち、筆記用具を確認する。さらに制服の上に上着を着込んでピンク色したマフラーを巻く。朝ご飯もきちんと食べた由衣は美佐との待ち合わせ場所に向かうと時間を確認した。すでに3月の始めに高校までの下見を済ませており、道を間違えたり電車を乗り違えたりすることはない。桜ヶ丘高校を受ける由衣の中学校の生徒はわずかに5人である。男子3人に女子は由衣と美佐の2人だけであった。試験を受ける席は学校ごとに縦に列を作るため、男子3人の後に由衣が、その後ろに美佐が座る。机の右上に受験票を置いて筆記用具を準備し、参考書を出して最後の確認を行う美佐を振り返った由衣は笑顔で頑張ろうと声をかけた。美佐はうなずき、やや緊張したぎこちない笑みを浮かべるのだった。こうして、運命の受験が始まるのだった。
午前中の3科目を終えた由衣は美佐と向かい合って昼食を取っている。母親が作ってくれたお弁当を食べながら水筒のお茶を飲み、午前中の科目を振り返りながら話を弾ませていった。お互いの話から2人とも大したミスはなく、無難に落ち着いていることを知って安堵の表情を浮かべるのだった。そして午後の2教科を終え、ようやくここに高校受験は全て幕を下ろしたのだった。帰り道でもお互いの答案を振り返りながら、2人は自信を覗かせていた。これといったミスらしいミスもなく、これで落ち着いて眠ることが出来るねと笑いあった。発表までは心から楽しんで遊ぶことは出来なかったのだが、由衣は美佐と映画に行ったり、同級生の友達と遊びに行ったりして少し早めの春休みを満喫するのだった。そして3月20日の合格発表の日、由衣と美佐は高鳴る鼓動を必死で押さえながら2度目となる桜ヶ丘高校の門をくぐった。門から昇降口までは緩やかな上り坂の石畳が続いている。その昇降口の2階部分から垂れ下がるようにして数字が敷き詰められた白い紙が確認できる。その下には様々な制服を着た少年少女が喜声や悲鳴を上げているのが見えた。そこへ向かう足取りも徐々に速くなる2人は続き番号になっている自分たちの番号を探した。高鳴る胸を押さえつつ目で追いながら由衣が自分の番号に近づいていくその時、横にいる美佐が悲鳴にも似た声を上げた。
「あった!あったよ由衣ちゃん!私たちの数字、あったぁ!」
紙のやや真ん中辺りを指さしながら興奮する美佐の言葉に胸が高鳴る由衣もまた自分の番号を確認できた。その下には続き番号で美佐の番号も見える。2人は嬉々とした表情と声でもはや言葉にならない叫びを上げて抱き合い、飛び跳ねて喜び合った。合格者は受験票を持って昇降口の中に設置された受付で入学に関する書類が入った大きめの茶封筒を受け取るようになっていた。まずは列んでそれを受け取ると、中身を覗き込むようにしながら合格通知を確認する。受験番号、そして氏名が記載されており、それが自分のものだと一目でわかった。一旦学校を出た2人はそれぞれ携帯電話で自宅へと合格の報告を入れる。このあと午後2時から説明会があり、一旦自宅へ戻って昼食を取ったあと、保護者たる母親を連れて再度高校へと向かうのだ。家族に報告をした由衣たちはそのまま塾へも連絡を入れた。多くの合格の報告を受けている康男たちはてんやわんやとなっていたのだが、嬉しそうに1つ1つそれらに対応していった。こうして由衣たちの受験は幕を下ろしたのだった。
その日のうちに周人の耳にも塾生全員が高校に合格したとの知らせが届いた。私立に受かって公立に落ちた者や、私立には落ちたが公立には受かった者がいたが、塾の三年生全員が高校合格という知らせは周人を大いに喜ばせた。これで由衣とのデートも決定した周人は複雑な心境ながらも今は喜びの方が大きかった。そしてそんな周人の元に由衣からの電話がかかってきたのはその日の夜10時過ぎの事だった。説明会を終えた由衣はその後家族と合格を祝う焼き肉パーティということで近所でも美味しいと評判の店で贅沢に夕食を取ったのだ。両親も手放しで喜び、由衣はそんな両親を見てさらに嬉しさを噛みしめるのだった。だが、受験にも勝るもう1つのイベントが控えている由衣は高鳴る鼓動を押さえつつ周人に電話をかけた。もう出ないのではないかと思うほどの長いコール音をやや苛立ちながら聞いていた由衣の耳に電話が繋がる音が聞こえてくる。緊張も一気に高まったその時、久しぶりに聞く周人の声が胸を痛めるほどに鼓動を打ち鳴らした。
『先生?私、吾妻です』
「よぉ!聞いたぞ!合格おめでとう!」
嬉しそうな周人の声に、由衣は電話の向こうで満面の笑みを見せていた。康男から周人に伝わっていなければ自分の口から直接言おうと思っていたのだがさすがにそこは康男であり、由衣にとっては自分で報告したかったという思いもあってどこか心境は複雑ではある。
『まぁね、実力よ、実力!』
「そりゃそうだよ・・・でもおめでとう、嬉しいよ」
『ありがと!で、合格したので、例の話をと思いまして。そうだ、チョコは届いた?』
「あぁ、美味しくいただきました、ありがとうございました」
『うむ、よろしい!』
久しぶりに聞く周人の声だったが、全く変わりはない。周人もこれこそ由衣だと思いながら苦笑し、話を弾ませていた。
『ってことで、27日午前10時、我が家前によろしくぅ!』
「はい、了解しました、隊長殿!」
そう返事を返す周人にクスクス笑う由衣につられてか、周人も声を出して笑う。2人が行くべき場所はもう決まってあった。11月に最後のデートをしたファンタジーキングダムである。この間乗った乗り物は大人が楽しめる物の内、わずか3分の1程度にしかすぎない。1日で全てを回る事は不可能な場所でもあるため、この間乗らなかった乗り物に乗ることも既に決めてある。絶叫系はほとんど制覇していると思っている周人は苦手なそれらに乗らずに済むと思って了承したのだが、由衣にとってみればそれは大きな間違いであった。内心ほくそ笑みながらもそれを表に出さずに久しぶりの会話を楽しんだ由衣は本当なら今すぐ会いたいぐらいな気持ちも押さえつつ、心は既にその日へと飛んでいた。
『じゃぁ、当日お待ちしております。風邪とかひかないでよぉ?』
「そりゃぁこっちの台詞だ」
2人はそう言って笑いあうと、おやすみと言い合って電話を切った。しばらくスマホを抱くようにして、まるでそれを周人と思って目を閉じながら恋する乙女の表情をした由衣はベッドに倒れ込むようにすると足をバタバタさせてキャアキャア騒いだ。周人のアルバイトが最後の日以来の会話は実に約3ヶ月ぶりであり、募る想いは弾けそうなほど由衣の中で大きくなっていたのだ。だがもう1週間我慢すれば周人に会える、その想いがさらに恋心を加速させていった。告白という一大決心もそれを後押しし、由衣はただ後悔がないようにもう既に何十回と心の中でつぶやいた告白の言葉を頭の中で整理させていくのだった。
電話を切った周人は上半身裸で頭の上にはバスタオルが置かれた状態であった。電話が鳴っている事など全く気付かずにお風呂に入っていたのだが、上がった時にそれに気付き、あわてて鳴り響く電話を取った時には素っ裸であった。電話をしながら片手で器用にパンツを履き、パジャマの下を履いていく。さらに頭を拭きながらも会話に神経を研ぎ澄ますといった神業も披露しながらのテクニックに我ながら感心をする。頭をガシガシ拭いた周人はパジャマを着るとドライヤーで丁寧に髪を乾かした。このままではそれこそ風邪を引きかねないのだ。暖房の温度設定を少し上げておき、髪を乾かす周人の顔はどこかほころんでいた。そんな鏡の中の自分に対してふと何気なく冷静になった周人は由衣との会話やデートの約束した自分が嬉しそうなのをあらためて思い知った。しかし冷静になった今、周人はそれを不思議な感覚としてしかとらえていない。むしろさっきまでの嬉しそうな自分が間違いだといわんばかりに冷たい目を鏡の中の自分に向けているのだ。それに来月になればカムイの入社式もあり、いつからかはわからないが海外を転々とする仕事が待ちかまえている。おそらく由衣と会うのもこれが最後だろう。すでに取得したパスポートは大事に机の引出しの中にしまってある。
「最後のデート、か・・・」
そう一人つぶやくと、周人はパソコンを置いてある机の引き出しを開け、由衣を抱き上げているあのプリクラを取り出した。
「解放と運命の選択・・・」
あの最初のデートの日に占い師から告げられた言葉は常に周人の心の中にあった。だが実際まだ『恵里』からは解放されていない上に運命の選択を迫られているという事態にも陥っていない。この占いが当たるとすれば、それは27日のデートをおいて他にはない。だが、何も意識することなく自然にその日を楽しもうと誓う周人はここのところ同じ夢ばかり見ている事も気になってどこか不安に駆られていた。2、3日に1度は自分が『キング』に殺されるという例の夢を見ていたのだ。それが何かの警告としか思えてならない周人は言いしれない不安も感じていた。今の自分は由衣を好いていないと言いきれる。だが、人を好きになるという気持ちがどういうものであったかを忘れてしまっている今の周人には、それが本心かどうかを判断することはできない。恋をするという気持ちが、その人を失うという恐怖に負けてしまっているのかもしれない。だが、少なくとも由衣と過ごした時間はそれを感じていないことだけは自覚していた。
「何も考えるな・・・」
目を閉じて自分にそう言い聞かせる周人はそのままベッドへ向かうと背中から倒れ込んでいくのだった。
3月27日、運命のデートの日は快晴であり、気温も平年を上回るほどであった。ジーパンに赤いパーカーを着込み、黒のジャンパーを後部座席に置いた周人は約束の午前10時より5分早く由衣の家の前に車を止めた。だがいつものように由衣はすでに玄関先にしゃがみ込んでいて、ダブルワンが止まるや否や大きく手を振りながら助手席に乗り込んだ。暖かい気温のせいか、赤いジャンパーを脱ぐと持っていた鞄をそれと合わせて後部座席に置いた。こちらもジーパンに茶色いパーカーを着ており、一見すればペアルックに見えないこともなかった。そのまるで合わせたかのようなスタイルにやや引きつった表情を浮かべる周人は対照的に嬉しそうな由衣を横目に苦笑すると車を走らせた。車内では受験勉強での苦労話や、受験当日の事、さらには合格後の事まで嬉しそうに話して聞かせる由衣に周人も笑顔でそれらに聞き入った。春休みに入っているせいか、ファンタジーキングダムが近づくにつれて徐々に車も増え始めている。結局前回同様、一番遠い第三駐車場に車を止め、常に一番遠い第三駐車場からエントランス近くの第二、第一駐車場を経由してメインエントランスまでを巡回して行くシャトルバスを待った。
「今日は思っていたよりもいっぱいだから予約券ももうダメかもしれないな」
「そうだね・・・」
その言葉に周囲を見渡す由衣は少し肩を落とした様子を見せていた。だがどうしても乗りたい、周人を乗せたい乗り物があるために、由衣はそこだけが予約できることを祈るのだった。
人でぎゅうぎゅう詰めのバスの中は息をするのも苦しいほどである。車体の真ん中付近で寿司詰め状態となっていた由衣は押し合う人とさらに乗ってくる人のせいでうまく踏ん張れない態勢となってしまっていた。片足はちゃんと床に着けているのだが、もう片方はつま先を着けるのが精一杯なのだ。苦しい態勢の由衣は何とかその体を楽にしようとするがうまくいかない。困り果てていた矢先、誰かにそっと腰に手を回された由衣は一瞬痴漢かと思ったのだが、その手が周人である事に気付いて顔を上げた。周人は小さく笑うとそのまま由衣をグッと抱き寄せるようにしてみせた。揺れに合わせたせいか軽々と身を引き寄せて自分にもたれかかるような楽な態勢を作ってくれた周人に対し、由衣の鼓動は大きく高鳴った。そのままはにかむような表情を浮かべながら頬を周人の胸に当てた由衣はわずか5分ほどのその道程がいつまでも続いて欲しいと願うのだったが、非情にもと言うか、当然の事ながらバスはエントランスへと到着する。我先にと出口に急ぐ人並みから由衣をかばいつつ、周人はそのまま由衣を抱きかかえるようにしてバスを降りた。バスを降りた人たちは皆猛烈にダッシュしてチケット売り場へと殺到していく。ほっと一息つく由衣の手を掴んで同じように走る周人についていきながら、由衣はその手の温もりから来る幸せを噛みしめると同時にいつまでもこの関係を保ちたいと心から願うのであった。
周人は目の前に展開されている世にも恐ろしい光景に顔が青ざめていくのを感じていた。遙か上までレールを伴いながら塔のようにそびえ立つ鉄塔のような、それでいて三角形をした大きな建物があり、そこへ2人乗りとおぼしき黒いゴンドラがゆっくりと垂直に上がっていく。その黒い箱が鉄塔を上がっていくその光景を見ているだけですでに足が震えそうであった。だが、真の恐怖はここから始まるのだ。なんとおそらく高さ50メートルはあろう場所からレールを滑って自由落下するゴンドラはそのまま地面すれすれに平行になると、スピードを殺さずに螺旋状になったレールの渦の中に飛び込んでいったのだ。ぐるぐる回転しながらやがてスピードが落ちてきたゴンドラはプールのような水が張られた場所の真ん中に向かうと、その中心にぽっかりと空いた穴の中へと消えたのだ。乗っているカップルの悲鳴だけが残ったそのプールを見やる周人の顔は引きつっており、自然と暑さからではないイヤな汗が背中を流れてきていた。こんな物に乗せられては死んでしまうかもしれない。だが、すでに由衣は予約券を取るために並んでおり、今、嬉々とした表情をしながら駆け寄って来ている。
「ギリギリ予約できたよ!でも4時からの分だから・・・・あとのは予約、無理っぽいからちゃんと並ぶしかないね」
周りを見ながらそう言うと、どれに並ぶか決めるためにエントランスで取っておいたマップを取り出した。轟音を立てて落下していくゴンドラの中から聞こえてくる悲鳴に肩をすくめる周人はぐるぐる回りながらプールの上で姿を消すその光景に再度唾を飲み込んだ。
「大丈夫だって、こんなの一瞬よ!」
そう言われても不安がありありな周人は引きつった笑みを浮かべているのみである。そんな周人ににんまり笑う由衣は手を引いて最初のアトラクションの場所へと向かった。今日はグランドオーシャンと呼ばれるエリアで遊ぶことに決めており、その名前の通り水を題材にしたアトラクションがそのほとんどである。さっき予約をしたフリーフォール・スマッシャーはこのグランドオーシャンエリアで最高級のスリルを味わえる絶叫マシンであった。今日はそういったマシンに乗ることもないと思っていた周人にとってこれほど大きな誤算はなかった。だが最初に由衣が選んだアトラクションは潜水艦の形状をした8人乗りのまさに潜水艇であるゴンドラで水中を散歩するといったものである。大型の室内プールのような場所には人工的に作られた珊瑚礁などが設置され、機械仕掛けで動く魚やサメ、海ガメなどが子供を始めとして女性にも人気が高かった。待ち時間は40分程度だったが、こういうものであれば大歓迎な周人はそれに並ぶことに賛同した。
「見て見て!今日のピアスは真珠!」
髪をかき上げてそう嬉しそうにそう言う由衣は終始ご機嫌だった。周人は笑顔を浮かべると本当だと言葉を返した。嬉しそうな顔は幼さを残しながらも大人びて見える。化粧気のないその笑顔を見ているのは周人だけではなく、前後で並ぶ男たちや通りすがる男たちも由衣の可愛さに魅入っていた。
「イルカは、好きか?」
「好き!」
突然そう聞かれながらも無邪気に返事する由衣。こういう好きなら素直に言えると思いながら、由衣は笑顔を絶やさなかった。何故そんな事を聞くのか疑問に思い質問を投げたが、ただ聞いてみただけと素っ気ない答えを返してきたのみであった。少々顔を曇らせながらもとりあえず納得した由衣は今までの分を取り戻そうとばかりに会話に花を咲かせた。車の中ではしなかった受験での秘話や合格発表の時の事、さらには正月のことなども話して聞かせた。周人はその全てに耳を傾け、時々質問をしながら会話を楽しんでいるようだった。そんな周人に嬉しさを隠しきれない由衣はただこうして一緒に過ごし、同じ会話を共有できている事だけで満足感を得ていた。だが、これで満足しているようではとても告白などはできない。そう考えて自分を引き締め、由衣はもうすぐ回ってくる順番を待った。
幻想的な海底への旅は由衣や周人を童心へと帰らせた。ゆっくりと水中を進むゴンドラに並行して泳ぐイルカやカメなどが表情豊かに乗っている人間を和ませる。美しいまでに再現された珊瑚礁に囲まれた海の箱庭はまるで本物の海の中にいるかのような錯覚を覚えさせた。だが途中で現れた大きなサメにゴンドラは少々揺らされたが、海底火山の爆発によってその難を逃れた潜水艇が基地にたどり着いて終わりを迎えた。丁寧に作られていた幻想的なその世界に由衣はうっとりとし、周人もまた感心していた。余韻が残るほのぼのとした空気が流れる中、由衣はそのまま無意識に手を繋ごうとして思わずハッとなった。以前のデートではお互いを恋人同士として過ごすという強引な設定に周人が付き合ってくれたおかげで終始手を繋ぐことができたのだが、前回も、そして今回もそうはいかないのだ。今日はどこか強引さが足りない自分に苛立ちを感じていたが、それを抑え、ひとまず昼食を取ることにした。だが前回食べた飲食店が並ぶドームはどこもかしこもいっぱいで、とても座れるスペースはなかった。そこでひとまずたまたま運良く空いたベンチを確保した2人は周人がドームへとファーストフードを買いに行き、由衣がここで留守番をする事となった。ベンチはドームから少し離れてしまうが仕方がない。すぐに買ってくると言い残して走っていった周人の背中を見送りながら、どういったタイミングで告白するかを思案する由衣はぼんやりと遠くに見える赤い巨大な観覧車を見やった。この位置からでは回っているかどうかはよくわからなかったが、よく目をこらせばゆっくりと動いている様子が見て取れる。そんな観覧車をぼんやり眺めながら周人と出会った頃の自分が今の自分を見たらどう思うかを考えてみた。新城が好きで、一目で気に入って、その新城の代わりにやってきた周人をとことん毛嫌いしていた。こいつさえいなくなればまた新城に授業をみてもらえると考え、敵視してきつい言葉を投げかけた。だがそんな事にすら屈しなかった周人は逆に襲われた自分を助けてくれたのだ。それは教師として当たり前の事なのだろうが、ひどい怪我を負いながらも平然とし、常に自分を気遣ってくれた行為は新城には出来ないことだと思った瞬間から周人のことが気になりだしたのだ。そして、気が付いたらその反動か、周人の事をどうしようもないほどに好きになってしまっていた。そしてこれこそが生まれて初めての本当の恋なのだと自覚したのだ。確かに周人の心の中にいる亡き恋人『恵里』を超える、もしくは消すなどといった事は不可能だろう。だがその『恵里』を意識しすぎて自分の中の素直な感情が負ける事は認めたくはない。現にそれに負けた美佐は周人を諦め、恵はフラれてしまっているのだ。由衣には恵や美佐にはないある覚悟があり、その覚悟共々告白しようと決めていたのだった。
「やっぱファーストフードは早いわ」
そう言いながらトレイを手に周人が戻ってきた。時間にすれば15分もかかっていない。自分を見上げる由衣の顔は何か不思議な物を見るような、そんな感じを受けた。
「なんだよ、その顔・・・」
怪訝な顔をしながらもベンチの真ん中、2人の間にトレイを置いて立ったまま内容をより分けていく。
「なぁんか・・・不思議だなぁって・・・ね」
「何が?」
「あんなに嫌いだったのに、今じゃこうしてデートしてるってことがね」
その言葉に周人は目をパチパチさせたが、かすかな笑みを見せるとそうだなと答えた。
「ボロカス言われたおかげでちょっとは精神的にも強くなれたしな」
言いながら由衣にチーズバーガーを差し出した。それを受け取る由衣はすまなさそうな顔をしながらも笑っていた。
「あれは君を鍛えるためだったんだよ!」
「そうでしたか・・・いやいや、気付かなくてゴメン」
そう言って笑い合う2人。こうやって冗談が言えるほど仲良くなった事が嬉しく感じられた由衣は、バーガーを頬張りながらあらためて周人の顔をまじまじ見やる。トレイを挟んで隣に座る周人はポテトをくわえながらてりやきバーガーの包みをはがしていた。そんな由衣の視線に気付いた周人は不思議そうな顔をして見せたが、あえて何も言ってこなかった。そのままジッと自分を見つめる周人から目線を外した由衣は顔が火照っていくのを感じながらポテトをつまんで口の中に入れる。胸の鼓動は高鳴り、息が詰まる。だが、今の雰囲気なら告白できそうだと思い、ついに覚悟を決めた。
「先生・・・・」
「ん?」
「あのね・・・・私ね・・・・」
口から心臓が飛び出しそうになるのをこらえながらそう言いかけた矢先、突然ベンチのすぐ脇の木の上からハトが飛び立ち、急降下をしてきたため、小さな悲鳴をあげて驚きながら身をかがめてしまった由衣に周人は思わず吹きだした。ハトはそのまま地面すれすれを低空で滑空すると、少し離れた場所に着地を決めた。驚いた顔をしながらもハトを睨む由衣はふてくされたような仕草をとってみせる。それがさらにおかしい周人は腹を押さえて笑い続けている。
「もう!何なのよ!」
せっかくのいい雰囲気をハトによってぶち壊された由衣は機嫌悪そうにハトを睨みながらバーガーをがっついた。
「まぁまぁ、そう言うなって・・・・で、何を言いかけたわけ?」
「もーいい!」
せっかくのいい雰囲気と固い覚悟をブチ壊されて告白どころではなくなった由衣の心はぶつけようのない怒りで満ちていた。そんな由衣を苦笑気味に見ながら、周人は落ちているお菓子のかけらをついばむハトに目をやるのだった。
その後、結局2つのアトラクションにしか乗ることができずにとうとう午後4時を迎えてしまった。そしてその時間は周人にとって地獄の始まりでもある。予約券があるために凄まじい行列を無視して先に進む2人だったが、どうも周人のペースが遅い。腰が引けているだけではなく気が乗らないのもあるなと感じた由衣は手を繋いで無理矢理引っ張って行きながら乗り口へと向かった。さすがに乗り口付近ともなれば予約券がある人の列も結構混雑しており、まだあと軽く10分程度は待たなくてはならないようだった。渋い顔をして並んでいる人たちを見る周人は悲鳴がこだまする度に体を硬直させた。そんな自分を見て笑う由衣に反撃する気さえ起きない。そして予約券を持つ人たちがいる列の最後尾に並んだ周人と由衣の肩を、不意に後ろの人が叩いた。何だとばかりに振り返った2人が目にしたものは、何とも言えない意味ありげな目をして笑う新城とかすみのカップルだった。手を繋がれたままの周人を見てニタっと笑う新城に引きつった笑みを浮かべる周人とは対照的に、かすみと和む由衣はそのことすら全く気にしていなかった。
「ほぉ、こんなところで仲良く手を繋いでデートとは・・・」
「あ、いや、これは合格祝いっつーことで、な?」
そう言って由衣に助け船を求めた周人は繋いでいた手を離そうと腕をうねうね動かし始める。だが由衣は冷たい目で周人を見上げながら決してその手を離そうとはしなかった。
「そう。合格したらデートすることにしてたんだ。で、こうやって手を繋いでいるのはねぇ・・・じ・つ・はぁ、木戸先生、これが怖いから!」
そう言うと周人以外の3人で笑い合う。小馬鹿にされた周人が反論しようとした矢先、走り抜けるゴンドラから聞こえてくる悲鳴がそれをすくませた。それを見た3人はさらに大笑いし、新城は周人の脇を肘で突っついた。
「あーんな化け物と平気で戦えるのに、こんなのが怖いとは・・・やっぱお前も人並みだったんだなぁ~」
その『化け物』があの大木を指すことはわかったのだが、やはりそれとこれとではわけが違う。
「・・・とりあえず何でもいいさ」
ふてくされるようにしながらそう言う周人は繋いでいた手をやや強引に離すと腕組みをした。そんな周人に対して笑みを浮かべる新城はかすみと話し込む由衣の方を向いた。そしてそっぽを向いたままの周人を除いた3人で会話を弾ませる事5分、ついに周人たちの順番が回ってきた。悲壮な顔をしながら重い足取りでゴンドラに乗り、係りの人間にしっかりとベルトで固定される。わくわくした由衣の表情とは対照的に表情の硬い、しかも顔色も青い周人の顔を見ながら次の搭乗を待っている柵の向こう側の新城とかすみは必死で笑いをこらえた。やがて係員が離れて発車を告げる合図のベルが鳴り響く。上半身がギッチリ固定されたベルトをギュッと握りしめた周人は相変わらず引きつった顔をしながら目を泳がせ、由衣は余裕で新城たちに手を振っている。
「きっと振り回されてるんだろうなぁ」
「それはナオも一緒でしょ!」
2人のその言葉が終わった瞬間、もはや監獄と化したゴンドラはゆっくりと上へと上昇していった。その衝撃を感じてか、小さな悲鳴を上げた横に座っている周人を可愛らしいと思いながら、由衣は嬉しそうな顔をしてみせた。あれほど強い周人がこうも苦手な物に弱々しい反応を見せる姿は他の誰も知らないのだ。やがて鉄塔の頂上付近にたどり着くと、ゴンドラはゆっくり動きを止める。そこからぐるりと半回転をして塔の反対側へと移動していった。確かに恐怖心をあおる高さだったがそこから見える景色は絶景であり、自分たちの車がある遠くの駐車場までがはっきり見えていた。山並みの彼方には人工物の集合体である町並みも見渡せる。
「すっごぉい!きれぇ~!」
その素晴らしい見晴らしに感嘆の声を上げる由衣につられてか、終始目をつぶっていた周人がそっと目を開いたその瞬間、不意にゴンドラは落下を始めた。重力に任せて猛スピードで落下するゴンドラからは可愛らしい少女の悲鳴と、もはや絶叫に近い男性の悲鳴が入り交じる。しかも、男性の悲鳴の方が大きい。
「死んだな」
「そうね」
その悲鳴を聞きながらいたって冷静にそうつぶやく新城とかすみは待機位置へと向かうのだった。その頃周人たちは真横になって螺旋を描きながら振り回されるようにして回転するゴンドラがゆっくりと停止していくのを感じていた。膝ぐらいまでしか水のない浅いプールの真ん中にある大きな穴の位置にやってきたゴンドラはゆっくりと停止すると見せかけてそのままその穴の中へと再度垂直に落下していく。真っ暗な空間を勢いよく落下し、そこからさらに何が起こっているのかわからないほどぐるぐると回転させられた2人に、やがて明かりが見て取れた。それはどうやら地下を通って降り口に着いた事を示していた。ゴンドラの扉を開いた係員にベルトを外してもらい自力で立ち上がる由衣と、もはや放心状態の周人はフラフラしながら出口を出ていった。出口を出た周人はヘナヘナと地面に座り込むと両手をついてガックリとうなだれてしまう。由衣もその横にしゃがみ込んでまだフラフラする体を踏ん張りながら周人の頭をそっと撫でた。それに反応して顔を上げた周人の目にはかなりの涙が溜まっているではないか。そんな周人の顔を驚いた顔で見ていた由衣はもはや笑いをこらえきれずにお腹を押さえて大笑いを始めた。
「ププッ!泣いてるし・・・フフ、アハハハ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・し、死ぬかと思った」
「今までで最高にすっごい悲鳴だった!」
体をくの字に折り曲げながら苦しそうに笑う由衣は周囲の目も気にせずに涙を浮かべてひたすらに笑い続けた。かたわらでヘタりこむ周人はもはや反撃の言葉も出ず、ただうなだれながら目に浮かんだ涙を拭うのだった。
いまだそこから動けない周人、いまだに笑いがおさまらない由衣の後ろからフラフラした体を抑えながらも笑い合うかすみと新城がやってきた。こちらは至って普通のカップルの反応を見せており、目の前でへたり込む周人を見て由衣と同じく大笑いをしてみせた。とりあえず休憩するために空いていたベンチを凄まじい速度でキープしたかすみはひらひらと手を振りながら呆気に取られる3人を呼んだ。周人はベンチに座るとさっき同様ぐったりとし、とりあえず元気な新城とかすみが飲み物を買いに出かけた。隣に座った由衣はさすがに悪いことをしたと思い、周人を心配そうに覗き込む。
「先生・・・大丈夫?」
そう言った瞬間バッと勢いよく顔を上げた周人に驚き、身をひねった由衣は瞳を目一杯見開いて周人の顔を見やった。その顔は普通であり、そこからニタリと笑うと背もたれに身を任せるようにしてみせる。驚いたまま身を固まらせる由衣はそんな周人を見たまま全く動かなかった。
「なんかこう・・・内蔵がぐるぐる回って、んで・・・・死んだと思った」
なんの感情も無くそう言う周人はいまだに固まっている由衣ににんまりした笑みを浮かべて見せた。
「でも、ま、絶叫してすっきりしたような気がする」
その言葉に由衣は眉間にしわを寄せながら目を閉じてわなわなと体を震わせた。心配した自分がバカらしくなるような、怒りににも似た感情が心を埋めていく。我慢できなくなった由衣は周人の前に立ちはだかるとゆっくりと、そしてやんわりと周人の両頬を両手でつまむと横に引っ張ってみせた。そこには痛い表情の周人に怒った顔の由衣がいる。
「心配したでしょ・・・もー、バカ!」
「バカとはひでーなぁ・・・・実際すんげぇ怖かったんだしさ!」
ほっぺたをつねられているせいか、間抜けな口調になりながらつねる手を押さえる周人はそう答えた。
「わけのわからない言葉連発したうえに、びぇぇぇぇぇんって悲鳴・・・・情けない!」
そう言うと、相変わらずほっぺたをつねったままその時の状況を思い出して笑い出す由衣は自然と周人の膝の上にまたがるようにして座り込んでいた。
「アホ!あれは自然に出るんだよ!怖いんだよ!悪いかよ!」
そう反論する周人の顔にも笑顔が広がる。ほっぺたを引っ張られながらも笑う周人に、由衣もそのままで笑っている。そしてそのまま笑いを交えながらののしり合うそんな2人を遠くから見やる新城とかすみはその微笑ましい光景にお互い顔を見合わせてにこやかに微笑んだ。それはもう立派なカップルであり、心と心とが繋がっているような仲の良さがにじみ出ているように感じられる。あれほど周人を嫌っていた由衣を知っているだけに、こうまで人間が変われるものだとしみじみ思う新城は康男が言った『木戸周人でしか彼女を変えられない』という言葉を思い出していた。そして今、その意味を感心しながら噛みしめた。
「あの2人、うまくいくといいな」
「そうだね」
微笑み合う2人に気付かずに、しばらく笑い合いながらお互いをののしる周人と由衣は本人たちは気付かないほどの甘いひとときを堪能するのだった。
「ジュース、いらないのか?」
差し出されたその紙コップを見ながらきょとんとする2人に、かすみはクスッと笑いを漏らした。
「仲がいいのね」
周人の膝の上にまたがる由衣の格好を見てそう言うかすみの言葉に、あわてて周人から飛び降りる由衣は顔を真っ赤にしていた。自分も膝の上に由衣が乗っていたとは気付いていなかった周人も顔を赤らめた。その照れを隠すために差し出されたジュースをひったくるようにして受け取った周人に新城は笑いを噛み殺してベンチの端に座った。その横にかすみが腰掛け、反対側の端に由衣が座る。落ち着きを取り戻しながらも胸の鼓動が激しい由衣はチラッと横に座る周人を見るが、意外に平然とした顔はさっき自分たちが乗っていたあの黒いゴンドラが塔を昇って行くのをぼんやり見ていた。だが、ふと何気なしに周人の手を見た由衣は、持たれているコップが小刻みに震えているのを確認する。やはりまだ体は恐怖から抜け出せていないのだ。
「先生・・・本当に大丈夫?」
自分を気遣うその小さな声に、周人は由衣を見やった。心配そうな顔がはっきりとそこにある。
「もう平気だ、心配ないよ」
「でも・・・」
そう言いながら震えている手を見やる由衣の視線に、周人も自分の手元を見た。
「すぐに収まるさ」
無理矢理震えを止めた周人は笑顔でそう言うと、コップの蓋から伸びているストローに口をつけた。そんな周人にすまなさそうな顔をしつつ同じようにジュースを飲む由衣は自分を見やる周人の優しい視線に再び顔を赤くするのだった。




